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『ごほーびが欲しいのです』
高校受験の合格発表があった日。
晴れて同じ高校へと通えることになったトガちゃんは、いたずらっぽい表情でそう口にした。
ご褒美? と、首を傾げた僕に言い聞かせるように。彼女は「私、すっごく勉強頑張りました」と言葉を続けた。
『でもさ、勉強を教えたのって僕じゃない?』
『もちろん、感謝してます! ……でもでも、たくさん頑張ったのです。ちょっとくらいイイコトがあっても、バチは当たらないと思います』
『……まぁ、無理のない範囲ならいいけどさ』
あまりにも、物欲しそうな目で見つめるものだから。
無理のない範囲で、なんて曖昧な制限をつけたとはいえ。あっさりとオーケーを出してしまったのは……我ながら甘いというか、なんというか。
子供にねだられる親というのは、こんな気持ちなんだろうか。
僕とトガちゃんは同い年なわけだけど。こういうふうに彼女がなにかを欲しがる度に、子供っぽい仕草を見る度に、そのことを忘れてしまいそうになる。
『で、何かしてほしいの? それとも、欲しいものがあったりする?』
『えへ、なにも考えてません!』
『…………この話は無かったということで』
『わあっ、ちょっと待ってください! 冗談! 冗談です!』
合格番号が張り出された掲示板の前でそんなやり取りをしていた僕たちは、さぞかし鬱陶しかったことだろう。よくよく考えてみれば、その場で誰かから怒鳴りつけられてもおかしくなかったんじゃないかとすら思う。
それに気がつかないくらい、舞い上がっていて。正直にいえば、嬉しかったんだろう。
合格発表に一喜一憂するなんて、それこそ普通の子供のようで。きっと……トガちゃんと出会わなければ、高校受験にあそこまで熱を入れる事もなかった。
お互いの存在があったからこそ、道を踏み外したというのに。社会へと通じるレールの上を進む理由も、お互いの存在だなんて。
人のフリをしている者同士が、相手を人間社会へと繋ぎ止めている。いずれ必ず破滅が訪れると知っていながら、過ぎ去る瞬間の一つ一つを楽しんでいる。
なんだかおかしくて、笑ってしまう。
滑稽だとすら思う。
『で、なにが望み?』
『なにも考えてないっていうのは、本当なんです』
『えぇ……いや、別にいいけどさ。僕が忘れないうちにでも考えてくれれば────』
『だから、ショウくんに考えてほしいんです。ショウくんが一生懸命考えてくれたものが、私にとっての一番のごほーびです!』
『うっわ、随分ハードル上げてきたね』
『えへっ』
あのクリスマスの日から。彼女は少しだけ、僕に対する遠慮をしなくなった。
あれだけ刃を突き立てられて、傷口から血を吸われて、何を今更って言われるかもしれないけれど。僕がそう勘違いしているだけなのかもしれないけれど。
どことなく、雰囲気が柔らかくなったというか。
今の彼女を言葉で表現するならば、そう、自然体になったというのが一番当てはまると思う。
彼女の抱えている吸血衝動というのは、あくまでも手段に過ぎない。その本質は好意を示すための……いうなれば、愛情表現であって。
好きなものに「
血が好き、というのも。
その精神構造に、趣向が寄り添ったんだろう。条件反射的なものであって、パブロフの犬の理屈に近いと思っている。
僕はトガちゃんの気持ちを受け入れた。
僕と同じ服を渡して、気持ちを行動で示した。彼女もそれを理解したからこそ、ありのままの自分で生きていこうとしているのだろう。
それは、僕が望んでいたことであって。
だけど、彼女の存在は世間に認められない。人々が超常の力を宿したこの社会であっても、他者を傷つけることは法的にも倫理的にも許されることではないのだから。
彼女のように、個性が原因で歪んでしまう子供というのは珍しくない。自己と他者の違いを認識する年頃であれば、誰だって道を踏み外す可能性を秘めている。
それを、抑圧しようとするのは。
あるいは、生き物として当然のことなのだろう。価値観を統一して、倫理感で縛り付けて、人間社会というのはその上で成り立っているのだから。
人類が「人」という形を抜け出したこの世界でさえ、人々は自らを人型に当てはめようとする。
角を折って、牙を抜いて、爪を削って。自分という存在を無理やり人の形に近づけて、傷つくことも飲み込んだ上で、痛みを無視して形を変えようとする。
そうしなければ、社会に受け入れてもらえないから。
一見して自分勝手に振舞っている彼女でさえ、そうなのだから。両親に本性を否定され、周囲から迫害されることを恐れているからこそ、彼女は僕の前でしかその本性を見せていなかった。
最後の壁を、ブレーキを踏み続けていた。
だから、僕が彼女を
僕の体に傷をつけて、血を吸う彼女が、あまりにも嬉しそうだったから。本性を曝け出して、生まれ持った本能に忠実に動く彼女の笑顔が、とても魅力的だったから。
少しずつ、少しずつ。その心の中に、僕という存在を刷り込んだ。
傷ついても、血を流しても、最後には元どおり。自分の欲望をぶつけても、絶対に壊れることのないサンドバッグ。
そんなものを目の前にして、どれだけの人々が自制できるだろうか。自らを焼く熱情に、嘘をつけるだろうか。
僕には、出来なかった。
だからこそ、彼女にも同じ場所まで
破滅の瞬間は、最後の壁を乗り越えるタイミングは、同じがいいから。彼女が僕を変えてくれたように、僕も彼女を変えてあげたい。
その方が、幸せに生きていけると思うから。
『じゃあさ、卒業したら────』
最後の一線は、一緒に踏み外そう。
-1-
朝から、どこか気持ちが浮ついていた。
中学校生活最後の日、つまり卒業式。
時間の流れはどんなものにも等しく与えられるものであって。長いようで短かった三年間も、今日で終わりを告げる。
たくさんの思い出を作った校舎も、慣れ親しんだ美術室も、もうお別れだ。
もしかしたら、この先も何か理由があって訪れることがあるかもしれないけれど。よほどのことがない限り、そんな可能性は殆ど無に近いだろうから。
正直にいえば、ちょっとだけ寂しい。昨日の夜までは、珍しくエモーショナルな気持ちに浸っていた。それこそ、日課の夜遊びを控えて大人しく寝てしまうくらいには。
だから…………単純に、色々思うところがあるのは間違いないんだろうけど。
それとはまた違う何かが、腹の底からせり上がってくるような。そんな高揚感と……虫の知らせが、僕の頭の中で激しく動き回っていて。
ゾワゾワとした感覚が、ひっきりなしに背中を駆け上っていく。
気持ちの話だけではなく、肉体的な意味でも。今日一日で何回、トガちゃんやクラスのみんなから体の変化を指摘されたことだろうか。卒業式に合わせて新調した服が、内側から何度も突き破られそうになって。何事もなく元に戻るたびに、その耐久性にありがたみを感じた。
気持ちに引っ張られて、個性の制御まで甘くなっている。
『ショウくんも緊張とかするんですね』
そう言われて、僕はどんな言葉を返しただろうか。会話の内容は覚えてなくても、彼女の不思議そうな表情は頭の奥に残っているから。たぶん……曖昧な言葉で濁したんだろう。
根拠を問われれば、勘としか言えないけど。それでも、ある種の確信のような何かが頭の中を満たしている。
僕たちの日常を変えてしまう何かが。
今日、起きるんだと。
『ちょっとした用事があるので、ショウくんは待っててくれると嬉しいです』
式も終わり、最後のホームルームが終わり。クラスメイトもバラバラに別れて、それぞれが親や親しい友人と一緒に学校を去った後になっても。僕がこうして一人で教室に残っているのは、彼女にそう頼まれたから。
ちょっとした用事、そう言っていたけれど。それがどの程度の時間を必要としているのか確認しなかったのは、僕のミスだ。
一人寂しく窓から外を眺め始めてから、既に十数分の時間が経っていて。普段だったらなんとも思っていなかっただろうけど、今日は卒業式で、奇妙な感覚が残っているから。十数分という、ちょっとした時間であっても。彼女が隣にいないことに、心細さを感じてしまうというか。
一生に一度しかない記念日で、これからの人生で経験できないことなんだから。ちょっとくらい思い出を残しておきたいと考えてしまうのは、割と普通のことなんじゃないだろうか。
自分で思っていたよりも、この場所に愛着が湧いてしまったのかもしれない。
こうして机を撫でているだけで、これまでの三年間を昨日のことのように思い出せる。
トガちゃんと出会った時のこと、美術室での秘め事、夜の学校でのおいかけっこ。
二人きりの部活動、体育祭や文化祭、ハロウィンにクリスマス。
「本当に、楽しかったなぁ」
言葉にすれば語りつくせないほどの思い出が、この場所には残っていて……だからこそ、こんなにも寂しい気持ちになってしまう。
だって、それが終わってしまうから。
中学校生活、だけの話ではなく。
僕たちにはきっと、これから先の人生で。ここで過ごした時間以上に
今日この時、この場所で。
それがたまらなく寂しくて、そして、どうしようもないほど
ずっと待っていた、一生訪れてほしくなかった。
口から笑い声が溢れて、目から涙が止まらない。
嬉しくて、楽しくて、悲しくて、切ない。
陽の光に照らされて教室内に広がっている僕の影が、独りでに動き出して、その形を自由に変化させている。
いや、独りでにっていうのはちょっと違うけど。本当は、僕の体の方が勝手に動き出してしまっているだけなんだけど。
その衝動に身を任せて、自分の心が走り出すままに委ねて。人のものを大きく逸脱した腕で教室の扉を開けて、そのまま身を廊下へと滑らせる。
一歩、また一歩と。足を進めるにつれて、体が元の形を取り戻していく。
そしてシルエットが人の形に収まった後は、一歩、また一歩と足を進める度に、再び怪物の体へと変化していく。
点滅する光源のように、満ち欠けする月のように。人としての僕と、怪物としての僕。それぞれが入れ替わり立ち替わり現れては、お互いの存在を塗りつぶす。
抑えようとしても無理だろうし、抑えるつもりもない。全ての姿が僕で、最後に残るのも僕なのだから。
……本当は、トガちゃんが教室を出て行った時。
止めようと思えば、止めることはできた。
彼女が何かしようとしているのは、目を見ればすぐにわかった。ほぼ三年間、同じ時間を過ごしてきたのだから。様子がおかしいことくらい、察しがつくというもの。
じゃあ、どうして止めようとしなかったのか。
その選択こそが、僕の答えだからだ。
『────────っ!』
誰かの、ステキな悲鳴が聞こえた。
-0-
過去が追いつく、というのは。
きっと、この瞬間のことをいうのだろう。
「ショウくん、大好きですよ」
視線の先で、彼女が微笑む。
僕が壊してしまった家の中で、彼女の周りだけは綺麗なままだった。それこそ不自然なくらいに、瓦礫の一つも存在していない空間。
崩れ落ちた屋根の隙間から覗き込む満天の星が、優しく輝く月が、暗闇の中の僕たちを照らしている。まるで……舞台の上に立つ主人公とヒロインのように。今夜だけは、僕たちがこの世界の主役だった。
「僕も、大好きだよ」
膨張し、沸き立ち、溢れ出して。僕の体は大きく高く膨れ上がって、天へと伸びていく。少し離れた場所にある街からも見えるほど高く、すぐにでも
許容量を越えた質量が、辛うじて建物としての姿を保っていた我が家を押しつぶす。家族との思い出が、これまで歩んできた日々が。その一片も残らずに、瓦礫の底へと沈んでいく。
否定するように、訣別するように。
これは、ケジメだ。両親を死なせてしまった僕への、そして、人間だった過去への。別れのために必要なことで、自分勝手な儀式。
心の奥に残されていた人間らしさが、また一つ、音を立てて砕け散る。
抑圧されていた
もう、人のままではいられない。
まるで、一つの臓器になってしまったみたいに。今まで感じたことのない胸の高鳴りが伝播して、全身が鼓動するように脈打つ。
自分が抑えられない、抑えるつもりもない。
だって、そうだろう。
楽しく生きるということは、自分に正直になるということなのだから。
心の奥底から溢れ出す衝動を抑えつけるなんて、そんなのバカげている。
ねぇ、トガちゃん、お願いだから────。
「ぼくといっしょに、死んでくれ」