その日その鬼は大層機嫌が良かった。いや、むしろ絶好調と言っても良いかも知れない。
偶々訪れた場所には人気が無い所に一軒家ときて、苦もなく獲物にありつく事が出来たのだ。男と女は矢鱈と抵抗したがそれも鬼からすれば興が乗るというもので少しずつ味わいながら食べる事が出来た。しかし、本当の楽しみはこれからだ。
家屋の隅で力無く蹲る娘。下級であるこの鬼でも嗅覚を擽る程の芳しい匂い。彼女は稀血と呼ばれる人の中でも希少な血を持つ人間だったのだ。
稀血を喰えばその力は人間五十、百を喰った数に匹敵する。下級の鬼でも稀血を喰えば飛躍的な能力の向上が期待出来る。鬼の機嫌も良くなるのも当然であった。しかもその娘は無抵抗ときている。
鬼は男と女を食い漁りながら娘をどう食べるかを考え恍惚な表情を浮かべる。少しずつ千切って生きながら食べるか、いっそ頭から一気にいくか。それは考えるだけで鬼の心を踊らせた。
そんな事を考えながらも数分で男と女を食べ尽くし、浮き足立ちながら娘へと足を運ぶ、目の前に来ても娘は反応が無かったが身体の一部でも囓れば心地良い悲鳴を聞かせてくれるはず、鬼は顔に喜色の色を浮かべながらぐつぐつと喉を鳴らせ獲物へと手を伸ばした。
どの人間も全ての抵抗は無意味。鬼にとって何ら脅威では無い。
そう思っていた。この瞬間までは。
ドンッ!という音と共に膝が地につけられた。
伸ばした筈の右手が砕け、骨の一部が地面にめり込んでいる。
遅れて激痛が走り、それは鬼の顔を悲痛に歪めさせた。
(ガッ…!?。一体何が?)
正面で拳を振り下ろしている娘を見て全ての原因はこの人間にあると分かり鬼は怒気を露にする。
「お前がやったのがぁあああ」
八つ裂きにしてやると只の人間が己に傷を負わせた異常性も考えず娘の腹を引き裂こうと本能のまま鬼は残った左手を娘へと伸ばす。しかし既にその行動は遅かった。
娘は目線より下がった鬼の頭部を全力で蹴り上げる。それは鬼の頬の皮膚を引き裂くに留まらず、凄まじい脚力により首の髄の骨を砕き、首の肉を千切り取り足を振り切るに至った。
つまり鬼の頭部を蹴り跳ばしたのである。
鬼の頭は家屋の壁に二、三回打ち付けられ、角を欠けさせながら玄関付近の土間に転がるに至った。
鬼は特定条件でしか死なない。例えそれが首だけになろうとも条件を満たさなければ時間稼ぎにしかならない。
だが確実に痛みはある。鬼は痛みで喚きながらも目線で娘を探し、怨嗟の言葉を喚き散らす。殺す、絶対に殺すと叫びながらも身体を首へと近付け身体の修復を図ろうとする。
この人間を超えた絶対的な再生力が人間が鬼に勝てないと言われる所以であった。しかし、それが今回は仇となる。
鬼がまた娘を見つけた時は既に草鞋を履き逃走する間際であった。喚き散らす鬼を見下ろし、何とも言えない顔をした後、今度は全力で足を振りかぶる。
「ぐぎがぁぁぁぁぁ!!!」
全力の蹴りでまた家屋の中を打ち付けられる鬼。
十分後ようやく身体に顔が着いた時には顔が原型無いほど歪んでしまっていた。再生はしたが顔は何時までも鈍い痛みを放っている。
「ごろず、ごろじでやるぅ」
稀血の匂いは強く残る。あれだけの香りだ。間違える訳が無い。
鬼のは稀血を今度こそ己の物にする為、匂いがする森の中へと突き進んでいった。
◇
(全く信じられない…鬼の頭を蹴飛ばすなんて。)
驚く彼女の言葉を頭の片隅に置き、彼女の誘導の元、森の中を走り抜ける。夜は深く森の中は闇に包まれているがそれでもこの目は昼間の様に見通し、走る事が出来た。先程は無我夢中であったがこうして走っている時でさえ、自分の身体が特異なものであるように感じる。
山道を苦もなく走る脚力、何時までも限界が来ない心肺機能。それは前の生活で得たくても得られなかったものだ。僅かに心が動くが今は命が掛かってる。落ち着き慎重にいこう。
しかし先程の鬼はあのままで良かったのだろうか?首だけの状態であるのならば釜で煮るなり、擦り潰すなり、川に流すなりすれば良かったのではなかろうか。
(う…。あんた物騒な事を考えるね。それも有効かも知れないけど絶対じゃない。下半身も無事だったし、鬼の中では人の常識を超えた術を使う個体も居るって聞いたことがある。逃走で正解の筈よ)
なるほど。ならば今のようにあのまま放り、こうして日が出るまで森の中を逃げ回るのは得策と言える。
(でも私普通の人間よ。鬼を蹴りとばす力なんて持ち合わせていない。貴方一体何をしたの?それにこの速さ…)
先程の光景が頭を過る。今でもあの鬼の顔を思い出すだけでも身体がすくむ。初めの一撃は命が掛かってるかもあって無我夢中だった。それがあの威力。蹴り跳ばした時だって全力では無かった。どうやらあの天使は予想以上の力をくれたらしい。
(天使。貴方の記憶の中で見た…。やっぱり本当だったのね。じゃあ、向こうの世界の出来事も?)
ああ、そうだ。自分は向こうの世界で死んで。今こうして此処にいる。
彼女の動揺を感じる。精神が二つだと互いの内面も通じ合うものがあるらしい。しばらくして彼女は答えた。
(ありがとう。貴方が此処に居なければ私は殺されていた。両親が死んでも守ろうとしたものを私自ら手放す所だった。最後まで戦うべきだった。気付かせてくれてこうして機会をくれた貴方には感謝してるわ。)
御礼は二人助かるまで無しだ。分岐だ、次の道は?
(突き当たりを右。道なりを真っ直ぐ!村までは遠いけどこの方向なら日が早くに出るよ。)
了解。じゃあこのまま…ッ!?
瞬間右の茂みから何かを感じ。全力で飛び退く、一瞬前まで自分が居た所に鋭い爪が走り過ぎていった。
第六感。これがなければ先程で確実に死んでいた。身体機能が高くてもあれを喰らって無事では済まさせまい。
(鬼!でもなんでこんな…。早すぎる)
どうやら鬼の強さを見誤っていたようだ。速さでは負けている、先程は油断もあり先手を取れたが力でもこちらが有利かは分からない。
闘うしかない。速さで負けてる以上逃げるのは得策じゃない。もう一度首を跳ばし、日の出まで時間を稼ぐ。
(うん。それしかない…)
けどお前は見なくても良い。裏で隠れてろ。親の仇だが、見るのは辛いだろ。
息を飲むのを感じる。彼女はずっと恐怖と闘ってきた。命すら諦めてたのを思えば良くやったと言える。自分だけを主にして彼女は休むべきだ。
しかし、帰ってくるのは否定の意思だった。
(勿論怖い…怖いよ。震えて動けなく成る程、こうしているのだって貴方に助けて貰っているから。でもそれじゃ今後も鬼に怯えて生きる事になる。それじゃ命を賭して守ってくれた両親に胸を張って生きていけない。お願い最後まで見届けさせて。)
強い決意。なら否定はしない。この話は終わりだ、これからは命が掛かっている一瞬の油断も許されない。
二人でなんとしても生き残るぞ!!
自分の言葉に強い意思を持って返す彼女。もう、鬼の恐怖に怯える事は無いだろう。
一心同体。自分の失敗は彼女の死でもある。何もしてでも勝たなければならない。
「人間がどれ程足掻けるかその身体で理解しろ!糞野郎!!」
鬼に向かって雄叫びを上げながら前進する。
これから正真正銘人間と鬼にとの一騎討ちであった。
◇
何だ。何なんだこれは!?
鬼は顔には色濃く動揺が現れる。
鬼にとっては今日は最高の日であった筈だった。片手間に人間を三人貪る事ができ、一人は幸運にも稀血だ。力も増し、更に楽に人間を喰うことが出来る。もしかしたらあの方にも気に入られ。十二鬼月の仲間入りさえ夢では無かった。
それが蓋を開ければ、ただの娘に手傷を負わさせ、首を飛ばされる始末。
森に逃げたと思えばその速度が尋常では無い。必死の思いで何とか追い付き不意打ちを与えようとしても妙な感の良さで避けられる。だがまだ此処までは良かった。
追い付いたのなら話は簡単、人間は鬼には勝てない。鬼殺隊ならまだしも素手の、ましては人間の小娘に等負ける道理が無い。先程は油断したが今度はそうはいかない。そう鬼は意気込んでいた。
だがどうだろう結果を見ればそれは呆気ないものだった。
腕力、速さ共に勝る筈が鬼の爪は娘の身体に当たりこそすれども妙な固さ、その瞬発性に致命傷を与えらない、攻撃は表面の肉を切り裂くのみであった。娘の視線を読み、隙に攻撃をしても何かに反応してるのか空振る始末。娘の攻撃は確かに人間の繰り出すものにしては脅威だが、あくまでも鬼の再生力の前では無意味だ。
しかし、生意気にも手段はあの手この手と変わっていき、砂による目潰し、急所への攻撃、投石、投木と無視出来ない物になっていく。
それに初めのこそ足を震わせていた娘が次第に慣れ、動きに無駄が無くなっていく。
(何故だ!?何故恐れん…!鬼が怖くないのか!?)
これが本当に人間なのか?吹けば飛び、裂けば息絶える筈のそれが何故ワシと対等に闘える?
許さん。人は鬼を恐れなくてはならない。人間は…
「人間は鬼に喰われるべきなんだぁぁぁぁぁ!!!」
激昂した鬼が最後に見たのは己に倒れ掛かる大木の姿。
鬼は動く事も怨嗟の声も上げる事が出来ず、日が昇り消滅するまでの間、その大木の下敷きとなったのであった。
◇
日の光がやけに眩しい。カーテンは開けっ放しなのだろうか…。
嗅ぎ慣れた薬品の臭いが鼻につく。暖かな布団は朝の低下した気温と対象的で何とも心地よい。
今は何時だろう、と思考を巡らせた瞬間。この世界に来た記憶が頭を過る。
「…此処は!?鬼は何処へ!?」
確か自分は鬼と闘っていた筈だ。闘いは熾烈を極め、何度も第六感や彼女の忠告で奴の攻撃を避ける事が出来た。こうして生きているのは奇跡以外の何物でも無い。たが此処は何処だろう?…まさか夢じゃないはず。おい!…おい!!
(…んむぅ。何ぃ?お母さんもう朝?)
良かった現実だ。って寝惚けてる場合じゃない。起きろ!
瞬間彼女の意識が覚醒する。穏やかだったそれは不安になりやがて悲しみへと変化した。
昨晩の事は現実であり。彼女の両親が亡くなった事は変わる事は無い。本当は向き合う為の時間が必要だ。だがそれはまだ現状が落ち着いてからだ。この世界に対しては自分は疎い。彼女の補助が必要不可欠である。申し訳ないがそれまで彼女には我慢してもらうしかない。
此処は何処だか分かるか?
(此処は病院かな?…ごめん、私は村しか知らなくてこんな設備がある所は知らない。きっと大きな街の病院とかかな?)
彼女も分からないか。
しかし、これからはどうすれば。実質身寄りも無い身だし、ここで素直に話すべきか…。でもこの世界にとって鬼がどういったものかも分からない。安易に口にしない方が良いのか…?
何にしても慎重に事を進めなくてはそれに今後の事もあるし。
思想に耽っていて自分は隣に座るその姿を見失っていた。
「心配しなくても鬼は退治されました。此処は蝶屋敷。鬼殺隊の治療所です。どうか落ち着いて下さい。」
声に反応し、身を起こすと全身に激痛が走り、気を失いかける。
そんな自分にこの病院の関係であろう彼女は優しく制止し、痛み止めの液体を自分の口に運んだ。病院でもこういう事はあったが年頃なのでこう若い女性にして貰うと照れてしまう。
「言いたい事、聞きたい事もあると思いますがまずは療養に専念して下さい。全身の裂傷は命に関わる程では無いですが中には深い物もあります。完治まで数ヶ月、一週間は絶対安静にして下さいね。」
自らを胡蝶カナエという彼女はどうやらこの病院の主らしい。
十代半ば程に見えるがこんな立派な所を切り盛りしてるとは凄い人だ。それともこの世界の人達はそうなのであろうか?それに先程の殺隊鬼という言葉、違う世界故に分からない事もある。
彼女はふと、席を外したかと思うと微笑みながら一つの花瓶を持ってきて自分の近くの机に優しく置いた。偶然かそこには前の世界でよく母が置いてくれた花が咲いていた。
「これは何て花ですか?…前に風邪で寝込んだ時に母が生けてくれたんです。」
彼女は数秒考えた後、「優しいお母さんなんですね」微笑んだ。
「これはガーベラという花です。最近この国に流れた物で今とても人気なんです。ほら、綺麗でしょ?」
そう言い。花を指先でちょんちょんと触り匂いを嗅ぐ彼女。
「どの花にも花言葉と言うものがあって、贈った相手にその気持ちを込めて送るんです。直接言葉にするのも大事ですがこうした物に込めて送る事も大変素敵だと思います。色によって違いますがそうですね、お見舞いの際のガーベラの花言葉は…。」
以前の記憶を思い出す。それは心配しながらもそれを顔に出さず、花生ける母の姿。
「希望、感謝、めげずに前進。って所ですね。ッ…!?大事ですか何処か痛みますか?
」
自分の涙に気付いたカナエさんが心配し、気遣うが自分は暫く彼女の胸の中で泣く事になってしまった。
今はもう会うことの出来ない母の優しさを改めて強く感じ、そしてそれに答える事の出来ない現実は自分の胸を酷く締め続けた。