「ふふ、さっきからそんなに一生懸命に、何を考えているのかねぇ?
「はっ!!
俺は間近に聞こえたしわがれた声に驚きながら横を見ると、一人の老婆が座っていた。俺のすぐ横だった。俺は慌てて井戸に落ちそうになったのをなんとか防ぎ、すぐに距離をとった。
…失礼かもしれないが、俺はこの癖が抜けないのだから仕方がない。いや、それよりも、俺がそこまでの接近に気づかないとは…
いくら思案中だとしても、それはおかしい。
…いや、それほど疲れているということか…
ともかく、無礼を謝ろう。
「ああ、少し、驚いてしまって…さっきまで気づかなかったものですから…どうもすみません。
俺はアッシュフォード学園で先生に向けていた笑みを浮かべ、謝罪する。そして老婆の姿をよく見てみた。
…言い方は悪いが、身なりは良くなかった。薄汚れた白かったであろうローブで全身を覆い、フードをかぶってはいるが覗かれた顔には深いシワとボサボサの髪が見える。
目を凝らすとその髪色が緑とわかるほど、汚れている。まだこの国、いや世界には生活保護等の公的補助は存在しない。
よって浮浪者は普通に存在する。これといって珍しいわけではない。だが…なぜか、その老婆から目が離せない。
これはなんだ、この感じは…既視感のような、いや、懐かしさ?だが、こんな女性と知り合った記憶が…
そこまで考えた時、老婆が喋り出した。
「いえいえ、当然の反応ですよ。このような身なりですし、それに気配も遮断しておりましたし……
「いえ、おれはそんなことは…
ん、気配遮断?何を言っているんだ、この老婆は?
「そんなことより、あなたはさっきからそこでずっと唸りながら何を考えていたの?
「っ!ああ、いえ、大した事ではありませんよ。
それよりこんな夜におばあさんこそどうなさったのですか?
く、見られていたのか…だが、まさかバケツの件は見られていないだろう。うまく誤魔化してここから立ち去って頂こう。
「いえいえ、夜の散歩に出ていたら、井戸の前でバケツを汲み上げるのに大層苦労なさっているあなたを見かけて、気になったから声を掛けただけですよ。
「ぐっ!は、はは、見られていましたか。
なんともお恥ずかしいところをお見せしましたね。
ち、見ていたのか…く、おれがさらに恥をかいただけじゃないか。
少し笑顔が引きつってしまったが、まぁ大丈夫だ。
ともかく早く立ち去ってもらおう。
「実は滑車が壊れていましてね。街のみんなは城に行っていますから修理の者を呼べないんです。いやぁ、実に困ったものですよ。
まぁ、俺のことは気にしないでください。
自分でなんとかしますから。
「まぁ、そういう事だったのね。だったら私がちと手を貸してあげよう。
「いえ、大丈夫ですよ。そのお気持ちだけで十分です。だから
「ふふ、こーいうのは素直に受け取っておくものよ。まだまだ、坊や、ね。
「くっ、
その坊やの言い方が、あの魔女を思い出させた。
思わず苦悶の声が出る。そんな俺をよそに、おばあさんは構わないと言う俺からロープを奪い取るようにして持つ。
ふぅ、仕方がない。こういった年代の老人は頑固なものだしな。
気が済んだら帰ってもらおう。そんな俺をよそに、おばあさんの手はスルスルと動き出した。
「なに!馬鹿な!
「ふふふ、老人だからといって、舐めちゃいかんよ、坊や。
おばあさんは淀みなくバケツを引き上げてしまった。息を切らしてすらいない。バカな…
俺があれほど苦労したものをいとも容易く、く、ついさっきだけ重力場が歪んでいたのか、いや、ありえない、そんなことが起こるのなら俺の時も持ち上がったはず、ならば俺が持ち上げようとしていた時は何かに引っかかっていたのか?いや、この井戸は引っかかるような構造はしてはいない。くそ!なら、認めたくはないが、つまりは、
「よっぽど非力なのねぇ、坊や。全然重くなかったよ。
「ぐっ!!
俺は思わず歯を食いしばってしまう。くそ!なんたる醜態!屈辱だ!追い討ちのように言われる坊やも、さらに腹が立つ。
煮えくりかえるようだ。だが、だが…事実か…おれは少し項垂れてしまった。
「そんな風に落ち込む前に、何か言うことがあるんじゃないかねぇ。
「くっ、あ、ああ、ありがとう。重いものを持ち上げさせてしまって、どうもすみません。
「ホッホッホ。大した重さじゃなかったから平気よ。それより少しは鍛えたらどうかねぇ、坊や。
引きつった笑みをしながら俺は感謝の言葉を述べる。
するとおばあさんはニヤニヤと、意地汚い笑いを浮かべて俺をたしなめるようにそういった。く、そこまで言われると、最早清々しさへ感じる。というか、くそ、やたらと何処ぞのピザ女を彷彿させる物言いだな。
だからだろうか、俺の心のどこか、片隅で、懐かしく感じてしまうのが悲しい。
…まぁ、いいだろう。これ以上言い返しても、俺からボロが出て行くだけだ。ふぅ、と、溜息をついて、おれはおばあさんへと向き直る。
「もう、俺が非力なことは十分理解しましたよ。
それより、何かお礼がしたい。今困っている事や、必要なものがあれば、限度はありますが用意しますよ。何かありませんか?
俺はおばあさんに尋ねた。なんだかんだで手伝ってくれたのは事実だ。何かしらの礼をしなければ失礼だろう。
「そうだねぇ。だったら、おっとっと。
「はっ!!危ない!
おばあさんは突然よろよろと倒れるようにして井戸に座り込んだ、いや、半ば井戸に落ちそうになった。俺はすかさず手を伸ばして、おばあさんの体を支える。近づいてわかったが、おばあさんの体はひどく痩せていて、顔色は真っ青だった。
「大丈夫ですか!?どこか、悪いところでも
「いやぁねぇ、そんなところはないはずなんだけどねぇ。
おばあさんの返事を聞きながら、俺は頭の中でおばあさんの容体と、様々な病気の兆候とを照らし合わせる。
ナナリーの事が、もしかすると何かの合併症や病気ではないかと思って調べた事が、まさかこう役に立つ時が来るとはな。
ともかく、おばあさんがすぐにでも治療を要する病気でない事がわかった。ふ、少しホッとした。ともかく心当たりがあるか聞かないとな。
「見たところ、病気ではなさそうですが、何か心当たりはありませんか?例えば、食事を抜いたとか
「ああ、そういえば、今日一日、まだ何も食べてないわねぇ。
うっかりしていたわ。
「そうですか…でしたら、俺が今から何か食ベものを持ってきます。取り敢えず井戸の水を飲んで待っていて下さい。
俺の家はそこまで離れていませんから、すぐ戻ってきます。
「ああ、どうもすまないねぇ。
「気にしないで下さい。先ほどのお礼ですよ。では、
俺はおばあさんに一礼して、駆け出した。
本当ならうっかりでもそんなことをしてはいけないと注意したい。
だが、おそらくおばあさんは食事を確保できない状況だったのだろう。ともかく、今は先程の礼をなすまでだ。
俺は全力で走る。急を要しないとはいえ、急いで損はない。
----------------------------30分後-----------------------------------
「ハァ、ハァ、ハァ、ハァ、も、持ってき、たハァ、よ、お、おばあさん。ハァ、ハァ、
約20分ほどで俺は戻ってきた。いつもなら往復で23分かかるところを、3分縮めるほどの全力疾走だった。
息も絶え絶えにおばあさんに告げる。
「ああ、どうもありがとうねぇ。私なんかのためにそんなに急いでくれて。まぁ半時間もかかる場所なら、さぞ遠かったことでしょうに…
「ハァハァ、ふ、ハァハァ、なに、そ、ハァハァハァ、そこまでの、ハァハァ、事では、あ、ありません、ハァハァハァ、よ、ハァハァハァ
………さりげなく嫌味を言われた気がするが、あまりの疲労にそれまで気にしていられない………
「ともかくこれでも飲んで落ち着きなさいな。
「ど、どう、ハァハァハァ、も、ハァハァハァ、ゴクン、ふぅ。
俺はおばあさんから水を受け取って飲む。
…さっきのやり取りが逆転したな、と心の隅で思っておく。
ええい、情けなさはこの際無視することにする。
俺は持ってきたバケットを渡し、包みを解く。
「おや、これはなんだい?とてもいい香りだけど、見た事ない食べ物だねぇ。
「これは俺の地方の料理で、ピザと言いうものです。
「ぴざ?
「ええ、パンの上にチーズをまぶして、その上にベーコンやトマトをのせて、かまどで焼いたものです。
もっとも、本物はパン生地なんですが、作りやすいのでね。
「ほほう、チーズなのねぇ。たいそう美味しそうだねぇ。
「どうぞ、遠慮なく召し上がって下さい。ちょうど作り過ぎてて余っていたんです。
ロロの件で少しやる気を出し過ぎたのだ。
余ってしまったらどうしようかと思っていたのだ。
ちょうどよかった。あいつらの腹に収まるよりはいい。
「なら、遠慮なく。いただきます。ふむ。
「ん?どうかな。自分でも食べたが、不味くは無いはずだが。
おばあさんは一口食べて手を止めた。やはりお年寄りにここまで脂っこいものはきつかっただろうか。
「ああ、口に合わなければ吐き出して構わないが
「…しい、
「ん?
「美味しいぞ!!美味しすぎる!!美味しすぎて死ぬ!!なんなんだこれは!!
「ホワァァァ!!
おばあさんはいきなり叫び、心配して覗き込んだ俺を突き倒すようにして立ち上がった。俺は驚いて尻餅をついてしまった。情けないとは思わない。いきなりどうしたのだ!?
「だ、大丈夫ですか?おばあ
「大丈夫ではない!!!
「ぐぅぅ!
先ほどまでの弱った様子を一切感じさせない動きで、おばあさんは俺の胸ぐらを掴んで立たせる。一体どこにそんな力が眠っていたんだ?!というより、先程までの弱っていた姿はなんだったんだ!?
だが、そんな疑問を解決させる余裕を、おばあさんは俺に与えるはずもなかった。
「どうして教えなかったんだ!!
「ケホケホ、な、なにを
俺の困惑は深まるばかりだった。おばあさんの憤りが、激昂が、い、一体俺が何をしたというんだ!?よく見るとおばあさんは目から涙を流している。だが、それ以上はわからない。
ともかく話を聞くしかないと、俺は首を前後に揺すられながらも判断した。
「ま、まて!お、俺が、一体、何をしたというんだ!
わかるように言え!
思わず命令口調で言ってしまう。無礼だが仕方がない。
おばあさんはさも当然のような目を、いや、何故分からないんだという怒りの目線を向けてきた。
「お前が教えなかったからだ!!この、ピザのおいしさを!!だめだ、我慢できん!!
「はぁぁ?うっ!!
おばあさんはそういうと食べかけとバケットを抱えて、両手を使って次々と平らげ始めた。その拍子に俺は突き飛ばされ、また尻餅をつく。だが俺はそれをとやかく言えなかった。
頭が困惑で一杯だ。フリーズしたパソコンのように動かなかった。そんな俺をよそに、おばあさんは年齢を全く感じさせない動きでピザを食べまくっていた。バケットの残りが凄い速さで減ってゆく。
…なんなんだ、この状況は…
「なんなんだ、モグモグ、なんなのだ、モグモグモグモグこのおいしさ、ありえない、こんな、モグモグ私の好物ランキングをぶち壊すモグモグモグモグ食べ物は…とろけるチーズの感触、脂の乗った厚みを感じさせるベーコン、シャキシャキの玉ねぎ、モグモグ、ピーマン、そして、全てを包み込むチーズ!!!!モグモグか、感嘆の極みモグモグモグモグモグモグだ…これが、これがこれがこれがこれが、ピザ、ピザピザピザピザ!!モグモグモグモグモグモグモグモグモグモグモグモグモグモグモグモグモグモグモグモグ
おばあさんは感動?するようにブツブツと呟いている。
が、食べる手は全く止まっていない。俺はそれをぼんやりと眺め、食べながら喋ると行儀が悪いぞと、考えていた。
バケットから凄まじい勢で減ってゆくピザ。おばあさんは緑の髪を振り乱しながら一心不乱に食べている。
もしかすると今日だけでなく何日も食べていなかったのではと、俺は心配すらしていた。
ともかく先程までの状態を考慮して、俺はおばあさんに声をかけた。
「んま、もきゅもきゅ、んまいんまい、もきゅもきゅモグモグもきゅもきゅモグモグもきゅもきゅ…
「あの、あまり詰め込み過ぎるのは良くないかと…
「うるひゃい!!もきゅもきゅモグモグ、だまってほ!モグモグモグモグ
だがその内、おばあさんに違和感を感じ始めた。
まぁ、さっきからの挙動不審ぶりもそうだが、もっと身体的特徴の面でだ。俺と会った時より明らかに声が高くなっている。
外見がおばあさんでなければ、もっと若い、下手をすれば十代の少女の声音とも聞き取れる。それにシワやシミも減っているような、それにさっきから妙な既視感が…
「おい、何をさっきから見つめているんだ?乙女の体をそんなにも見つめるとは、この色ガキめ。
「そんなことはない!!それに、お前のような口に…
いつの間にかおばあさんはすべて食べ終わっていた。
先程まで食べていた証拠に、口の両端にチーズをつけたままで、俺を見つめている。ニヤついた、俺を舐めるような笑みを浮かべて…思わず俺は、口に食べカスがついているはしたない女を乙女とは呼ばん、この魔女め!と、力強く言い返そうとした。
そう、あの頃のように。
俺は目を見開いて固まった。そしておばあさんをよく見た。
確かにシワやシミがあり、薄汚れているが、その姿、声、口調、それは、それはまさしく、あの世界で俺を支えてくれた唯一の共犯者、
「と、この姿で乙女とはやはり言い難いか。
よし、私に美味しいものを食わせてくれた礼だ。
少しサービスしてやろう。ありがたく思えよ、坊や。
あ、目を閉じていた方がいいかもしれないぞ。
童貞坊やには少し刺激が強過ぎるからな。
おばあさん?は、そう俺に向かっていうと、井戸から少し離れた広場へとスキップを踏んで向かった。動きにキレがあり、おばあさんのそれではない。俺は呆然としながらもついていった。
しかし、何か頭に引っかかるものを感じた。
この、一連の流れが、何か、見たことあるような…
「よし、ここならいいだろう。今ならそこの坊や以外誰も居ないしな。
おばあさんは広場の真ん中で止まると、周りを見渡してから、ローブの内側に手を伸ばした。程なくして何かを取り出した。
「木の枝…?
彼女が取り出したのは、どこにでも落ちていそうな、少し曲がった木の枝だった。別段仕掛けのようなものはなさそうだ。
ん?まてよ、くっ、なんだ、この感覚、あと少しでそろうというのに。もどかしい、まだピースが揃わないとは…
そんな俺の反応をみて彼女はニタリとからかう笑みを浮かべる。
「ほほう?そのようにしか見えないか。なかなか可愛い反応をしてくれるじゃないか、流石は坊やだな。
「くっ、黙れ魔女!…は!まさか!そういうことなのか!!
俺の頭の中で全てのピースが繋がった。これは、まさしくこの展開は、
「ん?なんのことを言っているのかさっぱりわからないが、まぁ見ているといい。せいぜいさっきのように尻餅をついて、腰まで抜かさないようにな。
「そんな醜態など晒さん!ま、待て!一体その杖で何を
「ほう、漸く杖とわかったか。まぁ見ているがいい。じっくりとな。
そういうと彼女は笑みを浮かべながら、木の枝を振り回すようにしてその場でクルクルと回り始めた。ある種のダンスのように見えなくもない。回り始めてすぐに、彼女の周りに光が集まり始める。
淡い、粒子状の光物体が、徐々に増えて、彼女の体全体を覆い尽くす。
「くっ!
あまりの光量に、おれは目を瞑った。そして光は数秒と経たないうちに収まった。薄っすらと目を開けると、そこに居たのはおばあさんではなかった。フリル、レースのついたスカート、コルセットで締め上げられたような上半身、白い生地に、全体は粉をまぶしたかのような淡い緑色で包まれている。強調、いや見せつけるように開けられた胸元に、ふわりとよく手入れのゆきとどっている緑の髪、見るものが見たら天使と評しただろう。…俺はしないがな。
だがまぁ、綺麗という言葉は十分に似合っている。
小汚い感じなど一切感じない。さっきまでの年老いた顔などどこにもなく、若い十代の少女の顔。
俺を今まで何度も揶揄い、嘲り、時には励まし、叱咤し、助け、そして、何より俺を最も理解してくれた、ただ一人の共犯者。
「どうだ坊や、これが私の本当の姿だ。ん、あまりの美しさに言葉も出ないか。さすがに童貞坊やには刺激が強すぎたかな?すまないな、美しすぎて。だが別に魔法で盛ったりはしていないぞ。本当だからな。
念押しするように何度も言ってくる。それが余計に疑惑の念を深くしていると言ってやりたいが、それ以上に、俺は我慢できなかった。
「C.C.!!!!
思わず駆け出して、抱きしめた…
思うところは色々ある、文句も不満も、だが今は、今は兎も角、抱きしめたかった……………………