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「なーに見てんのっ」
待合スペースのソファーに座って一生懸命何かを見つめていた沙紀の肩を、後ろからぽんと叩いたのは周子だった。
「ひっ──あぁ、なんだ周子さんか、びっくりした……」
「なんだって何、周子で悪かったね」
周子はぷくーと頬をふくらませながら沙紀の座っている二人がけのソファにするすると回りこんで、沙紀の隣にすとんと座った。事務所にはもうあまり人が残っていないのか、たまに近くの廊下を誰かが歩いて行くほかには物音もせず、ひっそりとしている。待合スペースの窓から見える街並みは、夕日の名残にぼんやりと染まっていた。
「びっくりさせないでくださいよ、もう」
「怒んないでよ沙紀ちゃん、急に肩叩いたりしてごめん」
「いや、良いんすけど……」
沙紀はちょっと言い過ぎた、と反省するかのように声を和らげた。
「ていうか、周子さんまだいたんすね」
「沙紀ちゃんこそもう帰ったのかと思ってた」
壁時計を見やると、レッスンが終わってからもう一時間以上経っていた。
わ、もうこんな時間、と沙紀が言う。
「帰るつもりだったんすけど、たまたまこんなの見つけちゃって」
そこのテーブルの上に置いてあったんすけど、と言って沙紀は手に持っていたものを周子に見せた。
<母の日ギフトはもう決めましたか?>というピンクの題字が目立つ、二つ折りのチラシだった。中には、カーネーションの花束や一輪花をはじめ、花のイラストをあしらったマグカップやメガネケースといったグッズの写真が所狭しと並んでいる。近所のデパートで配られていたものらしかった。
ああ、母の日ね、と周子は心の中で呟く。母の日に贈るものなんてたいがい花一輪に手紙を添えたものくらいだろうと高をくくっていたが、最近は需要も供給も多様化しているようだ。日付を見ると、もう今週末に迫っている。
「……これ見て、お母さんに何贈ろうって考えてて一時間経ったの?」
周子は言いながら、ちょっと軽蔑しているように聞こえたかも、とひやひやした。
「ま、そうなんっすよ」
沙紀は、照れくさそうに言った。周子のひやひやは杞憂だったらしい。
しかし意外だった。沙紀がこんなにお母さん想いの子だったなんて。アート一筋、自分の信じる道をただ突き進む猪突猛進ガールだと勝手に思っていたが、案外こういう情緒的というか義理堅い一面も持っているらしい。
「親孝行だねー」
「いや、そんなんでもないっす」
周子の言葉に、沙紀はかぶりを振った。
「心配ばっかりかけてましたし……でも自分が絵を描くようになったのも、そんでそれがきっかけでこうしてアイドルやってるのも、元はというとやっぱり両親のおかげだし、やっぱり両親には感謝してるなって思うし」
やっぱり、を連呼しながら力説する沙紀に、ふぅん、と相槌を打ちながら周子は思った。
──あたしは親とあんまり仲良くなかったからなー。
まぁ、別に親が嫌いってわけじゃないし、あたしだってその親がいなかったらここにはいないんだけど、でもやっぱり、沙紀が言うような親への感謝の気持ちっていうのは、少し理解できなかった。
「周子さんは母の日、何か贈ったりしないんすか」
沙紀が尋ねてくる。
んー、あたしはそんな柄じゃないから、と言いかけて、周子は言葉を飲み込んだ。
なぜか、沙紀の前でそういう風に言うのは気が引けた。
「……まだあんま考えてないわぁ」
結局、そう言ってお茶を濁す。
そっすよね〜、どうしよっかな〜、と沙紀はわりと本気で悩んでいるようだった。
そんなに悩むことなのだろうか……何か適当に花でも贈っておけばいいんじゃないの、と周子は内心思った。
そもそも母の日ってそんなに大事だろうか? 周子には疑問だった。もちろん、親に感謝するのが大事だってのは理解してるつもりだし、親に恨みがあるわけでもない。でもこうやってわざわざ日を設けてみんなでするようなことなの? そんなのやりたい人がやりたい時にやればいいじゃない。そもそもお母さんに感謝しましょうって、何を感謝するん? 産んでくれてありがとう? 育ててくれてありがとう? そんな恥ずかしいこと言える? 世間の人々はそんなやり取りを臆面もなくやってのけてるん? ほんまかいな。
周子はそれ以上考えると頭がおかしくなってきそうな気がしたので、沙紀に話を振ることにした。
「そういえば沙紀ちゃん、実家そんなに遠くないじゃん、帰ってあげないの?」
「日曜はあいにくちょうど営業入ってて──クァッドとは別のやつなんすけど──で、その前後もちょっと予定立て込んでて、帰ってる暇なさそうなんすよね〜」
忙しいアイドルだな、と思ったが、周子も似たようなものだった。クァッドブルーのライブも再来週に控えているし、レッスンの合間にもちょこちょこ撮影やら何やらお仕事が入っている。デビュー直後に比べればだんだんお仕事も増えてきたしありがたいことではあるが。
そうねぇ、と言いながら何気なく先ほどのチラシを眺めていた周子は、ふと、ある写真に目を留めた。
カーネーションの花のイラストが散りばめられたランチョンマットの写真だった。白地に赤とピンクの花がずらりと並び、グラデーションを醸し出している。少しけばけばしい印象はあるものの、色鮮やかで美しいデザインだった。これ、テーブルに敷かずに、壁に掛けてインテリアにしても良いのでは? と、そこまで考えて、周子はひらめいた。
「ねぇ、お母さんに絵でも描いてあげたら?」
「え?」
沙紀は一瞬、ぽかんとした表情で周子を見た。
「花の絵とか描いて、プレゼントしてあげるってのはどう? ってこと」
しばらく思考を整理するためか「え?」のまま固まっていた沙紀の顔は、その意味を理解するやいなやミラーボールのごとくキラキラと輝き始めた。
「それ──めっちゃいいっすね!」
名案じゃないすか! と沙紀ははしゃいだ。
「そうか、何も既成品を贈る必要なんてない──自分で描いた絵をプレゼントすればいいんだ!」
なるほど! と言って、沙紀は周子の手を自らの両手でぎゅっと握り、周子の目をそのキラキラした瞳で見つめた。周子はやや面食らって目を泳がせながら、いやまあ、超適当に言ったんだけど……とごにょごにょ言ったが、沙紀のエンジンはいまやフルスロットル状態だった。
そうと決まればこうはしていられない、すぐに取りかからなくちゃ! と言って沙紀はそそくさと荷物をまとめて事務所を出て行ってしまった。
あたしはまだちょっとプロデューサーに用事があるから、といって沙紀を見送りながら、周子は自分がまだどきどきしているのに気が付いた。
深呼吸をして、自分に言い聞かせるように呟く。
「……まぁいっか、楽しそーだし」
「やっぱ沙紀ちゃん、絵うまぁ〜い」
翌日、レッスン室の扉を開けると真っ先に聞こえてきたのは、彩華の声だった。
「さすがに、手先が器用ね。グラフィティアートをやっていたとは聞いていたけれど、こういう細かい絵も得意とは」
マキノも感心しながら、沙紀の手元にあるものを見つめている。
「ホントは壁に描いて壁ごとプレゼントしたいっすけどね、まぁ今回はこれで」
そう言いながらも、沙紀の声は少しも残念そうではなかった。
「あ、周子さん、おはようございます。見てくださいよこれ、なかなかうまく描けてると思いません?」
周子の姿を認めた沙紀は、嬉々とした表情で手に持っていた紙切れを周子に手渡した。
紙切れだと思っていたのは一枚のハガキだった。
そこに描かれていたのは、沙紀、周子、彩華、マキノの四人の似顔絵と、それを取り囲むように散りばめられた何本ものカーネーションの絵だった。そのカーネーションも、一見奇妙な配置だが、遠くから見ると花と花の輪郭が組み合わさって「I LOV U MOM」という文字が浮かび上がってくるという凝りようである。見たところ色鉛筆で描かれているようだったが、その濃淡のコントラスト、独特の色彩感と形のデザインは、まるでペンキとスプレーで描いた本物のグラフィティアートのミニチュア版のような出来栄えだった。
「絵ハガキを贈ることにしたんっす」
沙紀は言った。
「あとでメッセージも書き入れるつもりなんすけど。こうやってアイドル活動の報告も兼ねて、元気でやってますよ〜って感じでね」
なるほど、昨日慌てて帰ったと思ったらこれを作成していたのか。それにしても仕事が速い。
「アタシ、自分のオリジナリティとか、自分自身を表現するために絵を描くってのはいままでずっとやってきたんすけど、誰かのために描くっていうのをあんまりやったことなくて……でもこれ、すごく良いっすね。自己表現とはまた違った楽しさがあるっす」
そういってはしゃぐ沙紀を見ながら、周子は妙な気分だった。沙紀がこんな風に興奮しているのは、きっかけは昨日の自分の発言だった。自分の意見や発言がこういう風に他人に影響を与えるという経験はいままでなかったような気がする、と周子は考えた。そもそも、ライブでも他のお仕事でも、あまり自分から意見を出すということを、周子はしたことがなかった。みんなに合わせて、遅れを取らない程度に、目立たない程度に、適当にやる。それがアイドル塩見周子のやり方だった。だからこういうとき、他人の感情をどんなふうに受け止めればいいのかわからなかった。
沙紀は周子のほうに改めて向き直り、喜びを満面にたたえながら言った。
「周子さん、ありがとうございます!」
そう言われて周子はどきりと胸が鳴った。顔がみるみる熱くなっていくような気がする。
そっか、ありがとうって言われるのって、こんなに嬉しいんだ。
言われたことがなかったわけではないと思うけれど、なぜか沙紀の言葉と表情は周子の胸に突き刺さった。
ありがとうなんて恥ずかしくて言えない、と思っていた昨日の自分がすごく恥ずかしくなった。
そして、こういう言葉を素直に伝えられる沙紀を羨ましくも思った。
相手が誰であれ、こういうことは言えるときに言わなきゃだめなのだ。
自分には難しいかもしれないけれど……でも、もし面と向かって言うのが難しいなら──。
昨日見たピンクのチラシが周子の脳裏によぎった。
「周子ちゃんがどうかしたのぉ?」
彩華が尋ねる。
「あ、昨日、周子さんと母の日どんなのがいいかなーって話してて、周子さんが『絵を描いたら』って言ってくれたんすよ」
「へぇ、周子の思い付きだったのね」
マキノが意外そうな目で周子を見やる。周子は思わず目をそらした。やぁん周子ちゃん顔赤ぁい、と彩華が茶化す。
「で、昨日帰ってから速攻で描いたんすよ」
「え、すごぉい、こういうのってすぐ描けるもんなのぉ?」
彩華が心底びっくりした表情で沙紀を見つめる。
「いやぁ、すぐ描けると思ったんすけどね、色々こだわってたら結局3時間くらいかかっちゃいました」
そう言って沙紀は頭をポリポリかいた。
「あなた、昨日のレッスンの後かなり疲れてたじゃない。絵を描くのもいいけど、休むときはちゃんと休みなさいよ。今週末も仕事なんでしょ?」
あぁまたマキノの説教タイムが始まった、と周子は苦笑した。メンバーのスケジュールをきっちり把握しているあたり、さすがマキノである。
「ねぇ、クァッドブルーのアルバムジャケット、こういうのにしない?」
いくらか平静を取り戻した周子は、ハガキを沙紀に渡しながら、冗談っぽく言ってみた。
「沙紀ちゃんにカッコよく描いてもらうの」
「それ良い〜!」
真っ先に同意したのは彩華であった。
「アリかもしれないわね」
マキノもそれに続く。
「いやぁアタシなんかが……いやでも、めちゃくちゃ面白そうだしやってみたいかも……」
案外、沙紀自身は慎重である。
「もしアルバム作るっていう話が来たら、あやかがプロデューサーに相談してみるからぁ」
任せなさい、と言わんばかりに彩華は沙紀の両肩をがっしと掴んだ。身長は彩華のほうがやや低いが、さすがはクァッドブルーのリーダーかつ最年長、放っているオーラが違う。
「まぁ、それが実現するようにいまの仕事をきっちりこなしていかないとね」
マキノの冷静さが全員の気持ちを引き締める。
「そうね、そろそろレッスンの準備しましょ」
彩華が髪をくくりながら言った。
「はーい」
と返事しながら、周子は自分の頬が変にニヤついていないかちょっと心配だった。