ちょっと大人なインフィニット・ストラトス 作:たんたんたんめん@オルコッ党員
廃工場の奥深く。
マドカはスーツケースを閉じると、ゆっくりと息を吸い込んだ。
その呼吸は、まるで儀式のように静かで整っている。
だが、その胸の奥では、別の何かが脈打っていた。
期待。
歓喜。
そして──確信。
「……一夏」
呟きは淡々としているのに、どこか甘い。
だが、その甘さは、砂糖ではなく、麻薬のように人を蝕む種類のもの。
マドカはモニターに映る一夏の姿をもう一度見つめた。
その目は、恋慕でも憎悪でもない。
もっと深く、もっと歪んだ色。
「……私たちはずっと一緒だと」
幼い頃の記憶が、脳裏をかすめる。
暗い部屋。
繋がれた手。
震える声。
そして──。
マドカの唇が、ゆっくりと歪む。
「千冬は知らない。あの人は……
その声には、冷たい優越感が滲んでいた。
「でも私は知ってる。一夏がどれだけ優しく、どれだけ弱く……どれだけ私を必要としてるか」
指先が震える。
それは怒りではなく、昂ぶり。
「だから──迎えに行く」
マドカはスーツを肩にかけ、廃工場の扉へと歩き出した。
外では風が唸り、鉄骨が軋む。
嵐の前触れのような空気が、肌を刺す。
だが、彼女は一歩も迷わない。
「逃げないと言ったな、一夏」
その声は、愛の告白のように甘く、処刑宣告のように冷たかった。
「なら──ちゃんと捕まえねばな」
扉が開き、冷たい風が吹き込む。
マドカの黒い髪が揺れ、瞳が細められる。
「次は……絶対に離さない」
その瞬間、遠くで雷鳴が落ちる。
嵐が、確かに近づいていた。
街灯の光が濡れたアスファルトに滲み、足音が静かに響く。
その一歩一歩が、確実に一夏へと近づいている。
「……なあ、一夏」
誰もいない夜道で、マドカはふと呟いた。
声は淡々としているのに、胸の奥では熱が渦巻いている。
「貴様はまだ、まだ思い出してないんだな」
雨粒が頬を滑り落ちる。
それが涙のように見えても、彼女は気にしない。
むしろ──その冷たさが心地よかった。
幼い頃の記憶が、また脳裏をかすめる。
暗い部屋。
繋いだ手。
震える声。
そして、互いの存在だけが世界のすべてだった時間。
マドカは小さく笑った。
雨の中、彼女の瞳だけが異様に冴えていた。
黒い光が、夜の闇を切り裂くように鋭い。
昂ぶりが、彼女の呼吸を少しだけ乱すが、足取りは止まらない。
小高い丘のの向こうに、灯りがぼんやりと浮かんでいる。
雨に煙るその光景は、まるで遠い夢のようだった。
マドカはそっと黒式の待機状態のガントレットに触れる。
冷たい金属の感触が、指先から腕へと伝わった。
「……ここにいるんだな、一夏」
その声は甘く、しかし底に冷たい刃を含んでいる。
「迎えに来たぞ。一夏が
風が吹き、黒い髪が揺れる。
雨粒が頬を打つたび、彼女の瞳はさらに細くなる。
「次は……絶対に離さない」
その瞬間、屋敷の奥で微かに光が揺れた。
白式のセンサーが反応したのか、あるいは──一夏が胸騒ぎを覚えたのか。
マドカはゆっくりと笑みを深めた。
「感じたのだろう? 私が来たって」
雨音が強くなる。
嵐は、もうすぐそこまで来ていた。
☆☆☆
屋敷の窓を叩く雨音が、いつもより重く響いていた。
セシリアはカップを置き、ふと顔を上げる。
「……一夏さん?」
一夏は返事をしなかった。
ただ、じっと遠くを見るように視線を固定し、呼吸を浅くしている。
「……いや、でも」
胸の奥がざわつく。
嫌な予感──そんな生易しい言葉では足りない。
もっと深い、もっと原始的な危機感が、背骨を冷たく撫でていく。
セシリアは立ち上がり、一夏の腕にそっと触れた。
「どうしたのです? 顔色が……」
「……来る」
その一言に、セシリアの心臓が跳ねた。
「来るって……誰が?」
一夏は答えない。
答えられない。
ただ、胸の奥に刺さるような感覚だけが確かだった。
──あの時と同じだ。
黒式が現れたあの瞬間。
視界の端で、誰かが自分を呼んだ気がした。
声にならない声。
記憶の底に沈んでいたはずの、幼い日の影。
セシリアは一夏の手を握りしめた。
「でしたら、外へ出ましょう。ハリントン准将が周囲を警戒していますし」
一夏は小さく頷いた。
足取りは重いのに、急かされるように速い。
屋敷の外は、すでに嵐の前触れの様に風が吹き荒れていた。
木々がざわめき、雨粒が斜めに叩きつける。
屋敷の傍に軍用の簡易シェルターのように張られた防御幕が青白く光っている。
天幕の前で、雨だというのにハリントンが立っていた。
彼は一夏の顔を見た瞬間、眉をひそめた。
「君を呼びに使いを出したところだが、速いな」
一夏は息を整えながら答える。
「……わかりません。でも、胸が……ざわつくいて」
セシリアが一歩前に出る。
「准将、何かあったのですか?」
ハリントンは雨の向こう、丘の下に向けて視線をやる。。
その視線の先──闇の中で、微かに黒い影が揺れた気がした。
「軍のセンサーが反応した。距離はまだあるが……、あのISと
一夏の喉がひくりと動く。
「黒式……」
ハリントンは頷く。
「そして──操縦者の反応もある。それも同じだ」
セシリアが息を呑む。
「まさか……」
ハリントンは一夏を見据えた。
「一夏君。君を
一夏の心臓が強く脈打つ。
雨音が遠のき、胸の奥で別の音が響き始める。
──一夏。
誰かの声が、確かに聞こえた気がした。
セシリアは一夏の手を強く握りしめる。
一夏はその手を握り返した。
だが、胸の奥のざわめきは止まらない。
闇の向こうで、確かに
「ISが相手な以上、我々の部隊は牽制にしかならん」
ハリントンが苦々しく吐き捨てる。
その声には、軍人としての現実を理解する色と、子供たちを前に立たせねばならない焦燥が滲んでいた。
「ISに対抗できるのは、ISだけ。オルコット嬢か、ブリュンヒルデか──君かだ」
視線を当てられた一夏が答えるより早く、背後から静かな声が落ちた。
「私が出る」
千冬だった。
いつの間にか天幕の影に立ち、雨に濡れた髪を払うこともなく、ただ前を見据えている。
その姿は、問答無用の決意そのものだった。
だが──。
「俺が戦う」
一夏の声が、雨音を断ち切った。
千冬の肩がわずかに揺れる。
セシリアは息を呑み、一歩だけ一夏に寄り添う。
「アイツの目的が俺なら。俺が戦う事で、アイツの目的を引き出せるかもしれない」
「いち──」
千冬が制止しようとした瞬間、ハリントンが一夏の前に立った。
「それが、君の選択かね」
一夏は迷わず頷いた。
「はい。守られるだけの自分は……もう嫌なんです。俺は、俺がどうするかを自分で
その言葉に、千冬の瞳が揺れた。
それは怒りでも失望でもない。
ただ、弟が自分の手を離れようとしている、その痛みだった。
「……結構」
ハリントンが満足げに頷く。
軍人として、一夏の覚悟を認めたのだ。
セシリアが前に出る。
その表情は恐怖を押し殺し、決意だけを残したものだった。
「相手は、一夏さんを連れ去ることを目的にしているところがありますわ。万が一に備えて、わたくしも備えます。──准将、部隊を黒式を包囲する形で展開願いますわ」
ハリントンは即座に通信機に手を伸ばした。
「全隊、配置につけ。黒式の接近を確認次第、包囲網を形成しろ。ただし撃つな──牽制に徹しろ。相手をするのは織斑一夏だ」
雨の向こうで、兵士たちの影が動き始める。
天幕が揺れ、空気が震えた。
一夏は拳を握りしめる。
胸の奥のざわめきは、もはや恐怖ではなかった。
──呼ばれている。
その確信だけが、熱となって脈打っていた。
セシリアがそっと一夏の横顔を見つめる。
「……一夏さん。どうか、ご無事で」
一夏は小さく笑った。
その笑みは、震えていたが、確かに前を向いていた。
「ああ。ありがとう、セシリア」
その瞬間──。
丘の向こうで、黒い影がゆっくりと姿を現した。
その装甲は濡れた闇そのもののように光を吸い込み、
背面のスラスターが低く唸りを上げるたび、空気が震えた。
そして、その黒式を纏う少女──マドカ。
黒い髪が雨に濡れ、頬に張りつく。
だがその瞳だけは、異様なほど冴え渡っていた。
「……一夏」
その声は、雨音よりも静かで、
しかし一夏の胸の奥に直接触れるように響いた。
セシリアが息を呑む。
「来ましたわ……!」
ハリントンが叫ぶ。
「全隊、包囲網を維持しろ! ただし撃つな、刺激するな!」
だが、黒式は兵士たちを一瞥すらしない。
その瞳には一夏だけを映す。
まるで世界に一夏しか存在しないかのように。
一夏は前に出た。
雨に濡れた髪を振り払い、深く息を吸う。
「……来い! 白式!」
その瞬間、白い光が一夏の周囲に弾けた。
白式のフレームが空中に組み上がり、装甲が一つずつ嵌まっていく。
白い光が雨粒を弾く中、一夏はマドカを見つめる。
マドカの唇が弧を描く。
その笑みは甘く、しかし底に冷たい刃を含んでいる。
「迎えに来た」
「……あいにくと、俺の帰る家はあっち側なんでね」
親指を立てて、セシリアの屋敷を指さす。
追従するように、ブルー・ティアーズを纏ったセシリアが震える声で叫ぶ。
「一夏さんは、あなたの所有物ではありませんわ!」
マドカはセシリアを一瞥し、興味を失ったように視線を戻す。
「貴様は一夏の表側しか知らない。──黙っていろ」
ゆっくりと、マドカは黒式の雪片を構える。
「一夏、逃げないと言ったな?」
同じ様に一夏は白式の雪片を構えて、前に出る。
「ああ、逃げないよ。俺は」
雨が二人の間に叩きつけられ、空気が震える。
雨が地面を叩きつける音が、まるで戦いの開始を告げる太鼓のように響いていた。
白式と黒式が向かい合う。
その距離はわずか十数メートル。
だが、その間に流れる空気は、触れれば切れそうなほど張り詰めていた。
マドカが一歩、前に出る。
黒式の装甲が雨を弾き、黒い光が脈動する。
「……一夏。やっと、やっとだ」
その声は甘い。
だが、甘さの奥にあるものは、狂気。
自分と一夏は、世界のどこよりも深く繋がっているという確信。
一夏は白式の雪片を構えたまま、息を整える。
「……マドカ。俺は、お前のところには行かない」
マドカの瞳が細くなる。
怒りではない。
理解できないという色だ。
「どうしてそんな事を言う? 私たちは──」
雨が二人の間を裂くように落ちる。
マドカの声が、雨音を押しのけて響く。
「私たちは、ずっと一緒だっただろう? 暗い部屋で、手を繋いで……世界で互いだけが、互いを必要としていた」
一夏の胸が痛む。
記憶の底で、確かに何かが揺れた。
だが──。
「……俺は、過去に何があったとしても、そんな未来は望んじゃいない」
マドカの表情が、わずかに歪む。
それは傷ついたというより、理解不能の歪み。
「望んだ? 望んでいない? そんなことは関係ない。私たちは作られたんだ、一夏。互いを補い合うように。互いがいなければ壊れるように」
黒式のスラスターが低く唸る。
その音は、まるでマドカの心臓の鼓動のようだった。
「だから迎えに来た。貴様が逃げないと言ったから。……一夏。今度こそ、離さない」
一夏の呼吸が乱れる。
胸の奥で、何かが呼応するように熱を帯びる。
その瞬間──。
「一夏さんッ!」
セシリアの声が割って入った。
ブルー・ティアーズが白式の横に滑り込み、ライフルを展開する。
「あなたは……あなたは一夏さんの
マドカの視線が、ゆっくりとセシリアへ向く。
その瞳は、氷のように冷たかった。
「……邪魔だと言ったはずだ」
黒式の腕部がわずかに動く。
その瞬間、空気が震えた。
ハリントンの怒号が飛ぶ。
「全隊、後退! 巻き込まれるぞ!」
兵士たちが一斉に距離を取る。
だが、誰も撃たない。
撃てない。
この場は、二人──いや、三人の感情が支配していた。
一夏は白式の雪片を構え直す。
「マドカ。俺は逃げない。でも……お前の言う
マドカの瞳が揺れた。
それは初めて見せる動揺だった。
「……どうしてだ、一夏。貴様は……私の
一夏は深く息を吸い、雨の中で言葉を放つ。
「俺は──俺の意思で生きる。誰かに選ばれた場所じゃなくて、俺は、俺が選んだ場所に立つ」
その言葉に、マドカの表情が完全に変わった。
怒りでも悲しみでもない。
「……そうか。なら──証明してみせろ」
黒式が構える。
呼応するように、一夏も構える。
雨が二人の間に叩きつけられ、
空気が震え、世界が息を呑む。
そして──。
黒と白が、同時に踏み込んだ。
☆☆☆
黒と白が互いの得物をぶつけ合った瞬間──世界が、変わった。
衝撃音が響くはずだった。
雨が弾ける音が聞こえるはずだった。
だが、一夏の視界は突然、白に塗りつぶされた。
白い壁。
白い床。
白い天井。
色のない世界に、二つの影だけがあった。
どちらも薄い布の病院着のようなものをまとい、腕には同じ識別タグが巻かれている。
──ORIMURA-0001
──ORIMURA-0000
その数字が、なぜだからわからないが胸を締めつけた。
部屋の外から、無機質な声が響く。
『実験体01、00ともに安定。遺伝子適合率は予想以上だ』
『この二人なら、
幼い自分は理解できず、ただ震えている。
マドカは泣きながら、一夏の手を握っていた。
「いちか……いかないで……」
その言葉と同時に、
白衣の大人たちが部屋に入ってくる。
『分離措置を開始しろ』
「やだ……やだ……いちかと、はなれたくない……!」
幼いマドカが必死に叫ぶ。
幼い一夏も泣きながら手を伸ばす。
だが──大人たちの手が二人を引き剥がす。
『やめて……! いちかぁぁぁぁぁ!!』
その叫びが、
現在のマドカの声と重なった。
「──一夏」
視界が一気に現在へ戻る。
バイザーの奥で、マドカの瞳が細められていた。
「思い出したのだろう? 私たちがどう生まれたか。どう──つくられたか」
一夏は息を荒げながら、震える声で呟く。
「……俺たちは……つくられた存在……だった……」
「そうだ」
マドカの声は冷酷で、しかしどこか満足げだった。
「今日は、これで……十分だ」
黒式の装甲が軋み、マドカは一瞬だけ一夏を見つめた。
その瞳には、戦闘の熱ではなく、どこか安堵に似た揺らぎがあった。
ヘルメット越しでも分かるほど、声は柔らかかった。
「次は――一緒に行こう。今度こそ、ちゃんと」
その言葉は、命令ではなく、ただ願いとして投げられた。
そして黒式は、霧のように後退し、夜空へ溶けるように撤退していく。
残された白式の中で、一夏は力が抜けたように項垂れた。
「……マドカ……」
その呟きは、周囲のイギリス軍兵士たちには届かない。
彼らは遠巻きに白式を見守るだけで、誰も近づこうとはしなかった。
戦場の緊張と、彼らなりの敬意と恐れが入り混じった距離感――だからこそ、一夏の声も、表情も、誰にも聞こえず、見えない。
白式の装甲が消え地上に降り立った一夏の元に、千冬が駆け寄る。
「……一夏。戻るぞ」
うなずくことすら重く、一夏はただ視線を落としたまま歩いた。