世界を渡る前のとある少年の話
ピッ…ピッ……
病室の中で今日も心電図の音が一定のリズムを刻む。
目に移る天井は無機質な程白い。これが自分の一日に見る景色の全てだというのだから相変わらずでため息しかでない。
目を横にやれば机に花瓶が一つ。名前は知らないが鮮やかな色をした花が数本生けてある。
唯一この部屋で自然を感じる事ができるそれは母が自分の為に日頃から置いてあるものだ。意識を失って一人で目が覚めてもこれを通し、確かな親の存在、暖かみを感じた。
思えばいつからだろう。歩くのを特別な事だと感じたのは、普通の人の生活がいかに幸せで恵まれた物だと気付いたのは。
力をいっぱいに入れて右腕を動かす。
微かに持ち上がり見えたのは枯れ木のように細く、色白で管の着いた腕だった。
物心着いた時に覚えてた違和感は年々強くなり、小学校に入学する頃には確信に変わっていた。
衰える身体、衰弱する肉体、病名も原因も分からない。医者は頭を悩ませ、両親は私を抱き、泣いた。
私は幼いながらにも一つの状況を突き付けられた。
「自分はもう助からない、後数年の命なのだ」と
己の身体だ。言われれば「やっぱり」と思う自分もいる。
しかし、それでも納得する訳にはいかなかった。両親より先に死ぬ以上の親不孝は無いし、まだやりたい事だって山程ある。山にも海にも全然行けてない。美味しい物だってまだ食べ足りない。友達と遊べてもいない。好きな人だって出会っていない。それに…
まだ自分の生きる意味すら見つけていない
だから一分一秒でも長く生き、助かる道を探す。
その為に多くの時間、労力、感情を費やした。効くか分からない苦く辛い薬だって飲んだし、リハビリだって沢山した。怪しい民間療法も試したし、宗教紛いの事だって触れた。
親に多くの苦労を金をかけさせてしまった。
謝っても両親は精一杯の笑顔をつくり自分に心配をかけまいとする。心が痛いばかりでお礼を返す手段が無いのがむず痒い。
だが結果は変わることは無かった。
寝たきりになってどれくらい月日が流れただろうか。
最近は意識がある時間の方が少なく、夢を視ているような穏やかで朧気な感覚が多い。諦める積もりは毛頭無いがそんな強い感情すら霧掛かり、薄い意識の向こうへと消えていってしまう。
そんなとき顔に優しい風を感じて私は目を覚ます。
だから初めその姿を見たときは夢だと思った。朧気な意識が生んだ仮初めの現実、真相心理の可視化。
この世の者と思えない銀髪の美しい女性、白い布を衣服とし露出少なく覆っている。
僅かに見える素肌、すらりと伸びる手足は絹のようにきめ細かく、傷一つ見当たらない。瞳の色は金色たおやかに、しかし確実に意思のある瞳でこちらを伺っている。
そして最も特徴的なのは彼女の背中に生える二対の羽、頭部で輝く光の輪。
天使だ。女性の天使がベッドの脇で身を屈めこちらを見つめている。
「ッ……」
口を開き話そうとするが空気が僅かに漏れただけに留まる。彼女の綺麗さに見惚れ、自らがもう話す事が出来ない事実を一瞬忘れてしまっていた。
迎えが来てしまったのだろうか。彼女は見た目通りの天使で先が短い自分を迎えに来たのだろうか。
だとするならもう少し待ってもらいたい。
後数ヶ月で妹が産まれる、顔を見るまで死にたくない。
せめてこんな誰もいない場所では無く、両親の胸の中で逝きたい。
だかしかし…
やはり自分は何も成す事も出来ず中途半端な所で死ぬのか…。
頬に涙が伝う。何とかして彼女に死を先伸ばしにして貰わなくてはならない。否定の意思を伝えなければ、口が開かなければ身振り手振りで駄目なら視線でも念でも送らないと。
そんな事を思っていたら彼女が手で制す仕草を行い、私の涙を拭った。その只の動作一つ一つが精練されていて美しく、それまでの焦りも忘れ、魅入ってしまう。
「残念ながら時間の変更は出来ません。このままだと後一時間二十八分三十七秒後 貴方は眠るように息を引き取ります。医者は気付き連絡しますが両親は間に合いません。」
丁寧に聞き取り易い声で優しく感情を込めて話すそれは死の宣告意外の何物でも無かった。神に通ずるのか結末も既に決まっているらしい。しかし何故今私の所に来たのだろうか?心の整理を着ける為?他の者の前にもこうして現れるのだろうか。
「疑問は最もです。本来は死に近い者の前にもこうして私が現れる事はありません。私が現れた理由は貴方に一つの選択をしてもらう。その為に現れたのです」
選択……?そう考える自分に相槌を打つ彼女。此方の思考は読めるらしい。言葉は必要なさそうだ。しかし、選択とは何だろうまさか天国、地獄という訳でもあるまい。
「天国、地獄はありません。それらの概念は人間が生み出したものに過ぎません。肉体が滅んだ後の魂は有るべき所に行き、浄化され、また一から赤子として始まります。この世界においてはそう決められています。そういう意味なら人間の考えた輪廻転生、これは合ってると言えますね。」
「他の天使が過去に人に洩らしたのでしょうか?」と顎に手をあて考え込む彼女。そんな仕草がやけに人らしい。
「すいません、話が反れました。手短にいきます。貴方は平行世界と言う物をご存知ですか?」
平行世界。物語等でよくある此処とは違う世界。
でもある意味近く、そこではその世界でこの世界の人が違う環境で過ごしているってやつだったろうか?
「大体は同じですね。説明が省けて助かります。そうですね、この世界の様に生きる人達はこの時間、この次元のみだけではありません。数えるのも観測するのも不可能な程、幾億那由多の世界が広がりその世界にそれぞれ専属の神、天使が存在するとされています。」
規模が大きくて現実感が無い。神は八百万所では無いということだろうか。言葉一つに抑揚があり、身振り手振りで話す彼女は今まで考えていた天使像とは大きく違っていた。姿形は人外のそれだが中身は人と変わりないように見える。
「その世界一つ一つが平行世界であり、どの世界でも同じにあたる人が必ず存在します。これは神の起源、世界がどれも元は同じだったという意見や世界の巡りは違いこそすれ同じ結論に向かって進んでいるからというものがあります。
例えば貴方で言うとどの世界にも貴方にあたる者が存在します。姿形、遺伝子、性別、思想、全てが同じではありませんが非常に似通った者になります。」
自分も八百万いるってことだろうか?
違う世界の自分は元気でやってるかも知れない。暖かい家族に囲まれ緩やかに過ごす、そんな自分を思うととても羨ましく感じた。
「 私達は全ての世界を観測できる訳ではない無く、条件はこの世界に似通ったものに限ります。勿論私達天使や神はこの世界のみであり、他の世界には他の神や天使がいます。挨拶等の干渉が出来るのは殆ど似通った極一部の世界に限られます。近い世界の神は互いに世界のあり方を見比べ異常が無いかを確めるのが通例となります。」
神が行ってる事は意外と人に近い気がした。同じ会社の系列で異常がないかを確め、天使を使い調整を行う。こんな感じだろうか?
「ある時その異常に気が付きました。この世界と非常に似通う世界の一つ、その世界が僅か数百年で干渉が出来なくなる程の変化を起こしていたのです。それまでいたその世界の神と天使は存在が不明となり、世界は成されるがままとなっています。調べた所、人の生死のやり取りが異常な程増加している事のみが確認出来ました。」
天使は真剣な面持ちに変わり「これからが私が来た本題です」と静かに言った。
「世界の変化は悪い事ではありませんがこれは些か異常です。崩れ綻んだ世界はそれだけで周囲と世界に悪影響を与える。場合によっては世界そのものを消し去らねばならない。故に私達は強硬策に出る事にしました。即ちその世界に対しての直接干渉による修正です。本来はその世界の神が行う事ですが今回は最も世界が近い私達が行う事になりました。」
恐らくこれからが自身に関わる本題。原因不明の病気で寝たきりなった自分に天使が現れた本当の意味。しかし、既に話は文字通り別世界で自分に関わる所は無いと感じる。
彼女は自分の手に手を重ね、顔を陰らす。まるでこれから話す事を躊躇うように、申し訳無いと感じているように、そんな表情を浮かべ、そして決意したかの様に話を続けた。
「干渉は私達天使が手を出せない領域まで来ています。出来る事はこの世界の者の魂に力を乗せ、向こうの世界においての異世界同一体である体に憑依させての二次的干渉にしかありません。その者で修正可能ならば修復し、無理でも死後魂はこちらに帰る。向こうの世界の状態を聞き、手の施し様がなければ数多の神と協力し、その世界を消し去る… これが一連の手筈となっています。そしてその役目を担ったのが」
貴方です。と天使は言った。
「向こうの世界の貴方は今危機的状況に陥っていて此方の干渉がなければじき死ぬ事になります。精神世界に置いて話は試みましたが酷く心を閉ざし会話になりません。私達はそれを諦めと断定し、此方の魂の上書きに問題無いと判断致しました。他の候補者は修正可能な段階まで存在を確認できませんので貴方の判断を持って結論とします。」
頭が痺れる。彼女は天使は何を言っているのか…
「貴方に選択して貰うのは一つ、この世界での生存を諦め新たな世界で新たな肉体に魂を宿し生きるか、この世界で残り数時間の命を全うするか、です。」
それは判断するには余りにも大きく、決断するには余りにも残酷な選択だった。
◇
冗談はやめろ!
二度三度反芻し、出た意思は強い否定だった。
別の世界で自分だった者の身体を乗っ取って生きる?
その者の感情は、精神は何処へ行く?それにその世界の本当の両親は?知人は?成り換わって生きろというのか?
そんなもの耐えきれる訳が無い。その世界の両親はその自分を愛している。それが例え命に関わっていたとしてもその後に残るのは自分という異分子でしかない。
自分にしてもそうだ。例え命が僅かでもここに辿り着くまでの思い、決意があった。それを生きれるからといってこの世界の自分の身体を見捨て、誰かの身体で生きる?そんな選択を迫る事自体が自分を育てあげてくれた両親に対して、今までこの病と闘ってきた自分に対しての冒涜でしかない。例え世界の命運が左右されようが選べない選択だ。
憤慨する自分に対して彼女は俯く。曰く精神の上塗りは実例が無くどうなるか分からないとのこと。双方の記憶を持つ可能性も自分の記憶のみの場合もあると。
「すいません、貴方の言う通りです。世界が消える等という話自体、貴方に迫る事でも、ましては選ばせる等してはならなかった。」
しかし、と続くその顔には深い悲しみが現れていた。
「それでも貴方に頼らざるを得なかった。私はこの世界に生きる全ての者の心に耳を傾け、途方もない時の流れを過ごして来ました。人が生まれ、成長し、育み、死ぬ。そしていつしかその連綿と続く命の流れが美しい、愛しいと私は感じていました。母が子を愛する様に私もまた人類全ての者を愛しています。」
その金の瞳からは涙が零れ、慟哭が響く
「あの世界から溢れる感情は、恐怖、怒りで満ちています。干渉が薄くなった今でさえそれは強く私に響いている。私は何としてでもあの世界を救いたい。この問いが選択では無くもはや私の一方的なお願いであることは分かっています。しかし、それを重々承知の上もう一度考えて下さい。」
暫しの沈黙の後、私は冷えてきた頭で当初抱えていた疑問を問うことにする。
第一向こうの自分に起きている危機的状況って?死ぬってどうして?そもそもそんな状況で生きる事を諦めている段階で普通じゃない。一体何が。
「その世界の貴方の両親は僅か前…亡くなりました。母は子を身籠っており、時代柄もあり実質彼の親族は全て居なくなりました。」
言い辛そうにそれと…と続ける
「亡くなる前に両親に感じたものは激しい恐怖、絶望、痛みです。理由は分かりませんが確実に向こうの世界の異変と関わっている事は確かです。」
言葉を失くす。向こうの母も妊娠していたという事実。
そしてそれが何らかの理由で失われたという怒り。その世界の自分の心境を考えるだけでも心が痛い。だがしかし、それが自分に代わった所で何か出来るとは思えない。
「貴方が世界を渡る際、此方から祝福を授けようと考えています。向こうのへ干渉は出来ませんが現段階の貴方へなら渡せる。世界の理を歪める程ではありませんが並大抵の事は耐え凌げると考えています。具体的には全体的な身体の強化、精神面の向上、第六感等です。」
なるほど。どの程度かは不明だがそれなら困ることは無さそうに感じる。
思えば幼い時から私は何かを成し遂げたいと強く考えてきた、今にして思えばそれは何でも良かったかも知れない。迷子の子を助けるとかお年寄りの荷物を代わりに持つとかそんな些細なこと。弱く非力な身体だがきっと出来る事はあると。高い薬を消費し、両親に助けられ、金銭、心身に負担を掛け続けるのは嫌だとずっと思っていた。だがそれすらもこの現実は許してくれなかった。
そして今にして舞い降りた機会は聞いてみれば世界の命運を分けるものときた。本当に最後の最後命の灯火が切れる間際に…。
両親は自分が死んでも大丈夫だろうか?両親には妹と新しく家族三人で幸せに暮らして貰いたい、過去の事など忘れて。
向こうの世界の両親にはそんな機会すら奪われた。向こうの世界の自分の気持ちも少しは分かった気がした。きっと己の力不足を呪ったに違いない。どうしようもない現実に打ちのめされ、前が見えなくなる程に。
向こうの世界の自分も、それを思う両親もきっと助けを求めている。それが自分が横入りする形であったとしてもそれは変わらないだろう。
既に気持ちは固まっていた。この世界の自分にできる事と言えば両親に気持ちの整理を着けて貰うことだけだ。
(条件を飲む代わりに条件が二つ。一つ目は自分が向こうの世界へ行っても両親が来るまで肉体を永らえさせて欲しい。二つ目は自分が亡き後も家族三人幸せに暮らして欲しい。)
以上の二つ。神と近い貴方なら可能なはずだ。
「わかりました。…本当にありがとうございます。」
涙を一筋流し、謝る天使。
今考えれば初めからこの選択を選ばせてる事に葛藤したいと感じる。その仕草も涙も心からの者だろう。本当に人が好きなんだと改めて感じた。
此方もすまない…。一時は憤慨してしまった。貴方も天使という立場上仕方なかったのでしょう。
いえ、とその後に続ける彼女。自分の頭に優しく触れた。
「私は貴方をずっと見ていましたよ。厳しい状況の中、希望を信じ、ひた向きに前に進み続ける姿はとても眩しく、美しいものでした。力不足にも助ける事は出来ず、こんな形でしか会う事は出来ませんでしたが私は常に貴方の側に居た。今にして思います。この出会いは偶然では無い、必然であると。両親には神の啓示を持ってお伝えします。きっと間に合うでしょう。その後についても大丈夫。今回の事で先程神から一部干渉を許されたので今後病や事故、金銭面についても悩む事はありません。」
出来る事は全てやった。次の世界で彼の思いを受け継ぎ精一杯生伸びる。力とやらを駆使し、多くの人々を救う手助けをする。
それから十数分気持ちの整理をし、その時を決めるのを天使はずっと待っててくれた。
「それではこれから貴方を向こうの世界へ送ります。痛みはありません。僅かに浮遊感を感じるかもしれませんが一瞬で収まるでしょう。彼方の世界へ行ったら速やかに行動に移して下さい。与えた力を使えば窮地を脱出出来る筈です。」
思えば十四年という月日はあっという間だった。大半は病室での生活だったがまだ動けた時両親と遊んだ思い出は今でも鮮やかに胸に残っている。
(父さん、母さん自分は本当に幸せでした。どうかお元気で)
気がつけば頬を涙が伝っていた。涙は長い闘病で枯れ果てたと感じていたが…。
「それではどうか気をつけて、神の御加護があらんことを」
そう言い、自分の額に口づけをする彼女。顔が真っ赤になるのを感じる。
フッ…
全身に風を感じたそれは直ぐに浮遊感へと代わった。
これがこの世界での最後となる。瞬間目を横に向ける。そこにあるのは唯一母を感じる見舞いの花。
あの花の名前は何だろうか。母に聞きそびれたな。
そんな思考を最後に自分の意識は暗転したのだった。