それはまだ、彼が一人の少女と出会う前のお話。
グレゴールの終幕は、紳士と共に訪れる。
父親が、苦手だった。
異形型と発動型の複合個性持ちの父親には、およそ人間らしい表情が無かった。目も、鼻も、口もない…………日本妖怪として知られる『のっぺらぼう』のような外見の男が、僕の父親だった。
つるつるとした、ゆで卵のような肌。体毛は一本も生えてなくて、それは人間というよりも、出来のいいマネキンのようで。
そんな父親の顔を見るたびに、僕はなんともいえない息苦しさを感じていた。
同情なのか、同族嫌悪なのか。あるいは、それとも違う名前のない感情か。
自分と同系統の個性を持った、顔のない男。およそ人間らしい特徴を全て持ち合わせていないその在り方は、僕にとって、理解できないものだった。
どうして、そんなに笑っていられるのか。
皺一つない顔では、人間らしい表情も浮かべることが出来ない。口がないから、他人の顔を借りなければ好きな人にキスすることもできない。
記憶の中にある父親の姿は、そのほとんどの場面で、母親の姿と同じものだった。
いつも、母親の姿を借りて生活していた。
自分の見た目が、自分の存在を証明してくれない。そんな人生を強いられているのに、どうしてそこまで楽しそうに生きていられるのか。
自分が分からなくなるのが、怖くないのか。
惨めだと思わないのか。
母親と一緒にいる時、父親は本当に楽しそうに笑っていた。母親と同じ顔で、母親とは違う笑い方をしていた。
羨ましかった。
僕はいつも、自分の姿を保つので精一杯で。個性を使って外見を変えている都合上、表情を変化させることでさえ、繊細な力のコントロールが必要だったから。
普通の人間のように、笑って、泣いて、繊細な感情を表現できる父親のことが。僕は羨ましくて……多分、尊敬していたんだと思う。
この超常社会であっても、見た目に対する差別は存在している。人の形を外れている者を迫害したがるのは、いつの時代だって変わらない。
『異形』型という分類の仕方にまで、敏感になる者もいるくらいなのだから。建前上は存在しないことになっていても、実態としてはありふれた問題なのだろう。そういった個性による肉体の違いを発端とした諍いは、僕も何度か見たことがある。
気持ち悪い、怖い、見たくもない。
全部、僕の目の前で吐かれた言葉だ。
僕が起こした事件の被害者へ頭を下げる父親に、被害者の親族が口にした言葉だ。
適当な姿に変身すればいいのに、わざわざ素の自分で頭を下げることもないのに。それでは不誠実だからと、異形型としての姿で頭を下げた父親。
家族の僕たちにでさえ、滅多に見せないくせに。その見た目で、コンプレックスを抱えていない筈がないのに。
何を言われても、物を投げつけられても……父は反論も、抵抗もしなかった。何を考えているのか分からない顔を、下げ続けていた。
普通の人間のように、子供を守る親のように振る舞うことができる父親が、僕は苦手
『ショウ! 俺が「
その父親が、あんなに大きな声を出したのは。後にも先にも……その瞬間だけだったと思う。
個性による変身が解かれた状態で、頭から血を流しながら。父親は僕を無理やり部屋へと押し込んで、どこから発しているかも分からない言葉を、叫ぶように吐き出した。
表情がないはずの父親の相貌は、明らかな「焦り」の感情に満ちていて。切迫した状況にも関わらず、僕はその事実に驚きを感じていた。
顔がない父親の表情を、僕は読み取っていた。
何も言わない僕の額に、父親は一つ口付けを落とした。唇のない父親の口は、つるりとした感触だったけれど。それは間違いなく、父親から僕への愛情表現だった。
力一杯抱きしめて、頭を撫でて。
何も言い残すことなく、父親は僕を残して走り去っていった。
それが、今生の別れになった。
僕が見た最後の父親の姿は、守るべきものへ背を向けて悪へと立ち向かうヒーローそのものだった。
だから、その瞬間が訪れた時。
『ショウ、ここを開けてくれ』
扉の向こうにいるのが、父親ではないのだと。
僕は……理屈や感情ではなく、本能で理解した。
-0-
『どうして
そう言いながら扉を開けたのは、知らない男だった。知らないけれど、見覚えのある姿をしていた。
目も、鼻も、口もない、ゆで卵のような顔。母親と差別化するためにあえて右手薬指につけていた、結婚指輪。頭の中に残り辛い、特徴のない声。
その全てが、僕を部屋に閉じ込めた父親のものと同じだったけれど。僕の瞳に映る目の前の男は、明らかに父親とは別人だった。
何が『
そのことを正直に伝えると、目の前の男は困ったように顎に手をやった。父親がしたことのない、見覚えのない仕草だった。
それ自体が、僕の感覚が正しいものだと証明していた。父親の姿をした、父親ではない何者かが、父親のフリをして僕に話しかけている。
それが、何故か許せなかった。
『ふむ、困ったね。姿形を偽ることに関しては、彼の個性はなかなか使い勝手がいい方だと思っているのだが…………なるほど、彼の個性を以ってしても、家族の情までは模倣できないらしい』
そう口にしてから、その男は『僕の父親の個性』を解除した。
ドロリ、と。男の体の表面が溶けるように崩れ落ちて、その中身を世界へと曝け出す。偽りの殻が崩れ落ちて、本当の姿が晒される。
周囲の温度が下がったと錯覚するほど、悍ましい怪物だった。
むき出しの悪意を人の形に押し込んだような、そんな存在が、目の前の男の本性だった。
『初めまして、僕の名前は────オール・フォー・ワン。率直に言おう、君の個性を、貰いにきた』
自らをオール・フォー・ワンと名乗ったその男は、黒いスーツを身につけていて、装いだけは紳士のようにも見えた。
しかし、その顔は口がある以外は僕の父親と同じ……のっぺらぼうのような顔をしていて。薄く開かれた口元には、不気味な笑みが浮かび上がっている。
父親とは似ても似つかぬ、邪悪な存在。
高そうな衣服に付着している血液が、誰のものなのか。この怪物に聞くまでもなく、僕は理解していた。
反射的に、腕を伸ばした。
自分の身長の何倍も長く、太く肥大化させた腕を、叩きつけるように振り払った。
自分でも理解できない何かが、この明らかな格上へと攻撃することを良しとした。その先に死が待っているとしても、何もしないまま終わるつもりはなかった。
『すぐに暴力に頼るのは良くないね。君の両親が、そうしろと教えたのかい?』
知ったような口を聞いた男に、苛立ちが募った。怒りをぶつけようとしたことが、個性にも反映されたのだろう。身体中に沢山の口が形成されて、一斉に同じ言葉を叫んだ。
『お前が殺した!』
『それは、彼らが抵抗したからさ』
殺すつもりはなかったんだと、白々しい言葉を続けて。男は何でもないように、追撃を片手だけで受け流す。僕の叫び声と一緒に、あっさりと、残酷なほど軽々しく。
初めて、自分の意思で人を傷つけようと思った。胸の奥にしまい込んでいた獣性を、その更に奥にあった感情が解き放った。
だけど、それでも、目の前の男には届かない。
僕の家が少しずつ壊れていくのに対して、その怪物は無傷のままだった。あまつさえ、攻撃を前にして軽口を叩くだけの余裕があった。
『敵わないと理解しながらも立ち向かうか、君の両親と同じだな!』
『大人しく君を差し出せば、もっと優しく殺してあげたというのに。どうしてそんなに対抗する? 君の個性があったから、君たちは……こんな、人里離れた場所に隠れ住む羽目になったのではなかったかな?』
『君だって、自分の存在が両親を苦しめていたことは理解していたんだろう? だったら、僕に感謝して個性を差し出せば良かったじゃないか。君のように、生まれ持った個性に苦しんでいた者はみんなそうしたぞ? 君も、君の両親も、どうしてそれを拒む?』
『僕には、理解できないね』
その一言とともに払われた豪腕が、僕を吹き飛ばした。
咄嗟に四方へと体を伸ばして、壁との摩擦で勢いを殺そうとしたけれど。そんな小細工では収まりきらないほどの勢い、ほとんどそのまま速度で、体が叩きつけられた。
壁を突き抜けて、何度も地面にバウンドして。その先の壁にぶつかって、ようやく勢いが止まる。
身体中の痛みを無視して、個性を使う。血が吸い込まれるように傷口へと逆流し、千切れ飛んだ肉片が断面にくっつく。
肉体が元に戻っても、精神はそうはいかない。どうしようもない感情が、行き先を求めて暴れまわっている。
名前もわからない、理解できない衝動が。
目の前の男に立ち向かえと、体を動かしていた。
『つい殺してしまったかと焦ったが……なるほど、確かに優秀だ。あれだけの傷を治して、全く消耗する様子を見せないとはね。ドクターが勧めるだけはある、
男は、複数の個性を持っていた。
口ぶりから察するに、他人の個性を奪って使うことが出来るのだろう。殺しかけたことを焦ったと言った以上、生きている相手からしか個性を奪うことが出来ないのかもしれない。
先ほどまで使っていたのも、間違いなく僕の父親の個性だ。その証拠に……僕の隣には、見たことのない顔の男性が倒れている。
右手薬指に、結婚指輪をつけた。見覚えのない顔の、知っている男性。異形型としての姿を失い、無個性となった男の末路。
父親
『彼は立派だったよ。自分達が劣勢なのを理解した瞬間、逃げるフリをしてその場を離脱……僕の目的が
僕が父親の亡骸に気を取られていることに、気がついていながら。その隙を突こうともせず、男は淡々と父親の死際を語る。
思ってもいない哀れみを口にする姿が、ひどく疎ましい。
『君の母も、素晴らしい最期だったよ。ただの一般人にしておくには勿体ないくらい手強い相手だった……そうだね、彼女が十人ほどいれば君がこんな目に合うことも無かったんじゃないかな?』
父親の亡骸に寄り添うように、母親の体が横たわっていた。どんなことがあっても僕から目を逸らすことなく、いつも正面から向き合ってくれた尊敬すべき大人。
その瞼は薄っすらと開いていて、だけど、瞳に光は宿っていない。
父親と同様、物言わぬ肉の塊と変わり果てていた。
『君たちのことは、ずっと前から知っていたんだ。面白い個性を持った一家がいると、ドクターが教えてくれてね……ただ、彼にも君の個性の性質は理解しきれなかったようでね。君が成長して個性の使い方を理解できるようになるまで、保留という扱いにしていたんだよ』
『この屋敷を提供したのも、実は僕なんだ。目の届きやすい場所で観察できるように……そして、今日みたいな日がきたときにヒーロー達が簡単に助けに来れないように。わざわざ、君たち家族のために用意したのさ』
『理解できたかな? どれだけ頑張ったところで、誰も君を助けにこないということを…………早めに諦めた方が、苦しまずに済むと思うけどね』
嘘か、真か。男が言っていることの真偽なんて、僕に判断することは出来ない。
だけど、どっちでもよかった。ただ、この身に溢れる感情に任せて暴れたい気分だった。
僕のせいで両親が死んだと、認めたくなかった。
『無理やりというのは、得意ではないんだけどね』
抵抗する意思を見せた僕に、男はそう言った。
言葉とは裏腹に、楽しそうに口元を歪めて。個性で肉体を変化させながら、笑っていた。
楽しそうに、嘲笑っていた。
『手短に済ませるとしよう』
-0-
『こんなに手荒に事を運ぶ気は無かったんだ』
『君の個性が熟するのを、待っているつもりだった。金でもなんでも、望むものを用意して穏便にやり取りしようと思っていたんだ』
『だけど……ああ、忌々しいな。オールマイトのせいで、僕は弱くなってしまった。傷を癒せる可能性があるなら、一つでも多くの個性を集めたいんだ』
『いまは存在を気取られるわけにはいかないからね、僕に繋がる痕跡は、少しでも早く消し去らなくてはならない』
『残念だよ、申し訳ないとすら思っている。信じてもらえるかは分からないけど……君も、君の両親も、殺すつもりは無かったんだ。代わりになる個性を用意してあげようとすら思っていた』
『つまり、オールマイトが悪いんだ。あの男が僕を傷つけたから、僕は君たちを傷つけなければいけなくなった』
『恨むなら、あの男を恨んでほしい』
『君の個性、頂戴するよ』
『