どれだけ努力を重ねたところで、望む現実が待っているとは限らない。そんなことは……ある程度の人生経験を積めば、誰にだって理解できることで。だけど、そうでない者には想像し得ない出来事でもある。
誰にだって、望む姿というものがある。
少年がヒーローに憧れるように、少女の夢がお嫁さんであるように。なりたい自分、なりたい姿というのはどこにでも存在しているもので。時として人間は、その背中を追いかけ続けることを人生の指標にする。
どこまで頑張れるのか、どこまで夢を見続けることができるのか。それは人によって様々で、これといった答えは決まっていない。
叶えられたとしても、諦めたとしても。
どちらにせよ、一番最初の姿を覚え続けている人間なんて、ごく少数に過ぎない。皆どこかで妥協を重ねて、ゴール地点を少しずつずらして、未来図を修正して…………そうして産み出された『現実的な着地点』へと収まっているだけ。
その場所へと辿り着ける者ですら、全体で見れば圧倒的に少数派なのだから。人間がどれだけ諦め続けて、社会という枠組みに自分を変化させているのか。そういった意味では、みんな抑圧されていて、本当の自分というものを偽り続けているのかもしれない。
僕にだって、望む姿というのがあった。
ただ、それは別に個性がどうとか容姿がどうとか、そういう意味ではなくて。もっと単純で、あまりにも普遍的な、わかりやすい願望。自己という精神を形成しつつある幼子であれば誰でも持ちえる、欲望の発露。
そもそも、小さな子供が望むものなんてたいてい限られているのだから。今更語るまでもなく、振り返る必要もないのだけれど。
どうしてだろう、こんなにも思い出してしまう。
ただ、友達と一緒に遊びたかった。
普通に幼稚園に通って、朝から夕方まで一緒に過ごして、ご飯を食べて、お昼寝をして、親が迎えにくるまで遊んでいたかった。
ボール投げがしたかった、積み木で城を作りたかった。絵本を読みたくて、追いかけっこで笑いたかった。一緒に歌をうたって、クレヨンで絵を描きたかった。
そんな……『普通』で『楽しい』毎日を送りたかった。
個性が発現してしまう前の、何も悩まなくてよかった日々のように。
幼い子供に与えられた想像力なんて、たかが知れている。
いや、見方によっては。固定観念にとらわれない発想や、大人達では思いつくこともない奇天烈な言動を示して、想像力が豊かだなどと表現することもあるかもしれない。
実際、子供の考えることなんて自由そのものなのだから。間違っていない、正しいことだと思う。
だけどそれは、僕にとってはただの足枷でしかなかった。自分の個性を…………姿を制御するためには、精神の熟成によって培われる、物体のありのままの姿を頭の中に投影する技術が必要だった。
だって、そうだろう。イメージ次第で自分の姿が変わるのに、その肝心のイメージが安定しないのだから。
平面と立体の違いすら、曖昧だというのに。砂場に書いた落書きのキャラクターを、本物だと誤認してしまうほど幼い頭脳だというのに。
普通の人間の姿、個性によって姿が変わる前の自分の容姿など、数十秒だって考え続けることができない。
自分以外の全てが、邪魔だった。
天井に染み出た顔のような模様、窓の外から差し込む日差しが生み出すカーテンの陰、見舞いに訪れる親類縁者、枕元に置かれたクマのぬいぐるみ、毎日欠かさず見ていたアニメーション映像、夕暮れを教えるカラスの鳴き声さえ。
その全てが不要な情報で、僕の世界を否応無しに蹂躙する。僕の感性に、精神に影響を与えては、個性を通して肉体へと反映される。
決して安定しない容態と、絶えず変化し続ける肉体。頭の中をよぎる、このまま一生病室で過ごすことになるんじゃないかという不安。
僕の持つ個性は、幼子に与えるには不釣り合いな力だった。
どれだけの時間を、個性のコントロールに費やしたことだろう。毎日何時間もカウンセリングを受けて、自分の力への理解を高めて。子供に課するには過酷にもほどがある時間を過ごし、人間としての姿を取り戻すことに全力を注いで。
頑張った、頑張ったんだよ。
どうしても、忘れられなかった。友達と遊ぶ日々を、その楽しさと心地よさを。あの白い部屋から脱出するために、自分が自分でいるために。努力することが必要不可欠だと信じていたから、頑張ったんだ。
何度も心が折れそうになって、何度も諦めようとした。
それでも、努力を続けた。
個性だけの話じゃない。
人の姿を明確にイメージできるよう、絵を描くことを勧められた。
一ヶ月のトレーニングの果てに生やせるようになった子供の腕で、何本、何十本もの鉛筆を握った。
より生物的な人間の体を頭に思い浮かべるために、写実的な絵を求められた。それを成すための技術も、食らいつくように取り入れた。
数えきれないほどの絵を描いた。
自分の写真を見て、少ない時間で頭の中にインプットして、それを目の前の用紙に吐き出した。
人間の骨格、筋肉のつき方を覚えた。足し算や引き算だってまだ習っていないのに、年齢に不釣り合いな知識をたくさん詰め込まれた。
苦しかった、辛かった。楽しいと感じることもあったけれど、もっと外の世界でのびのびと暮らしていたかった。
どうしてこんな目にあわないといけないんだと、両親に当たることもあった。
二人はただただ申し訳なさそうな表情で、どこにあるかも分からない僕の頭を撫でようとした。一秒後には形の変わる不定形の胴体を抱きしめて、温もりを与えようとした。体温も安定しない僕の体は、さぞかし冷たく、熱かっただろうに。
その度に、僕は自分が酷く惨めな存在だと思えた。家族として当たり前の日々すら、あの二人に与えることが出来ないのだから。
イメージに影響を与えるからと、多くの備品が持ち出された部屋の中で、ベッドの上でただ一人。人にも成れず、人らしい営みも出来ずに。不安な夜を過ごして、朝まで起き続けた。
寝るのが怖かった。寝て、目が覚めたら。人に近づいていたはずの体が溶けて、見覚えのない不定形の怪物に変わってしまうのが怖かった。
幼虫のようなぶよぶよとした肉体を丸めて、自分の写真だけを眺めて夜を明かした。
そんな日々でも、自分を見捨てることがなかったのは…………信じていたからだ。
僕のこの努力が実を結び、元の生活が返ってくることを、心の底から信じていたから。
家では両親と共に過ごし、外では友達と遊ぶ。そんな当たり前の日常が返ってくるのだと、普通で楽しい日々が待っているのだと、自分を奮い立たせることが出来たから。
長い病院生活のせいで、友達の顔すら思い出せなかったけど。みんなも僕が戻ってくるのを待ってくれているんだって、そう信じていたから。子供らしい想像を抱いて、無邪気なままでいられたから────。
当たり前の日々を、過ごすこと。
それが僕の望む姿で、そのために頑張ったのに。
だけど僕は、本当は心のどこかで理解していたのかもしれない。
友達の顔を思い出せないのは、僕が忘れようとしていたからだって。みんなが僕を見ていた時のあの瞳の色を、思い出したくなかったからなんだって。
だって、そうでもなければ。あんなに頑張って、病院から出られるようになって、努力が報われたって思っていたはずなのに。
その全てをぶち壊すような、あんな言葉を投げかけられて。平常心で、いられるわけがないから。
あんなに簡単に、諦められるはずがないから。
だから僕はきっと、本当は気がついていて。見えないふりをして、努力という行為に逃げていただけなんだと思う。
耳をすませば、聴こえてくる。瞳を閉じれば、昨日のことのように思い出せる。
『ひっ、く、くるなよ! ばけもの!!』
ああ、ステキな悲鳴。
-1-
『そろそろ、満足した?』
カッターでボロボロにされて使い物にならなくなった喉の代わりに、掌に声帯を作り出して、普段よりやや濁っている声を出す。
椅子から押し倒した後に、馬乗りの姿勢になって。僕の首元へと顔を寄せて血を吸っていた彼女が、自分の体をそっと起こした。
口元どころか、服の襟まで真っ赤に染めた彼女が、口角が頬まで裂けているかのような壮絶な笑顔を浮かべて、口を開いた。
「ショウくん、素敵でした!」
『会話になってないけど、まぁ、いっか。トガちゃんも、すごく魅力的になったね』
「嬉しいです! あっ、ちょっとやりすぎちゃったかもしれないですけど、立てますか?」
『あぁ、うん、大丈夫だよ。ちょっと僕の上からどいてくれる?』
「はい!」
思いの外素直に、彼女は僕の体を解放してくれた。彼女の性格からして、ちょっとはゴネるものかと思ったけれど、そんなそぶりは見せていない。
まぁ、素直になったのは久しぶりなのだろうし、今はその解放感に浸っていたいんだろう。
分かりやすくいえば、満足しているのかもしれない。僕も同じような気持ちなんだから、よく理解できる。
個性を好き勝手に使うのは、すごく楽しいのだから。
『
あらかじめキーワードとして設定していた言葉を呟くと、頭の中に明確なイメージが湧いてくる。その感覚のままに個性を使用し、自身の肉体を変化させる。
飛び散った血液や肉片が僕を中心として動き出し、生々しい音を立ててフードの中へと吸い込まれていく。本当ならわざわざ飛び散った残骸を使用する必要は無いんだけど、学校に血痕を残すわけにはいかないから、あえて回収する。
変身というか、もはや再生に見えると思うけど。飛び散った肉片も自分の肉体であるという認識さえあれば、本体と同じように変化させることができるのだから。一応これも、変身の範疇に含まれる。
その過程で混ざり込んだほこりやら何やらの異物を指の先からまとめて排出して、全部終わり。
トガちゃんの喉を通った血液は取り戻すつもりはないけれど、衣服に付着したものは回収させてもらった。勝手に動き出した血液に反応した彼女が未練がましく手を伸ばしていたけれど、努めて無視する。僕がいうのもなんだと思うけど、流石にそれを飲むのはばっちいからやめた方がいいよ。
最後に周囲のチェックを行って、痕跡となるものが残っていないかだけ確認する。僕の個性の出来はイメージに依存するから、割とミスが多かったりするから…………校内で血肉が見つかった日には、大問題なわけだし。念には念を入れといた方がいい。
まだ、この生活を手放すつもりはないのだから。本性は隠すべき時には隠して、解放するべき時に解放する。有史以来のありとあらゆる怪物が、そうやって生き延びてきたのだから。メリハリをつけるのは、非常に大切だ。
倒れた椅子を立て直して、そこに腰掛ける。トガちゃんもある程度落ち着いたのか、自分の席に戻って大人しく座っている。
先ほどよりも幾分か大人しく、それでも瞳に危険な光を灯して、ニコニコ笑って僕を見ている。
あんなに屈託のない笑顔を向けられるなんて、いつぶりだろうか。少なくとも、小学校に入ってからは記憶にないわけだし。最後に見たのは、六年以上昔ということになるわけだけど。
なんだか、ちょっと嬉しい。
対等の友達がいるってだけで、こんなにも生きているのが楽しいのだから。彼女が興奮しながら口走った『運命』というのも、あながち間違いじゃないのかもしれない。
フードの下に貼り付けられたのっぺらぼうの顔が、僅かに微笑む。いつものように個性で口を作り出して、そのまま開いた。
「それじゃあ、変身してくれる?」
「はい、いいですよ」
僕も彼女も、これっぽっちも疑っていなかった。僕の望みが叶って、本来の姿を手に入れること……つまり、願望混じりの予想が当たっているということを。
僕が本当の意味で、怪物へと変わる瞬間を。
「あ、ちょっと待っててくださいね」
そう言って目の前で服を脱ぎ始めた彼女の姿を、なんとなく見つめながら。用意していた道具を取り出し、いつも通りの準備を始める。
スケッチブックの新しいページを開いて、端を丸クリップで留めることで、紙がズレないように固定する。
それなりに備品の充実している学校でよかった。美術室の隅に置いてあるイーゼルへと
あらかじめカッターで削ってあった鉛筆を手に持ち、トガちゃんの方へと視線を戻す。
鉛筆を握る手に、力が入った。
-2-
見覚えのある顔だった。
見覚えがあって、初めて見る顔だった。
なんども繰り返し眺めて、今も財布の中に挟んである写真。幼い頃の自分をそのまま成長させたかのような、面影のある顔つき。
ちょっと童顔っていうか、子供っぽいのは少しだけ残念だけど。それはそれとして……うん、見れない顔じゃない。
不思議な気分だった。
知らないはずなのに、忘れてしまったはずなのに。昔からずっとこんな顔を見続けてきたような、そんな気すらしてくる。
今までで一番、腕が軽かった。
用意した消しゴムを、一度も使わなくていいくらい。迷いなく走り出した筆先が、気持ちいいところに線を引く。
線を描き足すごとに、僕の体にも変化が起きる。
腕や足は、今までよりもやや細く。
肩幅は小さくなって、背も少しだけ縮む。
普通の男子だったら嫌がりそうな変化だけど、僕にとっては至福にも等しい瞬間で。
歪んでいた枠組みが、知らず知らずのうちに逸脱していた骨格が。元の形へと、あるがままへと戻っていく。
僕の体が、僕の想像が生み出した肉体が。
目線がやや低くなったことで、イーゼルの高さを修正する。もっと早く、ずっと線を引いていたいというのに。そんな手間がもどかしくて、そして……たまらなく愛おしい。
表情が生まれる。
抽象化したパーツだけの顔ではなく、しっかりと細部まで作りこまれた。
僕の本当の顔が
このスケッチブックに描かれた笑みは、誰のものなのだろうか。
僕か、それとも彼女か。
きっと、その両方であって……
「トガちゃん」
「はい、なんですか?」
「僕、君に会えてよかったよ」
「私もです! お揃いですね!」
「ああ…………なんか、変な気分だ。自分の顔に話しかけるのって、こんな感じなんだね。初めて知ったよ」
「ショウくんの初めてが貰えたんですね! 嬉しいです!」
「これからも一緒に遊んでくれる?」
「もちろんです! 楽しい学校生活にしましょう!」
「笑わないで聞いてほしいんだけどさ」
「?」
「僕、追いかけっことかしたいんだよね…………もう中学生なのに」
「いいですね! いいと思います!」
「あとさ、積み木で城を作りたいんだ」
「せっかくなら、大きいものを作りましょう!」
「そっか、そっか…………」
夕陽が部屋の中へと差し込み、僕たちを赤く照らした。気がつかぬうちに、それだけの時間が経っていたんだろう。
少し前の惨状を思い起こさせるような赤が、黒色だけで描かれた僕の顔を上塗りする。
その出来に満足しながら、鉛筆を机の上に置く。
顔を上げれば、そこには彼女がいて。いつの間に個性を解除したのか、顔は彼女のものへと戻っていて。少し前まで見ていたものが、幻だったみたいに思えて。だけど、目の前の一枚の絵がその空想を否定する。
顔を近づけてくる彼女の意思を汲み取って、フードを下ろす。
徐々に近づいてくる、彼女の口から少し上へと視線をずらして、瞳を見つめる。
彼女の黄色の瞳の中に映っているのは、絵に描いたような僕の顔で。その表情は、これ以上ないほど晴れやかだった。
『
過去に描いた絵を元に、個性を使用する前段階でイメージを固めるための合言葉。とにかく人の輪郭を取ること、素早く変身することを求めているため、細部はぼかされていて、顔は描かれていない。