昨日の事を受けて一つ、考えたことがある。中野家は恐らく俺のような外部の者の侵入を異常に怖がっている節があるのではないかと。どこまで信じていいかは分からないが、本当の事だったと仮定すると、家族が幼いころに亡くなり結束力が増したというのはごく自然なことと思う。
正直に言ってしまえば物凄く面倒だ。通常の三倍という破格の時給に関してはまぁ魅力的ではあるが、こんなことになってまで続けるまでの報酬にはならないだろう。論理的に考えれば、俺の事を引き剥がしたい一花や三玖の希望通り大人しく手を引き、新しいバイトを探すのが賢明だろう。正直、大きく時間を拘束される家庭教師というバイト自体もそんなに乗り気では無かったのだ。
辞める理由に関しては山ほどある。じゃあ続ける理由は何だろうか。パッと思いつくものは無い。そんなの当たり前だろう。先ほど挙げたデメリットが大きすぎるからだ。そうだ。本当に意味がないのだ。俺が熱くなる理由も、何も。心ではわかっている。なのにどうしてそう決心した時に、彼女の表情だけは笑っている寂しそうな顔が思い浮かぶのだろうか。
昨日学校に行かなかった程度で話しかけてくるような友人を俺は持っていない。これが一週間、一か月となると少しは変わってくるのだろうが、勉強だけをして人との関わりを避け続けていた俺には当然だろう。そうだ。居ないはずだ。だから今日学校に来た途端に感じる後ろから射抜くような視線はきっと気のせいに違いない。
別にお前のせい何かじゃないから、そんな目をしなくてもいいぞ。そう言えればどんなに楽だっただろうか。或いは俺の事を何とも思っていないようだったら、はなからそんなことを考える必要が無かっただろう。しかし現実に起こっていることは起こっていることなので、どうにかする必要があるだろう。その内。
今は授業中である。たった一日だけの付き合いだった俺が何を言えるのかという話だが、授業に集中してくれ、四葉。一限、二限目くらいまでは分かる。でもそれが昼前になっても未だに続くようなら流石に大丈夫だろうかと疑う。これが全部俺の自意識過剰だったら実にすべてが丸く収まってくれるだろう。休み時間になって俺がトイレに行こうとして横を通った時に露骨に表情を硬くさせたり、小声で俺に声を出しかけて止める。そう言ったことからそれもまず無い。
かく言う俺もこんな風に考え事をしている時点で、集中できていないということはまず間違いない。やはりはっきり話さなければいけないだろう。今後の事についても。とりあえず腹積もりが決まったので授業に集中しよう。
「じゃあ、この問題をー。中野」
四葉は大丈夫か。さりげなく後ろを見るとかなり悩んでいる。問題を当てられたことに気が付いているだけまだマシだろうか。そんな訳が無いだろう。ここの問題は一昨日にやった記憶がある。ほら、ここが分からないと言ってきたところだ。身になっていればいいのだが。
まぁわかっていてもそうでなくても前に行かなければならない。ガラ、と椅子を引き黒板まで若干の早足で向かう。俺とは反対側の列を通って行った彼女を見るなり、俺の助けは借りないぞ、という意思表示なのだろうか。安心してくれ。手は一切貸さないつもりだから。
澱みのない動きでカツカツ、チョークの軽快な音を聞く。何となく怖くなって問題を解いているフリをして下を向く。四葉を信じて直視することが出来ない俺は弱いのだろう。
「正解だ。結構難しいところだがよく出来たな」
「ありがとうございます」
無事正解したことに内心かなり嬉しかったのだが、同時に淡々と興味のなさそうな声にぞくりとした。自分の事なのにまるで関係がないといった印象を受ける彼女。俺もあれを向けられるかもしれない。少しの覚悟をしよう。
昼休みになり、俺は真っ直ぐ屋上に行く。階段を上りながらどう切り出したものか思考をする。が、全く妙案が思いつかない。そもそもな話であれだけ考えて出てこなかったことがたかが数分で思いつくはずも無いだろう。待たせてしまっているだろうか。授業が終わってからすぐに行ったはずだがやはり運動能力で俺が敵うすべなどあるまい。男としてどうなんだという所はあるが。
「は、話って何ですか」
相当困惑したであろうことが容易に想像できる大粒の揺れる瞳とクシャクシャに握りしめてヨレヨレになった俺の手紙を握りしめ、彼女、四葉は立っていた。
文面はこうだ。「昼休みに屋上に来て欲しい。四葉と話がしたい。どうしても大事なことなんだ」こんな風なものを朝早めに登校して机の中に忍ばさせてもらった。理由についてだが、こういった場を作らなければ彼女はまず間違いなく俺と会ってくれないだろう。事実、視線は感じたけど避けられてたし。
「話が無いなら失礼します。私も暇ではないんです」
早々に立ち去ろうとする彼女の腕を今度は俺が逆に掴む。これでお互い様だ。考え事をすると沈黙してしまうのが俺の悪い癖だ。言われなくともどうにかするぞ。
「手紙に書いた通りだ。今日は俺たちの今後に関わるであろう大事な話をしに来た。急に呼び出して済まないとは思ったが、こうでもしないと会ってくれないと思った」
「い、嫌です。話したくありません。私はもう貴方の害になる事をする気なんて微塵も考えてません。どうせ信じられないと思いますが本当です。だから、せめてこれぐらいは許してください」
話が噛み合っていないな。イマイチ要領を得ないし。何にせよ話してもらわなければ困るので少し強硬手段を取ることにする。
「このまま話さない心積もりなら俺はこの手を絶対に離さない。運動神経が高いとは言え、同年代の男の手を振り切って逃げるのは相当大変だろう。それにここの年季の入った屋上の扉は開くまでに時間がかかる。逃げ切るのもかなり厳しいだろうが。どうする」
我ながら中々酷いことを言っているという実感はある。でもこれ以外の手段を俺は知らないし、こっちも必死なのだ。
至近距離で見ていた顔が次第に悲しみの表情でいっぱいになり、遂に泣き出してしまう。流石に強引すぎただろうか。思わず手を離すが、逃げるということは無くその場で座り込んでしまう。
「すまん。お前の事を泣かせるつもりなんて無かったんだ。ただ話がしたかっただけで」
「良いですよ。もう言っちゃってください。こんなみっともない姿を貴方にずっと見せたくなんかないですから。わがまま言ってすいませんでした。重いこと言ってすいませんでした。生きててすいませんでした」
まずい。どうやら大きく勘違いしていそうだ。屋上という場所を選んだことが裏目に出てしまう。俺は四葉に死んで欲しくない。もう少し筋道立てて話そうと考えてはいたが全く余裕が無くなってしまった。
「顔を上げてくれ四葉!そうしないでも聞いてくれ!俺から離れないでくれ!色々悩んでいるみたいだがそんなの俺には些細な問題だ!俺は他でもない四葉だからこういうことを言っているんであって、他の姉妹だったらとかそう言う事はもう考えるな!大体もう家庭教師として契約したんだ、嫌でも毎日行くからな!」
ハァハァ。柄にもなく大きな声を出して恥ずかしいことを言ってしまった。でもこれが俺の気持ちだ。嘘偽りない。
そんな俺の熱い気持ちとは逆に、目を見開いてボーっとしている。あれ、全然ダメだったか。やはり感情論ではダメなのか。
「私に二度と付き纏うなってことを言いに来たんじゃ。一昨日のことが会って、昨日顔も見たくなかったとかそういうことでは無かったの」
やはり話がしっかりズレていたようだ。俺だって四葉に二度と会いたくないと絶縁を突きつけられればそうなってしまいそうだ。ともかく俺を拒否する先ほどまでの姿は見当たらない。なら。
「ああ。昨日は単に風邪を引いただけだ。少し寝たら治った。大体、俺がいつお前の事を嫌いだなんて言ったんだ」
「いいえ。言ってません。完全に私の早とちりでした。そうとは知らずさっきまで失礼な真似を…すいません!」
先ほどまでの虚を突かれたような表情から再び沈んだ表情になる。呼び出した時のようなことは無いが。とりあえず平静になってもらいたい。
「全然大丈夫だ。全く気にしていない。というか俺のパートナーなんだからあまり気にしないでくれ」
「そう言って頂けると、助かります。ところで、話はこれでおしまいですか。それならその、一緒にお昼とか食べませんか」
ワクワクと俺に話しかける彼女にこういうことは言いたくないが、まだ話は終わっていない。さっき話したことに匹敵するか、あるいはそれ以上の爆弾だ。処理しなければいけない。
「昼に関してはまた明日頼む。話すことがあるんだ。お前の姉妹についてだ」
「えっ」
はっきりと表情を歪ませる。彼女はまず間違いなく姉妹に大きなコンプレックスを持っている。言いたくないだろう。でもこれからの為に話さなければいけないんだ。昨日の一花の話についてもどこまでが本当かわからない。まだまだ、話は終わらない。
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