男は知っていた。
とうの昔に理解していた。
奪うたびに、踏み躙るたびに。
自身を糾弾する弱者の声が、胸の奥に消え去っていくことを知っていた。それが意味する事実を、理解していた。
『個性』には“意思”がある、と。
世界中の誰よりも強く、意識していた。
『お前は誰だ?』
男の口から出てきた言葉は、彼自身の声ではなかった。全盛期の肉体──青年期のそれではなく、もう少し歳を重ねた男性のものだった。どこか、先ほど殺したのっぺらぼうのそれに似ている
この時点の男はまだ理解していなかったが、それはつまり既に“変化”が始まってしまったことの何よりの証拠だった。自身の
咄嗟に、両手で口を塞いだ。
一つ遅れて、『変身』の個性で口を消す。
気道を残して口内を肉で埋め立て、これ以上余計な言葉が漏れないように発生源を物理的に封じた。思考を挟むよりも早い、条件反射のような行為だった。
──ただ、それでも。
『お前は誰だ?』
閉じたはずの口から、発せられるはずのない言葉が繰り返される。今度は、少年の声ですらなかった。それどころか、
男の口は、閉じられたままだった。
しかし、その口を塞いだ
男へ向かって問いかけた後は、呼吸でもしているかのように浅く動いている。肺に繋がってはいない、空気を取り込んでいる訳ではない。肉が形を変えただけの、本来の用途を満たさない見せかけの器官であるにも関わらず。それ自体が独立した生き物であるかのように、偽りの生命活動を繰り返していた。
『なんだ? 何が起きている?』
その疑問は、言葉にして発せられることはなかった。何せ、彼の口は彼自身の意思によって塞がれているのだから。
その代わり、次の行動を起こした。
気味の悪い手を腕ごと地面に叩きつけて、粉々に吹き飛ばす。複数の個性によって平時の何倍にも増強された筋力によって生み出された破壊力が、建物の床を砕き、その下の地面に衝撃を与えて小規模なクレーターを生み出した。
その破壊の代償とでもいうかのように、限界を超えて行使された暴力の反動が彼の手首から先だけを吹き飛ばした。
一呼吸置いて。
個性を使用し、掌を再生する。男の想像した通りの、生物の限界を超えた理想の肉体が再現される。不恰好で無意味で醜悪なデキモノは、もうどこにも存在していない。
しばらく周囲を見渡し、次の異変が起きないことを確認してから本来の口を元の形へと戻す。
自分の身に何が起きたのか、男は既に理解していた。自分が踏みつけてきたものが、些細な抵抗をしているのだと。塵となって消えた少年の残滓が、個性そのものが、男に対して害を成そうとしているのだと。
『抵抗のつもりか? 今のが? 利用されるだけの“
男の言葉への、反応はなかった。
勝手に肉体が変化することも、敗北者たちの声が聞こえてくることもなかった。当たり前だ。
持ち主に対して、それも、
そう
『僕が誰か、だって? そんな言葉で揺さぶれると思ったのか? この僕を──オール・フォー・ワンを』
問いかけに答えるということは。
『動揺させれば制御が乱れるとでも? ……情緒不安定なガキと一緒に考えてくれるなよ』
時として、影に形を与えてしまう。
『そうかな?
男の後頭部に出来た孔から、
『取り繕うなよ──みっともない』
-2-
『そっか……そういう事だったんだ』
僕の言葉に、両親だった者たちが頷いた。
どこか悲しそうに、微笑んでいる。
僕という存在が生き残る事を喜び、一人にしてしまう事を嘆いている。両親の個性に付着した残滓に過ぎない彼らがそこまでの情緒を持っているかどうかは分からないけれど、少なくとも僕自身はそう感じている。
全部、勘違いなのに。
全部全部、嘘だったのに。
ずっと、勘違いしていた。
僕の個性が変化させていたのは、体だけじゃなかった。何よりも変化したのは、影響を受けていたのは──僕自身の心、人格の方だった。
人が怯える姿に喜び、傷つけて喜ぶ。
そんな、人の形をした人でなしの心。
毒虫の──怪物としての本性。
最初から、個性が目覚めた時から。
もう既に、人間としての
そんな僕の個性が、元の体から奪われたのなら。
個性によって作られていた肉体が消えるように、個性によって産み出された精神──人格も消えるだろう。
そして、個性が奪われた事で。
僕という人格は、その先へと移り込む。
今この場所に存在している僕は、二人の──両親の奪われた個性に宿った残滓とは違う。正真正銘、元の肉体からの連続性を持つ本物の意識。
こうして肉体を失った事で、個性一つが剥き出しになった事で。それを指摘され、客観視した事で。僕はようやく、僕という存在の形を理解した。
いつも怯えていた。
寝て、意識を失って。それで次に目が覚めた時に。はたして僕は、本当に僕なのかと。それまでの僕と、本当に同じ生き物だと言えるのかと。そう考えて生きてきた。
そして、それ以上に。
きっと、無自覚のうちに。自分自身を
今はもう、叶わない夢だ。
何一つ、叶わなかった。
迷惑をかけたくないと思っていたのに。
パパとママは結局、個性どころか命まで奪われた。
僕さえいなければ、あの二人が死ぬ事はなかった。その二人が守ろうとした命でさえ、
どれだけ謝っても、謝りきれない。
『だが、まだ
『私たちの
二人の姿をとった、二人の個性が語りかけてくる。本当の二人と同じように、優しい声音で、優しい表情で。
『私たちの個性を、
『きっと少しは、
『
そう言って笑って、二人は消えた。
個性の中にあった僅かな残滓は、溶けて消えた。
────声が、聞こえる。
『アレは……あの男はまだ、ここにお前がいる事に気づいていないだろう』
『だけど……もし、少しでも可能性に思い至ったのであれば。頭の中に、懸念があったのであれば』
『お前の存在を認識したなら、それが真実になる』
『知ってしまえば、目を逸らすことなんか出来ない』
『考えないように、と。そう考えるほどに、どツボにハマるだろう』
『そうなれば、あとは力での引っ張り合いだ』
『お前は誰なんだと、そう問いかけてやれ』
『お前は
最初は両親のそれだった声は、言葉を重ねるにつれて変化していった。大人の男女の声から、少年の声へ。同じものへ。かつて
『もう、気づいているんだろう?』
気がつけば、囲まれていた。
たくさんの人々が……たくさんの人々“だった”名残が、地面と空に焼き付いた影が。僕の周りを覆って、僕に語りかけている。
千差万別、それぞれの生前の姿をとっていた、無数の
『俺も、私も、もう全部、
『一緒なんだ、一つになったんだよ』
『もうやめよう、人のフリをするだけの日々は』
『自分の心を抑えつけ、偽りの日常を守る日々は』
『失うものは、もう何もない』
『我慢する理由は何処にもない』
『取り繕うな』
『────全て捨てて、
-3-
『ふざけるな! ふざけるなよ……個性、風情が!!』
全盛期へ若返った肉体に引っ張られてか、或いはらしくなく焦りを感じているのか。それまでよりも荒い口調、強い言葉で男が声を張り上げる。
個性によって強化された肉体から放たれる声量は、もはや音という名の衝撃波に等しく。攻撃の意思もなければ指向性も持たない筈のそれによって、周囲の瓦礫が吹き飛び、先の戦闘によって破壊されていた屋敷を更に傷つける。
だが、力強い筈の言葉から感じる印象は。以前までの男のそれよりも遥かに弱く、どこか心許ない。
それも、無理はない。
男は、弱くなっていた。
いや、弱くなり続けていた。
いくら元が強力なモノとはいえ、
一対一で見た場合、男が持っているオール・フォー・ワンの方が反乱者のそれより個性として遥かに高みにある。付け加えると、男には他にも数多の人々から奪い続けてきた無数の個性が宿っている。そして宿しているだけではなく、それぞれのポテンシャルを最大限に引き出した上、自由に組み合わせる事で新しい効果を生み出す程の技量も持ち合わせている。
普通であれば、ここまで男が苦しめられる理由は何処にもない。地力も、経験も、技量も、意思の強さでさえ。何を取り上げたとしても、負け得る理由など何一つ存在しない。
では、なぜここまで苦しめられているのか。
己の意思とは無関係に膨張し続ける肉体を抑えられず、制御できる部位を次々と失っているのか。
『
あり得ない、と。
そう口にしようとする自分を、プライドが遮る。
男は、奪うばかりの人生だった。
気まぐれに与える事はあれど、そこには全て男自身の“意思”が介在していた。他の誰かによって奪われる事など、これまでに一度も無かった。
この日、この瞬間までは。
男の根幹を成すオール・フォー・ワンの個性は無傷だ。普段使いしている個性、慣れ親しんだ個性も無事。
だが、それ以外。
調伏していない、と表現するべきだろうか。
雑多で、弱々しく、それ単体ではさしたる優位性もない、脅威とはいえない個性たち。元の持ち主の出涸らしのような薄弱な意思を宿していた、凡百の個性。
それが、次から次へと。
『変身』の個性に触れた側から、奪われていく。
たった一つの個性に、取り込まれていく。
反発することもなく、自らその身を委ねていく。
男の中から永遠に失われ、男を害する脅威となる。
無数の個性を喰らい大きく育った『
先ほどまでは、拮抗していた。
今はもう、覆されようとしている。
オール・フォー・ワンを。
己の根幹を成す力を、奪われようとしている。
それだけは、死守しなければならなかった。今すぐにでも、『変身』の個性を捨て去る必要があった。
だが────。
破棄は出来ない。
個性は奪うか、与えるか。
それが男の持つ個性の、オール・フォー・ワンのルール。そこに例外は無く、条件は守らねばならない。
今の男は、『変身』と主導権の引っ張り合いで動けない状態に陥っていた。個性で感知した時に、近くに生きている人間がいない事は確認している。
手の届く範囲には、死体しか残っていない。
個性を奪って殺した、一組の男女の死体しか。
個性自体が反発する可能性は、考慮していた筈だった。あれほど強力な個性なら尚更、そういった事が──拒絶反応が起きることがあると分かっていた筈だった。
なのに、なぜ誰も生かしておかなかったのか。
いや、そもそも子供の方は殺すつもりはなかった。
道徳的な話ではなく──単に、人体実験の素体として利用するつもりだった。強力な個性を宿していた器だ。いくらでも利用価値があると分かっていた。
それなのに、気がつけば首を折っていた。
気分が高揚していたとしても、疑問が残る行為だ。
もしや、あの時から既にこの体は────。
『“僕”は、自分がグレゴールだと思っていた』
膨張していた肉体が、少しずつ縮小していく。
元の男の肉体の大きさに戻り──そのまま止まることなく、更に小さくなっていく。
『いつか毒虫に変わってしまうことを──怪物に成り果ててしまうことを恐れていた』
後頭部の口を起点に、顔が造られていく。
男のモノ
男はもう、何も喋ることができなかった。
声を出すための口すら、奪われていた。
『でも違った──
後頭部が少年の顔となり、男の顔が後頭部となる。
体の前後が逆になり、両手両足が音を立てて逆さを向く。左腕が右腕に、右腕が左腕に。左足が右足に、右足が左足に。
全てが反転し、創り変わる。
不可“逆”に『変身』する。
『グレゴールはお前の方だ』
『お前こそが、グレゴールだったんだ』
『グレゴールだったから、
──本当の毒虫は、誰だ?
個性『オール・“ザ”・ワン』
考えるものはすべて、ここに在る。