名も無き森林。
人里から程近いその場所は、数十年前からそこにあると言うのに、未だ名付け親を見出だせていなかった。
人里の民が山菜を取り、魚を釣り、小動物を仕留める…人々の生命線として存在するそこに名が無いとは、皮肉な話である。
いや…名が無いとは、少し語弊があった。
人々の間でその森林は、"妖怪が出る森"と呼ばれている。人ならざる醜い姿で人間を襲い、腹を満たすという恐ろしい妖怪。怪奇殺人犯も真っ青な、四肢が飛び散った人間だったものを造り出す彼らは、人間にとって恐怖の象徴である。だから"妖怪が出る森"と頒布することで、哀れな犠牲者が生まれないよう戒めているのだ。
人々の生命線であるはずの場に、なんと可哀想な名称だろうか。つくづく皮肉なことだ。
そんな森にとって唯一の救いは、"妖怪の出る森"としてあるのは、夕刻から日の出前の時間帯だけということだろう。
この森の妖怪は暗を好み、夜に食事をするという。つまり日差しが森を照らす間は、妖怪が出る森などという不名誉極まりない名称は身を潜め、再び人々の慣れ親しむ名も無き森へと姿を変えるのだ。
当然、日の高い時間帯は人間の独壇場と言える。
年端もいかない童たちは自然の玩具の中で無邪気に駆け回る。野兎を射止めた健老な男はそれを意気揚々と肩に担ぎ、今晩の夕飯を思って頬を緩ませる。
妖怪が出ない日中ならば、彼らに害をなす存在など滅多にいない。和な日常的生活を営む人々の姿が、その森にはあったのだ。
…そう、
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突然だが、一つ尋ねたい。
日中の名も無き森で一人の凡人が獣に襲われて死んだとしよう。さて、この事柄に名は付けられると思うだろうか?
結論から語ろう。名は付けられない、と。
その名も無き森がある世界で死という概念はとても普遍的であり、さほど珍妙な状況でもなければ騒がれることすらない。いや、人一人の命が散ろうと、この世界で起こりうる異変の前ではあまりにも小さいことだ。
あえて述べるならばその凡人と繋がりを持つ者や、属していた関係性内の人間なら、悲しみに暮れるなり憤るなりの感情を見せるだろうが…。
しかし結局は、それだけ。
人里から程近い日中の名も無き森で、狩に出掛けた男が獣に襲われ死んだ。
ああ、残念だ。怖いこともあるもんだ。子供たちに注意して聞かせよう。
それで終わり。
襲われた男の生死をかけた物語など誰も知らないし、文字に興して伝えようともされない。
獣に襲われて男が死んだ。それは余りにも普通で、その一つの事態に書き記しておくべきことなどないのだから。
「くそぉっ…何なんだよ、こいつは…!」
だが今回は違う。これは決して無名の物語になどなりはしない。
一つだけ。獣に襲われて男が死んだという単調な文章に、一つだけ訂正をしたら、きっとこの物語には名前が付くだろう。
そう、獣ではなく…
「お天道様はまだ高いってのに、ついてなぇなぁ…。いつからこんな怪物が住み着いたのかねぇ…っ」
自虐的な笑みを浮かべた男は、痛みを耐えるように右腕を抑えた。右手首から肩にかけて、二本の歪な線がその肉を裂き真っ赤な液体を垂れ流す。それ以外にさして目立った外傷はないが…そんな事実も、死の縁に立つ男にとっては何の慰めにもならなかった。
何せ目の前には、男を死の縁に立たせている存在がいるのだ。そんな状況で喜べる性癖を男は持ち合わせてなどいなかった。
目の前にいるそれは…巨大な熊。
それも普通の熊ではない。
濃い青を基調とした体毛に、黄色がかった毛並みがアクセントとして首のうしろから尻にかけて上下に走っている。長い爪は鋭く尖っており、そこから滴る男のものであろう血液がその威圧感を助長していた。加えて腕の肘から先は体毛が角質化して、棘のように突き出している。
巨大な体躯に対して頭は小さいが、それも男を安心させる材料にはなりえない。
その熊は、短くもどっしりと重量感あるその二本の足で顕現していた。男の身長の二倍以上はあるであろう姿を見せつけるように。
これこそ、
毛並みも、腕の棘も、そしてその存在感も。男が人里で聞いていた怪物と相違無い姿であったし、何より男の生物的本能が、これは動物などという枠組みに納めてはならないと叫んでいた。
この名も無き森は、夜は妖怪の出る森に姿を変える。
そして今や、日中は怪物の出る森に成り果ててしまったのだ。
「ほんとやってらんねぇなぁ。妖怪の次は怪物、か。この幻想郷は人間に冷たすぎやしないかい…?」
男の諦めたような呟きに、大熊は唸り声で答えた。口から漏れ出た死肉の腐敗臭が男の鼻をつく。
どの様に食らおうか、品定めでもしているのだろうか?そんなおぞましい想像すら冷静にしてしまう自分を、男はまるで他人事のように思った。
そして遂に、その時がきたようだ。
大熊がその腕を振り上げる。当然狙いは、足元で尻餅をついている男。どうやら仕留めた自分をゆっくり味わうつもりらしい。
男は動けない。その迫力に心臓を乱され、足がまともに動かない。せめて死の瞬間から目を反らしたいと、男は固く目をつぶり、生物としての終わりを待った…。
大熊の爪が空を切る音が耳元にある。あぁ、終わる…。
その時、男の暗闇の世界が真っ白に染まった。
「な、なんだぁっ!?」
男はその余りにも強い光の刺激に、固く閉じていたまぶたをそれ以上に強く閉じた。絶望に光が差したなどという生易しいことではない。眼に少しばかりの痛みすら感じる。
しかし、男の比ではない苦痛を味わっているのが、大熊だった。男が恐る恐る目を開いてみれば、あの大熊がのたうち周っているではないか。
二足で立つことすらままならないのか、四肢で体躯を支え、どうにかその苦痛から逃れようと暴れまわる。
その姿は滑稽そのものであった。
がむしゃらに爪を振り回し、突進しては大木にぶつかり、転倒する。一見怪物が暴れまわる身の毛のよだつ光景だが、大熊の威圧感を正面から受けていた男にすれば、子供が駄々をこねているようにすら見えてしまった。
「一体何が…」
「救われたその命、巻き添えなどという下らない結末で終わらせるつもりか?」
茫然自失で、いつの間にか立ち上がっていた男にかけられた声。同時に、一つの人影が男の真横を通り過ぎた。それは真っ直ぐに、暴れる大熊へと向かっていく。
そして背負った太刀を引き抜くと、迷い無くそれを大熊に振り下ろした。
切りつけられた尻の部分の体毛が宙を舞う。アクセントとして走っていた黄色い毛も寸断され、整っていた毛並みは一瞬で崩壊した。そして再度振るわれた太刀は寸分違わぬ軌跡を描いて、大熊の背を守る甲殻を削り取る。
そこで漸く大熊は感覚を取り戻し始めたのか、その襲撃者を振り払わんと、振り向きざまに爪を凪いだ。
しかし襲撃者は軽やかなバックステップでそれを逃れる。後ろに跳躍すると同時に、太刀の刃を返し、大熊の脇腹を斬りつけた。
「練気は十分…おい、後ろの男!」
「お、おう!何だ!?」
「俺から三歩ばかり離れろ。救っている人間を裁断したなど、笑い話にもならんからな」
襲撃者は大熊から視線を外すことなく、男に警告した。
当の男はもはや大熊が恐ろしいのか、助けてくれた襲撃者が恐ろしいのかも分からない状況の中で突如飛んできた指示に、迷うこと無く従った。三歩どころか、背を大木にぶつけるまで大慌てで後退する。
そこで男は再度、襲撃者と大熊に視線を戻した。
大熊は好き放題やられたことに怒り、あるばかりの力で襲撃者を惨殺しようと爪を振り回す。
しかし襲撃者は動かない。腰を落とし、前に出した右足に重心をかけ、太刀を握る両手を左脇腹に持っていきそのまま静止した。
「危なっー!!」
男が自らの怪我も忘れて声を挙げかけた、その時。襲撃者が動いた。
「一段」
弧を描くように、右上から斜め下に太刀を振るう。大熊の豪腕から繰り出された爪を弾き、大熊は大きく仰け反る。
「二段」
両手首をひねり、一段目とは逆の流れで、体勢の崩れた大熊の腕を斬りつける。
硬く尖っていた棘の幾つかが、まるで小枝のようにパキリと切り落とされた。
「三段」
大熊の豪腕は宙に投げ出され、重心が後ろに下がった。襲撃者を止めるものは何もない。
流れるような太刀さばきで大熊の体毛を、甲殻を、そして命そのものを削り取ってゆく。
大熊の爪と腕の棘が粉々に弾けた時、襲撃者は大熊を横一文字に裂く。
「気刃・大回転斬り」
…そして遂に、大熊が膝を着いた。
そのまま地に伏し、二度と起き上がることも動くこともない。既に亡骸となった大熊の体毛だけが、微風で揺れていた。
「すっげぇ…」
男が無意識のうちに呟いた。
凄絶な命のやり取りが交わされていたはずが、男はある種の芸術を目の当たりにしたかのような心境に陥っていたのだ。腕の痛みも忘れたように、口を半開きにして立ち呆けてしまう。
一方、大熊の絶命を確認した襲撃者は太刀を背の鞘に納刀し、代わりに腰に挿していたナイフを取り出した。それを大熊の亡骸に突き立て、手慣れた様子で体毛や甲殻を剥ぎ取っては腰のポーチにしまっていく。
「な、何してんだ?」
「特に必要性は感じないが、せっかくの素材だ。ここで腐らせる訳にもいかない…やはり下位個体か。こうも早く始末がついたのだし、予想はしていたが…」
「ちょ、こいつの身体はどうすんだ!?持ち帰らねぇのかよ?」
「そんな準備はしていない。俺が何もせずとも、こいつは土に還るだろう」
手慣れた様子で剥ぎ取りを終えた襲撃者はおもむろに立ち上がると、ここで初めて男と視線を交わした。
独特のつば広の形をした笠を被っているため顔は陰で隠れているが、その表情に疲れ…いや、感情そのものが見受けられない。少し前まで自らの身長を越える太刀を操っていた者とは思えなかった。
「…早く帰って右腕を治療しろ。怪我そのものより感染症の危険がある。最適な処置をすれば一週間で治癒するはずだ」
ぶっきらぼうなその声で告げると、襲撃者はポーチから取り出した何かを男に投げ渡す。それは澱んだ緑色の液体で満たされた瓶。
「それを飲め。治癒とまではいかないが、痛み止め程度にはなるはずだ」
「あ、あぁ…ありがとう!あんたは命の恩人だよ!」
男の激励にも襲撃者は表情を変えなかった。笠を被り直すと、何も無かったかのように名も無き森の出口へと向かう。男は思い出したかのように右腕の痛みに顔を歪めたが、焦ったように襲撃者の背中へ呼び掛けた。
「ま、待ってくれ!あんたは、一体…」
「…人里で依頼を受けてそこの大熊…青熊獣アオアシラと言うのだがな。それを追っていた。お前がいたのは偶然だ。依頼を受けて、そこの
「
男の言葉に、襲撃者は足を止める。振り向いたその顔は初めて、気だるげという感情を垣間見せていた。それを受けて男は身体をびくつかせる。興奮のあまり、何か癪に触ることを言ってしまったのだろうか、と。
襲撃者は男の心配をよそに、大きな溜め息を吐いた。
「妖怪退治などしていない。退魔士なんて名前でもない。俺は
「