一度だけ。
たった一度だけ、家を飛び出したことがあった。
僕を恐れ、排斥しようとする周囲の人々の。
その視線、態度、振われる暴力に嫌気がさしたあの頃。
何も悪くない両親が、僕のせいで非難にさらされ、頭を下げる姿を見るのが辛かった。自分たちだって、傷ついているだろうに。それでも、両親だけは僕のことを一度だって責めたことは無かったから。
その姿勢が、なんとしても僕を護ろうというその姿が。何よりも眩しくて、痛々しくて、見ていられなくて。
彼らに何もしてあげられないことが、一方的に護られている事実が。
そして、それだけ愛されているにも関わらず。
心の中に
たくさんの人々の偏見や憎悪が生み出した『化物』の虚像が、嘘偽りない僕の本性であると自覚していたから。
申し訳なくて、辛くて、苦しくて。
まるで溺れているみたいに、息ができなくて。
『大丈夫だから』
そう口にする両親に背を向けて、逃げ出した。
体だけでなく、心まで醜いことに耐えられなかった。
両親は、ただの一度だって僕を責めたことはなかった。こんなに迷惑をかけて、本来受けるべきでない誹謗中傷まで浴びせられて。なのに、その原因である僕のことを、それでも二人は愛してくれていた。
その無償の愛が、注がれ続ける光が。怪物でしかない僕の心にとっては、毒のようなものだったから。
だから、これは夢だ。
『ごめんね』
────どうして、謝るの?
『お前のことを、守ってあげられなかった』
これは夢だ、夢なんだ。
だって、あの時、僕を迎えにきた二人は。
何も言わず、何も聞かず、僕が口を開くのを、ただひたすら待ち続けてくれたから。
逃げた先の公園でただ一人泣いていた僕のことを、抱きしめて、頭を撫でて。僕がどうして逃げ出したのか、何を考えて、何を求めているのか。
そういうことを、自分から言い出すのを待ってくれたから。あの二人は、決して僕に謝ったりはしなかったから。
『不便な体に産んでごめんね』の。
その言葉こそが僕を傷つけると、これからの成長を妨げると、あの二人は理解していたから。不便を感じさせているのも、迷惑をかけているのも僕だっただけど。二人は一度だって文句を言わず、愚痴を漏らさず、卑屈になることも、自棄になることもなく。
ただ、真摯に向き合って成長を見守ってくれた。
だから、これは夢。
罪悪感が見せる夢。
あるいは、今際の際の幻覚。
それとも、迎えにきてくれたのだろうか。
あの男。個性を奪う個性を持つ、あの怪物。
あいつに両親は殺された。
『パパ』と『ママ』は、もういない。
僕とパパが逃げる時間を稼ぐために、ママはあいつに立ち向かった。個性を奪われて、ついでのように命まで奪われた。
僕の身代わりになるために、パパは自ら危険へと踏み込んだ。個性を奪われて、想いも願いも踏み躙られた。
もういない、どこにもいない。
どんな時でも僕の味方だったあの二人は、僕を置いてこの世から消えていってしまった。
『ごめんね、ショウ』
だから、いま僕が見ている二人の姿が本物なのだとしたら。
それはつまり、僕も既に────。
『お前を置いて逝く私たちを、許してほしい』
『いつも側で見守っているから』
-0-
その男は、長い、長い時間を掛けて世界中に種を蒔いた。
『────素晴らしい』
キッカケは、ほんの些細な気紛れだった。
唯一の肉親にして半身。愚かで、無力で、可哀想な弟に『力をストックする』という個性を与えて。弟が元々持っていた個性──『個性を与える』という、単体では無意味な力と混ざり合い、『ワン・フォー・オール』という特別な個性を生み出したのが全ての始まりだった。
その時点の男には、その事実は知るべくもないことだったが。気まぐれに過ぎなかった行いは、新たな可能性を生み出し、発展へと繋がった。男は幾分か後にこの事実を知り、その経験を元に『個性を組み合わせる』という発想を得た。
とはいえ、その発展はまだまだ途上もいいところ。分不相応にも自分を止めようなどと考えていた弟も、最後にはどこぞへ消えて、目の届かないところで息絶えた。
どれだけ力を得たところで、その力が弱ければ。
あるいは、使い手が未熟ならば。
結局は無価値で、なんの意味もない。
より大きな力に、より大きな悪にすり潰されるだけの哀れな存在に過ぎないのだから。
ただ、時間が経つにつれて。
世代を超えて、継承を繰り返して。
何度すり潰そうとしてもしぶとく生き残り、個性そのものが強くなっていく姿を目の当たりにして。
ふと、考えた。
というより、考え直した。
『個性』は、組み合わせることで強くなる。
弱い個性、使いづらい個性、ありふれた個性。世の中の大半はそういった凡百に過ぎないが、それでも自分なら強く上手に使いこなすことが出来る。
ただ、それは自分の個性が──『オール・フォー・ワン』が他者の個性を奪うことが出来る強力にして特別な力だからであり。その個性に見合うほどの、力を受け止めるための『器』が備わっているからこそ可能なことであって。
この世の大半の人々は、その入り口に足を踏み入れることすら出来ていない。
そう考えていたことを、改めた。
改めさせられた。
『個性』は組み合わせることで強くなる。
自分にとっては当たり前のことだったその事実に、世間が追いつきつつあることを知った。
異なる個性を組み合わせ、一つにする方法。
最も原始的にして、生物の根幹ともいえるその方法。
つまり、遺伝子の配合による次世代への継承。
世代の交代などという時間も手間も掛かるそれが生み出す力を見て、気がついたのだ。
時間が経つほどに、継承を繰り返すごとに個性が強くなっていくのだとしたら。その個性を奪う方が、有象無象の個性を奪うよりも遥かに効率がいいと。
ただ、それを待つだけなのはいただけない。
生まれる『かもしれない』強力な個性が堕ちてくるのを、ただ大きな口を開けて待つなんてのはナンセンスとしかいいようがない。
だから、世間を煽った。
相性のいい個性同士、元々強力な個性同士。
そういう組み合わせでの番が増えるように、世論を動かし、情報を与え、人々を操った。
簡単だった。キッカケを作ったとはいえ、あとは殆ど勝手に人々は転がり落ちていった。
限りのない欲望、力への欲求。本来人間という生き物は、力で他者をねじ伏せることに喜びを感じるものなのだから。
面白いくらいに、思い通りに人々は動いてくれた。個性婚、などという名称が囁かれるようになった時にはあまりの滑稽さに笑いが堪えられなかった。
繁殖など、子孫を残す必要がある弱き生き物の成すことだと考えていた──が、檻の外から見る分にはこれがなかなかに面白い。
お前達は僕に食べられるために産まれたんだよ、と。強力な個性を発現した子供達を見るたびに、報告を受け取るたびに。そう教えてやりたくて仕方がなかった。
収穫する時のことを思うだけで、悪意と愉悦で腹の中が満たされるようだった。この感覚を味わえるのだから、なるほど、人類が畜産の道を選んだのも頷ける。
そんな事を考え、有象無象を踏み躙り続けて。
そして────。
『素晴らしい! ──本当に、良い個性だ』
この日、男は
口にした
いや、それだけではない。
その程度で満足する男ではない。
戦いよりも更に前へ──付き合いの長い古傷の一切を消し、常人よりも遥かに遅い『時』の歩みすら巻き戻し。
一切合切の不調を、肉体の持つ限界を捨て去り。
男の持つ果てのない欲望を叶えるように、肉体を全盛期の──それ以上の状態へと引き上げていく。
個性『変身』
頭の中に思い浮かべた姿へ変身できる。
その本質は、上書きし続けること。
変身、などという言葉の範囲に収まらない。
人の枠組みを超え。
肉体の限界を──命に縛られる者の制限を無くす個性。
正に、進化というべきだと。
気を抜けば、溺れてしまいそうなほどの。
強大な全能感に包まれながら、男はそう思った。未熟で、矮小で、卑小な子供一人の器では持て余すのも仕方がないと。必要以上に恐れ、抑え込もうとしても仕方がないと。そう考えて、嘲笑った。
無意識のうちに、笑い声が溢れた。
最初は自分の声だと気が付かなかった。
どんどん大きくなっていく声が、やがて建物を震わせるほどになった。
その時。
『────なんだ?』
-0-
『何か、変だ』
男は、気付いた。
そして、それこそが彼の
きっとこの男は、何事もなくこの場を立ち去った事だろう。唯一自分を害することの出来たヒーローに報復を果たし、何の脅威もない世界を裏と表両方から支配したことだろう。
『なぜだ?』
個性を奪った相手は、個性を失った姿へと戻る。
異形の個性を持つ者でさえ、それを奪ってしまえば只人と変わらぬ姿に変わる。
そこに例外はなかった。
少なくとも、男の『知る』限りでは。
『なぜ、消えた?』
気がつく、という事は。
知る、という事は。
『変わる』ことのキッカケになってしまう。
実を食べる事で知識を得た最初の人間は、どうしようもなく変わらざるを得なかった。裸でいる事を恥ずかしがるようになり、生まれたままの姿でいられなくなった。
『なぜ、死体が消えた?』
確実に殺していた。
個性を奪ってから、首の骨を折った。個性を無くした人間にとって、いや、仮に個性があったとしても。普通の人間にとって、それは間違いなく致命傷のはずだった。
目を離していたわけではない。
見逃した訳でもない。
全能感に溺れて、注意を疎かにするわけがない。
それなのに、消えてしまった。
男の目の前から、視界から、世界から。
消えて、何処にもいなくなってしまった。
個性を奪った子供の体が。
ショウと呼ばれていた子供の肉体が。
『
手持ちの中から適当な個性を見繕い、周囲を観測する。視覚、聴覚、嗅覚、触覚、味覚をそれぞれ強化し、合わせて身体を『個性を扱うに相応しい形』へと変える。そこに加えて、直感や勘と呼ばれるモノを扱う個性を使用する。
その全てが、疑問への回答を彼に与えた。
『これ、か?』
そして、特に多いわけでもない。
子供とはいえ人間一人分の体積を満たすとは到底思えないほどの、真に矮小で、気に留める必要もないほどの小さな粒子。
それこそが、消えた人間の正体。
全てを奪われた、哀れな存在の成れの果て。
かつて人間だったモノ。
見たことのない現象を前にして。
男の思考の中に、一片の疑問が投げ込まれた。
なぜ? と。
-1-
知恵を付けた者が永遠の命を得る事を恐れ、神は人間を楽園から追放した。そのせいで人間は、必ず死ぬようになった。
知るという事は、知恵をつけるという事は。
それまでの生き方を、価値観を変えてしまうということであり。同時に、人生そのものを別のものへと変貌させてしまう可能性を秘めている。
その実が死の原因に繋がった毒虫は、変わった事で苦しんだ怪物は誰なのか。苦しむ怪物へと、成り果ててしまったのは
男の口が、
『お前は誰だ?』
──本当のグレゴールは、誰だ?