こちらの作品はPixivとのマルチ投稿となっております。
過去にとある同人誌への寄稿用として書いた作品です。
* 1 *
背後から近寄ってくる足音。
だんだんと近づいてくるそれに、胸が高鳴ってくるのを感じる。
――嘘!? でも、しっかりと聞こえる。
音だけで近づいてくるのが誰なのかわかるはずがない。それなのに私は、足音の主が誰なのかを知っていた。
「茜」
ひどく懐かしい声。もう二度と聞くことがないと思っていた声に、涙ぐみながら私は振り返る。
「司――」
城島司。私の記憶の中以外から、痕跡も残さず消えてしまったはずの彼だった。その彼がいま、両手を広げながら私に近づいてくる。
「おいで」
「司っ、司!」
優しげな声が私を誘う。引きずられるようにして私は彼のもとへと歩み寄っていく。
もう会えないと思っていた。彼は行ってしまったから。帰ってこないと思っていたから。
「どうして、どうしてひとりで行ってしまったの?」
「大丈夫。僕はもうどこにも行かないよ」
待ち続けていた言葉に、もう一歩彼に近づく。
けれど手と手が触れ合おうとしたとき、私は違和感を覚えた。
――司じゃ、ない!
司は帰ってこなかった。帰って来るはずがなかった。消えていくときの彼は、私のことなんて見てなかったから。自分ひとりだけの想いを抱いて行ってしまったのだから。
「あなたは誰?」
そう問いかけた瞬間、司だった人間の姿が崩れ、なにもない空間の中に消えていった。
*
「ん……」
まぶしいほどの光に目を開けてみる。
見えるのは、なだらかな傾斜に生えている緑の芝。背後には木が立っていて、私はそれにもたれて座っている。
そして私の膝の上には安らかな寝息を立てる浩平の頭があった。
寝ぼけていた頭が覚めてきて、ここがどこなのかを思い出す。
家から少し離れた場所にある広い自然公園。公園の中でも人が少ない丘の上で、膝枕をしてくれという浩平の突然のわがままを聞き入れたのを憶えている。子供のようなあどけない彼の寝顔を見ている間に、私も初夏の心地よい風でウトウトとしていたみたいだ。
浩平が帰ってきてもうずいぶん時間が経っていた。
私は大学へと進学し、いなくなっていた時間の分勉強が遅れることになった浩平は、浪人生として予備校に通っている。
私も浩平も学校が終わった夕方に待ち合わせて商店街を歩いたり、休日になれば今日のようにピクニックや映画に出掛ける。ときには一緒に朝を迎えることもあって、夏には海に行こうと約束もしていた。
退屈で、変わり映えがなくて、どこにでもあるような、穏やかな日常。でも、私にとってはそれで充分に幸福だった。
それなのにどうして私は司のことを思いだしたのだろう。
もちろん彼のことを忘れるつもりはない。けれどいまはもう「昔の思い出」に変わったはずの記憶が、どうして浩平に出会う前のような苦い夢として出てきたんだろう。
ほどよい暖かさを含んだ風は心地よかった。少し前まで影だったここに直射日光が当たってまぶしかったけど、草の匂いをさわやかに感じていた。
どこにもそんなことを感じるものはないはずなのに、この丘の上で、私は不安を感じている。
それと同時に、見下ろす浩平の安らかな寝顔が、再び私の前から消えてしまうのではかという漠然とした危機感が生まれていた。
「ダメだよ。こんなところにいちゃ」
「え?」
突然声をかけられて、膝枕をしていて振り向けない私は顔だけを声のした方向に向ける。
「ここは妖精の丘だよ。こんなところで寝てたら、妖精に連れてかれちゃうよ」
立っていたのは、中学生くらいの女の子だった。私に似た淡い栗色の髪を腰まで伸ばした彼女は、怒ってるわけでも泣いてるわけでもなく、感情のないような――強いて言うなら感情の擦り切れたような目で、私のことを見つめていた。
――この娘の瞳……。
色素の薄い青みがかった彼女の瞳にはなにも映っていない。けれどだからこそ、私は彼女の瞳の中にあるものに気がついた。
「浩平、起きてください。浩平っ」
浩平の肩を揺すって無理矢理起こそうとする。
「んぁ? どうかしたか?」
「あの娘……」
眠そうな目をこすりながら身体を起こした彼に教えようと振り返ったときには、女の子の姿は消えてしまっていた。
「なにかあったのか?」
「いまそこに女の子がいたんですけど」
立ち上がって辺りを見回してみても、女の子の姿は見つからなかった。
そうしている私のことを、浩平は突然背中から抱きしめてくる。いつもよりも、力強く――。
「もういねぇみてぇだな」
「――はい」
なにか言う前に彼にそう言われて、私は頷いた。
いなくなった彼女の瞳に私が見たもの。それは消えていく直前の司や浩平が見せていたものと、同じもののように思えていた。
* 2 *
――やっぱりあの娘のことが気になる。
その思いは翌日になっても消えることはなかった。
昨日ほんのひととき言葉を交わしただけで、見ず知らずの女の子であるのはわかっている。それでも「もしかしたら」という思いが消えなくて、私は彼女のことを調べることに決めた。
浩平にも昨日のうちに彼女のことは話しておいた。心配はさせたくない――したくないから、私が彼女の瞳に見たものは伏せて、妖精の話だけを。けれど浩平は「ふぅーん」と興味なさそうにしているだけだった。
昨日のピクニックが祟ったらしく、寝坊気味で起きた今日は三つ編みを結うこともできずに大学に行くことになってしまった。大学内では大学内で、講義が終わった後はあの自然公園の近くで、あの娘のことを調べようとしたけど、ちょっと顔を見たことがあるだけでは調べようがなく、偶然出会うこともなかった。
当てがなくなってしまった夕方、私は昨日と同じ自然公園内の丘に向かって歩いていた。
三つ編みにしてない髪が緩やかな風になびくのも構わず、丈の低い草を踏みしめていく。
――やっぱり、どこか似てる。
だんだんと近づいてくる丘。それに連れわき上がってくる感覚は、司が、そして浩平が姿を消していった、いまはもうないあの空き地に行くときとよく似ていた。
――ここにはなにかあるの?
そんなことを考えながら丘の傾斜を昇っていくと、頂上に立ってる木のところに人影があった。
夕日がまぶしくて見えにくいけど、髪が短いからたぶん昨日の女の子じゃない。司であるはずも、浩平であるはずもない人影に近づいていくと、向こうの方が私に気がついた。
「牧恵か?」
それは確かに、男の子の声だった。
*
――もうすぐなんだね。
あたしにはもうどれほども時間が残されてないのは明らかだった。
あたしのことを知る人たちの記憶から「美原牧恵」という人間の存在が消えてゆき、あたしが生活していたという痕跡も消されていった。家に帰ることもできなくなって、ただ当てもなく街を歩くことしかできない。
雨が降っていた。梅雨入りを感じさせるような冷たい雨が、微かな音を立てながら街に降り注いでいた。
傘を持っていないあたしに、雨は容赦なく降りかかる。着替えることもできず汚れっぱなしのシャツとジーンズは、水を含んで気持ち悪い。濡れて背中や腕に張りつく腰までの髪は重くて仕方なかった。
――あのときすぐ、切っちゃえば良かったかな。
そんなことを思うけど、でも、もうどうでもいいことだった。
あたしがこうなっているのは、妖精たちが二年前の約束を守ってくれただけのこと。まもなくあたしはいる場所がなくなったこの世界から、妖精の世界に行くだけのことだった。
あたしはそれを望んでいた。これ以上自分以外の人間の身勝手さに振り回されるのは嫌だった。あたしのことを見ていてくれてるようで、自分のことばかり考えてる人たちの中で生きていくことなんて堪えられなかった。だから、あたしは妖精たちと約束をした。
すれ違う人々から投げかけられる視線。けれどそれもすぐに外されることになる。なにしろあたしは、もうこの世界には存在しない人間だから。
雨が止む様子はなく、行く当てもなかった。一歩一歩と足を前に出していることに、意味はなかった。
「よかった。会うことができましたね」
声とともに差しかけられたのは傘。目の前に立っているのは、確かこの前あの丘で会った女。
「間に合いました。さぁ私の家に行きましょう」
あたしの目を真っ直ぐに見つめ、彼女はそんなことを言う。
もうこの世界での存在がわずかになったあたしは、人が見てもすぐその記憶の中から消えてしまう。この女もすれ違っていく人たちと同じように、あたしのことを忘れてしまうはずだ。
その女は踵を返してどこかに向かって歩き始めようとする。
――やっぱりこの女も……。
そう思ったのに、振り返った彼女は立ち止まったままのあたしに向かって言う。
「どうしたんですか? 今日は私の他には誰もいませんから遠慮は必要ありませんよ」
ほとんど見ず知らずの女。そんな彼女の家に行く理由も見つからなかった。
無視して別の方向に行ってしまえばいいことだったのに、再び差しかけられた傘を、あたしのことを映してる真摯な色を湛えた瞳を、拒絶することができなかった。
*
彼女の――美原牧恵さんの着ていた服は、雨に濡れてるばかりではなく、汚れがひどかった。その事実に、私は彼女に残された時間がほんのわずかであることをあらためて実感した。
洗い終えた牧恵さんの服を乾燥機に入れてタイマーを仕掛ける。その後すぐ横の浴室に入りバスタブに溜まったお湯の量を見て、蛇口を絞めた。
牧恵さんを見つけたのは、本当に偶然だった。いえ、もしかしたら巡り合わせだったのかも知れない。
親が会社の慰安旅行で私しか家にいなかった今日、雨が打ちつける窓を見ていると彼女に会えるような気がした。そして家を出てみると、彼女に会うことができた。
脱衣所を出て微かに食器の音がするリビングに向かう。そこにはゆっくりとした動作でスープを口に運んでいる牧恵さんがいる。
まずお風呂に入ってもらうつもりだったけど、玄関に入った途端彼女のお腹が鳴ったため、身体を拭いて適当に見繕った私の服を着てもらってる間に食事の準備をすることにした。この数日なにも食べていないかも知れないことを考えてつくった、クルトン入りのポタージュスープ。最初手をつけようとしなかった彼女だけど、さすがにお腹が空いていたのか、洗濯などで私が席を外している間にたっぷりあったはずのお皿の中身は、残りわずかになっていた。
牧恵さんの正面に座り、自分用に淹れたコーヒーのカップを両手で包んだ。見られていることが気になるのか、彼女はちらちら私の方に視線を向けたりしているけど、スプーンの手を止めることはない。
――なにも言葉が見つからない……。
やっと落ち着いて牧恵さんと向き合えるようになったのに、彼女にかけるべき言葉は見つからない。言うべきことはあるのに、言い出す言葉が思いつかなかった。
彼女はこの世界から消えていこうとしている人間。できることなら説得して、それを思いとどまらせたかった。そのための言葉を考えようとしているのに、頭の中にはなにも思い浮かんで来ない。
説得するための言葉がないわけじゃない。けれどどんなことを言ったところで、それは牧恵さんの痛みを知らない人間からの言葉。この世界に存在することを拒否し、それを実現してしまうほどの想いを抱いた彼女に対して力を持つことはない。
それでもどうにかしたいと考える私は、ひとつのひらめきを思いついた。
――浩平なら、もしかしたら。
牧恵さんと同じような体験をした浩平からならいいアドバイスがもらえるかもしれない。そう思いついたとき、牧恵さんが私のことを見つめているのに気がついた。
「……ごちそうさま」
スープをきれいに飲み終えた彼女は、顔を上げた私におずおずという感じの小さな声で言った。
「お粗末様でした。お風呂の準備ができています。牧恵さんの服は脱衣所の乾燥機にかけている途中ですから、お風呂に入ってる間に乾くと思います」
「わかりました」
立ち上がった牧恵さんを先導してバスルームの前まで行く。彼女が脱衣所に入り、閉めたアコーディオンカーテンの向こうから服を脱ぐ音、浴室の扉が空けて閉められる音までを聞いてから、私はその場を離れた。
そのまま玄関にある電話のところまで行って浩平の家の番号を押した。五回コール音がしたところで浩平自身が出る。
「浩平、あの……」
「おぅ、茜か。元気ねぇな。どうかしたのか?」
いつもと変わらぬ浩平の声が、私の複雑な思いを打ち消してくれる。話しづらいことではあったけれど、私は言葉を続けた。
「あの……、浩平。いま私の家に牧恵さんが、この前話した丘の上で会った女の子が来てて――」
手短に状況を説明する。牧恵さんに訪れている異変についても、わかっている範囲で。
「そっか。やっぱりまだ気にしてたんだな」
「……はい」
「それでいまその娘はどうしてるんだ?」
「いまはお風呂に入っています」
言われて私は廊下の奥のバスルームに耳を傾ける。
「まぁ、気になってたのは実は俺も同じで、あの丘のことを調べてみたんだが――」
傾けてみた耳には、予想していたシャワーの音も水音もまったく聞こえてこなかった。それどころか、締め切ってあるはずの家の中に微かに風が吹いて、雨に濡れた土の匂いが漂ってきた。
「浩平! すみません。また後で電話します」
「どうしたんだ? なにかあったのか?」
「すみません。急いでいるので」
「おい、あか――」
受話器を置いてすぐバスルームに向かった。開け放たれたままのアコーディオンカーテンの向こうに見える浴室には、牧恵さんの姿はない。乾燥機からは彼女の服はなくなっている。風が吹いてくる方向を辿ってみると、庭に面したリビングのガラス戸が開いたまま、二足あるはずの草履の片方がなくなっていた。
家の戸締まりを確認して、私は外に飛び出す。向かうのは大通り。電車がそろそろ止まってしまう時間だから、タクシーを捕まえるためだった。
大通りに出てしばらくしてやってきたタクシーに乗り込んで、迷うことなく行く場所を指定する。
牧恵さんが向かう場所を、私はひとつしか思いつかなかった。
*
雨はもうすっかり止んでいた。
見上げる空では、凄い速度で雲が動いて行ってる。たぶんそのうち、星が見えるようになるんだろう。
雨が止んだのはもうけっこう前になるけど、さすがに丘の上の芝は充分に水を含んでる。でもあたしはそんなことなんて気にせずに、丘のてっぺんに座って、そこに立ってる木に背をもたせかけた。
風が起こしてる微かなざわめきに混じって、それとはまったく別の音が聞こえる。
それこそはあたしに残された時間がないことの証。あたしはもう、朝日を見ることはないだろう。
ここで妖精に出会ったのは、二年と少し前の、まだ暖かさを感じ始めたくらいの頃だった。そのとき家にはお父さんもお母さんもいて、いつも微笑みが溢れているような幸せな生活が続いていた。
とくにお父さんはあたしの自慢だった。星を見ることが好きで、それを仕事にしていて、彗星なんかを何個も発見してるその世界では有名な人だった。星のことを語るときの夢を見る子供のような表情は、いまでもすぐに思い浮かべることができる。
お母さんも別の場所で働いてて、三人が一緒にいられる時間はそんなに多くはなかったけど、でも、みんな仲が良くて、喧嘩なんて起こることのない幸せな生活を送っていた。
ずっとそんな生活が続くと思ってた。お父さんとお母さんと一緒に、こんな幸せが永遠に続けばいいと願ってた。
それなのに、あたしの見ていたものは全部嘘だった。二年前、私立中学への進学が決まって少し経った頃、あたしはそれを思い知らされた。
お母さんはお父さんやあたしと一緒にいられる時間をできるだけ多くつくろうとしていたみたいだ。でもお父さんは研究旅行で長い間家に帰ってこないときが多くて、お母さんはずっとそのことに悩んでらしい。
そんなことあたしはぜんぜん知らなかった。そんな素振りを見せることなんて、お父さんもお母さんも一度もなかったから。
それが中学進学が決まってから、突然お母さんは変わってしまった。一方的に離婚を決めてお父さんを家から追い出してしまった。そのときあたしはお父さんと一緒に行きたかったのに、裁判をして勝ったお母さんがあたしを育てることになった。
いつまでも続くと信じていた毎日は壊れてしまった。みんな幸せだと思っていたのに、全部嘘だった。嘘の幸せを信じてたあたしは、お父さんとお母さんの勝手に振り回されることになった。
そんなときに訪れたこの丘で、あたしは妖精に出会った。そしてひとつの約束を交わした。あたしのいる場所がこの世界になくなったら、妖精たちの世界へ行くという約束を。
二年前のあのときは、まだあたしのことを必要としてくれる彼がいた。その彼も、この前喧嘩をして別れてしまった。
だから、あたしにはもうこの世界にいる場所がない。それを証明するように、彼と別れた瞬間からあたしの存在はこの世界から消えていった。
あたしに優しくしてくれた、里村茜さん。なぜあの人が優しくしてくれたのかわからない。それに勝手に出て来ちゃったことを悪いと思ってるけど、もうあたしは消えていく人間。どうでもいいことだった。
目をつむり木に身をすり寄せるようにしてあたしはその時を待つ。もうすぐ訪れるその瞬間。あたしは誰もいないこの丘で消えていく。
そう思っていたのに――。
「やっぱりここだったんですね、牧恵さん」
目を開けたそこに立っていたのは、悲しそうな顔をしている茜さんだった。
* 3 *
思っていた通りだった。
雲に反射する街の光で自然公園の中は真っ暗になることはなく、その微かな灯りの中に見える丘の上に、牧恵さんが座っているのが見えた。
「やっぱりここにいたんですね、牧恵さん」
閉じていた目を開けて一瞬驚いた顔をした彼女だけど、すぐに諦めたようにまた目をつむってしまう。
「このまま、消えてしまうつもりですか?」
「え?」
今度は声を上げながら私のことを見る彼女。
立ち上がって、私の目を見て、うつむいた後、彼女は言う。
「いいじゃないですか、どうでも」
吹っ切れたような牧恵さんの言葉。でも彼女の浮かべる笑みには、悲しげな色が見える。
「この世界にはもうあたしのいる場所はないの。待ってる人はいないの。あたしが幸せを得られる場所はないの。あたしが持ってた幸せは、全部壊れちゃったの」
自分を痛めつけるような言葉を口にし、自虐的な笑みを浮かべる牧恵さんを、私は止めることができなかった。
もしかしたら、私も牧恵さんと同じことになっていたかも知れない。司が消えていったとき、司と詩子と私の三人一緒の毎日が壊れてしまったとき、私がこの世界から消えてしまっていたかも知れなかったから。
「だから、あたしは消えるの。この世界にいるのが嫌になったんなら自殺っていう手もあるけど、それだと誰かに迷惑がかかるでしょ? でも消えるんだったら、あたしを知ってる人の記憶からも消えるんだったら、誰にも迷惑なんてかからない」
踊るようにクルリと木に向き直って、彼女は言葉を締めくくる。
「泣く人も、いない――」
「そんなことないです」
牧恵さんの言葉を否定した。
振り返った彼女がそんな私に訝しむような目で問う。
「誰が泣くっていうの?」
「私が泣きます」
「どうして?」
問われても理由は思い浮かんで来なかった。それなのに、私の中には確信だけがあった。
「わかりません。でも、牧恵さんが消えてしまった後、私は泣きます」
「嘘よ。泣くことなんてないわよ。いまは覚えてるみたいだけど、どうせあなたもあたしのことを忘れちゃうんでしょ?」
「いいえ、憶えています。必ず憶えています。私の目の前で消えていった、ふたりのときと同じように」
「っ!?」
「それに私だけじゃないです、牧恵さんが消えてしまって泣く人は」
疑問に目を見開く牧恵さんに、私は数日前にこの丘で会った少年の話を始めた。
夕焼けに染まる妖精の丘で出会った少年は、広岡俊康という名前だった。
彼が私のことを「牧恵」と呼んだ瞬間、それが誰のことを示してるのか理解した。その日三つ編みにしていない私の髪は、昨日この丘で会った少女と似ているはずだったから。
少し話をして、昨日会った少女が「美原牧恵」という名前であること、この俊康さんという男の子は彼女と同じ中学のクラスメイトで、小学校の頃から恋人であることを知った。
「行き違いだったんです、この前のあいつとの喧嘩は。牧恵の奴、なんて言うか、すごいわがままなんです。普通にわがままなわけじゃなくて、幸せに飢えてるって感じで、僕にもそういうことを求めてきてたんです」
辛そうな表情で俊康さんは語り続ける。
「あいつの親、二年前に離婚してて、牧恵はその頃の生活をずっと求めてて、中三になってそろそろ高校のこととか考えないといけないのに、なんにも考えられなくなってたんです。そういうこと話してる間に言い合いになって、喧嘩しちゃって、『バイバイ』って言って別れちゃったんです。二年前のあのことがあって以来、初めての喧嘩でした」
浩平に比べて小柄な彼は、その容貌からも弱々しい印象を受けてしまう。けれども私を見つめる彼にあるのは、求めるものを真剣に想う眼差し。
「ここから先は信じられないかも知れません。怒りが収まって仲直りしようと牧恵のことを探し始めたときに気づいたんです。彼女のことを知ってる人間の記憶から、彼女の存在が消えていってることに」
そこで一度話を止め、伺うように私のことを見る彼に答えて上げる。
「あなたの話、信じます。先を続けて下さい」
「――すぐに牧恵の家にも行ったんですけど、あいつのおばさん、僕のことは憶えてるのに、あいつのことは忘れてて、家の中にもあいつの持ってたものがなくなってたんです。それに僕もあいつのこと忘れそうで、ふと気がついたらあいつのことを忘れたことさえ忘れそうで、それで、それでずっと、あいつのこと探し続けてたんです」
――この人は、私と同じ。
俊康さんはいま、司が消えてしまったときの私と同じ境遇に立っていた。
想っている人の存在が消えていくという現実。それが自分にも及びそうになっていることへの危機感。そしてその本人が消えてしまったかも知れないことへの恐怖。
たぶん、彼に対して多くのことを言ってもいまは信じてもらえないだろう。なによりその牧恵さん本人は、既にこの世界から消えてしまっているかも知れない。
「俊康さん。もし本当に牧恵さんのことを想っているなら、彼女のことを絶対に忘れないでください」
「え?」
私の言葉はもしかしたら、彼のことを傷つけるだけなのかも知れない。もし牧恵さんが俊康さんのことを想っていないのだとしたら、憶えていることが彼に傷跡を残してしまうかも知れない。
それでも私は彼に言う。
「牧恵さんが帰ってくるまでしばらく時間がかかるかも知れません。それでも彼女のことを信じられるなら、強く想い続けていてください」
説明もなく言った言葉だから、しばらくの間俊康さんは不思議そうな顔をしていた。けれど私の目を見つめ続けているうちに、理解してくれたらしい。
「わかりました。たとえ永遠に牧恵が帰ってこなくても、僕は彼女のことは忘れません。わがままでも、自分勝手でも、僕にとっては必要な奴ですから」
そう言って彼は微笑んだ。
「――嘘」
言い終えて牧恵さんの顔を見ると、彼女は泣いていた。
「嘘ではありません。本当です」
「だってあいつ、あたしのこと――」
「だったらなぜ、私はここであの人と会ったんですか?」
「……」
涙を流しながら沈黙する牧恵さん。そんな彼女に近づいていき、その肩に手を乗せた。
「会えて良かったです。このことを伝えられました。牧恵さん、もうわかったでしょう。この世界にはまだあなたのいる場所があります。だから行かないでください。あなたを想ってる人を泣かせるようなことを、しないでください」
言っているのに彼女は私の手を振り払って一歩後ろにさがる。
「ダメです」
「なんでっ!?」
「だってほら、もう時間切れなんです」
その言葉に応じるように、丘が突然灯りに包まれた。なにかと思って回りを見てみると、丘の回りを回るように、光りを放つものがいくつもいる。
光ばかりでなく音楽も聞こえてくる。いえ、音楽と言うより、音楽に似てるようでそれとは違う、でたらめな音と音の重なり合い。それに混じって楽しげな笑い声なんかが聞こえてきた。
よく見てみると、その光の正体は子供たちだった。無邪気に笑い、軽やかに踊りを踊る彼ら。しかしそこには、生気というものが感じられない。
――これが牧恵さんの言ってた妖精たち……。
「遅かった。もっと早くに知ってればよかった。ダメだよ、あたし。もう帰ってこれない!」
牧恵さんは木にすがって泣きじゃくる。
「そしたらこんなことなかったのに。お父さんやお母さんの勝手に振り回されるのが嫌だって思ってたくせに、あたしが自分勝手だったんだ!!」
言っている間に牧恵さんの身体に光がまとわりついてくる。
「間に合わない、間に合わないよもう。行きたくないよっ、あたし。でもダメ。もう、もう!」
牧恵さんの身体はあっという間に光に包まれ、丘の回りを踊る妖精たちみたいに発光しているかのように見えていた。
彼女の側に寄った私は、その手を取った。振り向いた牧恵さんの目には涙がいっぱい溜まっている。
「信じていてください。必ず帰って来れると。牧恵さんがいる場所はあります。なくなったりはしません。あなたが消えてしまうことで泣く人がいて、あなたの帰りを待っている人がいるんです。だから絶対信じていてください」
「でも、無理だよ、そんなこと」
「そんなことはありません。私の最愛の人は、それで帰ってきました」
牧恵さんの瞳からは疑惑の色が消えていない。けれど瞳と瞳と合わせているうち、彼女は微笑みを浮かべ、頷いてくれた。
その一瞬後――。
*
いつの間に雲がなくなってしまった空には、星が輝いていた。
まばゆいくらいの星の光が降り注ぐ丘の上には、もう牧恵さんの姿も、妖精たちの姿もない。風が草をざわめかせる音だけがしていた。
涙が止まらなかった。
帰ってくると信じられるのに、それでも私は涙を止めることができなかった。
「風邪ひくぞ。まだ夜は寒いんだから」
そんな声とともに温かいものが私の肩にかけられた。
やってきたのは浩平。かけられたのは彼の上着。
まだ涙を止めることができない私のことを、彼は優しく抱き締めてくれる。
「浩平……」
「俺もこの丘のこと調べてみたんだ。この丘が妖精の丘って呼ばれてて、神隠しの噂があるのは本当みたいだな。――でも考えてみろよ。みんながみんな、俺みたいに記憶からも消えていくんだったら、そんな話は残ってないはずなんだ」
「え?」
抱き締められたまま浩平の顔を見上げると、彼は笑みを浮かべた。
「詳しく調べてみたらな、出てきたよ。この丘は妖精が人を連れ去るってだけじゃなくて、再会の丘だって話がな」
――帰ってきた人がいるんですね……。
浩平の胸にすがりつき、顔を埋める。涙はまだ流れていたけれど、もう冷たい涙ではなかった。
「この丘は、あっちの世界に近いみたいだな。――俺はここで、みさおに会ったよ」
「だからあのとき、ちょっと変だったんですね。でも私も、ここで司に会いました」
「だったらおあいこだな、茜」
「そうですね」
顔を上げて、優しい視線をかけてくれる浩平に、私は微笑みを見せた。
* 4 *
日差しに強さを感じ始めたある日、私はエレベータで一階に下りた。マンション入り口の郵便箱の中身を取り出し、自動の扉が閉まる前に戻ってエレベータの「昇る」のボタンを押す。
新聞やダイレクトメールに混じって、一枚の葉書が届いている。写真とともに結婚を知らせる葉書だったけれど、二十歳かもう少しくらいの年齢のふたりの顔に覚えがなかった。
エレベータに乗ってる間ずっと考えていても思いつかず、部屋に入った私は浩平のことを呼んだ。
今年から浩平と住むようになった部屋。まだ籍は入れていない。それもいま彼が携わってる仕事がひと段落する春には、私の姓が変わる予定になっていた。
「浩平。この葉書の差出人を知っていますか?」
「んぁ?」
たまの休日で昼寝中だった彼は、間の抜けた声とともに玄関口に出てくる。
「誰からだって?」
「それは――」
言われて写真の下に書かれた名前を見てみる。
――広岡俊康……。牧恵……。
その名前にやっと思い出した。写真に写る人物は、もう何年も会っていなくて変わっていたけれど、あのふたりだった。
「浩平、これを」
「ん……。あぁ、そうか」
浩平も気づいてくれたらしい。ふたり一緒に写真を覗き込んだ後、見つめ合った私たちは微笑みを浮かべた。
「丘の上の妖精譚」 了