地獄門をくぐった先は、長い長い上り階段であった。
闇の中を、リュンナが鷹の目を先行させて罠のないことを確認しながら、アバンのレミーラで照らして駆け上っていく。
ふと振り向いても、まだそう経っていないハズなのに、もはや入口の光すらロクに窺えない。
「事ここに至って、ハドラーはひとりで待ち受けているハズです。マトリフとベルベルとは別れてしまいましたが、リュンナ姫と共に戦える……! 2対1! 頼もしいことです――本当に!」
足を止めないまま、アバンは語る。
傍らのリュンナを見下ろして、ぱちんとウィンクすらしてのけた。
余裕のある所作、それは己への鼓舞でもあろう。
「それで、先輩。作戦は?」
「激しい攻撃が予想されます。ベホマも必要な集中力が高く、戦闘中に使うのは難しい……。守勢に回れば勝ち目はないでしょう」
「ではガンガン行きます?」
「いえ、攻撃ばかりを考えても無防備になり過ぎます。バランスが肝要……! 集中力の配分を間違えないことがね。互いにフォローし合い、バッチリ頑張っていきましょう!」
高度な柔軟性を保ち、臨機応変に対処するらしい。
実際、それしかないだろう。ハドラーがどんな手札を持っているのか、幾度か戦ったことのあるアバンでも、未だに底が見えていないらしい。
そんな状況で、相手を上手く嵌めるような策など実現は不可能だ。想定外の手札がひとつあるのみで全てが瓦解するのに、想定外の手札は必ずあるのだから。
それを確認し頷き合うと、あとは黙って上っていく。
地獄門前で、回復は既に済ませてある。
呪文による体力の回復、魔法の聖水による魔法力の回復。そしてそれを座って行うことで、僅かな時間とは言え休息を取り、気力の回復までも。
万全とは到底言えないが、それでもこの状況でこれ以上は望めない体調だ。
原作において、アバンは最終的にひとりで魔王ハドラーに勝った。
この世界ではリュンナがいて、アバンのレベルも上がっている。負ける要素はない。勝てるハズだ。
リュンナは確信と共に歩を踏み――
アバンに押し倒され、階段に伏せた。
「先輩!? 何を――ッ」
血の匂い。魔物とは違う、人間の。
回復は済ませたばかりだ。服に染み込んだ古い血か、いや、新鮮な匂いがする。
アバンの血。
「ぐう、ううう……!」
彼の体の体越しに振り向けば、アバンの背に『影』が突き立っていた。
赤黒い影の体、悪魔めいた異形――その鋭利な爪の貫手が。
もしアバンに庇われなければ、自らが貫かれていたと知る。鷹の目に集中していて、自身の警戒が疎かになっていた。
しかしその鷹の目を掻い潜って接近してくるとは!
「先輩、今ベホイミを――」
アバンは応えず身をよじり、影の異形の貫手を振り払う。
すると影はもう片手を向け、
「ザラキ」
死の言葉の渦が迫る。
アバンはリュンナを階段の上へ向けて押しやり、渦から逃れさせた。
「ちょっ……何で――」
「行ってください、リュンナ姫! 急いで!」
「何を!? ふたりがかりで……!」
「ダメなんです! 早く!」
鬼気迫る様子に、リュンナはもう迷わなかった。
アバンに背を向け、階段を駆け上がる。広い空間の気配がある。
そして鷹の目だけを後ろに残し、アバンの言葉を読んだ。アバンもそれを心得ていた。
「ハドラーがバルトスの異変に気付いた可能性があります。裏切り者として処刑に向かう可能性が……! せっかく助けた命を散らさせてはなりません!」
一度新生した魔物は、再び同じ方法で復活できるのか? 不明だ。
それが可能だとしても、条件に『リュンナの暗黒闘気でトドメを刺すこと』がある以上、離れてしまった今はどの道、実現できない。
「この影の魔物は、そのために我々を足止めするつもりでしょう。或いは影を無視してふたりで進めば、影自身がバルトスを始末する手筈か……。
残念ですが、我々は分断されざるを得ません」
リバストのザラキとは比較にならぬ呪いの奔流に、さしものアバンも動きが重い。
あまつさえ影は、同時に甘い息すらも吐いてきた。ザラキの渦の中で眠ってしまえば、それこそ永遠の眠りに就くことになる。
アバンは海波斬で息を散らすが、それが精一杯。ザラキは健在で、剣圧も影本体まで届かない。
「影を斃し、必ず後から追い付きます……! 先に行って、ハドラーを止めてください! 斃してくれとは言いません、時間稼ぎで構わない……! どうか!」
そこまで読んでから、鷹の目を引き戻した。
声を届ける。叫ぶ。
「ええ、時間を稼ぐのはいいですが……! 別に! 斃しちゃってもいいんですよねえ!?」
冗談でも言わなきゃやってられない! リュンナは心中で嘆息した。
激しい攻撃が予想される、守勢に回れば勝ち目はない。そんな相手にひとりで時間稼ぎなど――半ば自殺だ。
だが行く。
だって、嬉しかったのだ。アバンはバルトスに対し、原作ほどの思い入れはあるまい。けれど彼を拾い上げたリュンナの意を汲んで、彼を生かそうとしてくれている。
そもそも身を挺してリュンナを庇い、それを当然のこととして動いた。
それだけ大切に思われている、ということだ。他でもないリュンナが、アバンに。もちろん、仲間として。
大勇者の大切な仲間! これほど誇らしい立場が他にあるか?
だからリュンナは駆け上がった。疾風のように走った。
階段を駆け抜け、大広間――地獄の間に辿り着く。闇の中、一定の間隔で幾本もの柱が立つそこ。
そこに、魔王はいた。
暗黒のローブとフードを纏い、大きな宝石の首飾りを下げた姿。
魔王ハドラー。
「む……!」
彼はリュンナの姿を認めると、眉根を寄せた。
「貴様は確か、あの時アバンにくっついていた……! 我が影め、しくじりおったな」
ハドラーの影――いや、『魔王の影』か、あの魔物は。
そんなことはどうでもいい。
疾風の走りが歩きに変わり、間もなく止まった。ハドラーまではまだ距離がある。
なのに、これだけ気圧される。
凍れる時間の秘法を解いた時と違い、今は傍らにアバンもマトリフもいない。ベルベルもリバストも、この場にはいない。
呼吸が速い、鼓動が速い。知らず、冷や汗が噴き出す。
「貴様ごときに用はない……! アバンが来ないのならば、失敗作のバルトスを俺自ら処刑しに行くまでよ! まさか俺以外の暗黒闘気に阿るなどとは……」
眷属との繋がりの切れ方に、不審さがあったのだろうか。バルトスの状態を把握しているようだ。
リュンナにはまだできないこと。ベルベルが無事かどうかも。
「ともかく、そういうワケだ。どけ」
「いいえ」
「……ほう?」
ハドラーが不敵に笑んだ。即答は予想外だったのだろう。
自分でも予想外だ。リュンナもまた笑った。不格好に引き攣っていようとも。
「それは……俺と戦う、ということか? この魔王ハドラーさまと……!」
「はい」
はいだのいいえだの、ドラクエの主人公かよ。ウケる。
ああ、冗談のひとつやふたつ飛ばさなきゃ、とても耐えられない。
ハドラーとは、これほどまでに圧倒的な怪物だったか。ただ気配のみで。
「クックックッ……! そんな無様な姿でか!」
魔王の指さした先は、リュンナの足元だった。
見下ろすと、いつの間にか水溜まりができていた。
何これ? どこから湧いて出た?
ああ――自分からだ。この両脚の間から。涙がこぼれた。視界が歪み、揺らぐ。
ぎゅっと目を閉じる――けれどそれは、逃げるためでなく、立ち向かうため。
瞑想――死の感覚――無の境地――全てが消え去れば、全てが見える。
額に第三の目が開くイメージ。
リュンナは自分の恐怖を見た。恐怖の形を知った。恐怖の乗り越え方が見えた。
「あなたは」
「ククッ、どうした」
「アルキード王国を、どうしますか」
思わぬ問いだったのか、ハドラーは少しだけ沈思黙考した。
だが間もなく答える。
「無論、滅ぼすとも。アルキードのみではない――地上全ての国を破壊し、全ての人間を我が家畜としてやろう! なに、案ずるな……。少し世代を重ねれば、人間ども自身がそれを幸せだと感じるようになる」
牛や豚が、外敵に襲われずエサの豊富な生活に耽溺するように?
「赦さない」
そんなことは赦さない。
「わたしの国。わたしの民」
国のわたし。民のわたし。
「絶対に守る」
それは正義感ではなかった。
煮え滾る憤怒であり、深淵よりも深い憎悪だった。
子供や巣を守ろうとする野獣の母のような、容赦なく、善悪もなく、苛烈な想い。
形振り構わぬ魔獣の境地。
だから魂の奥底から湧き出し噴き上がってくる莫大な奔流は、光ではなく暗黒。
星の海めいて無数の輝きを宿す、常闇と冷気の具象化――魔氷気。全身に纏う。
恐怖を乗り越えるのは、愛国心だ。
「わたしはアルキード王国第二王女――『勇者姫』リュンナなんですから……ッ! ハドラーッ!」
「フンッ! やっと楽しめそうな面構えになりおったか。良かろう、遊んでくれる」
今――戦いのとき。