ベルベルは思い出す。
生まれてからずっと、夢を見ているようだったことを。
人間と戦う魔物たちにホイミをかけたときも、時には自らの触手で人間を絞め殺したときも、意識はふわふわ揺蕩うようで、なぜ自分がそんなことをしているのかも理解できなかった。
力を振るうのは楽しかったし、嫌悪感も特になかったが、一方で満ち足りるものもなかった。
なぜ? いつもそう思っていた。なぜ自分は戦い、殺す? 特にそうしたいワケではないのに。
人間が傍にいないときは、陽光の下、泉に浸かりながら微睡む。その方がずっと心地よい。
なのになぜ、人間が寄ってくると、途端に自分は戦うのか。
ある日、アークデーモンに出会った。その強大な力に怯え、震え、ただ従った。
別に痛めつけられたり、理不尽なことを要求されたりはしなかった。彼の部隊に加わり、人間の町を襲うのみだ。規模こそ違うが、いつもやっていることと同じである。
なぜ人間を襲うのかは分からないが、とにかく人間は襲うべき獲物らしいから。
とは言え部隊にはほかに強力な魔物が大勢いるから、ホイミスライムの身で敵と直接戦うことはない。傷付いた魔物を回復し、再び立ち上がらせ、人間を襲わせるのが仕事だった。
それは大将のアークデーモンでも同じだ。とても強い人間――信じがたいことに子供だった――に斬られた彼にホイミをかけた。焼け石に水だったが。
なぜ? なぜ死にそうな魔物を延命させ、人間と戦わせるのか。
別にそいつのことが好きなワケでもないのに。人間が嫌いなワケでも。自分が死にたくないから? 言うほど死にたくないか……?
自分が死にたくないのだと知ったのは、アークデーモンが放ったイオナズンごと斬り捨てられ、その巻き添えになったあと。
真っ二つになって地面に転がり、同じく真っ二つになったアークデーモンの骸の下敷きになって――体から力が抜けていった。心からも力が抜けていった。
今なら分かる。そのときに魔王の邪気も抜けたのだ。意識が覚醒した。ずっと夢のようだった意識が、死に瀕して、明瞭になってしまった。
恐怖した、絶望した、世の理不尽に嘆いた、己を操っていたモノに怒り狂った、操られる己の弱さを憎んだ。
死ぬ。死ぬ。自分が消えていく。眠りよりも深く、二度と目覚めることのない暗黒の淵へと落ちていく。
嫌だ、嫌だ! 助けて! 誰か! ああ、でも、けれど――これが、本当なんだ。
ただ誰かに言われるままに生き続けていた、それを強いられていた、生まれてからずっと、『自分』ではなかった。
でも、今、自分は、『自分』だ。本当の感情の激しさを知れた、最後の最後で、生きているって実感できた。
だから無限の負の感情の中、ただ一点の光――自分を斬った人間への、この上ない感謝が生じて。
それが身に染み入っていた暗黒闘気との結びつきとなり、死の闇とは異なる生の闇へと飲み込まれ、新生した。
――ベルベル。
鈴をもらった。名をもらった。愛情をもらった。居場所をもらった。
自分は世界一幸せなホイミスライムだと、何の疑いもなくベルベルは思う。
リュンナのためなら死んでもいい。なぜなら生きるとは、単に生存するということではない、何を為し、何を遺すかということだ、と知ったからだ。
リュンナを守ることを為し、リュンナに希望を遺せるなら、何の悔いがあるだろう?
だからミラーアーマーに皆殺しの剣を振るわれたとき、自分が偶然リュンナを庇う形になって本当に良かったと思った。
リュンナは必死に助けようとしてくれて――ああ、自分が死んでも、自分が彼女の中に残るんだ、と安心できたものだ。それがどれだけ素晴らしいことか!
人間も魔物も知ったことじゃない。
ただ、リュンナのために。
だから今も、ベルベルは刃のブーメランを投げつける。
「ぷるん!」
それは敵の放った巨大
同時にベルベル自身も、投擲の反動で既に矢の射線から身をかわしている。
敵は巨体。右手に刀、左手にクロスボウ付き手甲を装備した、四本脚の単眼。
ハドラーが開発した殺人機械、その名の通りの『キラーマシン』。
「ヤルナ……小サキ者ヨ……」
巨躯に似合わぬ甲高い声で、機械は淡々と言った。
「ぷるっ!?」
「我ガ名……『ロビン』……キラーマシン、ノ、統括者……」
「ぷるぷる!」
「ソウカ。オ前ヲ殺ス」
「ぷるるる……っ!」
ベルベルが会話に応じたのは、時間稼ぎのためだった。
クロスボウの弦を断ってなお飛び続けるブーメランが、旋回の末、機械の無防備な後頭部に突き刺さる――乾いた音を立て、何らの痛痒も与えずに落ちた。
「ぷるッ……」
「無駄ダ……コノ身……剣デモ呪文デモ、傷付ケル事、能ワズ……」
キラーマシン、ロビンが歩いて迫る。ベルベルは動かない。
それはギリギリまで引き付ける行為。まだだ、もう少し、あと一歩――刀が振るわれた、ここだ! 回避!
逃げ遅れた触手がいくらか斬り落とされたが、今、ロビンの足元が
ここは一定時間で床が少しずつ崩壊していく、罠の階層なのだ。落ちた先は、地の底に横たわるマグマの川。
これがリュンナとアバンを先行させた理由。こんな場所でキラーマシンに粘られては堪らない、あまつさえルーラ系呪文を阻害する結界すら張ってあるのだ。
唯一モノともせずに戦える例外は、先天的にトベルーラを習得済みで、生態として常に浮遊しているホイミスライム――ベルベルのみ。その熟練したトベルーラのみが、結界を無視して発動できるのだ。
わざわざ4本も脚をつけて歩行移動するキラーマシンに、どう考えてもそれだけの熟練度はない。まずルーラ系を習得しているかも怪しい。
崩壊する床の位置とタイミングを読み、誘導し、その足場を無にしてやったのだ。
勝った!
落ちていく機械の巨体を見下ろしながら、ベルベルは安堵し――
――その身に、クロスボウの弦が巻き付いた。
「ぷる……ッ!?」
「ソウ来ルダロウト……思ッテイタ……」
ベルベルが斬った弦だ。遠隔攻撃を封じ、確実に接近してもらって、マグマに落とすために。
その弦が、斬られたからこそ自由になり、あまつさえ
射撃を封じて安心した相手を、その隙を突いて殺す――明らかにそのための機構。
だがいい、とベルベルは思う。
どの道ロビンはマグマに落ちるのだ、剣も呪文も効かぬ悪夢の殺人機械がリュンナを背後から狙うことはない――重要なのはそこだ。
アバンは語っていた。敵陣に突入する際に最も注意する必要があるのは、立ちはだかる敵を倒すことより、後続の追い打ちを断つことだと。
如何な勇者でも、キラーマシンは容易くない。別の強敵と戦っているときに挟み撃ちにされれば、一気に全滅が見えてくる。
それを防いだのだ。だからどうなろうと、これで自分の勝ち――
「甘イ」
がんッ、と。
落ちるロビンが壁に刀を突き立て、その上に立った。
「ぷる――っ、」
更に左腕を振るい、弦で拘束したベルベルをマグマへと振り下ろす。
予備の刃のブーメランを振るい弦を断とうとするが、とても無理だった。先ほどは弦がピンと張り詰めていたから斬れたのだ、自由に曲がりくねる今の弦が相手では!
――ヒャダルコ!
マグマの水面を凍らせてそこに落ち、焼死を防ぐ。
だがそれは氷に叩きつけられることだ、身が弾け飛びそうな衝撃。
しかも氷は瞬く間に融けてしまう、痛みに呻く暇はない、すぐに浮遊上昇。
だがベルベルの身は、キラーマシンの左腕に繋がる弦に拘束されたまま。奴が腕を振るい、再びマグマへ落とされる。ヒャダルコ、凍らせ、氷に身を打たれ、融け、浮き、奴が腕を振るい――
「ぷる、……ぷるぷる……」
堂々巡り、それも一方的にベルベルのみがジリ貧な。
だがヒャダルコをやめれば死ぬ、他に選択肢はない。
本当に?
「諦メタカ? ナラバ、武器ヲ捨テロ……投降スレバ赦シテヤル。再ビ、ハドラーサマノ……シモベトナレ……」
嫌だ。
「ソモソモ……ナゼ、人間ナドニ従ウ?」
人間に従ってるんじゃない。
リュンナのために生きてるんだ。
「ナゼ?」
リュンナは、ぼくの、お月さまだから。
太陽みたいに、激しくも苛烈でも、一方的でもなく。
見上げればそこにいて、優しく包んでくれて。
闇の中、ほんの少しだけ道を照らしてくれて。
ぼくはただ、ぼくのいきたい道を選べるんだ。
「ナラバ……ソノ道ノ果テデ……」
刀を壁に突き立てて空いた右手が、背の矢筒から矢を抜き放つ。
「死ヌガイイ!」
――投擲。
投げ矢はクロスボウに勝るとも劣らぬ威力で、弦に拘束されたベルベルに迫る。避けようにも鞭めいて弦を振られ、その力が浮遊飛行の力を上回る――無理だ。
だからベルベルは、避けなかった。
「ぷる、ッ……!」
瞬間、ほんの僅かに身をよじる。頭部の半分が弾け飛んだ、右眼球が宙を舞う。スライム族の単純な身体構造なら、この程度はまだ致命傷ではない。
同時にその弾けた反動をすら乗せてブーメランを投擲。肉を斬らせて骨を断つ、相手の力を自分に上乗せする諸刃斬り!
「フン!」
ブーメランは届き、そして右拳にあっさりと叩き弾かれた。
「往生際ノ悪イ――! ……?!」
そう、その角度で弾くように調整して投げたんだ。魔神斬りの破と急だよ。
弾かれてから旋回して、お前の足の裏にちょうど滑り込むように。
ぬるり、と。
ブーメランにたっぷりと付着していたホイミスライムの青い体液が、キラーマシンの足を滑らせた。
「ウワッ――」
壁に突き立てた刀の上という、不安定に過ぎる足場。踏ん張りはロクに利かず、咄嗟に刃を掴んだ手さえ体液に滑る。
投げ矢を受けて飛び散った体液だ。
「死ヌノハ――ワタシ、ダッタ、トハ――」
ロビンがマグマに落ちた。
呪文には強くても、天然の灼熱にはどうしようもないのか。巨体が炎上爆発し焼け焦げながら、ゆっくりと沈んでいく。
ベルベルに繋がったままの弦、それ諸共に。引かれる。引っ張られる。
ベルベルは思い出す。
リュンナの仲間になってからずっと、夢のように幸せだった日々を。