――凍れる時間の秘法。
数百年に一度来る皆既日食の瞬間にだけ使える大呪法。対象の時間そのものを止め、半永久的に封印してしまう術である。
アバンが古文書を頼りに研究を重ね、遂に発動を可能としたものだ。
数百年に一度のその日がつい先日に訪れたのは、偶然か、天の配剤か。
アバンはこれを以てハドラーを倒そうとし――レベル不足で自身も呪いに巻き込まれ、ハドラー諸共に時が凍ってしまった。
「そんな……。ストラッシュだってもう完成したのに! 普通に斃せば……!」
「足りなかったんだよ。頭数がな」
王城の応接室で向かい合いながら、大魔道士の老爺は重々しく述べた。
ロカとレイラは密かに愛し合っており、それは既にレイラの妊娠にまで至っていたことを。新たな家族の誕生をアバンは気遣い、彼らをパーティーから外したことを。
武術の神とも呼ばれる拳聖ブロキーナを臨時に加えはしたものの、長きを共に戦った仲間ほどの連携力は期待できず、そもそも彼は高齢から体力に難がある。
幸いハドラーを荒野に誘き出し、本拠地である地底魔城の攻略を省いて決戦に挑むことはできた。しかしそれでもなお、頭数と連携力と継戦能力の低下は無視できなかったのだ。
マトリフが呪文で雑魚を散らし、ブロキーナがハドラーを押さえる。
そこでハドラーに生じるほんの僅かな隙は、あまりにも僅か過ぎた。渾身のストラッシュを急所に直撃させるには、到底足り得るものではなかったのだ。
ロカとレイラがいれば可能だったろう。特に気心の知れたロカとの連携は、アバンの戦果を何倍にも高めるものだから。
――ロカとレイラ。
リュンナは忘れていた。何しろ9歳、転生して9年である。原作の細かいところまで、完璧には覚えていない。
この後1~2年程度の時を経て封印は自然に解除されてしまうのだから、元々変える必要のない歴史ではある。
だがまるで、自分と交流してアバンが強くなったことが、自分の存在が、まるで無駄だと世界に否定されているようで。
だが現実は、その更に上を行く。
「そして問題なのは、アバンが凍っちまったことじゃない。凍り方が不完全なことだ」
「不完全」
マトリフは語る。腕を組み、ソファに深く腰を下ろして。
その顔には、濃い疲れが滲んでいた。
「アバンは、秘法を発動できる程度にはレベルが高かった。だが完全に制御できるほどには高くなかった。自分も巻き込まれて凍っちまった――その上で、その巻き込まれにほんの少し、奴の魔法力は抵抗しちまったんだ。
分かるか? ほんの少しだ。秘法は遠からず解け始める、そのときに
例えば、心臓が動き出しても血管は凍ったままだったら? 破裂だ。血流は正常に動いても、肺が凍ったままだったら? 窒息だ」
それは、なんという――おぞましい死に方だろうか。
そんな死に方をしなければならない理由が、あの勇者にあるワケがない。
嘘だと言いたかった。言えなかった。マトリフの心気は、本物だ。
リュンナがいたからだ。リュンナと交流し、アバンは本来のこの時期よりもレベルを上げていた。半端にレベルを上げたせいで、秘法に殺される。
頬から顎へ、熱いものが流れた。
「ごめん……なさい……」
「あん?」
「ごめんなさい、わたし……わたしが……! わたしがいなければ……!」
堰を切ったように溢れ出す。拭っても拭っても止まらない。
生まれてきたことを後悔させてやる、などというセリフがフィクションにはよくあるが、今はリュンナがその後悔する感覚を実感していた。
原作通りなら上手くいくのだ。そこに異物が入って、ぶち壊した。
望んだ転生ではないけれど、それならそれで、もっと大人しくしていれば良かったのだ。
民が、国が、どれだけ傷付こうとも、最終的には上手くいくのだからと――
そんなことできるかッ!
できるわけがない。たとえ過去の自分に戻っても、リュンナは何度でも同じことをするだろう。
だから、自分が自分であることをも後悔する。
心がぐちゃぐちゃで、もう、何も考えたくない。
――ドガンッ! と。
戦士並の力感をすら伴い、マトリフが拳をテーブルに打ちつけた。
驚いて固まる。
マトリフはそこから怒鳴るでも激昂するでもなく、中身がこぼれて濡れたカップを気にもせずに摘まみ、茶を啜る。
それをリュンナは、固まったまま見詰めていた。マトリフの落ち着きぶりを。
すると自分が泣いていることの方が不思議に思えてきて、嗚咽の衝動が薄まってくる。
間もなく、未だ時折しゃくり上げながらではあるが、涙の追加は途絶えた。
そのタイミングを見計らったように、マトリフがやっと言葉を紡ぐ。
「悪かったな。話す順番を間違えたかも知れん。女を泣かさねえのが俺の主義だったんだが……」
どことなく気まずそうに視線を逸らしている。
そもそもガキに興味はないなどと言われ、女扱いされていなかった気がするが。
「オメエがいなければってのは、よく分からん話だから置いておくぞ。まあ感情がいっぱいいっぱいになって、混乱しちまうこともあるわな。どこもオメエのせいじゃないってのによ……。
重要なのは、助ける見込みがあるってことだ」
目を見開いた。
マトリフもリュンナに視線を合わせてくる。
「要は先に秘法を解いちまえばいいのよ。内からの自然解凍でムラができる前に、外から一気に解く!
奴の持ってた古文書やその他の文献をいろいろと漁って、方法にも目星がついた。桁外れの大呪法とは言え、魔法力による技だって点じゃあ普通の呪文と同じだ。だから、魔法を消し去る手段があればいい。もちろん、メチャクチャ強力な手段が必要だが……。
或いは、時間の止まったものさえも消し飛ばせるような手段があれば……。ハドラーの野郎を消しちまえば、秘法の効果の中心はそっちだ、巻き込まれたアバンの奴も解放されるハズ」
魔物が大人しくなってから、マトリフがここに来るまでに、日数的に間があった。
それを調べていたのか。
「タイムリミットは」
「半年――あるかどうか、ってところだ。俺の見立てじゃな」
半年。長いのか短いのか。
いや、短いハズだ。
ポップはメドローアをたった数日で習得した。師匠が良かったからだろうが、原作においてそれを開発したマトリフも、リュンナが概念さえ伝えればすぐに開発できるだろう。
思うにメドローアとは発想とセンスの問題であり、センスはあるのだから、メドローア開発にかかる苦労の殆どは発想にあったハズである。
それをリュンナは、原作知識によって省ける。この世界の異物だからこそ、アバンを救えるのだ。
もちろんその場合、ハドラーは消滅してしまう。跡形がなくなっても、バーンは彼を拾い上げるのだろうか。もしかしたら、ここからの歴史がまるきり変容してしまうかも知れない。
だが既に変わり始めているし、アバンが死ぬことに比べれば、あまりにも些細なことだ。
最悪、万が一今のマトリフに、ポップに教えたときほどのセンスがないとしても、それならリュンナ自身がメドローアを開発する手もある。
左右の手で同時に呪文を使うことはできるようになった――両方同じ呪文なら、だが。しかし別々の呪文を使うことも、そのうち出来るようになりそうな感触がある。
行ける。アバンを助けられる。
マトリフが来てくれて良かった。子供だからと侮ることなく、助けになるハズだと、頼ってきてくれて。
リュンナはマトリフの手を握った。細いのに、無数の年輪を刻んだ大樹のような手。
「頑張りましょう、マトリフさん。必ずアバン先輩を……!」
「おうよ。オメエはなかなかセンスがある方だしな……。この大魔道士と勇者姫とのふたりがかりだ、不可能なんざぶっ飛ばそうぜ。
――悪かったな」
リュンナは首を傾げた。
「俺が止めてりゃ良かったんだ。自爆の可能性がある手なんかやめろってな。だが奴ならできると思っちまった……。信頼と盲信は違うってのに……」
マトリフはリュンナの頭に手をやると、傾げた首の角度を戻させ、――あれ、今撫でられた? 一瞬だった。
いや、それから肩に手を置かれた、そこに手を移動するまでの経路が、たまたま撫でるように感じられただけだろうか。
「今度は『信頼』するぜ……。やるぞ、リュンナ姫」
「はい!」
今は、アバンを救うことを。