ちょっと大人なインフィニット・ストラトス 作:たんたんたんめん@オルコッ党員
マドカは、まだ戦闘の熱をわずかに残していた。
肌の下で脈打つ鼓動が、まるでまだ刃を振るっているかのように荒く、落ち着く気配を見せない。
撤退した後も、胸の奥の熱は冷えない。
むしろ、時間が経つほどに強く、鋭く、痛みに変わっていく。
(思い出した……私のことを。私と一緒にいた時間を。……私だけが知っている一夏を)
それは、確かに嬉しかった。
胸が焼けるほどの幸福。
けれどその幸福は、胸の奥で膨らみすぎて、痛みに変わるほどだった。
だが――
(どうして……あの女の方を見る?)
マドカの指が雪片を強く握りしめる。
黒式の装甲が低く唸った。
夜気の中で黒式の装甲が震えるたび、周囲の空気がわずかに歪み、草木がざわりと揺れた。
「千冬……セシリア……」
名前を口にするだけで、胸の奥がざらつく。
喉の奥に砂を詰められたような不快感が広がり、呼吸すら重くなる。
(一夏の隣に立つのは……私だけでいいのに)
マドカの瞳が細くなる。
その瞳は、暗闇の中で獣のように光り、執着と孤独が混ざり合った色を帯びていた。
(貴様は、私と同じ場所で生まれた。同じ痛みを知っている。同じ闇を抱えている。一夏の未来は……私と一緒にあるべきなのに)
黒式のエネルギーが漏れ出る。
まるでマドカの感情に呼応するように。
黒い粒子が空気中に散り、夜の闇と混ざり合って、世界そのものが黒式の延長になったかのようだった。
「……一夏。貴様は、私の願いなんだよ」
その声は、優しさと狂気が混じり合った、危うい響きだった。
マドカは唇を噛む。
噛みしめた唇から鉄の味が滲み、彼女の呼吸は熱を帯びて震えた。
(千冬は……貴様の
胸の奥が焼けるように痛む。
その痛みは、嫉妬でも怒りでもなく、もっと原始的で、もっと深い「恐れ」に近かった。
(じゃあ……私は? 私は……貴様の何だというんだ?)
答えは分かっている。
分かっているからこそ、苦しい。
胸の奥に沈んだ答えは、触れれば壊れそうなほど脆く、しかし逃れられないほど重かった。
(私は……一夏の
マドカは震える声で呟く。
「私は……一夏の隣にいたんだよ……」
マドカはゆっくりと目を開けた。
その瞳には、迷いも揺らぎもなかった。
ただ、暗闇の底で固まった決意だけが、静かに燃えていた。
「次は……一緒に行こう」
優しい誘いではない。
拒絶を許さない、静かな決意だった。
その声音には、過去に置き去りにされた少女の願いと、今を奪い返そうとする少女の執念が同居していた。
(一夏がどこへ行こうとしても……私は必ず迎えに行く。
一夏の影として。
一夏の願いとして。
一夏の……唯一の存在として)
マドカは微笑んだ。
優しさと狂気が紙一重で混ざり合った、危険な光を帯びる。
その微笑みは、夜の闇よりも静かで、雷鳴よりも不吉だった。
「待っていろ、一夏。次は……必ず」
黒式が闇の中へ溶けていく。
残されたのは、一夏への執着と、奪われることへの恐怖と、そして次こそはという決意だけ。
風が吹き抜け、黒式の残滓が霧のように散っていく。その跡には、彼女の心だけが取り残されていた。
☆☆☆
雨が降る前の、静かな時間だった。
空には薄い雲が広がり、遠くで雷の気配がくすぶっている。
庭園の木々は湿った風に揺れ、葉の裏に溜まった水滴がぽたりと落ちて、静寂をさらに深くした。
屋敷の庭園で一夏はベンチに腰を下ろし、肩の力を抜いていた。
「ふぅ……疲れた」
「どうぞ、一夏さん」
セシリアが湯気の立つカップを差し出す。
紅茶の香りがふわりと広がり、緊張していた空気が少しだけ和らぐ。
その香りは、雨の前の湿った空気に溶け込み、胸の奥のざわつきをそっと撫でてくれた。
「ありがとう。……なんか、落ち着くな」
「当然ですわ。わたくしの淹れた紅茶ですもの」
セシリアは冗談めかして微笑むが、その瞳はどこか安心したように揺れていた。
一夏はカップを口に運び、温かさに目を細める。
「最近、色々あったからな……こういう時間、久しぶりだ」
「……ええ。わたくしも、ですわ」
セシリアは一夏の隣に腰を下ろし、肩が触れるか触れないかの距離で静かに息をつく。
その距離は、踏み込みすぎず、離れすぎず、互いの心音がかすかに届く絶妙な近さだった。
「一夏さんが……今を選んでくれたこと。それが、わたくしには何より嬉しいんですの」
一夏は少し照れたように視線を逸らす。
頬に浮かんだ微かな赤みが、セシリアの胸を温かく締めつけた。
「まだ決めきれてるわけじゃないけど……でも、前に進みたいって気持ちは、本物だよ」
セシリアの表情が柔らかくなる。
その笑みは、雨雲の隙間から差し込む光のように、一夏の心をそっと照らした。
「ええ。わたくしは信じていますわ。一夏さんが選ぶ未来を」
一夏はその言葉に、胸の奥が温かくなるのを感じた。
過去の痛みを溶かし、未来への道を照らす小さな灯火のように。
──その瞬間だった。
空気が、急に重くなり、まるで世界そのものが息を潜めたかのように、風も音も止まる。
空が、裂けたというよりえぐれた。
黒い閃光が雲層を貫き、落下という概念を無視した速度で降りてくる。
雷鳴すら追いつけない速度で、黒い影が一直線に地上へ向かってくる。
空気が悲鳴を上げ、雨粒が蒸発し、衝撃波が地表を走った。
「ッ──来る!」
白式を纏った一夏が叫ぶより早く、黒式は地面に触れる前に急制動をかけ、空中で方向を反転させていた。
その動きは、まるで重力という概念を拒絶するかのように滑らかだ。
そのまま、白式へ突撃。
黒い残光が雨を切り裂き、白式のセンサーが追いつく前に、刃が目前へ迫る。
「くっ……!」
一夏が、後方へ跳ぶ。
視界の端で雨粒が弾け、世界が白と黒の軌跡だけで塗りつぶされる。
だが黒式は追撃のために空中で三度、急制動をかけた。
推力の反転で雨が弾け、空気が歪む。
セシリアが叫ぶ。
「一夏さん、上ですわ!」
黒式は空中で姿勢を崩さず、まるで重力を拒絶するように一夏の頭上へ回り込んでいた。
白式が受け止めた瞬間、衝撃で地面がクレーター状に沈み、雨が横殴りに吹き飛ぶ。
「ぐっ……!」
黒式は止まらない。
刃を押し込みながら、推力を横へ切り替え、白式を地面ごと滑らせるように押し流す。
地面の石畳が砕け、破片が雨とともに宙へ舞った。
セシリアの展開したビットが射線を確保し、青い光弾が黒式の側面をかすめる。
「離れなさいッ!」
だが黒式は、射撃の瞬間に空中で姿勢を折り曲げるように回避し、そのまま、黒式は白式の背後へ瞬時に回り込む。
「速い……!」
一夏の反応が追いつく前に、黒式の刃が白式の首元へ迫る。
だが──一夏は白式の推力を逆噴射させ、自分ごと後方へ吹き飛ぶことで回避した。
雨が爆風で霧散し、白と黒の残光が空中で交錯する。
黒式のバイザーが一夏を捉えた。
「……一夏」
その声は、雨よりも冷たく、しかし痛いほどに懐かしい。
一夏の胸の奥に眠っていた古い傷をそっと撫でるようだった。
セシリアは再び前へ出るが、黒式は一夏から視線を外さない。
「迎えに来たよ……一夏」
黒式が再び加速する。空気が裂け、雨が蒸発し、白式の装甲に火花が散る。
一夏は刃を受け止めながら、その瞳の奥にある必死さを見た。
その必死さは、敵意ではなく、縋りつくような焦燥だ。
「……マドカ。お前は……まだ、あの部屋にいるのか」
その一言で、黒式の動きが一瞬止まった。
雨が二人の間に落ちる。
その一滴一滴が、過去と現在を隔てる境界のように重く響く。
一夏は小さく息を吸い、視線をマドカからセシリアへ移す。
セシリアもまっすぐに一夏を見つめていた。
その瞳には、揺るぎない想いと、未来を共に歩みたいという願いが宿っている。
雨粒が彼女の金髪に落ち、光を散らしながら滑り落ちていく。その姿は、嵐の中でも消えない灯火のようだった。
胸の奥に灯った小さな火が、ゆっくりと広がっていく。
自分は造られた存在かもしれない。
計画のために生まれたのかもしれない。
それでも──。
(……俺は、俺の意思で生きる)
その決意が形になり始めた瞬間、
胸の奥で、別の痛みが微かに疼いた。
──マドカ。
雨の中で震えていた声。
「戻りたい」と泣き叫んだ幼い日の影。
あの部屋に置き去りにされた少女の痛み。
一夏は目を閉じる。
閉じた瞼の裏に、薄暗い部屋の匂いと、幼い手の温もりが蘇る。忘れたはずの記憶が、雨音に呼び起こされるように浮かび上がった。
(……あいつも、俺と同じだ)
造られた存在。
役割を押し付けられた人生。
選ぶことを許されなかった未来。
そして──自分だけが前に進もうとしている。
胸が締めつけられた。
その痛みは、罪悪感でも後悔でもない。
ただ、あの少女を放っておけないという、確かな感情だった。
胸の奥で、幼い日の自分が「置いていくな」と叫んでいるような錯覚すらあった。
一夏はゆっくりと目を開けた。
「……俺だけじゃ進めねえよな」
セシリアが息を呑む。
その表情には驚きと、そして一夏の優しさを知る者だけが抱く痛みが混ざっていた。
「一夏さん……」
「俺が前に進むなら……あいつも、過去から連れ出さなきゃな」
雨が強くなる。
空が唸り、雷光が雲の奥で鈍く光る。世界が二人の選択を見守っているようだった。
その雨音が、一夏の胸の奥に眠っていた記憶を呼び覚ます。
──あの部屋。
──あの声。
──あの少女。
一夏の心臓が跳ねる。
記憶の残滓が胸を締めつける。
だが──。
「マドカ。俺は……
マドカの瞳が揺れた。
その揺らぎは、黒式のバイザー越しでもはっきりと分かるほど大きく、痛々しかった。
「いらない……? 私と貴様は互いがいなければ壊れるように設計されたのに……?」
一夏は白式の刃を構え直す。
だがその構えには殺意はなく、ただ「向き合う」という意思だけが宿っていた。
「壊れるかどうかは……俺が決めるさ」
雨が二人の間に叩きつけられ、黒と白の光が交錯する。
衝突の衝撃は確かにあったはずなのに、一夏の耳には、雨音すら届かない。
ただ、胸の奥で何かが軋む。
それは、過去と現在がぶつかり合う音のようだった。
黒式の刃が白式の雪片を押し込み、マドカの顔がバイザー越しに近づく。
雨粒が黒式の装甲を滑り落ちるたび、マドカの瞳は、狂気ではなく──必死さを帯びていく。
「壊れるかどうかは、お前が決める? 違う。壊れるように
一夏は歯を食いしばる。
「……だからって!」
「私は
その声は、雨よりも静かで、しかし胸を抉るほど切実だった。
叫びが、幼い日の泣き声と重なり、一夏の胸に深く刺さった。
──戻りたい。
その言葉が、胸の奥の古傷を刺激する。
幼い日の記憶。
手を繋いで震えていた時間。
互いしかいなかった世界。
けれど──。
「……俺は、前に進みたいんだ」
マドカの瞳が揺れる。
信じていた世界が崩れる音をそのまま映しているように。
「前……だと?」
「あの部屋に戻るんじゃなくて、俺は……俺が選んだ場所に行きたい! 千冬姉や、セシリアや……俺を
マドカの表情が、ゆっくりと崩れていく。
黒式の装甲がわずかに震え、彼女の呼吸が乱れる。
心が追いつけていないのが痛いほど伝わった。
「……
黒式のスラスターが唸り、マドカの声が震えた。
「そんなもの、私は知らない……!」
黒式が一気に踏み込む。
白式が後退し、地面が砕ける。
セシリアが叫ぶ。
「一夏さんッ!」
だが、一夏は振り返らない。マドカに攻撃を加えない。
白式の刃を構え直し、マドカを見据える。
その瞳には、戦うためではなく、救うための強さが宿っていた。
「マドカ。俺はお前を拒絶したいわけじゃない。でも──
マドカの動きが止まる。
雨の中、黒式の装甲が怒りではなく、理解できない現実に怯える子供のように微かに震えた。
「……戻れない? 戻れないだと?」
一夏は深く息を吸う。
「俺は……あの部屋の俺じゃない。お前も、あの部屋のマドカじゃない」
マドカの瞳が大きく見開かれる。
自分のいる世界が、音を立てて崩れていくように。
「違う……違う……違う……!」
黒式のエネルギーが脈動し、雨粒が蒸発するほどの熱が走る。
「私は……私はあの時から止まってるんだよ、一夏! 貴様と引き剥がされたあの日からずっと……! ずっと!」
その叫びは、狂気ではなかった。
痛みだった。
胸を裂かれるような、取り残された子供の痛み。
雨よりも冷たく、一夏の胸を深く締めつける。
「マドカ……」
「だから迎えに来たんだ! 貴様を取り戻せば……あの時に戻れると思って!」
黒式の刃が震える。
「なのに……貴様は……
一夏はゆっくりと白式の刃を下げた。
「置いていかないさ。でも──
マドカの呼吸が止まる。
その一瞬、雨音すら遠のいたように感じられた。
一夏は雨の中、はっきりと言った。
「俺は、お前を
マドカの瞳が揺れ、黒式の動きが完全に止まる。
その瞬間──黒式の内部で、何かが軋む音がした。
まるで、長い間閉ざされていた扉が、ゆっくりと開き始めるように。
「……一夏……」
その声は、雨の中迷子になった子供のように弱かった。
一夏は一歩、前に出る。
その一歩は、過去と現在を繋ぐ橋のように静かで、しかし確かな重みを持っていた。
「マドカ。俺はお前を拒まない。でも──
雨が、二人の間に落ち続けていた。
黒式の装甲を伝う水滴が、まるで涙のように見えるほどに。
マドカは震える声で繰り返した。
「……じゃあ……私は……どこに行けばいいんだ……」
その問いは、刃よりも鋭く、一夏の胸を刺した。
拒絶ではない。怒りでもない。
ただ、居場所を失った子供の声だ。
一夏は白式の刃を完全に下げ、ゆっくりと前に出る。
「マドカ。お前は今も
マドカの瞳が揺れた。
黒式のスラスターが弱まり、雨音がその隙間を埋める。
「……連れ出す……? どこへ……?」
「
一夏ははっきりと言った。
「俺たちが選べる
マドカの呼吸が止まる。
「……そんなもの……私は知らない……」
「知らなくていい。これから知ればいいんだ」
一夏はさらに一歩近づく。
黒式の刃が、わずかに震えた。
その震えは、恐怖ではなく、戸惑いと期待が入り混じったものだ。
「マドカ。お前は……お前自身だ」
その言葉は、マドカの中で何かを砕いた。
黒式の装甲が、まるで呼吸するように震え、マドカの声が震えながら漏れる。
「……そんなこと……言われたって……」
雨が強くなる。
黒式の膝がわずかに沈み、マドカの肩が震えた。
「私は……
「違う」
一夏は即答した。
「壊れるかどうかは、お前が決める。お前が……
マドカの瞳が大きく見開かれた。
その瞬間、黒式の内部で、何かが軋む音がした。
まるで、長年閉ざされていた氷が割れるような音。
マドカは震える声で呟いた。
「……選べる……? 私が……?」
「ああ」
一夏は手を伸ばした。
白式の装甲越しに、それでも確かに
その手は、過去を断ち切る刃ではなく、未来へ繋ぐ橋だった。
「マドカ。お前が
マドカの唇が震え、声にならない息が漏れる。
「……でも……でも私は……どうすれば……?」
その問いは、幼い日の記憶と重なっていた。
暗い部屋で、震えながら繋いだ手。
泣きながら「いかないで」と叫んだ声。
一夏は静かに答えた。
「まずは……その手を離すところからだ」
マドカの瞳が揺れた。
「離す……?」
「あの部屋から。つくられた未来から。そして……お前を縛っていた過去から」
雨が二人の間を流れ落ちる。
黒式の刃が、ゆっくりと下がった。
マドカの声は、雨に溶けるほど小さかった。
「……離したら……私は……どうなる……?」
「それも、お前が決めるんだ」
一夏は優しく、しかし強く言った。
「マドカ。お前は
マドカの瞳から、戦いの色が消えた。
代わりに浮かんだのは──迷子の子供のような、弱く、痛いほどの光。
雨の中で揺れながらも、確かに救われたいと一夏に訴えていた。
「……いちか……」
その声は、幼い日のあの日の声だった。
一夏は静かに頷いた。
「大丈夫、俺がいるから」
黒式の装甲が、雨の中でゆっくりと沈む。
マドカの肩が震え、呼吸が乱れ、
そして──。
「……こわいよ、いちか……」
その一言が、雨よりも深く響く。
一夏は迷わず言った。
「大丈夫だ。
マドカの瞳が揺れ、
その瞬間──黒式のエネルギーがふっと弱まった。
まるで、長い長い戦いが終わりを告げたかのように。
雨音が静かに二人を包み込み、世界がようやく息をついたようだった。
すみません。
仕事上の都合で、長期出張が決定しましたので投稿ペースが落ちます……