水無月風子の手記を見て、「罪人水無月風子」という言葉に引っかかりを感じたのが、この小説を書く動機になりました。全体として、第八次侵攻以降を風子視点で振り返る形になりますが、最後の戦いの前に実親との再会を実現させたかったので、風子の故郷を風飛からは離れた、第八次侵攻では比較的安全な地域としました。また、氷川紗妃と水無月風子が幼なじみという設定を加え、風子が両親と再会する時に、氷川の所へ線香をあげに行くシーンを追記しました。また里帰りのきっかけを作るために、犬川寧々さんを学園長にしました。原作では触れていない風子の心情などを、勝手に推測して色々書きました。全体として、かなり暗い話です。ごめんなさい。
原作には63人の生徒さんがいますが、男女比2対8の割合で、ゲームには登場しない男子生徒もいるという事から、全学園生徒数を、80人と見積もって話を組み立てました。といっても、ゲームには登場しない男子生徒を名前付きでは登場させてはいませんが…。
なおこの物語はフィクションであり、実在の人物、団体等とは一切関係ありません。

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私はグリモアをはじめて日が浅いので、もしかすると細かな設定等が理解できていない可能性がありますので、原作と異なる可能性がありますがご容赦ください。意図して手を加えた設定は、水無月風子と氷川紗妃が幼なじみである事、二人の故郷を、風飛からは離れた、第八次侵攻ではあまり被害のなかった地域とした事、氷川紗妃の死の詳細、犬川寧々が学長である事、服部梓の死の経緯、東雲アイラの本名の由来、結城聖奈の父の持病です。また、原作では水無月風子の趣味はアナログゲームとしか書いてませんでしたが、私の方で勝手に推測して、もう少し細かく描写させて頂いています。また、水無月風子の心情については、私が憶測で書いているので、皆様の思いとは異なる可能性がありますが、「こういう解釈をしたプレイヤーもいたのか」と、大目に見て頂ければ幸いです。また、第八次侵攻から最後の戦いまでの期間は、リバース水無月風子の絵が、見た感じですと3歳くらい上に見えたので、3年間として書きました。
なお、この物語はフィクションですので、登場する人物、団体等は現実のものとは関係ありません。


東部戦線異常なし

「罪人ですって?そんな言葉は、刑務所にぶち込まれる時までとっておきなさいよ」

不意に氷川紗妃の声が後ろから聞こえたので、私は慌ててノートを手で隠して振り返った。しかし、誰の姿も見えない。部屋の中には私一人がいるだけだ。

 

「氷川はもう死んだはず。気のせいですかねー」

私は誰に聞かせるともなく呟いた。…3年前の事だ。

当時、私はまだ学生で、中高一貫校の高等部で普通に授業を受けていた。現代文の授業では冬樹イヴが先生に、長文の解釈が違うといつものように食ってかかっていた。4時間目の化学の授業では、小腹がすいた氷川紗妃が昼休みを待ちきれず、先生の目を盗んでスコーンを食べてたら先生に見つかり、「氷川さん、あなたは風紀委員でしょう。皆さんの模範にならなくてどうするんですか」と注意されてバツの悪い顔をしていた。あの日もいつもの日常が繰り返されていた。誰もが明日も明後日も同じ生活が続くと信じて疑わなかった。そして数時間後、文明は崩壊した…。

午後の早い時間だった。そいつらが攻めて来たのは。納屋くらいの大きさの魔物が数十頭、人間サイズの大きさの魔物が無数、大挙して突然街に攻め込んで来た。平凡な日常の風景は、一瞬にして阿鼻叫喚の地獄となった。自衛隊が出動した。魔物相手には彼等の使う武器はほとんど役に立たないがーー狼男やフランケンシュタインに機関銃を撃った場合のことを考えてみてくだせえーー職務上何もしないわけにはいかないのだろう。警察も、市民の避難を誘導しつつ、迫り来る魔物達に対して拳銃を撃つなど絶望的な抵抗をしていた。

警察や自衛隊の中にも、通常の武器ではなく、魔物にも有効な魔法を使える者もわずかにはいた。しかし、魔法使いの数は少ない。日本全国の学齢期の児童、生徒のうち魔法が使える者を集めると、一つの学校、つまりウチらが通っている学校に収まってしまう程度の割合しかいない。そこで、私達は、警察や自衛隊のお手伝いをして、魔物の撃退と一般市民の避難誘導を買って出た。

「児童・生徒を戦場に駆り出すなんて、そんなひでえ事はこの世にはねえよ」

私達が参戦するのを見た自衛隊隊員の誰かが、そんな風に言っていたのを私は確かに聞いた…。

ご高説、痛み入りやがります。

魔物は多数、街中のあちこちで暴れていたため、ウチらも分散して個々撃破に当たった。ウチらは普段から授業の一環として人里離れた所に出没する魔物を駆除しており、自衛隊などにいる大人の魔法使いほどではないにしろ、通常武器しか攻撃手段のない大多数の自衛隊員よりは戦力になる。ウチらが加わった事で、戦況は大きく変わり始めた。人間サイズの魔物は、ウチらの大部分にとって敵ではなく、納屋サイズの魔物さえ、1対1でも勝てる生徒はそれなりにいる。戦車や重火器でも歯が立たなかった魔物を次々と倒していくウチらを見て、歓声をあげる自衛隊員もいた。さっきまで、子供を戦場に駆り出すのは云々とのたまっていたのに、ずいぶんと現金でやがりますねー。ウチらが参加する前に、自衛隊や警察、それに一般市民の中にも死傷者が出ていたので、死傷者ゼロとはいかないものの、なんとかなりそうだと思った頃、状況は急速に悪化した。

夕方になろうかという頃合いになって、30階建の超高層ビルサイズの魔物が突然現れたのだ。勘弁してくだせえ。魔法使いでさえ、勝てた事のないあの超高層ビルサイズの魔物の事を、ウチらはムサシ級の魔物とよんで恐れていたが、まだ一般市民の避難は完全には終わっていない。…もっとも、ムサシ相手にどこに避難すれば本当に安全だと言えるのか?

一般市民を町外れの公民館や小中学校の体育館などに分散して避難させ終えるまでの数時間の間、私達はムサシが一般市民の方にいかないようにオトリになりながら逃げ回っていた。もっとも、攻撃も何度かしてみたが、まるで効かない。サイズだけでなく、実力も世評通り桁違いというわけですか。やっかいでやがりますね。

先程までは、ウチらが魔物相手に一方的に虐殺していたが、今や反対にムサシがウチらを一方的に狩っていた。警察や自衛隊のうち、魔法使いではない人達も自らの危険を顧みずオトリ役を買って出てくれたが、それでもどうにか一般人の避難が終わり、撤退の指示が出せた時には、80人以上いたウチら学園生は、半分以下の40人を割り込んでいた。私の仲間内では、冬樹が妹をかばって真っ先に死んだ。冬樹は仲間内ではもっとも勉強ができたが、それは何の役にも立たなかった。神凪も死亡した。氷川は、撤退命令が出た後で逃げ遅れた生徒を迎えに行って負傷し、病院に収容されたと聞いた。そして、暴れ回っていたムサシは、いつの間にか、どこへともなく歩み去って行った。

目の前でクラスメートを失い、半ばぼう然としている生徒達に対して、私は生徒会長として声をかけたが、正直言って何を話したのかはよく覚えていない。みんなのおかげで一般の人は無事避難できたとか、今後とも魔物が来るかもしれないから頑張ろうとか、そんな感じの事を言った気がする。

 

あくる日、私と服部は氷川を見舞いに病院へ行った。病院には魔法使いの医師もいるので、私達は正直言って、あまり心配はしていなかった。病室に入って氷川を見るまでは。

病室のベットに横たわっている氷川の顔色は、今まで見た事もないような色になっていた。白い綺麗な肌だったのだが今や不気味なにぶい黄色になっており、更におそろしい事に、顔にはいくつもの見慣れない筋が浮かんでいた。…昨日の戦いで絶命した自衛隊員や警察官の顔にも、似たような筋は浮かんでいなかったか?

「ごめん。ドジ踏んだ」

氷川は私達の顔を見るなりそう言った。声にも生気がまるで感じられない。服部が氷川に、「お前の足はもう無いぞ」と言いそうだったので、私は服部の脛を蹴って黙らせた。

「椎名は何をやってやがります⁉︎」

椎名と言うのが、この病院にいる知り合いの魔法医師で、彼女の腕なら、氷川がどんな怪我をしていようと、片足を切断せずに治す事は可能だったはずだ。

「運が悪かったのよ。私が運ばれてきた時には、自衛隊や警察官の負傷者でごった返していて、ほら、今もあそこで人工呼吸してるでしょ、椎名先生」

氷川が指差す先には、重体の負傷者に必死に心臓マッサージをしている椎名医師がいた。魔法を使っていないところを見ると、とうに魔力は使い果たしてしまったのだろう。しかし気がつけば私は椎名医師のそばへつかつかと歩みより

「何やってやがるんですか。先生、氷川を助けてやってくだせえ」

と、大声でわめいていた。椎名はこちらに振り向いたが、目が焦点があっておらず、蓄積した疲労のせいだろうか、顔色もかなり悪い。

「ごめんなさい。氷川さんが運びこまれる前に、負傷者100人以上みてて、もう魔力は残ってなかったの。この病院には魔法医師が私を含めて3人いたけど、一般市民や警察、自衛隊の負傷者がとても多くて…」

見れば病室のベットではとても足りなくて、床にシートを敷いて寝かされている負傷者も多数いた。ベットに寝せてもらえるだけ、氷川は優遇されていたのかもしれない。

私は氷川の所に戻った。氷川の顔色ときたら、黄色く、そのうえ鈍く褪めた色になって、とても凄い。顔には、見慣れない筋が何本もあらわれてきている。この筋は既に私達は昨日、何百人もの警察官、自衛隊員、逃げ遅れた一般市民の死に顔を見ているのだから、よく知っている。これは筋というよりは、むしろ死相といった方が正確なのかもしれない。眼なんぞは、既に死に犯されている。私達の目の前に転がっている氷川紗妃こそ、つい昨日先生の目を盗んで授業中スコーンをつまみ食いしたり、風紀委員として校内の取り締まりに歩いていた学友ではないか。…まだ今もそんな事をしている氷川のような気がするが、実はもうそんなどころの氷川じゃない。彼女の姿は、色褪めたもうろうとしたものになってしまった。そういえば声までが、まるで灰のような音がする。

私は氷川が学校に来た時の事を思い出した。魔法使いは魔物に対抗できる事実上唯一の存在なので、学齢期に魔法使いの素質に目覚めた者は、一つの学校に集められて、そこで教育を受ける。日本全国から、親元から引き離されて全寮制の魔法学校に入るわけだ。そんなわけでクラスメートの出身地は日本全国様々だが、私と氷川はたまたま同郷で、私の方が先に魔法使いの素質に目覚め、魔法学校に入っていた。氷川のおっ母さんは、真面目な優等生タイプの子がそのまま大人になったような、知的で厳しい感じの人だったが、氷川を学校まで送ってきて、もう泣き続けに泣いていた。あまりに泣いたので、かえって娘の氷川紗妃の方が恥ずかしがってしまった。このおっ母さんは、もう誰よりも一番おろおろしてしまって、まったく文字どおり自らの流した涙の中に溶け込んでしまいそうだった。それから私を見込んで、何度も何度も腕を掴んでは、どうぞ学校に入ってからも娘の紗妃の事をよろしくお願いしますと頼んだものだ。

「退院したらこっちの事は私達に任せて、しばらく故郷に帰って静養するといいっス」

と言ったのは服部である。実際、その様子では仮に生きてこの病室を出られたとしても、しばらくは戦えないだろう。氷川は頷いた。

私達はそれから少しばかり話しをして、明日もまた来ると言って別れた。氷川はあと1日持たないだろう。服部は急に足をふみならし、力のない、癪にさわってたまらないという顔つきで、まわりを見回しながらどもって「こんちくしょうめ、こいつはクソだクソだ」と言った。

私達はそれからも長い間歩いた。服部はしばらくすると落ち着いた。これは私達もよく知っている戦争気違いというやつで、誰でも一度はかかるものだ。

 

私達は学校に戻るとーー昨日の戦いで半ば瓦礫の山と化していたが、その一角に私達は陣取っていたーー結城が忌々しそうに自身のスマホを叩きつけようとしていた。

「落ち着いてくだせえ。何があったんです?」

「私が魔法使いとして覚醒して、この学校に入る前の友達からメールが来たんだけど」

結城が答えた。「私達は鉄青年だってさ」

私達はいまいましい心持ちで、いちどきに笑った。結城はその元友人をののしった。

だがまったくその通りだ。こういう幾万人もの一般市民が、同じように考えているんだ。鉄青年か。鉄の青春か。私達は一人としてまだ20歳を越していない。だが、鉄といい、青春といい、そんなものは、もうとうの昔になってしまった。私達はもう年寄りになってしまったんだ。

 

もっとも前はこんな風ではなかった。私達が魔法使いの素質に目覚めてグリモア学園の門をくぐった時には、他人より優れた力を手にし、これからそれを振るうのだと得意になっていたものだ。私達はまだ将来に対しなんら決定した計画を持っていなかったし、職業や立身出世に対する考えも、それが生活の形式を備えるには、まだはなはだ非現実的であった。…けれどもその代わりに私達は、極めて不安定な概念を持たされた。その概念は、私達の目に映った生活に、また人類を守るために魔物と戦う事について、一つの理想化された、ほとんどロマンチックな色を塗りつけた。

もちろんこれをもって、学齢期に魔法使いの素質に目覚めた児童・生徒を一つの専門学校に集めて教育するといった仕組みを作った大人達の罪だとは言えない。もしそんな事を罪悪と名付けたら、世の中すべてが罪悪になってしまうかもしれない。世の中には、そういう仕組みを作ったような大人が何人もいて、みんなそれぞれ自分達の都合のいい方法で、もっとも善いことができると信じているのだ。

ところがちょうど私達にとっては、その点について、こういう人間の社会の破産があったわけだ。

そういう人達は、私達10代の若者のために大人の社会への仲介者であり、労働と業務と文化と進歩と未来との世界への案内人になるべきだったのである。私達はこういう人達をよく嘲笑し、時には小さなイタズラもやったものだが、内心では信用していた。けれどもこういう確信も、初めてクラスメートの戦死者を見た時に、粉砕されてしまった。私達は自分達の年齢が、ああいう大人の年齢よりも信頼すべきものである事を、認めざるをえなくなったのである。ああいう連中は私達より、単に空虚な文句をしゃべったり、巧妙にごまかすことが上手だったにすぎない。最初のムサシの強烈な攻撃をくぐると、たちまち私達はいかに誤っているかに気がついた。その猛攻撃の下に、私達の教えてもらった世界観は、見事に崩れてしまったのである。

そういう連中が書いたりしゃべったりしている間に、私達は病室を見、戦死者を見た。人類を守る務めを最高のものだといってる間に、私達は死を恐れる概念の方が、もっと強いものだという事を心得ていた。けれどもだからといって、私達は脱走者にも、臆病者にも、反逆者にもならなかった。…こういう言葉は、大人はいつも手元に置いているものだが…私達は、人類を守りたいという点において、こういう大人と少しも変わりはなかった。私達はいかなる攻撃の場合でも、勇敢に進んで行った…けれども今になっては、私達はもう別の人間になってしまったのである。私達は急に目が見えるようになった。私達の見たものは、ああいう大人の世界からは、何物も残っていないということであった。私達はそう考えると、急に恐ろしいくらい孤独になった…私達は、私達だけで解決しなければならなかった。

 

私は実に不思議な気持ちになるんですが、考えてみると、私の実家の私の部屋には、作りかけのゲームとネットから収集してプリントアウトしたそのゲームの概要が机の引き出しに入っている。数年前、課外学習で立ち寄った博物館、そこに1000年くらい前の中近東で流行ったとかいうすごろくとボードゲームを合わせたようなゲーム盤が展示されていて、私はそれに魅了された。夏休みなどの長期休業で実家に帰るたびに、それを自分の手で再現して、完成した暁には学校へ持ち込んで氷川や冬樹とこれで遊ぼうと考えていたものだ。女の子らしくない趣味ですって?ほっといてくだせえ。ところで私達は、ほとんど皆、同じような事をしていた。けれども今から考えると、今の私は、はっきりそのボードゲームを想像する事もできないくらいになっている。あの魔物の大侵攻ーエライ人が、あれを第八次大規模侵攻と命名したらしいーが来て以来、昔の生活とはまるでぶち切られてしまっている。私達がぶち切ろうとしたのでもなんでもないのだ。私達は何度も昔の生活を一目見渡してみようとし、またそれに対する説明を得ようとしたが、どうもうまくいかない。特に私達のような、20歳前の若者にとっては、あらゆるものがぼんやりしている。服部にしても、結城にしても、氷川にしても、あるいは私自身にしても、結城の旧友が鉄青年と名付けた私達は、みんなそうなのである。私達よりもっと年取った連中は、魔物が襲撃する前の生活と固く結びついているのだ。こういう人達は、それだけの基礎を持っている。配偶者がいる、子供がいる、職業がある、いろいろな利害がある。こういうものがなかなか強くて、魔物の大規模な襲撃くらいでは破壊されやしないのである。けれども私達10代の若者にとっては、持っているのは自分の両親くらいで、中にはまぁ愛している恋人がいる者もいる。けれどもこれは決してたいしたものではない。私達くらいの歳になると、両親の力はもっとも微弱である。また恋人といったところで、これに全身を奪われるところまではきていない。そこでこういうもの以外は、私達にとっては別にたいしたものはないのである。多少の空想と、少しばかりの趣味と、それから学校である。私達の生活は、それ以上はまだ何も発展していなかった。しかも今はそのうちから何も残っていなかった。

私達はちょうど人生の敷居のところに立っていた、というべきところだったかもしれない。まったくそんな風に思われる。私達はまだ生活の中に根をおろしていなかった。そこへ魔物の大侵攻がやって来て、私達を一掃してしまったのである。ほかのもっと年取った連中にとっては、魔物の大規模な襲撃は生活の一つの中断を意味していて、したがって魔物の大侵攻を越えて、その先の生活について考える事ができるのである。ところが私達にしてみると、いわば魔物の大侵攻という病にかかってしまっているので、今回の襲撃がどういう最後を迎えるものやら、まるでわからない。さしあたりわかっている事といえば、私達がある特殊な憂鬱な手段によって、荒涼たる人間になってしまっている事だけだ。

もっとも私達はそんな事を、これ以上別に悲観さえしなくなっていた。

 

私は氷川のベットのそばに腰をかけた。昨日と比べても、かなり氷川は衰弱していた。呼吸する息も随分浅い。昨日は黄色かった氷川の肌の色は、今日はところどころ、不気味などす黒い色に変化してまだらになっている。おそらく、あと数時間もしないうちに死んでしまうのだろう。服部は、一般市民が避難している体育館などに魔物が来てないか見に行くと言って来なかった。実際、今日はムサシは他のところを闊歩しているのか姿を見ないが、等身大クラスの魔物は時々徘徊しており、私達は発見次第、各個撃破している。避難所が襲われる事もありうる話ではあるが、実際にそんなところに魔物の襲撃があったら、各避難所に詰めている自衛官か警察官から連絡が入ることになっている。服部が見回りに行ったのは、氷川の今際の際を見たくなかったからだろう…私だって見たくはない。

「私は小学校の先生になりたかったんだけどなぁ」

氷川が一瞬、意識を取り戻してそう呟いた。

「なれるさ。氷川はきっと、いい先生になって、子供達から慕われると思いますよ」

「片足、無くしちゃったしね」

どうやら、足が切断されてしまった事は、氷川も気づいているようだ。

「それでもこうして助かったんだから、喜んでいいと思いますよ」

氷川は答えなかった。私はさらに続けて

「両足ともでなくて良かったではないですか。これで氷川も故郷に帰れますよ。氷川の頭なら、大学の教育学部くらい…」

聞いたところによると、この2日間で、街の人口の9割が死亡又は重傷で各病院に収容されているらしい。病室どころか通路にさえ、重傷者が寝かされ、看護師や医師が慌ただしく走り回っている。氷川が意識も途切れ途切れの状態であっても、構うどころでは無いという風である。聞いた所によると、昨日椎名魔法医師はあの後、担ぎこまれて来た重傷患者10000人を診るという離れ技をやってのけ、診察の途中で突然意識を失い、そのまま帰らぬ人となったらしい。放送局か政府の中枢、あるいは双方に大きな損害が出たのか公式の発表はまだ無いが、ネットで集めた情報や自衛官から聞いた噂を総合すると、どうやら日本では1都3県がほぼ壊滅。他の地域の損害は今のところ比較的なしのようだ。海外でも、昨日今日と主要都市が襲撃され、ほぼ壊滅に追い込まれたところもあるらしい。

氷川は私の顔をじっと見て、

「本当にそう思う?」

「当たり前じゃねーですか」

氷川はまた同じ事を言った。

「大丈夫ですよ。でもまずは手術後の回復をする必要があると思いますよ」

氷川は私に、もっとそばに来いというように手ぶりでよんでから、私がその方へ身をかがませると、小声でこう言った。

「私はそうは思えません」

「氷川紗妃、バカな事を言っちゃいかんよ。片足切ったくらいなんだと言うんですか。ここじゃもっとひどいやつを、絆創膏貼って治してるじゃねーですか」

氷川は片手を高く上げた。

「見てよ、この手の色。まるで死人のように真っ黒じゃない」

「それは手術のせいじゃないですか。まぁなんと言ったって、うんと食う事だと思いますよ。そうすればじきに回復するに違いねーですよ。そういえば、ここの食事はいいんですか?」

氷川はそこにある皿を指差して見せたが、その中は半分食い残してあった。

「氷川、食わなきゃ治るものも治らないですよ。病院食はマズイと噂を聞きますが、見た限り美味しそうではねーですか」

氷川はそれを打ち消したが、しばらく黙っていて、今度は静かにこう言った。

「私は先生になって、小さな子たちが正しい方向へ生きる手助けをしたかったんだけどね。私は幼少期には、いろんな人にお世話になったから、今度は私が助ける番だと…」

「そんなものは、これからだってなれるじゃねーですか」と私は言った「なんでもこの頃は、とても素敵な義手や義足があって、それを使ってると自分の手なり足なりがないことがまるで気がつかないそうですよ。そういうのは体の肉にすぐくっついているんで、義手になると、指が動いて字もかけるし、義足と来た日には、子供たちと走り回ってもなんの不自由も感じないそうですよ。そうこうしているうちに、後から後から、もっといろんなものが発明されると思いますよ」

氷川はしばらく黙ったまま横になっていた。私は、さらに何か元気づけることが言えないかと考えてみた。氷川の唇は消えて無くなってしまったかのように色があせて、口が大きくなり、歯は前の方へ突き出してきて、まるでチョークでできているようになってしまった。肉はだらりとして、額はまるで大きく抜け上がって、頬の骨は前に突き出てきた。骸骨がだんだんあらわれてきているのである。眼はもうくぼんでしまった。もう1,2時間もしないうちに死んでしまうかもしれない。

私がこういう姿を見たのは、氷川が初めてではない。けれども私と氷川は一緒に大きくなってきた間柄だ。もっとも二人は多少違っている。私は氷川の色んな作文を写したこともある。魔法学園に来た時は、私の方が先に素質に目覚めて先に入学していたので、氷川が早く馴染むようにと、自分が当時委員長を務めていた風紀委員会に誘った。氷川は生真面目な一面もあり、委員会活動を通して早々に馴染んでいったが、一方で融通のきかない面もあったため、私がフォローして氷川が孤立しないようにした事もある。私が半年前、生徒会長に指名された後も、氷川とは長い時間を共にした。他の生徒会役員から、「水無月さん、あなたは既に風紀委員ではなく、生徒会の人間なのですよ」とチクリと言われた事もあったが、まぁだいたいそんな感じの間柄だ。

その氷川が今ここで寝ているのである。結局なんのために寝ているのだろう。この全世界の人をこのベットの側に連れてきて、これは氷川紗妃という一人の人間です。17歳と8カ月です。彼女は死にたくないと言っているのです、どうぞ殺さないでください、と言ってみたらどうであろう。

私の頭の中は、めちゃくちゃになってしまった。氷川の顔色は、見る間にどんどん青ざめていっていた。看護師たちは瓶とバケツを持って、あたりを歩き回っていたが、そのうち一人がこっちへやってきて、氷川を探るような目つきで見たが、やがてまた行ってしまった。その様子は、氷川の容態の急変に対して、助けてやろうとか、医師を呼んでなんとかしようというわけではなく、何かを待っていることがあきらかであった。おそらく、氷川が寝ている寝台が必要なのだろう。

私は氷川の体を抱き寄せて、元気づけるつもりでこう言った。

「氷川、あなたはどうやら故郷の、あの別荘のある療養所へ移されるようですよ。あそこの窓からの眺めは最高だと聞いてます。今は穀物がちょうど実る季節だから、黄金の絨毯を見下ろすような幻想的な眺めですよ。それから、あそこの療養所の出す魚料理は最高だと聞いています」

氷川が魚が嫌いなのは周知の事実で、私も冷静な状況ではこんなところで魚なんて単語は出しやしません。よっぽど当時の私は、正常な判断ができなかったのでしょうかね。仕方ねーですよ。人類のために戦ったあげく満足な治療も受けさせてもらえず、あげくの果てに「負傷者一杯だから、とっとと死んでベットを明け渡してください」と言わんばかりの対応を取られて、冷静な人がいたら、お目にかかりてーです。

私は氷川の顔の上に身をかがめた。その顔は濡れていた。泣いていたんだ。私がつまらない事を言ったので、とんだ気持ちにさせてしまったんだ。

そうこうしているうちに一時間ばかりがたった。私は緊張して、氷川の顔をじっと見つめていた…もしかすると、まだ言いたい事があるのではないかと思ったからである。あるいは口を開いて、何か大声で怒鳴ってみたかったかもしれない。けれども氷川は、頭を横に向けて、涙を流しているばかりであった。おっ母さんの事も兄さんの事も、妹の事も何もしゃべらなくなった。もう何も考えることができなくなっているのだろう…氷川はただ一人で、うら若い17年の生涯を抱いて、その短い一生に見捨てられようとして泣いているのである。

この時こそ、私が今までに経験した事のない、まったく途方にくれた、もっとも苦しい別れであった。

急に氷川はうめいて、喉をゴロゴロ鳴らし始めた。

私は飛び上がって、部屋の外へ転がり出て

「どこかに医師はいませんか、医師はいませんか」

と叫んでいた。その時ちょうど、白衣を着た一人の医師が通りかかったので、しっかりつかまえて

「すぐ来てくだせえ。氷川紗妃が死にそうです」

医師は驚いたことに私の手を振り払って、近くにいた看護師に「一体何事かね」と尋ねた。看護師は「第536号寝台。上腿切断です」と答えたものである。

すると医師は鼻の先であしらって「そんな者だれがかまってやれるか。ワシは今日は足だけでも5本は切っとるぞ」と、私を押しのけて、看護師に向かって「君、みてやれ」と言い捨てると、自身は手術室へと入って行った。

私は憤慨のあまり身をふるわせ、この看護師と一緒に歩きだした。看護師は私の顔をみてこう言った。

「朝の5時から、片っ端から手術しどおしだ。たまったもんじゃねえよ。今日だけで死亡355人だ。あなたのところで356人目だ。500人にはまだなるだろう…」

私は気が遠くなるような心持ちがした。急にこれ以上責めることができなくなった。私はこれ以上怒って文句を言いたくなくなった。そんな事をしたって無意味である。私はいっそこのまま気が遠くなって、二度と再び起き上がりたくなかった。

私達は氷川の寝台のところに来た。氷川はもう死んでいた。その顔は涙に濡れている。

看護師が私の脇をつついた。

「彼女の荷物、君が持って行くかね?」

私はうなづいた。

すると看護師は言葉を続けて、

「この死体はすぐに運び出してしまうからね。この寝台がいるんだ。外は廊下まで一杯転がっているからね」

私が氷川の荷物をまとめて外へ出ると、もう背後では氷川の体は担架の上に引きずり出されていた。

病院を出ると、私は救われたように、外の夕闇と風とを感じた。

 

私達は、活動の拠点をグリモア学園の廃墟から、この地域に来ていた自衛隊の駐屯地に変えた。結局のところ、魔物は今でも街中を徘徊していたが、一般市民が避難しているあちこちの体育館や公民館などの近くに魔物が来た場合、そこに詰めている自衛官から連絡が入ることが多い。それならば、瓦礫と化した校舎跡で連絡を待つよりは、すぐ側にいて情報をつかめた方がいいとの判断からです。それに、自衛隊から食糧ももらえるし…やはり、食べる物と飲み水は大事。ムサシは気まぐれで、魔物と一緒に出没する事もあれば、他所の地域を徘徊しているのか、出てこない事もある。未だに日本政府からの公式の被害発表はないが、自衛官や警察から聞いた話を総合すると、第8次侵攻の直前には50万人以上が暮らしていた街であったが、今や各避難所にいる人は全部合わせてもせいぜい多くて1000人。残りは死亡したか、この前まで氷川が入院していたような劣悪な環境で、病院の床などに転がされ…おっともとい、入院してるかだそうです。負傷者も多いのに、他地域から薬などの物資もなかなか入らず、回復に難儀をしている方が多いそうです。はっきり言って衛生環境も…お世辞にも良かったとは…。国内の他地域では、ここよりマシなところが多いようですが、被害の少ない地域からの物資の流入が、なかなかはかどっていないようです。第八次侵攻の目的は日本の首都圏だったのではなどといったウワサ話も自衛官から聞きました。

「いいですか。アンタさん方は、ムサシにさえ気を付けてれば命は失わねーんです。ムサシは遠くから大きな地響きのする足音とともにのっしのっしとゆっくり迫ってきます。過去に空を飛んできたり、急に目の前にテレポートしてきたという例はねーんです。魔物と戦ってる際には、常に周囲に気を配ってくだせえよ。今まで、目の前の魔物に気をとられて、ムサシの接近に気付くのが遅れ、何人もの学友や先輩方が亡くなっているんです」

駐屯地のちょっとした空き地に、主に経験の薄い下級生を集めて私は、これ以上犠牲を出さないようにとガラにもなく教育していた。あーあ、こんな時氷川がいたらな…彼女なら上手に教えられただろうに…

「ムサシが目の前に来てしまっても、絶対に慌ててはダメです。助かりたければ冷静でいる事。これをまず肝に命じてくだせえ」

ムサシがその何十メートルもあるような腕を振り回して打ち掛かってくるときは、予備動作が大きく、やや大げさに振りかぶって腕を振り回すので、よく見てれば回避できること。炎の魔法は、まず空中に大きな火の玉が現れ、それがゆっくり降りてくるので、これも冷静さを失ってさえいなければ、かわすことが可能である事を教えた。

「魔物は知能がないと言われていますが、このムサシのこれまでの攻撃の印象では、ムダに派手好きで、悪く言えば私らをなぶってる感もあり、癪ではありますが、わざとらしくムダな動きが多い分、冷静でさえいれば助かる確率はぐんと上がります。くれぐれも肝に命じてくだせえ」

また、ムサシに気をとられている間に背後に別の魔物が現れ、そっちにやられる事もあるので要注意と付け加えた。

「普段は簡単に対処できる雑魚でも、ムサシに気をとられている隙に一撃を食らうと致命傷になりえます。アンタさん方の肉体は、普通の人間と同じです。魔法が使えるからと言って不死身ではありません。冗談みたいに弱い魔物に不覚を取って、致命傷を負わされた先輩は過去に大勢います」

それから今度は、ちょうど蚊が耳元でヴーンというような、かすかな物音によく気を付けるように教えた。

「見た目が派手な攻撃を好むムサシですが、目に見えない不可視の刃を投げてくることがあります。この蚊の鳴くようなかすかな音が聞こえたら、何も考えずに前方宙返りをしてくだせえ。後方でもいいです。ともかく、その場から1メートル以上、すぐに動いてくだせえ。今まで犠牲になった先輩方のデバイスを分析した宍戸博士の解析によれば、ムサシの攻撃の中に、攻撃範囲がせいぜい1メートルくらいでありながら、ほぼ防御は不可能なくらい強力な魔法の不可視の刃があるようです。これは前触れがほとんどなく、強いて言うならその蚊の鳴くような音だけです。周りが戦闘中で轟音が鳴り響く中、こんなかすかな音に気を配るのは難しいですが、できなければ死にます。神凪と南と氷川が、この刃をバリアを張って防ごうとして貫かれた可能性があるので、皆さんは防ぐ事よりも、かわす事を考えてくだせえ」

気がつけば、学園の生徒だけでなく、自衛官や警察官も聞き入っていた。いや、恥ずかしいので勘弁してくだせえ。

 

あちこちの体育館や公民館などに分散して避難している人達を一箇所に集めよう、という話が持ち上がった。食糧などを届けるにしても魔物を追っ払うにしても、何十箇所にも分散していたのでは具合が悪い。自衛官の数は亡くなった方の分だけ、被害の少なかった地域から回されてきていたが、対魔物戦の戦力となる魔法が使える大人の自衛官の増員はなかった。関東一円が被害にあっており、魔法使いは稀少かつ引っ張り凧なのだから仕方ない。一般市民を一箇所に集めると、ムサシが来た時に一網打尽にされるのではという反対意見も出たが、物資の配給の効率…人間は、日に3度食事をするし、水も飲む…の方が上回った。ムサシが来たら、みんなで決死のオトリ作戦を展開して、なんとかムサシの注意を他の場所にそらそうという、実効性に疑問符のつく対策のようなものが提示されている。確かにいままでのムサシは気まぐれな行動も目立ち、まただからこそ私達はまだ全滅していないのですが…それがいつまでも続く、と考えるのは危ない橋を渡るようなものに思える。

避難先としては、『未来の人口過密な土地不足社会の中にあっても、沢山の人がゆとりを持って暮らせる垂直都市を作る』をコンセプトに造られたゲネシスタワーという高層ビルが候補に上がった。垂直都市という大層な謳い文句がついているが、要は高層マンションと業務・商業施設の複合施設が一つの高層ビルに収まっているというアレだ。ゲネシスタワーなら、500人程度なら優に生活できる。その上で、下の階層には自衛官や警察官が詰めるだけのスペースもある。まさにうってつけだった。また、未来型の都市という呼び声の通り、そのタワーには自家発電装置と、電気を用いた農業施設もビルの中にはあった。要は電気の光を太陽光に見立てて、屋内で植物を栽培するというアレだ。500人分の食い扶持を賄えるだけの収穫があるかは未知数だが、今後の物資補給の状況次第では、ある程度自力で食糧を調達できる設備があるのは魅力的だった…。

「風飛市とその周辺の50万人超が住んでいた街が、いまやたったの500人ですか…」

私はひとりごちた。いっそのこと水上都市でも作ってそこに避難すれば…ムサシが泳いだという話は聞かない…だが、今存在しないものをあてにしても仕方がない。

怪我が軽く、比較的自由に動ける人達を一箇所に集めれば、各病院へ食糧と医療物資を届けるだけで済む。今は良い面を考えよう…

私達が各避難所へ自衛官達と共に迎えに発つ時、魔物達がそれに合わせて襲撃してくるのではないかという噂が、誰の口からともなく広がった。タチの悪い冗談ですが、完全には否定できねーのが辛いところです…

道中、これまでの魔物の襲撃で破壊され尽くした小学校のそばを通った時、その校庭には、まだ新しい、キラキラするほどの白木の新棺が、綺麗に積み重ねてあった。その棺は、まだ樹脂と松の匂いがする。少なくとも数にして、200はあろうかと思われた。

「なるほど、魔物の襲撃があるというので、ちゃんともう支度ができてるわ」

とたまげて言ったのは守谷である。

「こいつは、私らの分っスね」

と呟いたのは服部だ。

「つまらない事を言わねぇでくだせえ」

「お主のような忍者の格好の奴には、あんな棺は回ってこずに防水シートが待っているのがオチじゃ。だから死ぬでないぞ」

言ったのは東雲である。

また他の連中もいろんな冗談を言い合ったが、いずれも気味の悪い冗談であった。そんな事でもいう他仕方がなかった…その棺は、本当に私達(と、自衛官と警察官)のために用意されていた。そういうことにかけると、なかなか手抜かりがない…。

20箇所あった避難所のうち、19箇所目までは魔物の出現もなく無事にゲネシスタワーに送り届ける事ができた。20箇所目、最後の避難所から一般市民をゲネシスタワーへ誘導中に、あの恐ろしい地響きが遠くから聞こえて来た。

「こわいですぅ」

言ったのは仲月さらだ。見ると仲月さらをはじめ、年齢の低い下級生は明らかに動揺し、青ざめた顔色をしている者もいる。

「さっき教えた事を思い出してくだせえ。誰も死なせやしません」

私は一喝した。年少組の動揺は幾分かはおさまった。

だが、暴走してしまった人もいた…

「俺は氷川や南とは違う。俺はあの生天目の攻撃さえバリアで弾き返した男だ。不可視の刃なんぞ防ぎきってやる」

大見栄きって言ったのは、上級生の中でも実力派の男子であった。確かに彼は言葉通りの実力はあるのだが…

例の蚊の鳴くような音がした時、私達は一斉に前方へ、あるいは後ろ、横等に飛び跳ねたが、彼はそんな様子を見てあざ笑った。しかし、私が次に起き上がって目を上げると、彼の体は上半身と下半身が綺麗に分かれて血まみれで転がっていた。ほぼ即死だった。彼は確かに生天目の攻撃を防いだ事はあったが、生天目の攻撃とムサシの攻撃では、桁が違いすぎる…

あるいは彼は、彼なりの方法で仲月などの年少組を勇気づけようとしたのかもしれない。しかし、この場合明らかに逆効果だった…

「ふえぇ…もう、嫌ですぅ」

仲月が私に抱きついてきて、顔をうずめて泣いている。その細い肩は震えていた。

そりゃあこうなる…目の前で上級生が殺されてその死体を目の当たりにして平静を保てというのは無理な相談。しかし、ムサシを目の前にしてこれは全滅を意味した。ムサシの攻撃がいかに大振りで無駄な動きが多いとはいえ、この状態ではとてもかわせまい…

「守谷!策略でなんとか切り抜けられませんか」

我ながら凄い無茶ぶりである。

「簡単に言わないでよ!」

守谷は、同じく錯乱してわけのわからない言葉をしきりに口にしている風槍ミナを、なんとかなだめようとしながら言った。隣では南条恋が、ほがらかに笑いながら童謡を口ずさみ始めている。

「会長、自分がオトリになってあのムサシを他へ誘導しますっス」

服部が申し出た。

「この状況では全滅です。会長も仲月さんに抱きつかれたままでは、回避もできないでしょう。なぁに、逃げ足には自信があります。会長達は皆さんをよろしくお願いしまスね」

服部は走り出すと、派手な攻撃魔法をムサシにあて、「こっちだ。化け物!」と言いながらゲネシスタワーとは逆方向へ走り出した。はたして、何度かの挑発で、ムサシの注意は服部の方へ向いた。東雲が「オトリなら妾が」と言いかけたが、「肝心なところでギックリ腰になられたら一大事っス」と一蹴された。

そのうちようやくあたりが静かになった。私は、私の胸に顔をうずめて泣いている仲月に声をかけた。

「もう終わりましたよ。」

仲月は気がついて、あたりを見回した。だんだん我に返ってきたらしい。急に真っ赤になって、いかにも狼狽したような様子を見せた。それからそろそろと手を尻の方へまわして、私の方を困ったように眺めた。私はすぐに分かった。これも戦争病というやつだ。私は仲月をなぐさめるつもりでこう言った。

「気にしねーでくだせえ。アンタさんよりずっと年上の魔法使いでも、目の前で先輩魔術師が死体になったのをみて、びっしょり失禁した人は大勢います。戻ったら着替えればいいだけの話です」

仲月はちょこちょこ駆けて行ってしまった。向こうでは風槍ミナと南条恋が「恋、なんか足のあたりが濡れているぞ」「奇遇じゃのう。わっちもじゃ」などと言い合っている声が聞こえたが、聞かなかった事にする。

 

私達がゲネシスタワーへたどり着いた時はもう夕刻だった。服部はまだ帰ってきていないが、学園生の数を数えてみる…18、19、20…何度数えても20人しかいない…

「たったの20人、服部入れても21人ですか…」

口に出すとなんだか一気にみじめになった。それと自衛官と警察官合わせて300人(うち大人の魔法使い3人)、一般市民350人。それが、ついこの間まで、50万人超の人で賑わっていた風飛市とその周辺一帯のすべてだった…

タワーの周りにはついこの間まで都市だった広大な廃墟が広がっている。

東雲は、ギックリ腰と言われたのがよほどショックだったのか「偏見じゃ。妾は、なうなやんぐのギャルなんじゃぞ…ギックリ腰になんぞなった事はないわ」といつまでもブツブツ言っていた。

ふと、背後の物陰に何かの気配を感じた。のぞいて見ると、服部が血まみれで倒れていた!特に下半身がひどい血だ。この血の量では両足がほとんどちぎれかかっているのではないか…?

「へへへ。面目無い…やられちまったっス。轟音で例の蚊の鳴くような音、聞こえなかったっス」

「しっかり。すぐに医師を呼びます」

服部は医者を呼びに行こうという私を手ぶりで制した。

「聞きましたよ。氷川先輩の最後。衛生環境の悪いところに寝かされて、ロクな治療も受けられず、死の間際にとっとと死んでベットを明け渡してと言わんばかりの対応をされるのって、どんな気分なんでしょうね。そんな最後はゴメンです。会長、いっそこの場で殺してください。この怪我ではどうせもう助からないっス」

ちなみに私は、会長の権限で、グリモアの公式の記録には氷川の死は病院での死亡ではなくて、逃げ遅れた生徒を迎えに行ってそこで死んだとしている。ねつ造じゃねーか、ですって?ロクな治療が受けられず、とっとと死んでベットを明け渡せみたいな対応をされて失意の中、死んだと記録しておけってんですか。勘弁してくだせー。そいつぁゴメンです。

私はためらいながらも、自衛官から貸し与えられていた拳銃にのろのろと手を伸ばした。さすがに魔法でトドメをさすというのは、どうしてもできなかった。

しかし、騒ぎを聞きつけて、人が来たため、服部は担架に乗せられて病院へ搬送される事になった。

「あんな若い奴をなあ」

担架に乗せられて運ばれていく服部をみて、自衛官達がそんな事を言っていた。

「あんな若い、かわいい奴をなあ」

 

服部は、搬送先の病院で死亡が確認された。あの出血量では無理も無い。ここまで来れただけでも奇跡のような大怪我だった。それにそもそも今の病院の状況では、輸血する血の在庫もあったのかどうか…それにしてもムサシは、不可視の刃を放った後、服部のトドメを刺そうと思えばできただろうにどうして放っておいたのか…まぁどうでもいい事ですがねー。

犬川学園長が、学園生全員を一堂に集めた。

「えっとね、みんな今から4週間の休暇を取るの。学園長命令」

一瞬意味がよく分からず、みんなしてキョトンとした。

「自衛隊の楠木二佐の好意で、みんな最後に親や故郷の友達と会って来なさいって」

犬川学園長が付け加えた。楠木二佐とは、3人いる自衛官の魔法使いの一人で、その中では一番階級が上である。40歳くらいの、幾多の戦線を乗り越えてきたベテランだ。ちなみに数少ない男性の魔法使いでもある。楠木ありすと苗字は同じだが、父親というわけではない。もっとも、遠縁の親戚と聞いた事がある。学園長の話を要約すると、こういう事だ。一般市民を一箇所に集められたので、しばらくの間なら、自衛官だけでもおそらくしばらくは持ち堪えられる。いくら魔法使いが魔物と戦う事が運命づけられているとはいえ、年端もいかない10代の若者が、最後に親にも会えずに死んでいくのは不憫でならない。もっと早くにこういう機会を設けられれば良かったのだが、住民があちこちに分散したままではどうにもならなかった。いままでの魔物の襲撃状況から、守るのがゲネシスタワーだけなら4週間程度ならなんとか自衛官と警察だけでうまくムサシの注意を他に誘導しながら守り切る事は可能だし、グリモアの学園生は日本全国から集められたと聞いたが4週間あれば往復の時間を割り引いても最後の時を過ごす時間はあるだろう、という事だった。

ちなみに新幹線は、小田原、高崎、宇都宮から先は走っているとの事。他の交通網も、そのあたりから先はなんとか機能している。…こう聞くと改めて、今回の魔物の侵攻は、こと日本に関する限り、首都機能を狙って来たようにも思える。比較的被害の少ない地域の中には、「魔物は腐敗した日本の政治を正すために来た」などと主張する変な集団も台頭しているようなので、故郷へ帰郷する際は要注意との話も聞いた。それにしても、私もそんなに長い時間生きてきたわけではねーですが、まさか医者や看護師よりも軍人さんから「より人間らしい扱い」を受ける日が来ようとは予想してませんでした。あ、自衛隊は軍隊じゃない?細けー事はいーです。

 

私達の中には、3人ほど、今回の魔物の襲撃で故郷もやられてしまった者もいたが、彼等にとっても機会があるのであればネットなどの伝聞ではなく、直接この目で見てみたいのが人情というもの。そういうわけで、全員が、今回の休暇をありがたく頂戴した。肉親が亡くなった可能性の高い学友には気がひけたが、私は、一刻も早く故郷に帰りたいという思いが、嵐のようにおこって、居ても立っても居られなくなった。

電車が動いているところまでは、自力で無人と化したかつての大都市の跡を横断する事も必要ならできたが、ありがたい事に犬川学園長が大型バスをどこからともなく調達してきたので、それに乗っけてもらった。

乗り込んだ電車は、いやにゆっくりに感じた。いつも通りのスピードのはずだが、それだけ気がせいていたのだろう。

やがて故郷の駅に降り立った。家が近づいてくると、幼い頃遊んだ懐かしい景色がどんどん見えてきた。私は9歳の時に魔法使いに覚醒して、グリモア学園に「転校」したので、この辺りは、小学校の低学年の頃まで遊んでいたことになる。小学校の低学年といえば、まだ男女で腕力の差はほとんど無かったから、下校後は男子とも遊んだものです。今の私のしゃべり方が「おねげーします」等、幾分男の子っぽいのは、当時の名残りです。また、ここで遊んでいたころの私は、父が警察官だった事もあり、正義感の強い方でした。そういえば、よく氷川が男の子から持ち物を隠されるなどちょっかいかけられて困っていたので、私が氷川を助けてよく「加藤君。犯人はアンタさんですね」などとイジメっ子をとっちめていたものです。当時身についた話し方や、問い詰め方が、グリモアで風紀委員をやった時にも大いに役にたちましたね。今にして思えば、当時氷川をよくイジメていた彼、本当は氷川の事が好きでちょっかいをかけてたんですかねー。私がグリモア へ「転校」する時は、氷川が「行かないで」と泣きながら私に言ってきたものです。当時は私は、ガラにもなく、氷川に向かって別れ際に「これからは自分でイジメっ子に立ち向かいなさい」などと言ったものです。いよいよ私がグリモアへ転校する、というその日にね。まさか後で氷川も魔法使いに覚醒してグリモア にくるとは、当時は夢にも思いませんでしたね。氷川が魔法使いとして覚醒したのは13歳の時でしたかね。

そして、ついに私は実家の玄関を開けて入った。最初に私を見つけたのは姉だった。

「ああ、風子」と姉は叫んだ。「風子…」

私はうなづいた。

「おっ母さん、おっ母さん。風子が帰ってきましたよ」

私はもう、一歩も動けなくなった。ああ、おっ母さん、風子が帰ってきました。

私は壁によりかかかった。家の中に入ろうとするのだが、体が言うことをきかない。さっき姉の叫んだあの言葉で、私の中で何かが崩れた。私は無理に笑おうとした。物を言おうとした。けれどもたった一言も出てこない。私は惨めな姿、ぶるぶる震えながら立ちつくした。泣きたくはない。だけど涙はとめどなく流れた。

「早く入っておいで」

姉が戻ってきて言った。そこでようやっと私は全力をふるいおこして

「姉ちゃんタオル貸して」

と言った。

姉からタオルを受け取ると、私はそれで顔をふいた。母も出てきた。

「お前、負傷でもしたのかい?」

私は、母の目が、私の体を探るような気配を感じた。

「負傷じゃありません。休暇をもらいました」

私は母と姉に半ば抱きかかえられるようにして、家の中に入っていった。

「風子や」

と母は小声で言った。

私達は家族として、お互いに愛情を示す方法に関しては、ごくさっぱりしていた。これは特に金持ちでも高貴な身分の者でもない、生活のためには大いに働かねばならず、また心配事も多い一般庶民の家ではありがちのことで、私達は、そんな方法を知ってもいないし、また自分達で既に分かっている愛情を、わざとらしく表に出して何度も言ったり、見せたりする事はないのである。だからもし母が私に向かって「風子や」と言えば、それは他の誰かが言ったよりは、もっと多くの意味が込められている。

その時、私は姉が出してくれたビスケットに気がついた。まるで避難所の非常食のクラッカーのような物だった…あれ?もしかして…?不意に頭にある考えが思い当たった。私はグリモアにいた時には、補給物資が無いなどと言いながら、普通の食事ができていた事を思い出した。補給物資を送り出す側の地域では、どんな事が起きているのか、ちょっと考えれば分かりそうなものだ。こんな事なら、休暇をもらって来るついでに、向こうから何か食べ物を持ってきて、家族に振る舞えばよかった。私は、もうそんな事にも気が回らない人間になっていたのか…。手持ちのデバイスで、ほんの数秒、検索する気にさえなっていれば、「比較的無事な地域」の食料事情や生活物資の様子などは分かったはずだ…なんだか、私は急に自分が、生きる価値の無い最低な人間に成り下がったような気がしてきた。

「もしかして、食料品とか、お店にあまり並ばなかったりする?」

聞いてみた。

「非常時だからね。お前さんたちの方はどうだい?空腹を抱えて魔物と戦っているのかい?」

逆に心配されてしまった。

「私の方は、第八次侵攻の前と同じ物を食べれてます」

母は続けて、どもるように聞いてきた。

「どうだい。辛かったかい、あっちは」

おっ母さん、そんな事を聞いて、私はなんと答えたらいーんです。お話しても、余計な心配をかけるだけです。またお分かりになっていただく事もいりません。辛かったかい、とお聞きになりましたね…おっ母さん…

私は頭をふって答えた。

「学園のみんなと一緒ですし、学園生活の延長みたいなものです。辛いなんて、ありゃしませんよ」

「でもこの間、裏の加藤さんが来てね、こう言ってたよ。風飛の方は、この頃とても怖い事になったって。ムサシとか、もっと何かというもので」

こう言ったのは、母だ。私の母だ。この母は、「ムサシとか、もっと何かというもので」と言う。母は自分の言ってる事が、なんのことだか知ってはいない。ただ私の体を心配しているだけです。私は一秒前までムサシを挑発していたクラスメートが、一瞬で体を真っ二つにされて血まみれの中で絶命したのを見た事もある。直前まで、普通に会話して、冗談を言っていた友達が、次の瞬間には物言わぬ死体と成り果てるわけだ…。私はその話を母にした方がいいのだろうか。瓦礫の側でも路上でも、戦車の陰にいてさえ、どこにいてもその場所に立ったまま、あるいは横たわったまま、青い顔をして死ぬ事を…

「まぁおっ母さん、ずいぶんいろんな事を言いますからねー」私は答えた。「加藤の話もいい加減ですよ。論より証拠は、私がこうして怪我一つなく無事に帰って来てるじゃねーですか」

水無月風子は取り繕う、などという向きもあるようですが、ほっといてくだせー。

しかしこの時、もし母か姉が、「一緒にグリモアへ行った、氷川さんの娘さんはどうしているんだい」と聞いて来たら、果たして私は、なんて答えたんでしょうかねー。何を口走ったか、自分でもわかりませんね。しかし、「仲の良かった近所の氷川さんは、どうしているんだい?」という、いかにもされそうな質問は、なぜか母の口からも、姉の口からも出る事はなかった。

この日の夕食は、避難所の非常食を少し立派にした程度の、私にとっては生まれてこの方、一番質素な食事でしたが、同時に一番美味しいと感じた食事でもありました。何しろ、襲撃や死の危険を感じる事もなく、食事の最中に自衛官や一般の人が青い顔をしながら「食事中すみませんが…」とムサシの襲来と迎撃の要請に来る事もなく、安全な中で家族と一緒に食事を取る、こんなあたり前の事が、とても食事を美味しく感じさせたのです。

しかし、私にあまり何も聞こうとはしなかった母とは対照的に、父は魔物との戦いの様子などを細かく聞きたがった。これには閉口しました。いえね、口から出まかせとばかりに父が気に入りそうな武勇伝を喋る事が出来るなら、そりゃー楽ですよ。でもそれは事実ではない。それに、正直に、父に対してムサシにはとても対抗できないので逃げつつなんとかやってるが、学園生は既に4分の3が死に、自衛官や警察官の殉職者は、私の側にいる隊だけでも1000人前後、関東全域で合計したら、えらい事になります、と言ってみたところで、どうだろう?どうする事もできない。父にはこの状況をひっくり返す力は無い。せいぜいが、「学園には戻らず、このまま一生世間の目から隠れて生きろ」と言ってくれるのが関の山でしょうかねー。仮に逃げるつもりなら悪い事に、近所の人達は全員、私がグリモアの学園生である事を知ってます。幼い時にグリモア へ転校したと言っても、夏休みなどの長期休業時には戻って来た事もあったし、何よりネットで調べれば、顔などすぐにわかります。それに、ここで逃げたら、死んだ60人の学園生達に、なんと言えばいーんです?

そういえば、食事の時に父と母から、近所では食べ物がなくなって、遠くの畑へ泥棒に入って捕まった人がいるとか、空腹が我慢できなくて、道端の雑草を調理して食べて飢えをしのいでいる人達もいる、という話を聞かされました。実家の食料事情は、これでも恵まれている方のようです。そんな状況でも風飛市をはじめ魔物と戦っている現場には物資を届けてくれるのだから、ありがてーです。…やっぱり、逃げられませんねーここまでしてもらってれば…

ところで、私の話を聞きたがったのは父だけではなかった。勘弁してくだせー。あくる日、幼少時の思い出に浸りたくて街を歩いていると、ポンと私の肩を叩く者がいた。私が小学校2年の時の担任だった先生だ。当時はまだ魔法使いに覚醒していなかったので、この先生のクラスに登校していたものですが、この先生が早速おきまりの質問を浴びせて来たのである。

「どうだね。魔物との戦いは。とても君、たまらないだろう。しかし君達は我々みんなの希望なんだ。へこたれるようではイカンのだよ。それに私の聞くところによると、少なくとも風飛の方じゃ、食べ物だけは良いものを喰わしてくれるそうじゃないか。水無月君、君もそのせいか、なかなかしっかりして元気らしく見えるよ。それがこの辺に来ると、むしろ風飛よりもひどいよ。それも至極もっともな話で、当たり前の事でもあるがね。とにかく上等のもの、良いものといえば全て、関東で魔物と戦っている人達に取られるんだからね」

この先生は私を、あるしゃぶしゃぶ屋の、上客のために取ってあるテーブルへ連れて行った。私は大した歓迎を受けた。どこかの会社の重役と称する男が…どういうきっかけで先生と知り合いになったのかは知りませんが、この先生のお友達で、私の手を握ってこう言って来たものだ。

「やあ、君は戦場から帰って来なすったんですな。どうです?あっちじゃ皆さんの士気は、さぞ高い事でしょう?そうでしょう」

素直に劣勢でムサシから逃げ回るのも精一杯ですと言っていいものか、私は少し悩んだ。

学園生は10代がほとんどで、魔法使いと言っても人の子、士気と言うよりは親の顔を見たがっていると、慎重に言葉を選んで答えると、その重役は

「いやもっともじゃ、もっともじゃ。だが家に帰る前に、ちょっとその魔物とやらを残らず退治してもらわんとな。」

しゃぶしゃぶを食べたのはこれが生まれて初めてであったが、高級な肉は、やはり美味しい。こんな状況下なのにこれだけもてなしを受けて、何か居心地が悪い。

色々と愛想よくしてくれてるし、それに対して私がツムジを曲げるのは、筋が通らない…しかしそれでも私は内心、大いに腹をたてていた。というのも、この重役と先生は、あろう事か、関東から魔物を追っ払ったら、次はニューヨークを占領している魔物も退治してアメリカへ恩を売ったらどうかとか、いやいやそれより先に香港を助けて、中国へ恩を売った方がいい、などといった議論を始めたものである。もちろん、戦うのは私達だ。しかもなぜ日本がそこまでやらねばならないか、という理由まで詳細に述べたものである。

「君達も、いつまでも風飛市にこもっていないで、攻勢に出る事だ。そうして魔物をサッサとなぎ倒してくれたまえ。そうすりゃ、みんな幸せのwin-winだ」

というので、私はなかなか、その魔物をなぎ倒すのが、不可能に近いと答えた。ムサシ以外ならやりようはあるが、なかなかあの破壊力と耐久力に手こずっているし、ここで考えているような戦いにはならないと、これも言葉を選びながら答えた。

ところがこの重役は、高慢ちきな顔をして、私の言うことは間違っている、まるで何もわかっちょらん、と言って

「なるほど、一つ一つの点を見ると、そうかもしれん。しかし問題は全体にあるからな。その全体は君なんぞに判断はできん。君らはほんの一部の、自分達の持ち場しか見えとらんからな。まぁ君達は、命をものともせずに、魔物退治につくしたまえ。それが最高の栄誉だ。君達は全員、国民栄誉賞をもらわねばならんぞ。…だが何より先に、東京に居座っている、あの魔物どもをぶち破って、二度と日本に魔物が来たくなくなるように、徹底的に痛めつけねばならんよ」

と言いながら、息も荒々しく、手ぶりまで添えて

「上の方からこうやって、魔物を一匹残らずたたんじまうんだ。その次はいよいよ香港だ」

私はこの重役が、そもそもどうしてこんな空想を持つか知りたかった。

しかしあまり長居して、妙な事を口走ってもいけないので、内心の怒りを抑えて早々に席を立った。

重役と先生は、別れ際に私の肩をポンと叩いて

「まぁ無事でな。近いうちに君達から、よい便りが来るのを待ってますぞ」

と言って別れた。

 

私は今回の休暇を、もっと違うものに考えていた。ある者は何かと聞く。別の者は聞かない。ところが聞いて来ない人は来ない人で、自分らがなんでも魔物との戦いの事を知っていると言って誇りにしている様子に見える。あまりにもなんでも心得ているという顔つきで話してくるのである。

聞いて来る人はというと、誰もが結局は同じような事を聞く。万事都合よく行っているか、あるいはひどい目にあっていないか、の2択である。そこで私の話を聞いて、ある者はこう思い、また別の者は別の感想を持つ…ただし、こういう人達は、自分なりの思惑があり、話をしていくうちに、結局はそこへ行き着くのである。例の重役の先生は、「ニューヨークか香港を土産に持って来い」と言わんばかりだったが、「東京を魔物から解放した後は、近隣諸国なりアメリカやヨーロッパなどの大国なりに巣食っている魔物をついでに倒してその国に恩を売れ」という私にはどうしてそういう希望なり思惑なりを持つのか、サッパリ理解できないし、まして共感もできないのだが、そういう思惑を彼等は共通して持っていて、結局はそこに行きつく事が分かった。

これは休暇明けに仲月さらから聞いたのですが、彼女はあろう事か、故郷の名士から歓待を受けた際、「東京の魔物の退治を終えたら、その勢いで南下し、南半球の魔物を一掃し、まるごと日本のものにしてしまえ」と、言われたらしい。人のいいさらちゃんは、そんな途方も無い話をされても嫌な顔一つせず、にこにこして聞いていたらしいが、それに気をよくして相手が遠慮を忘れて内心に溜め込んでいた浅ましい考えを、自制を忘れて洗いざらい話してきた結果がそういう話らしい。この、「南半球をまるごと持って来い」が私達の聞いた最高記録ですが、里帰りした私達は全員が全員、故郷で歓待を受けたついでに、似たような話をされていた。

こういう突飛な希望を持つ人達は、今の食料や生活必需品が困窮している生活に対して、耐えるだけではなく、なんらかの復讐をしたいと考えていて、それが、魔物を退治して平和と安全を取り戻すだけでなく、他国に恩を売ってあわよくば…という考えに繋がっているのでしょうかねー。私にはその辺の思考回路の道筋がよく分かっていないので、なんとも曖昧な言い方ですがねー。

ある時私は、そんな連中の一人と料理屋で食事をしている時に、「こうして静かに腰をおろして、ゆっくりできることが、今の自分の唯一の楽しみです」と説明してみた事もあります。もちろん相手は、その私の言っている内容は分かってくれる。認めてくれる。同感もしてくれる。けれどもそれは言葉の上でだけだ。本心では別の事を考えている。誰も私の話を本当には聞いていない。うわべだけだ。例えば心の奥底では「そうは言ってもね、君。私達なんぞ食べる物もろくになく、道端の雑草などを食べて飢えをしのいでいるんだぞ。その私達から、食べ物とか、生活に必要なものとかを、魔物を追っ払ってくれるからといって、渡してるんじゃないか。死にたくないのは分かった。いや言われるまでもなく当然だ。戦いなんかより家族のもとでのんびり過ごしたいのも分かった。しかし私達だって、飢え死にしている連中も大勢いるし、あなたが戦っている背後でどれだけの人がどれだけの犠牲を払って支えているのか、考えてみてくれたまえ。それに、これだけ私達が苦労をさせられてるんだから、見返りと言ってはなんだが、魔物退治だけでなく、その後の経済復興にもプラスになるように、他国の魔物退治も手伝ってきて、恩を売って欲しいという希望が出るのはむしろ当然ではないかね」ハイ、推測タイム終了。勘弁してくだせー。やってられねーです。もっとも、なにがどう「やってられねー」のか、私自身でもはっきりと言葉にできませんが、胸の中がスゲーもやもやします。支えてもらっておいてなんですが、彼等に「懲罰房行きです」と言えたら、さぞや快感でしょうねー。

 

この事で一番傑作だったのは風槍ミナです。彼女は休暇明けて私達の顔を見るなり「議員は中二病だ」と断言したものです。彼女は、例にもれず地元の名士の歓待を受け、これがたまたま市議会議員の先生だったようですが、「これからはアメリカよりも中国だ。ちょうど距離も近いし、東京の魔物退治が終わったら…」と例によっておねだりが始まったようですが、要約すると、中国全土を手土産に持って来いという、どこをどうすればそういう話になるのか、あきれるくらい突飛な話をされた。その論理の飛躍ぶりと大胆すぎる話の展開から、風槍ミナは、「中二病」と表現したのですが…風槍ミナはちっとも悪くないのですが、私がたまに夢で見る別世界のミナは別人のような性格で、ちょうどその中ニ病の感じもあるので、その彼女が「議員は中二病だ」と言っているところを想像してしまい、ちょっと可笑しかった。他にも何人か、そういう夢を見ている人がいるらしく、同様に笑いをおさえていた。風槍ミナ本人も、そんな夢を見たことがあるらしく「夢の中の私でさえ、あそこまで中ニ病ではないわ」と言ったものだから、こらえきれずに一同でどっと笑ったものです。

反対に、一番貧乏クジを引いたのが冷泉葵でした。これはずっと後の別の話になるのですが、ある日突然、思いつめた顔をして、私達に彼女の仕事の手伝いをして欲しいと申し出てきました。運の悪いことに彼女のお父さんは、国会議員。で、悪い事に私達は全員が全員、いわゆる「先生」と呼ばれる名士達のとてつもない妄想と要求にウンザリした経験がありました。国会議員も、まぁその「先生」の部類に入リます。彼女は自分がやろうとしている事を良く勉強しており、筋道立てて私達に説明してくれましたが、私達は全員が全員、彼女の背後にお父さんの姿を見、「実の父じゃ、どんな要求をされたとしても、断れないよねー」という感想と予断を持って話を聞いていました。平たく言うと「綺麗事は要らない。それで結局、あなたのお父さんは私達に、何を土産に持って来いって言ってるの?」と、彼女の背後に父親の存在を見てたわけです。もちろん彼女は「お父様は関係ありません」と否定していましたが…。ちょうど、少し前に私が、「ここにこうして静かにゆっくりできる事が一番の楽しみです」と説明して、相手は言葉の上だけは共感してくれるが、本心は別のところにあって全く分かってもらえない、という状況があったとお話ししましたが、私達と冷泉葵の間にも同じような状況が、その時にはできあがっていたというわけです。

 

私は自分の部屋に入った。魔法使いの素質が開花する前は、私はここに住んでいました。またグリモア へ入ってからも、夏休みなどの長期休業期間中に里帰りした際には、ここに滞在したものです。第八次侵攻が始まる前の、無邪気な時代の思い出が、ここにはつまっています。なんというか、ちょっとリフレッシュしたくて、第八次侵攻からこっち、色々と良くない経験をして、荒んだ心を元に戻したかった、というのもあります。

私は目の前に、例の作りかけのボードゲームを引き出しから取り出して眺めたのですが、困惑した事に、ついこの間まで感じたワクワク感が全く感じられないのです。1000年ほど前に中近東の人達が遊んだという未知のボードゲーム。これを再現して、氷川や冬樹に、駒の動きなどを説明しながら一緒に遊びたい、少し前まではそんな希望を持って、このゲーム盤に取り組んでいた。私は自分の心の奥底から、当時のあのみずみずしい、純粋で無邪気な感情が湧き上がってきて、第八次侵攻で失った多くのクラスメート、氷川の病院での扱い、故郷に戻ってきて感じた歓待の中に潜むよこしまな思惑、そうしたもろもろの嫌なものを洗い流したかった。しかし、ほんの数ヶ月前には確かに湧き上がってきたあの感情が、どうやっても出てこない。まるで死んだ戦友の写真の前で考えこんでいるのと同じようなもので、そこには確かにその戦友の顔があり、一緒に過ごした思い出もありますが、写真は写真であって、死んだ戦友そのものではない。ついこの間まで夢中になっていたものが、「かつて私が夢中になったもの」として目の前にあるだけ。まるでこの数ヶ月で、数十年も年をとってしまい、「あの頃はこういうものに夢中になっていたものねぇ…」と、昔を懐かしむ年寄りになってしまったかのようだ。

私は不安を感じてきた。私の心の中には、ある恐ろしい感情が急に立ちのぼってきた。私は帰るべき道がわからないような気持ちになった。過去はよそを向いてしまった。同時に私は、過去に頼りすぎていたのに気づいて恐ろしくなった。休暇があけたら、また風飛に戻って戦わなければならない。グリモア の学園生のなかには、私が生徒会長だからと、頼りにしてくる子も多いし、戦いの先行きも、厳しいという事以外、分かる事は何もないのに、過去なんぞに頼りにしてはいられない。

戦友と言えば、氷川の家を訪ねてあげなければ、という事を思い出した。ここまで会った人達から話を聞いているうちに、氷川が戦死したという知らせは、とうの昔にここに届いていたという事が分かった。ああ、だから母も姉も、父でさえも、「仲の良かった氷川さんの所の娘さんはどうしているのか」と聞いて来なかったのかと今さらながら思い至りましたが…お線香の一つくらい、あげに行くのが人として当然ですよねー

 

氷川のお母さんの様子は、痛々しいものでした。体を震わせながら泣きながら、私をしっかりと見据えて開口一番

「あの子が死んだのに、なんであなたが生きているのよ」

と叫んで、ほとんど私に掴みかからんばかりでした。

「どのツラ下げてうちに来たの?よくもまぁ、おめおめと…」

それから泣き崩れて

「あなたはあの子の最後を見ましたか。どんな風に死んでいきましたか」

と、聞いてきました。私は氷川は、下級生をかばって30階の超高層ビルサイズの魔物の一撃を代わりに受けて、即死でした、立派な最後でしたと言った。

すると彼女は、私の顔を見て、疑うように

「あなたは嘘ばかりおっしゃっる。ええ、私には分かります。あの子は苦しみながら死んでいったのです。私はあの時あの子の声を聞きました。夜になると苦しいよと耳元で囁くのです。…どうぞ本当の事をおっしゃってください。ぜひとも知りたいのです。」

「私は嘘は言ってません。私が見てる目の前で、氷川は立派な最後を遂げました」

「本当ですか」彼女は、なおも疑うように言ってくる「私を慰めるために、本当はもっとひどい死に方をしたのに、そう言っているだけではないですか?」

そこで私は、うまく辻褄があうように、詳細に氷川紗妃の死について説明した。水無月風子は取り繕う、などと言う向きもあるようですが、放っといてくだせー。

「あなた、その話は本当ですか。神様に誓って言えますか」

氷川の家はウチと同じで無神論者だ。しかし、こういう肝心な場面になると、神様を持ち出したがるっていうのは…困った時の神頼みってやつですかねー

「ええもちろん、誓いますよ」

勘弁してくだせー。私自身、病院で氷川が医師や看護師から受けた仕打ちのショックが大き過ぎて、まだ立ち直れていないんですよ。神様というのがいれば、私のことも慰めて欲しいものです。

彼女はようやく私の話を信じてくれたようだ。嘘も方便?知りませんよ。

 

これはずっと後の話ですが、ある時東雲アイラが私の肩をたたき

「なんじゃ少年。いつまでむくれておるんじゃ」

アイラによれば、年という単語自体には、男も女もない、という事で、自称300歳のこの少女は時として、私達に話しかける時に、少年と呼びかけてきます。

「むくれてなんかいませんよ」

「むくれた所で、氷川は生き返らん。氷川の死に関するグリモアの公式記録は、お主の気がすむようにして、誰も異議を挟まなかったではないか。これ以上どうしろというのじゃ。」

私が黙っていると、アイラはさらに続けて

「私の本当の名前はアイラではなく、あいという。300年前には、アイラなんぞという名前はなかったからの。…名前は、親が子供に与える最初の贈り物というが、300年前は機械などというものはなく、手作業で農業などの力仕事をしなければならなかった。子供は貴重な労働力じゃったのじゃ。学校なんぞも当時はなかったしの。ただし、これは男の子の場合の話で、女の子だと、力作業の手伝いにはほとんどならないし、飯は男の子とほぼ同じ量食べるという事で、女の子より男の子が良いと考える親が多かった。…私の名前はの、悲哀の哀と書いてあいと読む。男の子ではなかったから親が落胆しての事じゃろうな。当時は今と違って出産前に子の性別がわかるという事もなかったしの。名前は、親が子供に初めて贈る贈り物というが…私が親から初めてもらった贈り物がこれじゃ。悲哀の哀じゃ。」

私は、どう言葉をかけていいかわからず、戸惑った表情をしていると

「人間が、人間らしい感情を持って生活するためには、鈍感力も、時には必要なのじゃ」

そう言って、アイラは笑った。

 

いよいよ休暇が終わり、風飛へ戻る時がきた。

「私はこれだけは言っておきたいと思っていたんだよ。風飛へ戻ったら、男の魔物にはようくお気をおつけよ。男の魔物ときたら、ドラキュラ伯爵やフランケンシュタインのように、みんなタチが悪いからね」

ああ、おっ母さん。あなたの目からは、私はまだほんの子供でしょう。なぜ私は、あなたの膝にこの頭を乗せて泣く事ができないんです。なぜ私は、いつも気の強い、我慢強い大人でなければいけないのでしょう。私はもう一度泣きたい。子供という時代を離れてから、まだほんのわずかしか時間は経っていない。なぜその時はもう通り過ぎてしまったんだろう。

「心得ています。大丈夫です」

私は、できるだけ明るく元気な声音で言った。

「風飛へ戻っても、お前、ようく気をつけるんだよ」

おっ母さん、おっ母さん、なぜ私は、逃げずに風飛に戻るんでしょう。なぜ、このままここで身を隠そうとはしないんでしょう。死にに戻ると分かっていて、なぜこうも私達は、哀れな忠犬なんでしょう。

「ええ、気をつけますとも」

「私達は毎日、お前さんの体の無事を祈っているからね」

おっ母さん、おっ母さん、家族一緒に身を隠しましょう。そしてムサシの気が済んで、ヤツが完全にこの世から去ってから、何食わぬ顔でここへ戻ってきましょう。

「大丈夫ですよ。私は向こうでは生徒会長ですから、危険な情報とかはいち早く察知できる立場にあります。私自身も、グリモアの他の誰も危険には晒させやしませんよ」

「そんなら他の人がなんと言おうが、ぜひやってごらん」

「もちろんですよ。また無事な姿で、戻ってきますよ」

それから、続けて

「それから、家の食べる物を、私の所へ送らなくても大丈夫ですよ。あっちじゃ食べ物はありますから。ここで食べてもらった方が、よっぽど助かります」

こうして、父と母と姉に見送られて、私は風飛へと戻った。

 

鉄道が途切れる場所からゲネシスタワーまでは、行きと同じように、どこから調達してきたのか、犬川学園長が大型バスを借り切って迎えに来てくれた。3000万人が住んでいた関東平野は、ほとんどが無人で、まだ魔物に壊されずに建っている建物も無数にあるが、人の気配はまったくない。

「休暇、楽しめましたか?」

色々な感情が入り混じって、どう答えたものか迷う。

「最後に、家族と一緒に過ごさせていただき、ありがとうこざいました」

それから、地元の名士から歓待を受けたついでに、浅ましいと言ってはなんだが、残念なおねだりをされたと話すと、同乗していた他のメンバーが全員、我も我もと申し出てきた。

「えー?それはダメなの。みんな協力して復興に当たらなければならない時に浅ましい計算はダメ。学園長命令」

おねだりしてきた地元の名士は、グリモアの生徒ではないので学園長命令は関係ないはずですが、なぜかみんなして胸がすく思いがしました。「会長、懲罰房、懲罰房」などと囃し立てる者さえいる。「えー、おほん。イケナイ名士達は全員懲罰房行きです」私が風紀委員長時代の口調そのままで言うと、みんなしてどっと笑った。

 

ゲネシスタワーに全員揃った。犬川学園長は内心、帰って来ない人が何人か出るだろうと思っていたようで、ちょっと意外そうな表情をしていた。もしかすると犬川学園長は、言外に戻って来るなと思っていたのかもしれません。何しろ、ここに戻って来れば、かなりの確率で死が待っています。それよりは、例え世間から後ろ指をさされようとも、隠れて生き延びて欲しい、と思っていたのかもしれません。

そして私達はタワーに戻るとすぐに、楠木二佐が戦死なさった事を知らされた。

私達の休暇が開ける1週間前の事。魔物の群れが大挙して、点在している病院の一つに向かったので、魔物の注意を他にそらすために、自衛官達はかなりの無理を強いられた。何しろその病院は、氷川が入院していた所と大差なく、入院患者達に自力で動ける者は逃げてくれと言った所で、ほとんどの負傷者が動けない。薬などの物質の補給は不足がちで、氷川の死からはずいぶん時間が経ってはいるが、病院の有り様はほとんど改善できていなかった。そういう状況であったため、魔物の注意を引くために、かなり無理なオトリ作戦をした結果、楠木二佐はじめ、3人の魔法使いは全滅。自衛官もうほぼ半減の大打撃を受けた。以降、私達が戻って来るまでの1週間、犬川学園長が唯一の魔法使いとしてここを守ってくれていた。

私達は、ここに戻ってきたら、生き残っている300人の風飛市の生き残りの人達を守る心づもりではあったが、魔法を使える大人の自衛官を、無意識のうちに大きな後ろ盾のように感じていたので、この知らせはショックでした。

 

結局のところ、亡くなった3人の魔法使い自衛官の補充はありませんでした。

当時はまだ、学園生の中には、今回の侵攻を「クリスマスまでには終わるだろう」と考えている子も多かったです。侵攻の開始は9月末、そして私達がタワーに戻って来たのは11月の上旬です。あと1、2カ月でかたがついて、復興へと移行していくのではないか、そういう空気も当時は少なからずありました。また、休暇中に故郷の有力者から連日の歓待を受けて気が大きくなった子達も多く、今回の侵攻自体を、休暇前に学園生の大半が戦死した事を半ば忘れて「クリスマスまでの、魔物相手のちょっとした肝試し」「魔法の腕自慢同士による、勇敢な腕試し」等々楽観的に捉えている空気も少なからずありました。

しかし、前年の第七次侵攻時とは異なり、今回の侵攻にはムサシがいたため、こちらから魔物を全滅させての侵攻終結という形は期待できません。クリスマスになっても、年を越しても、春になっても、戦況は好転しませんでした。楽観的な感想を持っていた子達も、改めてムサシと対峙した時に、その認識の間違いに気づかされました。

いわゆる銃後の地域、と言いますか、関東地方南部と異なり、直接の魔物の攻撃はあまりない地域と言った方がより正確でしょうか。私達のデバイス越しに見える故郷の様子、つまり家族や故郷の古い友人、知人からの便りなどからうかがえる先方での生活環境は、日に日に悪化していきました。食糧事情がどんどん悪くなり、近所で誰それさんが飢え死にしたとか、非常食すら口にできず、1日何も口にできず水だけ飲んで過ごしたなどといった話が少しずつ目立ちはじめました。また、飢えで体調でも崩してメールもうてなくなってしまったのか、ある日から突然、連絡をよこさなくなる故郷の知り合い、親類縁者等が、どの学園生にも目立ってでて来るようになりました。

年が明けた頃、食糧の供給が止まる可能性を考慮して、ゲネシスタワー内の農業施設で野菜と稲の栽培を始めました。物質を供給してもらえるのは大変嬉しいのですが、何より日に日に痩せていく故郷の様子を見ていると、このまま長期戦になった時、はたしていつまで食べ物の供給が続くのか、かといって急にこのタワーの農業施設をあてにして、思ったような収穫がなければ、即詰むので、物質の供給が滞る前に先手を取ってやってみる事にしました。

また、飢えは人をキチガイにするといいますが、この頃学園生の一人に、その親族から「日本人は、他国の人に比べれて優秀な民族だから魔物に優先的に狙われている。食糧が豊富に取れる国で、魔物の被害を受けていない国は、日本に対し食糧援助をする義務がある。なぜならば日本人はそういう国の人達より優秀な民族だから。助けるのが当然」という、身勝手でかなり危険なメールが来たのも、私達が農業施設を活用してみようと決める際の後押しになりました。メールを受け取った学園生によると、その親族は普段はそんな事は考えもしない人だという。特に片寄ったり、危険な発想をしない普通の人でもこういう考えに取り憑かれて、そんなメールで送りつけるくらい、物質を供給してくれている地域は飢えで追い込まれているんだろうな、であれば、ここへの物資の供給が近いうちに止まるというのは、あり得そうだな、という考えから、ゲネシスタワー付属の農業施設を使ってみようということになりました。

ありがたい事に、実際に作業を始めてみると、私達が保護している一般の方々の中からも農作業の手伝いを申し出てくれる人がいました。彼らも、自身のスマホなどで国内他地域の悪化していく食糧事情をリアルタイムで見て、危機感を感じてくれたのかもしれません。あるいは、私達と同じように、故郷の親類縁者あるいは友人から、ただならぬ内容のメールを受け取って「これはヤバイ」と感じたのかもしれません。

4月に、農業施設ではじめての収穫がありました。米が取れたので炊いて食べてみましたが、おがくずみたいな味がしました。涙が出ました。宍戸博士の分析によると、成分には問題がないとの事。味以外は問題がないとの事ですが…いわゆる銃後の地域から食糧を送ってくれる事に改めて感謝の念を抱きました。その後、野菜も収穫できましたが、味に関しては似たようなありさまで、成分には問題なく、必要な栄養素は取れるという事ですが…味が悪いのは、痛い欠点でした。いざとなったら我慢して食べるほかありませんが…

6月になると、悪い動きが出てきました。食糧を供給してくれている地域の中で、「魔物とは、対立する相手ではなく、共存すべき相手だ。だから戦うのは間違っている。よって、私達は自分達の食糧は、間違った事をしている東京で戦っている連中に送るのではなく、私達の食糧は私達で食べようではないか」という主張をする一団が現れ、急速に支持を拡大していきました。平時であれば、魔物と戦わず共生しようという意見は、過激派の一つとして捉えられていましたが、空きっ腹を抱えた人達に、「俺たちの食糧は俺たちが食べる。東京の連中にはあげない」という訴えは、非常に魅力的でした。民間企業で、兵器などを生産しているJGJという会社の間ケ岾という男が中心となって飢えた民衆を扇動しており、平時では、彼はちょうどタバコを売っている会社が「あなたの健康を損なうリスクがあります」と言っているのと同じで、自分達の売った武器で人が死ぬ事に後ろめたさを感じて、そのエクスキューズとして平和感を主張しているんだろう、程度の認識で世間からは捉えられていました。しかし今や、理屈ではなく、胃袋に直接訴える戦略で、急速にその支持を拡大させていました。第八次侵攻前は、間ケ岾は、典型的な中年太りの体型でしたが、彼自身、ロクなものが食べられていない生活が続いているせいか、すっかり痩せ衰えた姿形で、「中年太り解消にはいいんですがね、皆さん、少し我慢のしすぎじゃありませんか」などと呼びかける姿には、不思議な説得力がありました。「私達の食糧は私達で食べましょうよ。皆さん、そろそろそう主張してもいい頃合いではありませんか」

霧の魔物との共生、というキャッチフレーズは建前で、俺達も飢えている。食糧を送るのはもうたくさんだ、という謳い文句は、不思議な説得力がありました。

やがて、自衛隊とJGJの間で小競り合いが発生しました。食糧を強引に徴発しようという自衛隊に対し、抗議する形でのJGJの活動でした。この際、JGJは自社製の戦車や機関銃なども使用しました。本来ならば、これは少なくとも銃刀法違反で、内乱罪の適用さえありうる凶悪犯罪、と言われても仕方ない行動でしたが、なぜか民衆の支持はそのような凶行に間ケ岾が及んでさえ、なくなる事はありませんでした。むしろ支持が増えさえしました。

私達への影響はすぐに出ました。まずは反乱の鎮圧という名目で、ゲネシスタワーにとどまっていた300人の自衛官は、50人だけ残して残りの250人は、間ケ岾率いるJGJとの戦いのために全国へと散って行きました。

続いて、ゲネシスタワーの周辺の病院は全て閉鎖され、入院している負傷者達は、安楽死の注射を打つか、このまま放置されて緩慢な死を待つか、の選択を迫られました。結局のところ、食糧の前にまず医薬品が底を尽き、供給もままならないので、各病院はその機能を失ったという事です。病院従事者や、負傷者の中でまだネットに物を書き込めるだけの気力のある人達は、これが「間ケ岾の乱」がもたらした事だと喧伝する人達もいましたし、死にたくないと命乞いの書き込みもたくさんありましたが、ぞっとした事には、こうした間ケ岾の行動に付随する負の側面が明らかになってさえ、間ケ岾への賛否は拮抗しました。つまり、やり過ぎだろうという意見と、仕方ないという意見がほぼ同数でした。必死の命乞いの書き込みの数々も、「うちも母ちゃんと私達に食わせるために、食事を我慢した父ちゃんが飢え死にした」という話の前にはあまり力はありませんでした。実際、そういう話はもう珍しくもなくなっていました。「助かりたければ、こっちに来い」という人さえいた。実際、動けないほどの負傷だからこそ、安楽死か放置による死かという話になっているのですが、そういう状況に気を回せていない書き込みが圧倒的多数でした。

自衛隊がJGJに対し思わぬ苦戦をしているのか、次には治安維持の応援の名目で、ゲネシスタワーにいた警察官は一人を除いて全員、全国各地へと派遣される事になりました。50人だけ残っていた自衛官達も、翌年にはそのうちの更に30人が、全国各地へと派遣されて行きました。

日本国内は、魔物による直接の被害がそれほどない地域でも、自衛隊とJGJの武力衝突で地形が変わったりする地域も目立つようになってきました。この頃になると、食糧の供給は完全にストップし、ゲネシスタワー内の農業施設から取れる、米と野菜と果物が私達の食事でした。関東平野に取り残された、他の場所に避難している人達は、きちんと食事ができているのか、気にはなりますが、どこにどれだけの人がいるのか分からない状況なので、何もできませんでした。また、この頃になると、国内の他地域も、単に魔物による被害がここより少ないというだけで、自衛隊とJGJの間の戦いの影響で、各地の交通網は寸断され、流通も経済も壊滅的で、もはや近代国家の生活が成立しているとは言いがたい状況にまで転落していました。例えば、こんな話も聞きました。子供を食べさせるために両親とも自身の食事を犠牲にした結果、親は二人とも亡くなり、街角にはお腹をすかせた孤児達があふれて、物乞い同然の生活をしている。他の大人は、助けたくても自身や自分の子供への食事さえ事欠く状況なので、とても助けられない。しかし、人として、街角で、飢えに苦しみながら弱って死んでいく子達は見たくない、そんな身勝手な理由で、街角の孤児達をトラックに乗せて山奥に放置して、自分達の目の届かないところで死ぬように仕向けている。ネットで見聞きした話なので真実かどうかは分かりません。しかし、こういう話さえ、まことしやかにささやかれる程度の状況が、先進国の生活と言えるのでしょうか?控え目に言って、日本は既に、国家としての体裁を維持できていない。少なくとも、国内各地で内戦が勃発し、至る所で飢えた人がいるありさまは、ついこの間まで、新聞などで日本が援助を差し伸べる相手側の国の様子としてよく書かれていた光景ではないのか…。

冷泉葵が私達の前に現れ、私達に協力を呼びかけて来たのもこの頃です。あろう事か彼女は、間ケ岾側につきたいと言ってきました。魔物と共生するというのは、私達魔法使いにとっては、全く受け入れられる話ではありませんが、日本の現状はとても人間社会として成立しているとは言いがたい。この際間ケ岾側についてでも一度日本を再統一して、強力な治安維持組織のもと、秩序ある社会を組み立て直したい、とね。確かに、飢えで両親を亡くし、孤児となった子達が日本の街の至る所にあふれ、助けられないからとトラックで山奥に…といった話さえ普通に出てくる状況はどう見ても異常です。警察などもとっくに機能しなくなってて、日本の街の至る所で、掠奪や暴行なども日常茶飯事だったでしょうしね。皮肉なことに、関東南部は、魔物のおかげで人がいないため、魔物の脅威はあるがかえって安全ではないかというパラドックスさえ成立しているのですから。この際実力で秩序を維持できる勢力があるなら、己の信条に反してでもそちらに協力したいというのは、受け入れるかどうかは別として、筋は通っています。嫌な言い方をすれば、さすが政治家の娘さん、世間の機を見るに敏ですね、と言ったところでしょうか。あるいは背後に彼女の父がいて、この日本の混乱を好機ととらえ、なんらかの思惑なり計算なりがあったのかもしれません。

私達は、結局彼女の申し出は断りました。彼女は単身で間ケ岾の元へ行きましたが、彼の信頼を勝ち取れずに亡くなったと聞きます。間ケ岾にしてみれば、平時であれば政治家の後ろ盾は心強いですが、今となってはメリットがあまりない。むしろ政治家側の方に、なんらかの思惑なり計算なりがあってすり寄って来てるのではないか、そういう色眼鏡では当然見たでしょうしね…。

 

周辺に人がいなくなったという事で、私達の戦い方も変わってきました。周辺には、ゲネシスタワーより高い建物、大きな建物がたくさんあります。ムサシの気を引く作戦を取る時に、そうしたここより目立つ建物の方にムサシの注意が向くように誘導する方向で戦う事が多くなりました。

自身をオトリに遠くまで誘導する方法より、この方がリスクが少なくて済む事に、じきに私達も気づきました。自身をオトリにして遠くまで連れて行く場合、相対的に長い時間、例の蚊の鳴くような音を聞き逃さないようにする必要があります。しかし、注意を他に向ける方法であれば、そうした危険に自身を晒す時間は短くてすみます。

ありがたい事に、ムサシはたいていの場合、新しく注意を向けられた建物を一通り壊すと、まるでオモチャに飽きた子供のように、どこへともなく立ち去ってくれました。遊び終わった後で、ゲネシスタワーの方に注意が向くことも、10回のうち1、2回程度の頻度でありましたが…それでも従来の、遠くまで自身で誘導する方法に比べればかなり安全で、おかげでこの3年間での学園生の犠牲者はゼロです。もっとも、その前の犠牲者があまりにも多いので、とても手放しで喜べる状況にはありませんが…

 

しかし、ついに年貢の納め時が来ました。3年前は、周辺にはゲネシスタワーより大きな建物、目立つ建物がたくさんありました。しかし、この3年間、私達がムサシの注意を他の建物に向かうように誘導し続けた結果、ついに周辺にはゲネシスタワーより大きな建物は一つもなくなりました。もはやムサシが来ても、今までのように、他の建物に注意を向ける、という方法でかわす事はできません。もしムサシが来たら、自身をオトリにしてムサシの注意が他へ向くまで、ひたすら誘導するしかありません。そしてつい先日、ムサシが沢山の魔物を引き連れて襲撃してきました。

私達は、自身をオトリにしようと何度もムサシに攻撃を当てましたが、だだっ広い平原にポツンと一つだけ建っているゲネシスタワーが、よほどムサシの目を引くのか、なかなか私達の方には注意を向けてくれません。危険を顧みずに、ムサシのすぐ隣に立って、何度も何度も攻撃しても、です。私達は焦りました。このままではタワーが攻撃され、それは中にいる300人の住人の死を意味したからです。私達は必死でした。周りにも小さなーー等身大クラスのーー魔物もいっぱいいましたが、そちらには半ば無視してまで、手を伸ばせばムサシに触れるくらいの距離から何度も攻撃しました。風槍ミナなどは、空中から等身大のハンマーを取り出し、それを両手で抱えながらムサシの硬い皮膚に直接何度も打ちつけたほどです。…あの時、ムサシの注意が、タワーから私達の方へ向いたのは、本当に幸運としか言いようのない事でした。そうでなければ、今頃はこのタワーは瓦礫の山と化していたはずです。

ムサシは至近距離で、急に注意を私達に向けました。危険は十分承知していましたが、かわしきれずに学園生2人と、自衛官20名が亡くなりました。これで自衛官は全滅、私達学園生は18人です。この時はなんとか、ムサシを遠方へと誘導し、タワーへの攻撃は阻止しましたが、次回来たらどうなるか、保証はできません。そこで、タワーを捨てて別の場所へ逃げ延びる計画を立てていました。候補地としては、タワーから西へ10キロほど行った所にある旧住宅街の一角です。理由はよく分かりませんが、過去3年間のムサシの行動を分析すると、その住宅街の一角のみ、過去3年間一度も、ムサシは近づいていないのです。もっとも、もっと小柄な魔物はよく出没していて、当該地域も荒らされとっくに無人ですが…ムサシがその地域のみに近寄らない理由は不明です。もしかすると、今まで近寄らなかったのは単なる気まぐれで、私達がそこへ移住した途端に押しかけてくる可能性もあります。しかし、他に当てはありません。

移住のための準備を進めて、今日明日にも動こうかという矢先でした。タワーの東から、またムサシが大量の魔物を引き連れて、タワーめがけて進軍して来たのは…西の移住地まで移動の間、別の魔物が出ない保証は無いので、300人の住人の移動に、護衛をつける必要があります。一方で、東から迫ってくるムサシ様御一行を足止めし、今までと同じように別の場所へと誘導する必要もあります。いわゆる二正面作戦をとる必要があります。

西への護衛を他の学園生全員に任せ、私は単身、東からのムサシ様御一行を足止めしようと考え、これが最期の戦いになるかもしれない、という直感があったので自室で遺書を書いていた、まさにその時でした。冒頭の氷川紗妃の声がしたのは…

「教えてあげましょうか。あなたの夢の中に出てくる、みんなをまとめる不思議な少年、あれムサシよ」

氷川の声が続ける。

「あなたは虎千代と比較して勝手に劣等感にまみれているようだけど、虎千代はあのムサシを味方に引き入れるほどの人たらしだったかしらね?今の状況は、虎千代だったら防げたとか、あなただからダメだったとか、そういう話ではないの」

ちょっと待って。なぜ氷川はそう断言できる?私の疑問を読み取ったのか、氷川の物らしい声は

「私は死んで、定命の者では無くなった事で、この世に縛られていた時には識りもしなかった色々な事が分かる」

私はこの声が、本当に氷川紗妃のものかどうか考えあぐねた。どちらかというと、私は幽霊は信じない方だからだ。

「もしあなたがここで逃げたら、あの時私を見捨てた医師以下の事をやる事になるわよ。あの医師は他の重体の負傷者を救うために手術室に入って行った。逃げたのではない。間違えないでよね」

もしかすると、私の深層心理が氷川の声となって私に語りかけているのだろうか。それとも、本当に氷川の幽霊が私に語りかけているのだろうか。真実は知るすべもない。

「姿を見せて」

幽霊でも構わない。氷川が来ているなら見てみたい。姿は見えなかったが、なんとなく氷川が残念そうな表情を浮かべたような気がした。

「そうしたいのは山々なんだけど、私は既に死んじゃってるから、何もできないのよ。あなたにこうして語りかけられる事自体、奇跡のようなものなのだから。これ以上は無理」

「のんびり世間話をしに来たのではないわよ」

驚いた事に、今度は冬樹イヴの声が割り込んで来た。

「水無月会長に罪があるとすれば、水瀬薫子と結城聖奈、この二人の生徒会役員がまるまる生き残っていながら、あなたに手を振ってくれる人間がいない、そういう弱い協力関係しか彼女らと結べなかった事ね」

しかし、あの二人はいつまでも虎千代に心を奪われて、私の方を見ようともしなかったし、私だってこの3年間、何もしなかったわけではない…

「けれど私達は、何もそんなくだらない事を言いに来たわけじゃないの。水無月会長にやっていただきたい事があるの。…この3年間で、会長達が保護している人達の間に、新生児が何人か生まれたと思うんだけど、彼らの教育はどうなっていますか?」

教育?何をズレた事を言っているんだ?私は冬樹イヴの真意をはかりかねた。

「今はそれどころじゃないって顔をしてるわね。水無月会長。でも今がまさに瀬戸際なのよ。代わってあげられるなら、私や氷川さんが先生役を買って出たいくらいだけど、私達は既に死んじゃっているから何もできないのよ。仮に会長が、このまま何もしなかったとしても、私達は指をくわえて見ている他はない」

「会長は6000年前に、私達のご先祖様が、馬の品質改良をやって、農業や輸送、交通に使えるようにしたのはご存知だと思いますが、当時のご先祖様が何をどうやって、そうしたのか、その経緯は失われているの。これは後代の研究者が馬の遺伝子を調べて分かった事でね。もし当時の記録が後代に受け継がれていれば…この間のご先祖様が子供達への教育を怠ったために、人類は一度手にした知恵を手放してしまったのよ。6000年前と言えば、まだ人々は生きていくのにやっとの時代で、子供への教育にまで手が回らなかった、そういう仕方がない事情があったとしてもね。人類が手にした貴重な知識と経験が、一度散逸してしまった事には変わりはないわ」

いや、ムサシが迫って来ているこの状況で、お馬さんの話をされても困るんですが…

「じゃあ逆に聞くけど、ムサシをなんとかして無事にみんなして移住先へ行ったとして、その後のその子達への教育はどうするつもりなの?」

そんな事聞かれても…私達魔法使いは魔物から人類を守るためのものであって、教育とかそういうのは頭デッカチの偉い人達に任せるものなんじゃないの?

「で、その頭デッカチの大人達って、今どこにいるのよ?」

それは…確かに3年前の大侵攻の直後であれば、日本はまだ国として機能していたし、そういう大人もいっぱいいて、私があれこれ考えなくても、子供達への教育は、全国の小中学校で普通に行われていた。しかし今は?そういえば、ここ以外の地域では、両親ともに飢え死にして孤児達が街角にあふれていると聞いた。そんな状況下で、先生達が無事に子供達へ教育できているのだろうか…?以前里帰りした時に歓待してくれた、あの先生と重役は、そういえば今はどうしているのだろうか?

「確かに言われてみれば…今の子供達への教育はどうなっているのかしら?」

「そう。少なくとも、誰か他の人に頼める状況じゃない。でも会長、他の地域の子供達の事はいいわ。現実的に対処できるところから始めるべきよ。今は、あなたの保護下にいる、5人の乳幼児の事を考えるのが先」

しかしどうやって?私達は誰も教員免許など持ってはいない…氷川は将来取るつもりだったようだが。それに、私達が保護している人達は、農作業では協力的でしたが、教育に関しては?私達が学校の先生の真似事をしますと言って、受け入れてくれるだろうか…?

「今人類が手にしている知識や経験を、どういう方法で子供達へ受け継ぐかは、保護している人達の代表か、必要なら全員と話し合って決めていけばいい。何も考えず、問題提起さえもしなければ、知識は失われていくだけよ。産業革命時の蒸気機関の発明などの苦労を、後世の子供達にもう一回させるかどうか、今がまさに岐路なのよ。3人集まれば文殊の知恵ともいいます。会長がその認識さえ持っていただければ、後は周囲に相談しながら進めてください」

「そうなって来ると、きちんとした教育をする前提条件として、腰を落ち着けて生活できるように、安全と食料の確保が必要になるかと思いますが、会長にはいい案がありますか?」

情けない話ですが、そんなあてがあったら誰もやけになって遺書なんて書きませんよ。勘弁してくだせー

「では作ってください。他に案がないのであれば、ちょうどネット上に、自家発電と農業施設をも兼ね備えた水上都市の設計図があります。材料などは魔法で作成できるものもあるでしょうし、必要なら宍戸博士の知見も借りれば、なんとかなるでしょう。水上都市リリパットと言って、ベルギー人のヴァンサン=カルボーという建築家にして環境学者が作成したものですがね…ところで会長、フランス語は大丈夫ですね?」

ちょっと待てぃ。なんでそこで夢の世界でのリゼットオーダーでのシャルロット・ディオールの決め台詞が出てくるんですか。世界が違いますよ。

「授業でほら、先生から、フランス語の動詞のアレの現在完了を言うてみぃと言われて答えられず、立たされた記憶ありますが、何か?」

すると姿こそ見えなかったが、冬樹イヴが、さも前途多難と言いたげにため息までついたのが見えたような気がした。

「それを言うなら複合過去。今更allerの活用なんて暗記しなくていいです。フランス語はベルギーの公用語の一つで、当該設計図はフランス語で書かれています。頑張って解読してください」

…いや、アレと言ったのは日本語の指示代名詞のつもりで言っただけであって、いくら私でもallerの活用くらい…と思ったが墓穴を掘りそうなのでやめておいた。

「私達日本人はどうかすると、外国からの難民は、差別してはいけない。しかし現時点ではそこまでの待遇ができるほど、私達は精神的に成熟していないからと難民の受け入れ自体をためらっていますが、彼らは受け入れた上で、自国民との摩擦を避けるために水上都市を建設して、難民をそこに押し込めようと考えていました。その考え方でリリパットを作ろうという話になったので、検索なさる際には、その文脈で探していただけるとスムーズかと思います。私達とは感覚が違うので、水無月会長も考えるところはあるかと思いますが、己の心情とは違っても、今は使えるものは使わなければならない時期だと思います。それとヴァンサンはフランス語読みですので、名前から検索なさる際にはご留意を」

水上都市での自立は確かに現時点では一番良い選択肢に思えた。今までムサシが泳いだという話は聞かない。もっと小型の魔物なら、泳いでくる可能性は確かにあるが、そのくらいならこちらにも対抗できる。それに、今後の自衛隊と間ケ岾一派の争いがどうなっていくかはわからないが、戦いの成り行き次第では、日本の陸上にいるのは危険な可能性もあります。水上で自活できれば、日本国内で、今後どんな危険な政権ができたとしても、当面は安全に思えた。

「では、それでやってみましょう」

先ほどまでのやり取りから、氷川紗妃と冬樹イヴと思しき声達は、私が自分の考えを声に出さなくても分かりそうな感じでしたが、自分の考えを声に出して言ってみた。

どっちみち、私一人でできる作業量でもない。あの二人がなんと言うかは分からなかったが、まずは水瀬薫子と結城聖奈に計画を話して、協力を仰いでみるか…

「私はこの3年間、ひたすら全力で走り続けていました。それなのに、休む暇も与えずに、重い課題を投げかけてくるんですね」

愚痴が言葉になった。すると氷川がすかさず

「それが生き残った者の責任でしょう。この場で殺して成り代わってあげましょうか?私が学校の先生になりたがりながら死んでいったのは知ってますよね?私達にはもうできないんですよ。」

「確かに私達は、大人の世界への案内人ーー労働と業務と文化と進歩と未来への世界への案内人ーーには恵まれなかったかもしれませんが、だからといって私達が、これからの世代のためにそうした案内人役を買って出なくてもいい、という話にはなりません。そしてこの中で生き残っているのは会長、あなただけです。やる事は腐るほどあります。それらを全てやり遂げる事が、ひいては私達のためにもなるんです。もしご自分が罪人だとお考えなら、罪滅ぼしのためにもやってください。」

生前は妹から逃げていた私が、会長に逃げるなというのはおかしいと思いますか?と冬樹が聞いてきた。「失ってはじめて分かる、という事もあります。まだ死んだ事の無い会長に説明するのは難しいですが、生きているときには当たり前にあると思って気にもしていなかった大切なものを全て失う事なので、筆舌に尽くしがたいマイナスがあります。私はそれを生前には気づけなかった。死後にようやっと気づいて警告に来るなんて滑稽と思うなら笑っていいわ。そうですね、例えば会長は、氷川さんを失ったショックでこの3年間、水瀬副会長や結城さんが会長に声をかけるのもためらわれるほどの衝撃を受けましたが、氷川さんだけでなく、全部失えばどうなるか、をお考えいただければ、少しは推測頂けるかと思います。私達人間というものは、生前は不幸な方だけ数えて、幸福な方は数えようともしません。10のうちの9までが満たされていて、残り1だけが足りない時には、満たされている9の方なんか頭の片隅にさえ浮かばなくて、ああ、私はなんて不幸なんだ。死んで逃げよう、とさえ考えてしまうものなのです。死んで失ってから、残り9について思い出しても遅いんですよ」

死神が、ある時冬樹のもとを訪れ、戯れに「生き返りたいか」と聞いてきた。冬樹がうなづくと、奴は鼻で笑って「じゃ、君は不幸になるための権利を要求してるんだ。」と言ったものだ。「じゃ言うまでもなく、魔法使いだからと周りから差別される権利、国連では文化の違いから誤解が発生し、あいつは日本人だから使えないと陰口を叩かれる権利、開発途上国の劣悪な衛生環境の中で体調を崩す権利、白人ではないからと言われなき差別を受ける権利、難病に苦しむ権利、過激派に捕まって人間としての尊厳を奪われたあげく一部始終をネットで公開される権利、食べ物に困る権利、親切にしたのに現地の人からあらぬ誤解を受けて苦しむ権利、もだな」

「はい、私はそれらの全てを要求します」冬樹イヴは昂然としてそう答えた。「じゃ、勝手にするさ」死神は、肩をすくめた。

「人生とは、10%が自分の身に降りかかる事で、90%はそれに対して自分がどう対応するかで決まります。まあこれは生前、生活指導の先生が、当時周りから浮いていた私を心配して言ってくださった言葉なんですけどね。当時は聞き流していましたが、今なら分かります。水無月会長、あなたにとっても同じ。肝心なことは、私達は自らの態度を自分で決める事ができると言う事。態度は、過去よりも、外見よりも、その人が何をしていて何をしていないかよりも重要です。人生とは、10%が自分の身に降りかかる事で、90%がそれに対して自分がどう反応するかで決まります。あなたにとっても同じ。あなたが過去に何を失敗して何をし損ねたか、は重要ではありません。この事は、水無月会長、しっかりと覚えておいてください」

 

「それは、グリモアの学園生がしなければならない仕事なんですか?」

私が部屋を出て、水瀬薫子と結城聖奈に今後の方針を話した上で、東からのムサシは私一人でなんとかするので、300人の一般人を護衛しながら西の移住地へ行って欲しいと話した時の、水瀬薫子の反応であった。

「グリモアの仕事、ではありません。ここまで生き残った人間全員が当事者です」

それから続けて

「そうは言っても私達にしかできない事もあります。いくら設計図があっても、それをあの300人に預けて、この水上都市、設計図通りに作って、と言ってもおそらく、できないでしょう。魔法は戦いだけに使うものではありません。必要な材料等を、魔法なら苦もなく調達する事ができても、一般の人となると、専用の工場がないと調達できない、という事だってあるでしょう」

それから私は、今の話を考えている結城の方に向き直り、

「結城さん、確かあなたのお父様は、2型糖尿病で苦しんでらっしゃいましたね。私達の遠いご先祖様は、馬の品種改良だけでなく、私達自身の身体にも手を加える術を発見していました。チンパンジーと人間は、ほぼ同じ遺伝子を持っていると言われていますが、2型糖尿病などの中年後期以降の病気の発病を抑える働きをする遺伝子が、人間の体にはあるのにチンパンジーにはありません。中年後期以降の病気に関しては、これを抑える働きの遺伝子の有無が、それほど大きな自然淘汰圧を持っていたとは思えないので、これは自然の進化ではなく、私達の遠いご先祖様達が、私達の遺伝子に働きかけて、言葉を選ばないで言えば手を加えていた結果です。アルツハイマーや心臓病、あるいは2型糖尿病のような、中年後期以降に出て来る病気を出ないようにする術を私達のご先祖様達は心得ていた。カリフォルニア大学サンディエゴ校のバーキ先生は慎重な言い回しで、自然淘汰圧がかなり弱かったであろうこれらの中年後期以降の病気を抑制する遺伝子が、なぜこれだけ多いのかと言うにとどめてましたがね。人が手を加えたのは明らかでしょ。不老不死はいつの時代も人類の夢。馬に手を加えた私達のご先祖様が私達自身にも手を入れたと考えるのは自然な話。当時のご先祖様達が、子孫へきちんと教育してその貴重な知識と経験を引き継いでくれていれば、あなたのお父様は2型糖尿病なんかで悩む事もなかった。少なくとも、そんな病気に悩まされずにすむ可能性はかなり高かった。教育の欠如というのはそういうデメリットを後代の子孫へ押し付けるという事です。自分はグリモアだからどうだとか、自分は魔法使いだから関係ない、とかそういう話ではありませんよ」

「お話は分かりましたが…誰かもっと専門家に頼んだ方が…」

結城聖奈が戸惑いながら言ってきた。

「確かに突飛な事を注文している自覚はあります。ウチは虎千代とは違うので、彼女ならしないよーな無茶ぶりをしてるかもしれません。しかしね、居合わせてしまったという事もあるんですよ。ウチだって身近にそういう専門家がいればその人達に任せます。いねーんだから仕方ねーじゃねーですか。」

「なせばなる。為さねば成らぬ 何事も 成らぬは人の 為さぬなりけり…というわけですね」

水瀬薫子が、何事かを決意したような表情で言った。

 

ちなみに、なぜ水無月風子が遺伝子関係に詳しいのかというと、発端は冬樹イヴが、国語の先生から無理難題を吹っかけられた事に遡る。冬樹イヴが将来国連で働きたいという事を聞き付けた国語の先生が、特別な宿題と称して、「賛成か反対か。クローン技術の研究について」というお題を押し付けたのだ。「こんなもの、倫理から考えれば反対だし、臓器移植が必要な病気の治療という観点からは賛成とも取れる。こんなどっちとも取れるものが出題されるのはオカシイ」と言いながら、青白い顔をして立ち尽くす冬樹イヴに手を差し伸べたのが、当時同じ風紀委員だった水無月風子と氷川紗妃だ。最初は服部と神凪も手伝おうとしたが、二人はしばらくして、「頭使うのは苦手だから」と逃げ出した。風子も内心は逃げたかったが、委員長という立場上そういうわけにもいかない。最初は3人で手分けしてクローンの是非を解説する日本語のサイトを色々調べたが、しっくり来るものは見つけられなかった。結局賛成、反対どっちもアリの禅問答じゃん、問題として成立してるのコレ?という当初の予想を再確認しただけでした。国語の先生いわく、国連で働くつもりなら英語民と付き合う必要があるが、彼らは日本人と違って理論的なので、日本人の苦手とするこの手の問答をよく吹っかけてくるから、まずは日本語でいいので切り返せるように練習しなさい、との事でしたが…で、なら毒を食らわば皿までとばかりに、今度は3人して英語の遺伝子関係の論文を片っ端から読んだ。毎日毎日ほぼ徹夜で。しまいにはフランス語やドイツ語の論文まで辞書を片手に粘る姿が風紀委員室の風物詩となった。ついこの間までは風紀委員室でチェスをして遊んでいた3人が、連日の論文とのにらめっこである。凝り性の氷川紗妃などは、人の遺伝子だけでなく、人が手がけたと考えられている馬の品種改良の話まで探し出して調べあげる始末であった。ちなみに、風子も紗妃も遺伝子にはこの事件までは興味が無かった。それなのに連日徹夜でやってれば次第に愚痴も出てくる。休み時間に教室の中で、周りに聞こえる事も気にせずに「何が英語民は論理的よ。こんな禅問答をして喜ぶ連中のどこが論理的なんだか」と大声で悪態をつく水無月風子と氷川紗妃の姿がよく見られるようになった。報道部の遊佐鳴子が、この水無月風子風紀委員長の失言を聞きつけて、学校新聞の社説に「大人の知的な会話の作法を知らず、受け入れようともしない残念な風紀委員長」と題して取り上げた。「他人の行いを正す前に、まず自らの頭の中を正した方がいいかもしれない。」などという辛辣な内容で、それを見た水無月風子は激怒。氷川紗妃と冬樹イヴを連れて報道部へ怒鳴り込みに行った。しかし反対にその様子を一部始終撮影された挙句、次の新聞では「水無月風子風紀委員長、まさかの暴走」などと一面トップでやられたものだからすっかり痺れてしまった。

宿題の方は冬樹イヴが結局賛成の立場で書いて、そこは丸をもらえたのだが、冬樹イヴ自身も、こんな賛成だか反対だかわからないものが問題として成立するのはオカシイと考えていたので、「私達が勉強して身につけようとしている知的な態度の実態が、こんなくだらない禅問答好きかと思うとがっかりします」などと意見を書き、どっちも正解と取れるものが問題として成立するのはオカシイと持論を展開して先生から怒られてしまった。納得のいかない冬樹イヴはその後、親しい友人だけでなく、しばらくの間、だれかれ構わず愚痴をこぼしまくっていた。「私達は、将来の立身出世のために、もう少し平たく言うと、将来仕事などで成功するために勉強をしていると思っていました。それなのに、その成れの果てが、こんなくだらない禅問答好きの大人なのかと思うと、なぜ勉強をするのか、分からなくなります」と。

エミリア・ブルームフィールドが、学校新聞に、「なぜ英語民がこういう話を好むか」という詳細なレポートを発表するなど、この騒動は、全校生徒が知る所となった。

こういう逸話もあります。当時報道部員だった岸田夏海が、水無月風子達のこの一連の失態を大声で笑っていた時、遊佐鳴子が通りかかり「岸田君。水無月君達は勉強をしないで不満を言っているわけじゃない。それどころか、連日貪るように英語など外国語の論文を徹夜で読んでいるとの事だ。君も将来ジャーナリストの仕事に就くつもりがあるなら、少しは彼らを見習って最低でも英語くらい勉強したらどうなんだい」と言ってきた。そこで岸田はまずエミリアのところへ英語を習いに行ったが、彼女は「自分は日本語の勉強に手一杯だから」と断られた。それならばと岸田は今度はシャルロット・ディオールの元へ教えを請いに行ったら、キリスト教への入信を勧められたので逃げ出した。で、結局、他に選択肢はなくなったため、あろう事か、水無月風子達に教えを請いに風紀委員室の扉を叩く羽目になった。この時の様子を、岸田夏海はこう回想している。「私は報道部に入ってから、今まで、色々な修羅場を取材した。時には怒られたり気まずい思いをした事もあったが、この時の風紀委員室の扉をくぐる時くらい恥ずかしい思いをした事はなかった。以後、どんなにぶざまでミジメに見えようとも、必死で努力している他人を、もう二度とあざ笑うまいと心に決めた」と。

 

「それにしても、勉強が嫌いで新聞沙汰にまでなっていた会長の口から、まさか教育などという言葉が出て来るとは思いませんでした。」

「ウチは別に勉強嫌いではありませんよ。ウチも人間ですから連日徹夜で興味の無いテーマの論文を読まされたら愚痴のひとつも出ます。見逃してくだせ〜」

「あの時ブルームフィールドは英語民の会話の作法について詳細なレポートを発表したし、遊佐はどこかで聞いたようなお決まりの文句を並べていましたが、なぜ勉強するかという根源的な問いに対して、ついさっき私が提示した内容を指摘できた人は誰もいませんでした。遊佐も、国語の先生も、宍戸博士さえも、です。結局のところ、当時ウチらをあざ笑っていた人達は、実は誰も正解を知らなかったという事になります。滑稽ですねー」

何があって、急にそういう事を思いついたんですかと聞かれ、危うくさっき氷川紗妃と冬樹イヴにしこたま怒られたからだと言いそうになりました。あぶねーあぶねー、それを言ったら正気を疑われます。

「あの間ケ岾が政権を取ったとして、教育に力を入れるとは思えませんし、ウチらも生きていくのがやっとで、生まれた子達の教育なんて、犬にでも食わせとけみたいな感じじゃないですか。彼らが大人になった時、私らが学校から教わった事の何分の1が頭の中に入っているのかなと想像したら、急に怖くなったんですよ。まるでこれは6000年前、生きていくのにやっとで馬の品種改良をどうやって行ったかという知見を後代へ渡せなかったご先祖様と同じ事になるんじゃないか、とね。以前、象牙の塔っていう本を読んだ事があるのですが、数十人ほどの集団で未開の惑星に不時着し、そこで生活を始めるのですが毎日生きていくのがやっとで、人類が先輩達から受け継いだ知識や技術、経験が少しずつこぼれ落ちて失われていく様子が書かれています。興味があれば一読をお勧めしますが、端的にいうと、これからゲネシスタワーを出ていく事で、自家発電も機械農場もなくなりますから、これらもこれからは自然を相手に私達が自力で揃えていく必要があります…そうすると、同じ事が起こりうるのではないか、と気がついたからなんです」

それから風子は、急に芝居がかった口調で

「''3班の人間にも農作業手伝ってもらいたいな。今日は二人姿を見なかったぞ'' ''何をいうか。ウチらは今日は発電機の整備で一日中大わらわだったんだ。サボっていたわけじゃない。むしろ人手が足りないくらいだ''ーーしかし、文化的な生活はどこへ行った?読書している人はいるか?音楽鑑賞は?映画は?床屋は?化粧を楽しんでいる人はいるか?マニキュア?ペティキュア?もういい…私達が先人から受け継いだ文化的な生活は、こうしている間に、いつのまにかどんどんこぼれて行ってしまったではないか…」

それから風子は口調を戻し

「実際問題、ウチらは魔法を使えますから、彼らよりはアドバンテージがあります。しかしですね、ウチらは魔法での戦い方は散々学校でやりましたが、それ以外の魔法の使い方は教わっておらず知らない。さっき水上都市リリパットの材料作りにも魔法が使えるだろうと言いましたが、こうした非戦闘的な用途で魔法を使うのは、誰もがほぼ初めてです。教わってもいないし、今までやってもきませんでしたからね。だから、魔法が使えるからとあぐらをかいて油断してると、そういう事になってしまうかもしれない。実際、私達は、パチンと指を鳴らせば、街中の電気を復活させるなんて芸当はできませんからね。同じくらいの気安さで、建物を破壊するクラスの攻撃魔法ならうてますが。私達の能力は、少なくとも、習い覚えて使い慣れた能力は、酷く片寄っているんです。そこを自分を含め皆さんで、しっかり自覚しておかないと、彼らと同じ事になるという事は、十分ありえます。やり慣れない事を一から初めるのは、精神的にもかなりきついですからねー」

向こうに着いたら、それからが本番ですよ、と付け加えた。

「ところで会長、東の魔物へは本当にお一人で?」

「大丈夫です。自衛隊が残していった戦車も10台ほど借りて行きますよ」

それは偶然の発見でした。先日、ムサシの攻撃で全滅した自衛隊員達…そのまま死体を放置するのもしのびないと考えて、死体を乗せた戦車に魔法で働きかけたら、私の思う通りに動かす事ができた。それどころか、行く手をさえぎる等身大の魔物に対し、その戦車から大砲を撃たせたら、その弾は、あたかも魔法の武器であるかのように、その等身大の魔物を易々と倒してしまった。さすがにムサシ相手には致命傷を与えるまでには至りませんでしたが、私の魔法で動かした戦車の大砲は、あたかも魔法の武器であるかのような振る舞いをしたのだ。2年くらい前に同じような事をした時は、戦車1台動かすのもやっとで、大砲の弾は、魔法の武器ではなく、魔物に対しては全く効かなかったから、この2年で、ウチの魔法の腕が上がったという事でしょうかねー。

「西への移動の最中に、魔物が出ない保証はないですし、300人の移動となれば、それなりに長い行列での行進になります。横合いからの魔物の奇襲等も考えると、西への護衛に17人でも、むしろ少ない方ですよ。」

それに、東から来るムサシ様御一行は、全滅させる見込みがない…ムサシ以外ならなんとでもなりますが。こっちに人数を割いたところで、オトリとなるマトを増やすだけとなる。私一人なら、マトは私一人と戦車10台で、11分の10はムサシの直撃を受けても痛手はないが、私のほかにもう一人来ると、マトは私達人間2人と戦車10台となり、戦車ではなく人間がムサシの攻撃を受ける割合がほぼ倍増する(11分の1から12分の2へ)。それはあまりよろしくない。

ムサシ以外の魔物をやっつける分には、人を増やす効果はありますが、私の操る戦車10台はそれなりに強いので、どうしても応援が必要、というほどでもない。そしてムサシ以外を早々に全滅させたら、あとはひたすら時間稼ぎと遠方への誘導という我慢を強いられる作戦の連続となる。

「西の方には、0歳児を含む乳幼児も数人います。東部戦線はウチに任せて、アンタさん方は西部戦線で確実に死傷者ゼロで乗り切ってくだせー」

さて、そろそろ行きますか。ムサシも迫っていますし、そうそう時間はねーです。

 

ゲネシスタワー1階では、既に荷物をまとめた住人達が待機していた。仲月さらが中心となって点呼を取っている。思えば彼女もこの3年でずいぶん成長した。3年前は、ムサシに怯えて震えている姿が印象的でしたが今は違う。

「300人となると、それなりに長い行列になります。10キロは長丁場ですが、くれぐれも、魔物の付け入る隙のないようよろしくお願いしますよ」

「それと、東の魔物をなんとかしたら私もすぐに合流しますが、タワーと違い、向こうはまず電気がありません。畑なども土を耕して一から作る必要があります。タワーの農場のように最初から水路網が完備しているわけではないので、畑に水を引くためにこれらの作業も必要になります。しかしまず第一に、向こうは電気もガスも水道も機能してませんから、一般市民の方が動揺しないように心づもりはしていてくだせー。彼らには何度も折を見て、タワー以外はとうに発電所もガス水道も機能していない旨は説明していますが、それでもこっちで使えたそれらの物が使えないとなると、慌てるのが人情というもの。魔法で火や灯を灯せる人がいたら、彼らの生活に手を貸してやってくだせー。第一に彼らと一緒になって慌てたりしない事。彼らが向こうに着いて真っ先に見るのはアンタさん方なので。アンタさん方が慌てると動揺します。」

本当は私がその場にいるべきなんですがね。ムサシを何とかしたらすぐ行きますよ。

私はグリモアの学園生一人一人に声をかけると、自衛隊の置き土産の戦車の残骸のある所へ行った。この鉄くずの山が、強力な切り札になるのだから、魔法というのは本当に恐ろしい。ゲネシスタワーの一階に放置されている戦車の残骸は、つい先日の戦いで、中の乗員もろともやられてしまった。ちなみに、遺体の方は、タワー付属の火葬場で荼毘に付している。垂直都市という呼び名の通り、そうしたものはこのタワーには一通り完備されていた。

戦車も壊れており、仮に燃料が満タンでスイッチを入れたとしても、そのままでは動かない。もちろん、弾なども本来ならばとうに切れている…しかし、風子が指を鳴らすと、10台の戦車の残骸は動き出し、一列縦隊を作って見せた。

「魔法を戦いに使おうとすると、こういう芸当までできるのだから、本当にウチらの習い覚えて使い慣れた魔法というのは、片寄っていやがりますねー」

誰に聞かせるともなく、ひとりごちた。

「そのくせ、どんな天候でも作物を育てる魔法、電気やガス、水などを持ってくる魔法、こうしたものは現時点ではまるで使えず、自らの魔力を元手に、これから試行錯誤してその手の魔法を開発しなければならないのだから。学校でもこのくらい教えてくれていれば良かったのに。使う魔力の量から考えても、難易度はせいぜい同じくらいのはず…」

実際、今後学校を作る場面に関われるならーーおそらく、このまま順調にリリパット建設が進めば、次のステップとしてこれが出て来るであろうからーー魔法の授業には戦い方だけでなく、こうした生活関連のものを積極的に取り入れてやろうと風子は考えた。

「学校で教わっていない事は多々ありますが、それをもってやれ学校は要らない、教育は人を愚かにする、などと決めつけるのは短絡すぎます」

18世紀の蒸気機関発明に伴う産業革命で、人類の生活は大きく改善されたが、同時期に現在と同じ学校教育の仕組みが確立された事は意外と知られていない。当時、一人の教育家が、子供達を毎日「学校」に登校させてそこで先生から授業を受けさせるという仕組みを確立した。これが子供達への教育に思いのほかうまく行く仕組みだったので、各国でこぞってこの方式を採用し、前の世代で発見した知識などを後代に伝える仕組みを確立したわけだ。結局のところ、せっかく新しい発見、発明があったとしても、それを次の世代に引き継げなければ、人類の発展というものはなし得なかったわけで、蒸気機関を発明できたとしても、学校に代表される次の世代への知識の引き継ぎができなければ、蒸気機関の発明も忘れ去られて、後の世代の人達(おそらくは、蒸気機関発明前の原始的な生活をしていると思われる)から、「オーパーツ」の一つとして蒸気機関車などが見られていただろう。結局のところ、今世界各地に散らばるオーパーツの数々は、何も宇宙人などの仕業ではなく、せっかく見つけた知識を後世代に引き継げなかった「教育の失敗」としてとらえるべきなのだ。

「人は他人の悪口を吹聴したがる。だがこれだけの熱心さで,他人の長所や,良い点について語って欲しい。それがこの世をより良くする最善の道だから」

これは学校という仕組みを作り出した,例の教育家の生前の口癖である。

「食ってる時以外,ライバルや仕事仲間の悪口を言う癖のあったウチとは正反対ですねー」

そのウチが教育について立て直そうというのだから,皮肉という他はない。

誰に聞かせるともなくつぶやくと、風子は先頭の戦車の上に上がった。操縦席で操るわけではないので、中に入る必要は無い。むしろ上の方が視界が開けて都合が良い。

10台の戦車それぞれの''視界''は風子の視界の左下に見えてはいるが、動かすのにそれほど神経を集中させる必要はない。ちょうど将棋などで盤上の駒を動かす程度の気楽さで行えるため、ムサシ達の魔物の群れの様子を遠目で見たり、デバイスを開いて西部戦線の様子を見たり、必要なら指事を出す事さえできた。

ムサシは無数の、それこそ何千という魔物を連れていたが、10台の魔法戦車の砲撃と風子自身の攻撃の前に、30分と経たずにムサシ以外は全滅した。西部戦線の様子を見ると、今ちょうど移住先の団地との中間点付近に差し掛かったところで、これまでのところ、魔物の襲撃もなく順調に進んでいるようだった。

「さて、残るはアンタさん一人ですか。西部戦線の連中が目的地にたどり着くまで、あと2時間ほど遊びましょうかねー」

奴がこの後ゲネシスタワーを壊したら、この後付近には注意を引く建物が何もなくなる。それで他の地域へ行ってくれれば良いが、移住先の団地へぶらりと現れたら大変だ。そもそも、この3年間、奴がそこへ寄り付かなかったのは偶然なのか、理由があるのか…

「教えてくれませんかねー。これから水上都市を建設するまでに、魔法で必要な資材が順調に揃えられたとしても、最低でも1年くらいはあそこで生活する必要があると思うんですよねー。アンタさんにその間邪魔されると、大変なんですよ。だからどうしてアンタさんが今まで寄り付かなかったのか。ただの偶然と気まぐれなのか、何か理由があるのか、知りたいんですよ。まーアンタさんが頑張っている間は、間ケ岾とか、あるいはもっと危険で暴力的な政権が今後日本を牛耳る事になったとしても、ここまでその魔手は伸びて来ないというメリットもあるにはあるんですがねー」

ムサシが答えてくれるとは思っていないが、疑問が口に出た。

あれから更に3時間、ムサシには戦車砲の一斉射撃等も試してみたが、予想通り、なんの効果もなかった。ムサシからの攻撃で、10台の戦車のうち、風子が乗っていない残りの9台はボロボロの残骸に成り果てていたが、それでも当初の戦闘能力を維持していた。風子は少しずつ戦場を西の移住先とは反対側へ誘導して、ムサシもそれについて来ていた。オトリ作戦は上手くいっていた。しかし風子はその先を考えていた。西部戦線の連中から連絡が入り、全員移住できたとの知らせを受け、後は撤退するだけだったが、この先ムサシをかわすためのなんらかのヒントなり糸口なりを探そうとしていた。

「教えて進ぜよう」

風子の耳にはその時、ムサシがそう言ったように聞こえた。それがいけなかった。ほんの一瞬、集中が途切れてしまい、例のかすかな音を聞き逃してしまった…次の瞬間、風子は例の不可視の刃で真っ二つにされてしまった。はたしてあの時本当にムサシがそう言ったのか、風子の空耳か。

 

気がつくと風子は見慣れない部屋でベットに横になっていた。全身がズキズキ痛い。呼びかける声に気がつくと、西部戦線を任せていた面々がそこにいた。

「デバイス越しに、会長がやられたのが見えたので、慌てて助けに行ったのです」

水瀬薫子が一同を代表して説明した。

私は助かったのだろうか…ふと手を見ると、以前氷川紗妃が死ぬ直前に見せたような色をしていた。下半身が特に痛い。おそらく片足か、あるいは両足とも、既になくなっているのかもしれない。以前服部の時もそうだったが、ムサシはトドメをさそうと思えばできたのに、今回もそれをせずにどこかへと行ってくれたらしい。氷川の時や服部の時の事を考えると、もう時間はほとんどない。

「東部戦線異常なし…報告すべき事案なし…こう記録できる人が、次のリーダーです」

全身の痛みと戦いながら、途切れ途切れに言葉を絞り出す。

「私は今まで…みなさんの犠牲に…戦死者の数に…さいなまされてきました。ここのポジションは…一兵卒の死など取るに足りない…そういう感性の持ち主でないと、とても精神が持ちません…私の実感です…」

やや、間があった。やがて、仲月さらが口を開いた。

「できません。そんな風な記録を残すなどとても。」

水無月風子は既に死んでいた。仲月さらの返事が彼女の耳に届いたかどうか、それは誰も知らない。

手記の最後を書いた後の心境の変化については、生きて生還した後でゆっくり書き加えるつもりであったため、反映されないままになっている…。

 


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