体育館で熱心に汗を流す少女たちの光景が目に入ってきたことで、自分の中で安堵する。今日は男子が外、女子が中での活動ということだった。まだ男子たちはそこには来ておらず、そこそこの余裕を持たせつつ時間に間に合う事が出来た。ホッと息を吐きながら、更衣室へと入り速やかに制服を回収する。
急いだおかげというのもあるだろうが、俺にしてはかなり頑張ったほうなのでは無いだろうか。乱れた髪がべったりと額にへばりつく。だが目標を達成できたからかさほど不快感を感じることは無い。これがランナーズハイか。一人で勝手に納得する。
本来の目的には無かったが体育教師に自分の体調が良くなったことを伝えに行こう。確かまだグラウンドにいるはずだ。特に何かそうする義務があるという訳では無い。だが、サボってしまったという若干の負い目が俺を動かす。それに何故か他の奴らよりも一足先に帰ってきた、俺に向けられる視線が少し痛い。
そそくさと立ち去ろうとしたらこの場ではやや似つかわしくない、何をするでもなくただその場に座っている少女、四葉を視界が捉えた。改めて今度はハッキリと様子を窺う。誰とも喋っていない。誰とも関わろうともしていない。孤独という二文字がこの場ではよく似合っていると思った。そして無意識の内に足がそちらへ動いていった。
「おい、四葉。大丈夫か。もしかして体調でも悪いのか」
「私は大丈夫ですから。て、あ、風太郎君。ええとお見苦しい姿を見せてしまいました。ほんのすこーし頭が痛いような気がします。ええ。何しにここに来たんですか?」
俺だとわかってやや瞳に光が戻った気がしたが、すぐに元に戻ってしまう。目を逸らしながらボソボソと喋るその姿は見ていてかなり痛々しい。また、慣れない引き攣った笑顔からも何となくここには触れて欲しくないのだろうという事が伝わる。彼女も俺の介入を望んでいない。だから仕方ないだろう。
「特に理由は無いが、その、何か見ていられなくて気が付いたら来ていた。特に何でもなく元気そうでよかった。俺も次の授業があるから先、行くな」
「では少し入り口で待ってもらっても良いでしょうか。私も着替えてきます。すぐ終わりますから!」
そう言い残し全力で更衣室の方へ走って行った。少し顔が赤くなっていたような気がした。今日は暑いからな。やはりびっくりするくらい速い。ならそれを他の生徒に見せればいいのになと少し残念に思う。一緒に良い汗を掻ければ口下手な四葉でも友達が増えそうなのにな。いや、それはもしかしたら見当違いなのかもしれない。
あまり思い出したくは無いが、初めて中野家にお邪魔した時に二乃に見られてしまった例のアレでやけに力というか運動神経が高い気がした。何だかんだで忘れられているかもしれないが俺は男だ。運動能力については一抹どころかかなりの不安がよぎるのだが、それでも男だ。一見してひ弱そうな四葉にあっさり負けてしまったのが少し癪であれから内緒で筋トレしているというのは内緒だ。効果出ると良いんだがな。
そこで四葉に何かスポーツはやっていたのかと聞いたが、なんと特に何もしておらず過去に助っ人として手伝いに出て行ったくらいと自分で言っていた。どこか空っぽな笑みを浮かべながら。きっと昔からこんな風になっていたわけではないだろう。真面目な四葉がこんな白昼堂々とサボることは何となく違和感を覚える。ということは過去にその「助っ人」で何かがあってこうなってしまったと考えられないだろうか。
俺や三玖の様に出来なくてやる気が出ないのとはわけが違うだろう。過去には出来ていたというのにその「何か」のせいで心が拒んでしまうのは余りにも悲しい。なら家庭教師として、そして一パートナーとして俺に出来ることは何だろうか。そんなの考えるまでも無いはずだ。
いつの間にか片づけを始めている人垣から四葉がこちらに走ってきた。やはり速い。足は止まったが、その場にある空気はそうはならない。柑橘系のような少し甘い香りが辺りに広がる。何で女の子はこんなにいい匂いがするのだろうか。永遠の謎の一つである。例えばらいはと俺は同じシャンプーを使っているはずなのに何故か全然同じ匂いじゃない。どういう事だろうか。
「すいません。お待たせしました。少し遅くなりましたよね。って聞いてます」
「ああ、大丈夫だ。少し考え事をしていた。それじゃあ教室まで行くか」
「はい!行きましょう!」
一瞬意識が完全にそちらに向いてしまっていた。初夏にしては暑すぎるということも原因の一つだろう。こちらを不思議そうに見る純粋な瞳が眩しくて仕方が無い。その目が辛い。相当気持ち悪いことを考えてしまっていた。反省しなきゃな。
「それにしても体育は結構疲れましたね。昼休みまでまだあと一教科あるのにお腹が空いてきました。風太郎君はどうですか」
「いや、そんなに腹は減っていないな。というのも早々にギブアップしたから何だが」
「その話、詳しく聞かせてもらえますか。どういうことですか。今日の体育は長距離走だったと思いますが、私の記憶が正しければ休める様な感じではないかなとか」
ギョロリという音が聞こえるほどに俺をジッと睨んでくる。そんなに目くじらを立てるほどの事だろうか。まあ特に隠す必要もないし別に言っても良いだろう。
「あー、走って十分くらいで暑さか何かで倒れてさっきまで保健室で休んでいた。それで授業時間いっぱい休んで、教室に帰ろうと思っていたら更衣室に制服を忘れていたことに気が付いて回収をしたって感じだ。心配はしなくてもガッツリ水分補給もしたし保冷材で寧ろ寒くなるくらいまで冷やしてもらったから大丈夫だ」
「え、本当に大丈夫ですか。もしかしてここ最近私に付きっ切りになっているせいで、疲れが溜まってしまったとかですか。本当にすいません。週に決まっている日だけで良いのに、私がダメなせいで貴重な時間を割いてその結果がこれですよね。心配しなくても自分で頑張るのでとにかく休んでください。何か必要なことがあれば遠慮せずに伝えてくださいね」
「心配してくれてありがとう。でも本当に大丈夫だからな。俺の運動量が足りていなかっただけだと思う。だからそんな自分を追い詰めるのはやめて欲しい」
「わかりました。でも何かあったら言ってくださいね」
必死に俺に休めと迫る四葉に若干の温度差を感じつつもどうにか落ち着いたようだ。貰うものはしっかり中野父から貰っている。対価としては十分すぎるくらいだ。でもよくよく考えてみたら、自分の成績が良くないせいでと負い目を感じさせてしまっていることは分かっていたことなんだよな。
困った生徒だと内心笑う。自分の事は一切考えないくせにいざ人の事になると血相を変えて身を案じてくる。また、現状に決して増長せずに、あくまでも自分が「させてもらっている」という意識を変えようとしない。おそらく四葉にとって今の教室に一緒に行くという何気ない提案でさえ相当考えて、勇気を振り絞った上の結論だったのだろう。やはり依然として低いままの自己評価に少し悲しくなってしまう。
そんな四葉にどうにか自信を持ってもらいたい。その時、俺の中で一つの妙案が浮かんだ。これなら自分に自信を持ちつつ俺への負い目を減らしてくれるに違いない。多分。それに俺自身も結構気になっていたことだったし。嘘を付いているという訳でもない。
「放課後、特に何をする予定も無かったが、今日暇か。勿論自分で勉強がしたいとかなら良いんだが」
「いえ、もうフリーよりフリーですよ。風太郎君のためなら火の中水の中でも付いていきますよ」
「じゃあ今日の放課後に教室で待っていてくれ。行きたいところがあるんだ」
俺はズルい。こんな聞き方をして彼女が断れるはずがないとわかっていたのに。俺がもし壺を買えとでも言えば何のためらいもなく買ってしまうだろう。容易に想像できる。そんな風に騙されて欲しくはないのでしっかり俺が守る必要があるだろう。
「ところで、今日はどこに行くんですか。そういう事を聞いていなかったことに今気が付きました」
「そういえば言っていなかったな。すまんすまん。じゃあ場所を言う。というかここだ」
「えっとここは」
目の前に見えるのは少し大きい体育館。地元にあるスポーツセンターだ。俺はあるという事は知っていたが、実際に来たのはこれが初だ。きっとこんな機会でなければここを拝むことすらなかったと思う。四葉は最近この町に引っ越しただろうからこの場所の事を知らなかったに違いない。
「ここに来たっていう事は汗を流すってことですよね。全然構いませんがどうしてここを選んだんですか」
「特に理由はない。俺も身体を動かす楽しさに目覚めただけだ。一人じゃ出来ないこともあるだろうから今日ついてきてもらった。今日体育もあったしジャージもあるだろう」
どこか困惑する四葉を運動をする方向へと誘導して行く。今の俺は身体を動かしたくて仕方が無い男だ。ついでにトレーニングの成果を確かめたいという理由もある。うおおおおお!やるぜ!
「風太郎君、大丈夫ですか。ちょっと休憩でもしましょう。これでもどうぞ」
「助かる。うん。休もう…」
調子に乗りすぎた。普段使う事のないところを酷使しすぎたようだ。休憩室に入りドッと疲れが押し寄せてくる。今日はもうゆっくり休みたい。自分からこんなことをしていたという事は知らない。
そんな限界一歩手前の俺に優しく声をかけてくる四葉。運動の邪魔になるからと後ろで縛った髪の匂いを感じ少しドキッとする。俺の身を案じてはいるが自身の疲労は微塵も見られない。これが若さか。全然違う。やはり思った通り運動神経は抜群だった。ほぼすべての競技をそつなくこなしていくその姿には、男としてのプライドを通り越してどこか憧れのようなものが浮かんでくる。
「私も久しぶりで夢中になっちゃって言い忘れてましたが、いきなり無理な運動をすると身体に大きな負担がかかるんですよ。これからは定期的に運動することをおすすめします」
「じゃあまた今度もよろしく頼む。でも今日は無理だ」
「任せてください!私も少しは腕に自信がありますから!」
楽しそうに笑う四葉を見て、今日疲れた甲斐があったもんだ。こんなにもできるのにそれをあまり見せないことについては結局聞けず仕舞いだったが、俺も楽しかったから今日はもういいか。やはり彼女には笑顔が良く似合う。こんな風にいつも隣で笑っていてほしいな、そう強く思った。