朝食の支度も終わり、エイリルとメアリーはダンジョンの第一層に訪れていました。壁も床も岩石のような材質で造られた第一層の通路は、階段を一つを登るだけで地上に出るとは全く思えないほどに自然で違和感のある空間でした。
「ダンジョンって思ってたより広いんですね。普通の洞窟みたいなものを想像していました」
エイリルは思ったことを素直に愕きの念を込めて吐き出しました。たいした障害もなく平坦の道が続くダンジョンの通路はついつい奥に進んでしまいそうで、エイリルの目にはまるで人を誘惑している罠のように見えました。この武器を振り回しても余裕のある通路が自然に出来ているのですから、ダンジョンとは人を飲み込んで消化する蛇の腹のような魔窟に他なりません。
「今日は腕試しってことで第一層までにしようか。明日からは今日の様子見を見てから考えればいいしね」
「それでいいですよ。私もまだ、このオラリオ自体にそこまで慣れていませんし」
そんな事を喋りながら通路の曲がり角を曲がったときです。不意にその姿を認めた二人をすぐさま来た道を引き返して相談を始めました。
曲がり角の先には、ゴブリンがいたのです。緑の肌と赤い瞳に三本角、細い体に不釣り合いなほど大きな頭部。子供ほどの背格好のゴブリンが一匹。他には何もいません。
「どうします? とっさに隠れてしまいましたが……」
「一匹だし正面きって一人で戦ってみる? 私は後ろから見てていざって時にフォローするからさ」
「分かりました。私もこれから一人で潜ることがあると思うので、今のうちにダンジョンでの戦闘に慣れておきたいですからね」
そうと決まれば早速エイリルは曲がり角から姿を現しました。その時はちょうど一匹だけのゴブリンはエイリルの方向を見ていて、すぐさま唸り声を上げてエイリルを威嚇しました。
メアリーはそんな様子を期待半分、不安半分で見ていました。彼女の手にはいつでも振るえるように鞘から抜いた剣が握られています。
「ギギャギャッ!」
妙に甲高いその声はあたりに響き渡りました。ゴブリンはその場で足踏みをして踏みとどまっていました。それは攻撃を行うタイミングを推し量るための足踏みです。
エイリルは背中に背負った両刃の戦斧を引き抜いて油断なく構えました。
そうして油断なく構えるエイリルの脳裏には過去のやりとりが思い浮かびました。
なぜ今この時に、まるで聞いた限りの走馬灯のように頭の中に流れるのか疑問に思う間もなくエイリルはその時ことを鮮明に思い出します。
それは森の中、エイリルが初めて武器を握った日の事。握った武器は今と同じように戦斧で、その重さに引っ張られて思うようにまだ振るえなかった時の事です。
エイリルは自身に扱い切れぬ武器に悩み、その打開策として
するとその優しくも豪快なドワーフはエイリルを連れて、その時に滞在していた町からほど近い森の中に進みました。
そして川のせせらぎの音が聞こえ始めた辺りで立ち止まり、徐に手近な岩を椅子にして座り込みました。
そうやって言葉を出すかと思いきや開いた口から音は出ず、口を閉じては開くを繰り返して、それで言葉を思索するのに飽きたのかエイドルフは岩から立ち上がり背中に背負った武器を引き抜きました。
『せいっ!!』
重く響く声と共に右上から左下に振りぬかれた肉厚な戦斧は手近に聳える太い樹木を容易く両断してみせました。
エイリルは突然、樹木を切り伏せたエイドルフに驚きました。それと同時に容易く樹木を両断してみせたエイドルフの一撃に目が釘付けにもなりました。
『斧はお世辞にも剣や槍ほど扱いやすいとは言えん。元はこうして木を切り倒すものだから当然といえば当然だが、しかし斧には一撃の重さがある。
上手く言葉に纏まらんが、まああれだ……重さを活かして振るうんだ。腕の筋肉なんて斧を持てる程度で十分だ。
必要なのは足腰と地面に足をつけること、遠心力を上手く扱えれば、まぁ何とかなる』
エイドルフは手を差し出してエイリルを立ち上がらせました。言葉で聞くより実践を行った方が早くて楽だと思うエイドルフは樹木を指さして言います。
『ほら、エイリル嬢ちゃん。まずは一本だ』
『分かりましたが、女の子扱いはやめて下さい。私だって一応は男の子なんですよ? 初対面なら兎も角として、これでも結構、気にしているんですから』
『そう言われてもなぁ、嬢ちゃんは嬢ちゃんだし……そうだな、これが出来たなら嬢ちゃん呼びを辞めてやろう』
エイドルフは悪戯をする子供のような表情で、先ほどまで座っていた岩を小突きます。それから――『ふんっ!』また重く響く声を辺りに散らしながら思いっきり岩を殴りつけました。
岩は乾いた地面のようにひび割れて砕け散りました。エイリルは今度もエイドルフの一撃に視線を奪われて、羨望を含んだ眼差しでエイドルフを見つめました。
『今みたいに自力で岩を砕けたのなら、嬢ちゃんじゃねえもんな』
嫋やかな髭を揉みしだきながらエイドルフは、出来る訳がないと無茶ぶりのつもりでエイリルに言いました。
そうして斧を樹木に叩きつけるだけの一日が過ぎていきました。
「せいっ!!」
そんな思い出を連鎖させながら思い出していたエイリルは、振り上げた斧を真下に振り下ろす形で、全力の踏み込みでもって跳ねるように近づいてゴブリンの右肩を砕き、そこから肉と肋骨を抉巻き込んでゴブリンをダンジョンの地面に叩きつけました。
「グ…ギ…ギィ……」
それから虫の息のゴブリンが瀕死の呻き声を上げるの聞きながら、もう一度振り上げた斧でゴブリンの頭蓋骨を叩き割り、ゴブリンの命の灯に水を被せました。
「…ふぅ」
ゴブリンの頭から戦斧を引き抜いて、エイリルは一息吐きました。エイリルの思考は一つの命を奪ったにも関わらず凪風の吹く海面のように静かでした。
今、エイリルの心には故郷の村からオラリオまでに鍛えた己自身の力が、まったくの無駄じゃないと分かった安心に満たされていました。それから確かな自信が心の中で沸き上がります。
「凄い! 凄いよエイリル!」
静かに呼吸を繰り返すエイリルの背後から、エイリルの初戦を見守っていたメアリーがそんな感激の思いを口に背後からエイリルに抱き着きました。
背後から見ていた彼女は、彼女の後輩たるエイリルが初めてのダンジョンでの戦いで、結果がどうあれ始めに褒めることを胸に決めていました。
「大きく踏み込んで、一撃! 私が初めて戦ったときとは比べ物にならない程、鮮やかでスムーズだよ!」
「あはは……一対一でしたからね、ゴブリンが群れで戦いますから集団だったらこうも行きませんよ。それより『魔石』を回収しましょう」
エイリルは抱き着くメアリーに困り顔で提案しました。
『魔石』とはダンジョンで生まれ落ちた生物全てにおいて心臓の如き働きをする、特別な器官で冒険者はそれらをギルドに売り払って日々の生計を立てています。
メアリーはそれを聞いてエイリルにゴブリンの魔石がある、大体の位置を教えながらゴブリンの魔石を抜き取りました。
魔石の位置は、その生物の中央にあたる部分にある事が多いとメアリーは言います。"困ったら胸をぶち抜け"とは冒険者間の共通の認識だそうです。
「はい、この紫なのが魔石ね。ゴブリンの魔石は大体一つ80ヴァリスぐらいで、地下深くのモンスターの魔石ほど値段が高くなるんだ」
そう言って魔石を手のひらで弄ぶメアリー。ゴブリンの魔石は小指の先と比べられるくらいには小さく、同じ色を付けた砂利の中に混ぜたら見分けがつきそうにないな。くらいの気持ちでエイリルは魔石を凝視しました。
そうして、ふと魔石を抜き取られたゴブリンを見たらそこにはゴブリンの姿は無く、代わりとばかりに灰が積もっていました。
(本当に灰になるんですね……)
声に出すことなく、表情に出すことなく心の中で呟き、エイリルは思いました。もし、魔石の無くなったモンスターが灰になるという話が冗談で、体が残るようならちょっとした供養でもしようかと思っていたのですが、ダンジョンのモンスターは根本的に存在として違うのか肉体すら残らず灰に変わってしまいました。
そんな積もった灰を見つめると白い骨――ゴブリンの小さな角が灰に埋もれているのが見えました。
「これは、ゴブリンの角……ですか?」
灰の中ら摘まみ上げて手のひらに乗せてみて、ゴブリンの角が灰にならない事を確認しました。
しかしなぜゴブリンの角だけが形を保っているのか? そんな疑問を抱きながら目を凝らして見つめていると、メアリーが運が良いと言いました。
「ドロップアイテムだね。モンスターが灰に還った際に偶に残る奴なんだ」
「偶に残る……他は全て灰になるのに、不思議ですね」
「そう、不思議だよ。冒険者は学者じゃないから不思議でいいんだ。」
メアリーがそう言って、エイリルの手を掴んで先に行こうと示します。エイリルは手のひらに乗せた小さな角を袋にしまって足を進めました。
「それじゃもっと進もうか。目指せゴブリン百匹切り!」
声高らかに宣言すると先輩冒険者と後輩冒険者は、二階層に進むまでに至らずともダンジョン第一階層の奥深くに足を進めました。
二人はそれから、本当にゴブリンの魔石を百集めてから地上に戻ることになりました。