僕の存在は、とても危ういバランスの上に成り立っている。
人間の肉体構造を把握していなければ、二足歩行もままならない。トガちゃんがいなければ、
一日前の自分と、今の自分が、同じ姿をしている保証がない。目に映るもの全てがイメージに影響を与えて、それまでに培った知識の全てが肉体を変化させようとする。
自分の意思で思考を完全に制御するというのは、限りなく不可能に近い難題だろう。思考というものは、人々の感情や経験を処理するためにはどうしても必要なものだから。
それこそ、全てを俯瞰してクリアに眺めることができるほどの頭脳を持っているか。逆に、白痴でもなければ。絶え間なく行われる知性の代謝を止めるなんて、できるはずがない。
考えることを止めよう、そう考えている時点で思考から抜け出せていない。雑念を消そうとする行為自体が、雑念そのものに他ならない。
呼吸を止めることはできても、心臓の動きを止められる訳ではないように。何も考えていない、という状態を作り出すのは、自分の意思で心臓を止めるのと同等の技術が必要で。
たとえ、その状態に辿り着いたとしても。四六時中そのままで生活できるわけではない以上、根本的な解決には繋がらない。
僕が僕として生きていくためには、個性を完全に制御するためには。思考停止という「逃げ」に走ることすら許されない。
だからこそ、磨き続けてきた。
生きていくために必要な知識を掻き集めて、その知識を十全に活かせる技術を身につけた。
それが必要なことだというのは、分かっていたから。他の誰のためでもなく、自分が自分らしく生きるために必要なことだと、理性と本能の両方で理解していたから。その積み重ねの先に、今の僕が存在している。
ずっと、考え続けてきた。
自分とは何者で、何が僕を僕だと証明してくれるのか。ずっと、ずっと考え続けてきた。
『個性:変身』
自分の肉体を、望むがままに変化させる力。想像力の行き届く限りなら、何者にでも『成れ』る力。何者でもない何かにでも、『成れ』てしまう力。
そんな力の発動条件が、頭の中のイメージだけだというのが……僕は恐ろしかった。
そもそも、イメージというのは酷く曖昧なものだ。脳の処理能力に限界がある以上、一つの姿を思い浮かべたとしても、その時その時によってイメージの解像度には差があるのが当たり前なのだから。そんなものに身を委ねて、個性の制御を任せて、肉体の変化を行うなんて。
何度も何度も、足元が崩れていくような不安が頭をよぎった。
あとどれだけ、今の姿を保っていられるだろう。言葉で形容できない姿に、醜い肉塊にならないでいられるだろうと。そう考えない夜はなかったし、朝は必ず姿鏡で自分の体を確認した。
そして、昨日と変わらない自分が鏡の中に立っているのを確かめるたびに。なんともいえない安堵の念が、胸の中から溢れて止まらなかった。
誰にも、理解できない。
僕以外の誰一人、この気持ちは分からない。
次の朝に目覚めた自分が、それまでの自分じゃないかもしれない。鏡の中に映る姿が、見知らぬ他人のものかもしれない……人のものですらないのかもしれない。そんな苦しみを抱えて過ごす日々が、どれだけ辛く、非情で……心を歪ませていくのか。
この気持ちは、同じ環境に身を置いている者にしか理解できない。
鏡の中の自分が、本当の自分の姿だという保証もない。自分で『自分』だと思っているものですら、正解だとは限らない。
目に映るものが信用できず。記憶の中にある姿は曖昧で、時間とともに薄れて消えていく。
じゃあ、自分とはなんなんだ。
目の前にいるのは誰だ、鏡の中で笑っているのは誰だ。一日たりとも姿が安定しない、見るたびにどこか違和感を覚えさせられる。この気持ち悪い生き物が、本当に僕なのか。
見た目があてにならないなら、何を以って自分が『
先生も、友達も、両親ですら。僕がその気になったのであれば、僕を見つけ出すことなんて出来ないだろう。己の意思一つで姿を変えられる存在を、街行く人々の中から探し出すなんて、
彼らが、何を持って僕を『
ある日突然、僕が全くの別人と入れ替わったところで。観測者である彼らに、それを認識する力はない。
僕以外の存在が、僕のアイデンティティを証明してくれることはない。それは裏を返せば、自分で自分の存在を認識し続けなければいけないということでもあって。
僕は、どうやって自分が自分であることを証明できるのだろうか。
人々の瞳に映る僕は、本当に僕なのだろうか。
考えなければならない。
イメージで肉体が変化するということは、言い方を変えれば、僕は自分自身のイメージによって生かされているということなのだから。
その根幹が揺らぐことがあれば、自分を認識する力が弱まれば。その瞬間、僕は僕ではなくなってしまう。自己を喪失して、何者でもない何者かになってしまう。
はたして人間は、何を以って自分が自分であると証明しているのだろう。
その拠り所は、自己の所在はどこなのか。
僕は自分を守るために、結論を見つけなければならない。
僕は自分を、こういう存在なんだと定義する必要があった。どんなことがあっても揺るがない、滅多なことでは失われない……そんな、自分に対する絶対的な認識を用意しなければならなかった。
だから────開き直った。
人間でなくてもいい、化物でも構わない。
どんな姿であっても、どんなに醜くても。見た目が僕を証明しないのなら、もはや僕にとって重要なものではない。
この肉体も、個性も、そして精神も。全部が全部、僕のものなのだから。他人からどう見られようと、嫌われようと、揺らぐものではない。
やっと、
僕は自分から、化物であることを選んだんだ。
人にも戻れず、毒虫として生きる覚悟も持てなかった。何者にもなれないグレゴールとは違う。
選べなかった男とは、違うんだ。
-0-
初めてのキスだった。
貪られた、と。そう表現するに相応しい、激しく、情熱的で、インモラルな接吻。息継ぎをする余裕がないほどの、本当に食べられてしまうんじゃないかと錯覚してしまうくらいに、強引な口づけ。
顔を寄せ合ってから、どれだけの時間が経った事だろうか。きっと、僕が思っているほど長くはないんだろうけど。まるで、永遠にも等しい瞬間で。
目の前に広がる、耳まで真っ赤に染まった彼女の顔。その原因は酸欠なのか、それともまた別の何かなのか。
全力で走った後のように、荒々しい呼吸。苦しそうに見えるけど……その瞳に映っているのは、紛れもない欲望の発露。
倫理観や固定観念を乗り越えた先にある、とても見覚えのある表情。
楽しい、嬉しい、
そのためなら、何を犠牲にしても構わない。そんな、破綻者の
トガちゃんの顔に張り付いているのは、そういう類のものだった。
どうして……なんて、そんな無粋なことは口にしない。我慢ができなくて、どうしようもなく求めてしまう。その気持ちは、僕が痛いほどよく分かっているから。
だから、その代わりに。
────それが、君のやりたいこと?
僕の口から出た言葉は、自分の声と思えないほど遠くて。どこか他人事で、現実味がない譫言のようで。
そして、悦んでいる。
彼女の瞳の中の僕は、彼女と同じ
それが、気に食わなかったのだろう。
トガちゃんは不満そうに唇を尖らせて、僕へと僕へと体重を預けた。胸元へと頭を押し付けて、僕に見えないように顔を隠す。
「もっと、こう、感想とかないんですか」
「食べられちゃうかと思ったよ」
「…………殺すつもりで、やりましたから」
「おお、こわいこわい」
「バカにしてますよね、それ」
ポカポカ、なんて生易しいものではなく。ザクザクと、手に持ったナイフで僕の胸を突く彼女の姿はきっと、誰の目から見ても異常者そのものだろう。
二人きりの部屋、秘密のやりとり、今までの関係と変わらないように見えるこの行為だけど。たとえこの場に他の誰かがいたとしても、彼女は僕を刺すことを少しも躊躇わないだろう。
分かるんだ、同じ生き物だから。
理性を失って、本能のままに動く獣。
彼女は、化物だ。
「ところでトガちゃん、相談があるんだけど」
「う〜……なんですか?」
「これからのことさ」
急に黙り込んでしまったトガちゃんを見下ろしながら、言葉を続ける。話の内容に不穏さでも感じているのか、どことなく元気がない。
人を、刺した。
世間一般的には、人を傷つけるのは犯罪行為であって。それは、この超人社会でも変わらない。
あれだけ頑張って勉強して手に入れた高校生活への切符も、取り上げられてしまうだろうから。その事を考慮すれば……彼女は、責められると思っているのかもしれない。
僕が、彼女のしたことを非難するはずがないのに。
「応急処置をしたとはいえ、斎藤くんは重症だよ。間違いなく警察に話がいくだろうし、誤魔化しきれる事じゃない。もしも一時的に追及を逃れられたとしても、斎藤くんが証言すれば僕たちは一発で犯罪者だ」
「……でも、ショウくんの
「これまでそうだったとしても、これから先もそうだとは限らない。夢と希望を将来設計に入れるには、僕たちは人の道を外れすぎた……それに、斎藤くんはヒーロー志望なんだから。むしろ、今までがどうかしていたんだと考えるべきだね」
「だったら、今からでも口封じに────」
瞳に冷たい殺意を宿したトガちゃんの言葉を遮って、口を開く。
「ダメだよトガちゃん、それは違うでしょ」
「なにが違うんですか」
「
「そして、僕が
唖然と、口を開いて固まった彼女に諭すように言葉を続ける。
「トガちゃんにやりたいことがあるなら、僕は止めないよ。むしろ、喜んで手伝うさ。たとえそれが、幼馴染をこの手にかけることでもね」
「だけど、そうじゃない、そうじゃないんだよ。トガちゃんがやりたいことは、君にとって楽しいことは、そんな物じゃないでしょ? そんな冷たい目でやることが、楽しいはずがない」
「君が、僕が、みんなが。やりたいことをやって、楽しく生きていくべきなんだよ。その為には努力を惜しまない、その為にはなんだって捨てられる。自分の本心に素直になって、正直に生きていくべきなんだ」
楽しいことをする時は、笑顔で。そんな簡単なことですら、みんな忘れている。
僕はそれを、トガちゃんにも思い出してほしい。
楽しい時は笑っていいんだって。笑っても、もう誰にも殴られないんだって。当たり前の幸せを、当たり前のように享受していいんだって。
そうさ、いつの時代も変わらない。
人の道を外れた者は、ヘラヘラ笑って過ごすんだ。
「トガちゃん、もう一度聞くよ。君のやりたいことはなに? 君はこれから、どうしたいの?」
「……私が、どうしたいか」
「そうさ、僕はそれが知りたいんだ」
「私、私は……」
彼女の、決意を込めた視線が僕を貫く。まるで……恋する少女のように、ただの女の子のように。告白するような面持ちで、心の奥底の欲望を言葉に変える。
それでいい。
君がやりたいことが、君にできることだ。
「私は、ショウくんと一緒にいたいです。これからもずっと……いつまでも! 今までみたいに、二人で笑って生きたい!」
「だって、あんなに楽しかった!」
-0-
ずっと、ずっと考えていた。
グレゴールは、どうすれば死なずに済んだのか。身も心も毒虫になった男は、どうして死ななければいけなかったのか。
生きるために、何を犠牲にすればよかったのか。
「じゃあ、親にお別れしてくるね」
「ショウくんの両親、絶対にビックリしますよね。卒業式のあったその日のうちに、息子が家を出るっていうんですもん」
「そうかな? ……そうかもね」
「あっ、私も挨拶していいですか? ショウくんのご両親、きっと好きになれると思うのです。ショウくんの親ですもん」
「うーん、それは難しいんじゃないかなぁ」
「えー、なんでですか?」
「だって────」
人の言葉を話せるようになればよかったのか。毒虫の本能に逆らって、人の心を保てばよかったのか。その反対に、人間だったことへの未練を捨てて家を去ればよかったのか。
きっと、その全てが正解であって、間違いなんだろう。
人の言葉を話せたところで、毒虫としての本能に逆らえなかったら意味がない。毒虫の本能に逆らえたとしても、コミュニケーションのとれない化物に人が愛情を抱き続けるのは難しい。家から去ったところで、その先で野垂れ死ぬか殺されるだけ。
だから、僕はこう思う。
グレゴールが生き残るために必要なもの、それはきっと────。
「────だって、二人とも死んでるもん」
「死体を好きになるのって、たぶん、難しいよ?」
『────君のは、