51 竜眼姫
長い長い夢を見た――本当は今見ているのが現実で、ここから目が覚めた先が夢なのではないかと思うほど、長い夢だった。
具体的には、これまでの人生を追体験するくらいに。
目が覚めると、窓から乾いた風が入ってきていた。カーテンが緩く揺れる。
窓の向こうの光景は、高く険しい山脈だ。長大な壁めいて。
身を起こした。
長い銀髪がさらりと、白い裸体にかかる。
13歳になって何か月経ったのだったか? 見慣れた小柄な体。
どこか違和感がある。
とりあえず衣服代わりにシーツを纏って立ち上がった。裸足。
窓を閉じ、硝子に姿を映した。
肉眼と竜眼が、同時に開いている。
竜眼を開くために、わざわざ肉眼を閉じる必要がない。
違和感はこれか? まだある。
ああ、全身の奥底に力が漲っている。人間ではあり得ないような膨大な力。
やはり竜眼を得た時点で、自分は人間ではなかったのだろう。
その力が体に合わせて進化したらしい今は、更に。
力のみではない。総身が生まれた変わった感覚がある。
あれだけの火傷が――そうだ、アルキード王国で火炙りに処されたハズだが、そのダメージが全く残っていない。
ベホマで治したというよりは、まるで新品の体と取り換えたような。
いや、ようなではない――竜眼の感知能力でよく見れば分かる。
主にハドラー戦やバラン戦で負った傷、もはや回復呪文でも治り切らない傷痕がいくつかあったのだが、綺麗さっぱり消えていた。
暗黒闘気もより強まっている。
自己の愛国心の裏返しというより、単により強大な存在から与えられた力という感覚だが。
どうやらバーンか何かの力で復活したらしい。
では、ここは大魔宮? 鬼岩城?
窓から身を乗り出し、上下左右を眺める。
大きな岩の顔が見えた。鬼岩城だ。
身を部屋に戻すと、改めて部屋を見回した。
狭い。ただ寝るのみの部屋だ。
唯一の扉には、鍵はかかっていなかった。
開け、くぐる。
似たような――どこか悪魔的な内装の、もっと広くて設備も整った部屋がそこにあった。
高貴な者の私室のようだ。
ハドラーがいた。
あの竜王のようなローブを纏った姿で、リュンナに向き合う形で、脚を組んで革張りの長椅子に座していた。
「座れ」
向かいの椅子を指し示して言う。
包まったシーツの裾を引き摺って歩き、座った。
「まずは……久し振りだな、とでも言うべきか……。リュンナ。よもや俺の顔は忘れておるまい」
「魔王ハドラー」
「ククッ」
ハドラーは愉快げに笑った。
「クッハハハハハハハ……! ところが違う……。
あの時、貴様とアバンに敗れた俺は、魔界の神とも呼ばれる大魔王バーンさまに救われた……。新たな肉体をいただき、以後13年間眠りについて力を蓄え、遂に復活したのだ。
眠っている間は夢で世界を見ていて――死にそうな貴様の姿に、慌てて飛び起きて手に入れに行ったりもしたがな」
思い出すような口調。
あれがハドラー討伐から3年以上過ぎた日だったから、今はそれから10年、或いはそれ以上が経っているのか。
「しかしあの時、ミストバーンが妙に動揺していたのは何だったのか……」
自分が拾うつもりで、ハドラーに先を越されたのか。
リュンナはボンヤリと、その光景を想像した。
「ともかく、今の俺は、バーンさまの軍を預かる総司令官――魔軍司令ハドラーだということだ!
分かるか、リュンナ!? そして貴様は俺の所有……。生かすも殺すも俺次第。あの痛みと屈辱を如何にして晴らしてくれようか? 考えるだけで胸が躍るわ」
「つまり、あなたは――わたしを助けたのではなく」
「そうだ! 人間どもに処刑されては、俺がこの手で縊り殺せぬではないか! 憎きアバンともども、貴様は俺の獲物よ。どうだ、絶望したか?」
嗜虐の笑みを浮かべる――が、気になることがある。
リュンナは表情を変えることもなく、淡々と問うた。
「どうして10年も待ったんです?」
「む……」
ハドラーの勢いに歯止めがかかる。
彼は心底つまらなそうに舌打ちをし、それから首を振って気を入れ直した。
「バーンさまは、貴様にも新たな肉体を与えた……。今にも死にかけていたからな、これでは意味がないと思い、俺が頼み込んだのだ。
正確には、バーンさまが与えたのは『材料』として魔物や人間の遺骸であり、新たな肉体を形成したのは貴様自身――その竜眼の力らしいが。それが完成し馴染むのに10年を要したのは、全く予想外だ」
魔物や人間の遺骸とは……。キメラ化、いや、超魔生物のようなモノか?
と思って自身を探るが、どうも違う。単にそれらの肉を食べて養分にした、という方が近い気がする。
ともあれハドラーは一度言葉を切り、低いテーブルの上に用意されていたボトルから、グラスに赤い酒を注いだ。
呷る。
「貴様は俺の預かりだが、復活にバーンさまのお手を煩わせた以上、無駄遣いはできん。生殺与奪は俺が握っているとは言え……正当な理由なしに処刑はな……」
「正当な理由とは」
「例えば、貴様が俺に反抗するなどだ。構わんぞ――俺は、それで」
リュンナの前にもグラスはあって、そこに酒が注がれた。
「飲め」
グラスを手に取る。
この酒は魔族にとってはただの酒だが、人間には毒となる成分が多量に含まれている――竜眼に映った時点で、既に分かっていた。
グラスを回し、酒を揺らす。香り立つ。
一口。
口の中で広がる味と香りを楽しみ、飲み込む。
「ククッ……」
もう一口。
「……?」
半分ほど呷る。
一息置いて、更にカラまで。
寝起きで喉が渇いていたのだ。助かる。
だがまだ足りない。
「お代わり貰えます?」
「どういうことだ!?」
「お代わりはダメですか」
「そうじゃないッ!」
ハドラーがテーブルを叩いた。揺れる。
鼻水垂れてるけど、拭いていい?
「人間には毒の酒だぞッ! いくらキアリーが使えても、発症と解毒に多少のタイムラグがあるハズ……。そしてやせ我慢で何とかなる毒ではない! いったい……!?」
「人間じゃないんでしょう」
自分で勝手に注いで飲むことにした。
美味しい。
「バーンでしたっけ? 大魔王に材料を与えられ、竜眼が体を作った――竜の眼が作ったんですから、きっと竜の体なんですよ。これは」
「どう見ても人間だが」
「人間の目はふたつですよ」
ハドラーは黙った。
如何にも面白くなさそうだ。
お代わりを飲み終える頃、沈黙は破られた。
「つまり貴様は、あの時から人間ではなかったのか」
「はい――たぶん、半ばは。
つまり『リュンナという人間』としては限界の才能に、わたしは辿り着いてしまったんでしょう。それを超えてレベルアップするために、人間であることを捨てることを無意識が選んだ……。それを可能とする修行を、知らず知らずのうちにしてましたから。
きっと、そういうことだと思います」
ハドラーはグラスを傾け、中身が既にカラだったと気付いた。
そっとボトルを持ち上げて、そこに注いでやる。
一転して機嫌が良さそうになった。
「ククッ、悲しい話じゃあないか、リュンナ! 人間どものために必死に俺を討ち果たそうとして、人間の限界を超えた――その結果が、人間どもから拒絶され処刑の憂き目とは……な!」
「本当に」
ハドラーは味も香りもロクに楽しまず、水のように酒を飲み干すと、芝居がかった調子で述べた。
「そして処刑から逃れたと思えば、今度は怨敵の俺のもとで虜囚の身……。どうだ、気分は」
「悪くないですね」
「……なに?」
訝しげに眉根を寄せた。
当然だろう。
以前のリュンナなら、きっと考えられない答えだ。
「解放されたんです。
国に尽くされている王女なのだから、国に尽くさなきゃならない。どんなに……国が気に入らなくなっても……。どんなにわたしが間違って、進退窮まっても。呪いですよ、それは。
あなただってそうじゃないんですか、ハドラー。地上を欲したのは――」
「やめろ!」
凄まじい闘気が吹き荒れた。
それは威圧のために放出したのではなく、無意識に溢れ出てしまったモノのようだ。
ハドラー本人がリュンナよりも驚くありさま。
彼は一呼吸を挟み、言う。
「……やめろ」
「はい」
彼は魔王だった。『王』なのだ。国に、民に尽くす立場。
そこから解放されたのだろうか? バーンの部下になって、王ではなくなって。
地上を支配し、民に、太陽の光を、豊富な食料を。
しかしバーンの真の計画は、地上消滅だ。
「ふん、相変わらず生意気な小娘よ。拷問したところで、果たして貴様は悲鳴のひとつも上げるのか……? 人形のようではないか」
目覚めてからここまで、リュンナのほぼ表情は淡々としたまま。
泣きも笑いもしていない。
「空っぽですから」
空っぽだから。
「義務も、権利も……。生きてる理由がないんです。ここであなたに殺されたら、わたしはきっと『ありがとう』と言うけれど――そのためにわざと反抗したり、或いは自殺したりだとか、そういった気力はありません」
アルキード王国第二王女で、勇者姫だった。
もう、どちらもない。
自嘲の笑みが浮かびかけ――結局はそれすら浮かばぬさま。
「くっ……! 10年も待ったのに、これでは俺が報われんではないか! そんな状態の貴様に、いったい、俺は……!!
……いや、待てよ? クククッ、そうだ、いいことを思いついたぞ!」
苛立つハドラーは、しかし俄かに笑みを広げていった。
大仰な動作でリュンナを指さし、宣告する。
「俺の部下になれ! そうすれば世界の半分を与えてやるぞ……!」
中間管理職に、そんな権限ないでしょうに。
リュンナは呆れ――
「そして生き甲斐もだ」
「……!」
身が、強張った。
竜眼ともども目を見開く。
「反応したな……? そうだ、貴様という空っぽの器に、俺が中身を注いでやろう! かつては魔王と勇者――しかし今度は、共に魔の側に立つのだ。
貴様を虐げ迫害した人間どもを根絶やしにしたくはないか? 同じ業火の苦しみを味わわてやりたくは――特になさそうだな」
リュンナの顔を見て、ハドラーの勢いが萎んでいく。
が、すぐに気を取り直した。
「いや、なるほど、貴様にはこう言えばいい……! 俺は、貴様に、尽くしたな?」
命を拾い、上司に頼み込んでまで新たな肉体を用意し復活させた。
そしてリュンナの寝所が彼の私室の奥にあったのも――恐らくは、誰にも手出しをさせぬため。魔王軍から守るためだ。
思惑はどうあれ、それは確かに、自ら骨を折った行為。
「ならば俺に尽くせ」
「――はい」
体が自然と動いた。
革張りの長椅子を立ち、床に跪いて、頭を垂れる。
恭順の姿勢。臣下の礼。
「あなたに尽くします。ハドラーさま」
「クッ……! クックク、ハハ、クハハハ……!」
ハドラーがリュンナの頭に手を乗せた。
ぐりぐりと力をかけられ、素直に頭を下げ、そのまま彼の靴に口付けをする。
「悪くない……! 悪くないぞ! いささか拍子抜けではある――あの冷たい殺気に満ちた貴様に、もう会えんと思うとな。だがいい! 空虚よりは……! 精々可愛がり、使い倒してくれよう」
「はい。ありがとうございます」
ああ――なんたる安らぎ。
1対1だ。国などという得体の知れないモノではなく、無数の個の混沌とした集合体ではなく、個と個の繋がり。あまりにも単純。極めて純粋。露骨なほど明確。
そこには集団心理による迷走はなく、派閥は生まれず、二律背反もない。
受容がある。ただ、求め合える。
地上を侵略することにはなるが、別に構わない。
もともとアルキード以外は、割とどうでも良かったのだ。
そう、アルキードだけ助命嘆願しよう。世界の半分をくれるらしいし。そのくらいの義理と気持ちはある。
「いっそのこと、貴様には軍団長の地位をくれてやろう。どこがいいか……。いや、考えるまでもないな」
ハドラーは竜眼を見た。
「超竜軍団長――『竜眼姫』リュンナ! これだ……!」
「拝命します。ハドラーさま」
暗黒闘気が、胸の奥で渦を巻く。
我が敵の首を刎ねよと言われたなら、容易くできそうな気がする。
まるで花を摘むように――たとえバーンが相手でも。
竜眼には、彼の胸の中に、黒の
自分に与えられた暗黒闘気と似た匂い。バーンの魔法力の匂いだ。
ハドラーを死の淵から救い上げた時に、万一のために埋めておいた――と、原作ではバーンの口からそう語られたモノ。
原作通りなら、バーンの感知能力は意外と低い。自分を基準にして、どうせ見通せぬと高を括ったか。
竜眼を侮った――その代償は高くつく。
しかし今ハドラーに伝えても、それで叛意を見せる前にと、バーンに粛清されるのみ。摘出しても同じこと。
ならば魔王軍の獅子身中の虫となろう。忠実に地上を攻撃しながら、ハドラーを助け、バーンを斃す力を用意しよう。
ハドラーのために。ハドラーのためと思う、己のために。
次回、原作開始。