アバン一行がアルキード王城を辞する日が決まった。
そもそも彼らが王城に逗留していたのは――アルキード側としては、アバンを支援する契約を公式に結ぶ手続きのため。アバン側としては、リュンナと武の技術交流を行うためである。
手続きは無事に終わり、技術交流も互いに有意義なものと終わった。
再び旅立ち、魔王ハドラー打倒を目指すのだ。
だから、今日が最後である。
こうしてテラスでお茶会を開くのは。
リュンナとアバン、ふたりで。
「先輩が行っちゃうと、寂しくなりますね……」
「ええ、私も同じ気持ちです。しかしそれもまた旅の醍醐味。別れは再会のスパイスですからね」
「またそうやってカッコいいことを……」
本当にこの男、欠点が見当たらない。欠点のなさに嫌味がない、ということも含めてだ。
対面で苦笑をこぼしながら、苺のケーキをつついた。
「次はどこへ?」
「ホルキア大陸へ行こうかと。ハドラーの本拠地はそこにあると聞きます」
「あら、もう最終決戦ですか。わたしは間に合いそうにないですね」
苦笑すると、アバンも困ったように笑んだ。
「そうなるといいんですがね。まだ分かりません。敵は強大ですから」
「ですねえ……」
この戦闘面でもそれ以外でも欠点のない勇者が、仲間の助けを借りてやっと辿り着き、奥義を惜しみなく注ぎ込んでようやく斃せるのが、魔王ハドラーである。
そのハドラーですら、後の原作本編では更に幾度ものパワーアップをしていくのだから、本当に上には上がいるものだ。
「勝てますか?」
だから、気付けば聞いていた。
原作通りなら勝てる――そんなこと、何の保証になるだろう?
アバンは即答した。
「勝ちます」
それはただの願望や決意ではなかった。
当然のことを当然のように行おうとする、正義の心。
湧き上がる安心感に、しばし身を任せた。
「機嫌が良さそうですね?」
思わず微笑んでいたか、アバンがそこをつついてくる。
カップで口元を隠すように、茶を一口。
「先輩が言うなら、信じられますから」
「それは光栄です」
会話が途切れた。あれだけ話し上手で聞き上手のアバンなのに。
しかしその沈黙は、決して居心地の悪いものではなく。
ふと緩やかな風が吹き抜けた。
アバンの匂いがする。修練を終えて一度湯を浴びたからか、石鹸の匂い。それから服に染み付いた微かな血と汗の匂いは、もうどれだけ洗っても落ちないのだろう――リュンナの鋭敏な感覚だから分かるようなものだが。
なんだか気恥ずかしくなって、視線を逸らした。
テラスから見下ろせる庭園が視界に広がる。庭師が毎日手を入れている、優美なそれ。
この王都はまだ平和だから、そうやって庭を弄る余裕がある。
いつそれが壊れるかは分からない。
だから兵を鍛えてそれを防ぎ、そうなる前に根元を断たねばならない。
「どうして」
どうして?
「どうして戦うんですか、先輩は」
「これはまた急に」
それは急だろう。リュンナ自身、急に思った。
一度思ってしまえば、もう、止まらなかった。
「わたしは、国のために戦います。王女ですからね。国に尽くされていて、その分だけ国に尽くす。
でも先輩は……国を出て……。国を守るために魔王を斃すなら、それだけに邁進すればいいハズですよね? でも他国であるこのアルキードの危機にも、進んで力を貸してくれました。経験を積むため? それもあるでしょうけど……それだけには見えない……」
分かっている。
アバンはきっと答えるだろう。
「それはもちろん――」
「正義のため」
「はい、そうです。富や名声、個人的満足――そういったモノではない、正義のために戦うことこそが、勇者の役目なのだと今は思います」
喰い気味に割り込んだのに、嫌な顔ひとつしない。
あまつさえ穏やかに笑んで。
「だからリュンナ姫。勇者姫と呼ばれる貴方は、貴方も、正義のために戦っているハズです――本人はそう思っていないようですが」
「分かりますか」
冷めてしまった茶を飲む。
「さっき正義のためと言ったとき、不満そうでしたからね」
「正義って何なんです?」
リュンナには分からなかった。
国に尽くすことが正義なら、自分が目覚める闘気は光だったハズだ。だが現実には暗黒のそれ。
正義を問う声は、思ったよりも遥かに切実な響きが宿ってしまった。俯く。
「正義とは――」
アバンは何と答える?
綺麗事やお為ごかしが来たら? 悪を正すことだ、などと何の答えにもなっていない答えが来たら。
アバンに限ってそんなことはない、とは思うが、恐ろしい想像が止まらない。
既に正義はリュンナを高潔に拒絶したのに、それがつまらないモノだったら、あまりにも報われない。
勇者は、大勇者は、今日は天気がいいですね、と言うような口調で述べた。
「――人々が、笑って明日を迎えられるようにすることです」
「笑って、明日を」
「だからリュンナ姫も、ちゃんと正義の勇者だと思いますよ。この国に尽くすということは、つまり国民が笑って明日を迎えられるようになるワケでしょう?
魔物から助けてもらった、良かった、また家族と明日を迎えることができる。友と明日に会うことができる。
今日を笑って終えるだけじゃない。何かあれば、またきっとリュンナ姫は助けてくれる。貴方は信頼され、安心感を与えているんです。立派な勇者で、王女ですよ」
それは、そうかも知れない。
でも。
「でも」
「はい」
「わたし……わたしは……」
声が震える。
「例えば、もしも、魔王が常軌を逸して強くて……とても倒せないとき……。もしも、魔王が、わたしに取引を持ちかけてきたら。部下になれば世界の半分をやろう、とでも言われたら。わたしは――もしかしたら、頷いてしまう」
「それは……」
アバンがキョトンとした。
理解できない、のだろうか。心があまりにも正義に傾き過ぎて。
そんな取引に受ける価値はなく、約束が守られると信じるに足る理由はなく、故に石に齧りついてでも戦うべきだと。
なんて、眩しい。
「それでこの国が助かるのなら」
「……ッ」
ああ、やっと見つけた。この人の欠点。
こんな自明の結論に、言われて初めて気付くだなんて。
善良過ぎる。正し過ぎるのだ。
「先輩とわたしの、これが決定的な差ですよ。わたしは勇者と呼ばれていても、不完全なんです。先輩みたいにはなれない」
「いえ、前言を翻すつもりはありません。貴方は立派な勇者です」
「そんな、」
「私も同じですから」
今度はリュンナがキョトンとした。
何が同じなのか? 国ひとつと、全ての国を合わせた世界ひとつ。まるでレベルが違うだろうに。
アバンは険しい顔をしていた、それは怒りではなく――彼の苦しみだった。
「貴方に言われて気付きました。私は取引を持ちかけられるまでもなく、それをやってるんです」
「それ、って……」
「守りたいものを守るために、それ以外を切り捨てること。人間を守るために、魔物を、です。魔王を倒さない限り邪気は払えず、魔物を殺さずに魔王へは辿り着けないと言い訳をして」
「言い訳って……ただの事実では……」
ただの事実であり、故に仕方のないことだ。
こちらがどれだけ友好的に接しようと、話し合いを試みようと、邪気に冒された魔物には関係がない。問答無用で襲ってくる。
チウのように、魔物自身の気力で邪気を払えるようになるまで鍛えることは出来るかも知れない。
だがそんなことをしている間に、それ以上の人間が死ぬ。
集中力の配分を間違えてはならないのだ。
そんなことはアバンも分かっている、と、リュンナには察せられた。
「確かに私は光の闘気に目覚め、一方でリュンナ姫は暗黒闘気の使い手です。しかしそれは、どんな感情で正義を行うか、という差異に過ぎません。どんな感情であれ、正義は行われているんです。
たとえ不完全な正義でも、だからと言って、何もしないよりは遥かにマシでしょう? 力なき正義が行動しても無意味に終わってしまうように、行動なき正義が力を持っていても、やはり無意味なものです。
力と行動。私も貴方も、それを兼ね備えている」
アバンはテーブル越しに手を伸ばし、そっとリュンナの手を取った。
優しく、あまりにも優しく握る。
「だから、安心してください。私が保証しますよ。そして何度でも言いましょう、リュンナ姫、貴方は立派な勇者の――後輩だとね」
パチンとウィンクされたが、視界が歪んでよく見えなかった。
よく見えなかったが、よく分かった。
「はいっ。先輩。力も行動も――もっと磨いて、必ず会いに行きますね」
「そのときを楽しみにしていますよ」
――そうして、アバンはアルキード王国を旅立った。
数週間後、野生の魔物の様子が変わった。
それまでは人を見れば積極的に攻撃してきていたものが、逆に人を避け、逃げるようになった。
魔王軍の活動の噂を聞かなくなった。実際にアルキード内でも、あのミラーアーマーやクラーゴンのように、軍勢を整える魔物はもう出ない。
人々が、平和が訪れた、と喜び始めた。
結局、リュンナは間に合わなかった。
ソアラやベルベル、リバスト、隊長辺りはだいぶ出来上がったものの、一般の騎士兵士たちも底上げしなければならない。でなくば国を守るには不安がある。
そうこうしているうちに、アバンがハドラーを倒してしまったようだ。
以前それとなく聞いてみたところ、アバンは凍れる時間の秘法をまだ使っていない時点のようだった。
しかし原作で彼がこの秘法に頼ったのは、刀殺法やストラッシュが未完成だった故。
リュンナとの技術交流により、既にアバン流がほぼ完成を見た今、ハドラーを普通に斃してしまったのだろう。今頃はヒュンケルを連れて、修行をつけながらの旅でも始めているのだろうか。
マトリフがメドローアを開発するフラグを潰してしまったが、これもそれとなく誘導して、あとで開発してもらえばいい。
アバンは来ない。
別に、それでいい。
ある日、マトリフが訪れた。ひとりだった。
「アバンの野郎が凍った。呪法を解きたい。手伝ってくれ」
結局、歴史は変わらないのか。
じゃあこの国も、結局はバランに?
アバンのことよりそちらに絶望してしまう自分が、リュンナは嫌だった。