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卯月ちゃんを世界の誰よりも愛している。
卯月ちゃん──島村卯月はアイドルである。まだまだ駆け出しだが、プロダクションの力もあって、着々とライブをこなし、メディア露出も増えてきている。
俺はそんな卯月ちゃんを、デビュー当時から応援している。本当は養成所時代から気になっていたのだが、何か「俺はずっと前から知ってるぜ」自慢みたいに聞こえるので、誰にも言っていない。
もっと言うと、卯月ちゃんを好きなこと自体、人に話したことがない。ライブ会場やツイッターなどで、ファン同士の交流を羨ましく思うこともある。けれど、担当がどうのこうの言っている連中と同じ程度の愛だと思われたくなくて、一人で応援を続けている。
同じ担当同士だと、取り合いになるのではないかと思うのだが、彼らにとって卯月ちゃんは神みたいな存在で、信じるすべての民に等しく平等に存在しているのだろう。
それを理解はできる。むしろ、俺の方が間違っているのもわかっている。だからこそ誰にも言っていないというのもある。
俺は卯月ちゃんをもう少し身近に感じているし、感じたいと思っている。それはきっと、危険な発想なのだろう。部屋中にポスターを貼って、缶バッジをたくさんつけた法被を着ているオタクよりも、本気でアイドルとお近付きになれると思っている方が間違っている。
それはわかっているが、本当に駆け出しの、ただの女の子でしかなかった頃から知っていると、どうしても後からのファンよりも優位な気持ちになるし、自分を特別だと思ってしまう。良くないことだとわかっているが、誰にも迷惑をかけていないので許してほしい。
そんなわけで、ツイッターもやっていない。アカウントはあるが、アイドルの話題は一切しないし、もちろん卯月ちゃんのアカウントもフォローしていない。鍵付きのリストに入れて眺めているだけだ。
きっと、ツイッターで気軽に話しかけているヤツらの方が、ファンとしては正しいのだろう。卯月ちゃんからリプをもらっているのを見て、羨ましく思わないでもない。落ち込むだけなので、最近は卯月ちゃんのホームは見ないようにしている。
俺は、卯月ちゃんがデビューした時からずっと、アナログの手紙を書き続けている。今時そんなことをしている人がいるのかと思うが、デビューが決まった時に出した手紙に返事をもらえて、あれ以来ずっと想いは文字か言葉で伝えようと決めている。
3回目の小さな会場のイベントで、握手会があった。まだファンも少なかったし、CDもなかったので、何かグッズを買った人はもれなく握手できたのだが、それでも20人いたかどうかだった。
その時にはもう、手紙を3通ほどもらっていたので、握手の時に「いつも手紙の返事、ありがとう」と伝えた。
名乗らなかったのも悪いのだが、卯月ちゃんは少しきょとんとしてから、恐る恐る「○○さんですか?」と聞いてきた。今思えば、違っていたらどうするつもりだったのか気になるが、その時はまさか自分が認知されているとは思わず、舞い上がってしまった。
「あっ、はい、そうです!」
「いつもお手紙ありがとうございます! そっか。あなたが○○さんだったんですねー」
何やら嬉しそうににこにこする卯月ちゃんの顔を真っ直ぐ見るのが精いっぱいで、初めての握手の感触は全然覚えていなかった。卯月ちゃんの声で呼ばれた自分の名前が心地良くて、俺は完全に恋に落ちた。
それから卯月ちゃんは躍進して、ライブ会場はどんどん大きくなり、ステージとファンの距離は離れて行った。握手会のような、アイドルと直接触れ合える機会は減り、時間も短くなった。
心が折れることも多くなった。無名の子のおっかけが、有名になってファンを辞めるという話はよく聞くが、俺もこんなにツライ思いをするのなら、いっそこの世界から手を引こうと何度も考えた。
それでも、握手会のたびに卯月ちゃんは「○○さん」と呼んでくれたし、直筆の手紙は今でも続いている。たくさんもらっているだろうに、一体どれだけ返事に時間を割いているのだろう。卯月ちゃんのそういうところがやっぱり好きで、もらった手紙を見ては元気を出す毎日だった。
そんな卯月ちゃんを、街で見かけた。昼下がりのことだった。
首元がふんわりしたトップスにオレンジ色のカーディガン。ひらひらした黄色のスカートを春風になびかせて、小さなリュックを片方の肩からぶら下げていた。
「卯月ちゃん」
思わず声を出したのは、呼び止めるためではなかった。飛行機を見て、「あっ、飛行機」と呟くように、本当に反射的に卯月ちゃんの名前を呼んでから、体が震えた。
卯月ちゃんはふと足を止め、何気なく振り返った。そして俺を見てパッと顔を明るくする。
「○○さん!」
卯月ちゃんの唇から紡がれる自分の名前の響きがやっぱり綺麗で、俺は初めての握手会を思い出した。ほんの一瞬陶然としてから、慌てて表情を引き締めた。
「あっ、覚えていてくれてすごく嬉しいです!」
思わず姿勢を正すと、卯月ちゃんは少しだけ唇を尖らせて、上目遣いに俺を見上げた。
「当たり前じゃないですか。私、そんなに薄情に見えますか?」
「いや、全然! だってほら、ファンは他にもたくさんいるし……」
しどろもどろになってそう言うと、卯月ちゃんは優しい眼差しで微笑んだ。
「○○さんは特別です」
俺はその言葉の意味を、ひとまず考えないことにした。それは卯月ちゃんと別れた後にじっくりと考えればいいことで、今はこの神が与えてくれた奇跡のような一瞬を、どう過ごすかが大事だった。
俺が次の一言を考えつくより先に、卯月ちゃんが口を開いた。
「○○さんも、よく私だってわかりましたね。私服で話しかけられたの、初めてです」
「どっからどう見ても卯月ちゃんだけど」
「でもほら、その場にいるって知ってないと、わからないことってないですか?」
「あるある。でもそれはむしろ俺の台詞だよ」
「ああ、なるほど。そうですね」
卯月ちゃんは何やら一人で納得して、ふふっと笑った。その笑顔が可愛すぎて、俺はその場で昇天するところだった。
「○○さんは、今日はお買い物ですか?」
にこにこしたまま、卯月ちゃんが言った。俺は自分からではなく、卯月ちゃんの方からこの時間を延ばしてくれたことに感謝した。
「電車の乗り換えついでに、ちょっと降りてみただけ」
「そうですか。○○さん、××線ですもんね」
卯月ちゃんがさらっとそう言って、うんうん頷いた。そんな子供っぽい仕種がどうしようもなく可愛いのだが、それどころではなかった。一言も言っていないのに、卯月ちゃんの口から自分が××線という情報が飛び出したのがあまりにも予想外で、俺は思わず固まってしまった。
それに気が付いたのか、卯月ちゃんは慌てたように手を振った。
「あっ、別にストーカーじゃないですよ!」
「いやいや、そんなこと思ってないから。どうして××線って?」
「どうしてって、いつもお手紙出してるじゃないですか」
不思議そうに卯月ちゃんがそう言って、俺は思わず目を丸くした。今までずっと卯月ちゃんから手紙をもらっていながら、自分の家が知られていると考えたことがなかった。卯月ちゃんが、もらったファンレターに書かれた住所を、記号としてではなく、場所として認識しているとは思わなかった。
「そっか」
俺が呟くと、卯月ちゃんは「そうですよー」と笑った。なんだか妙に恥ずかしくなったが、卯月ちゃんがずっと笑っていてくれるのが嬉しかった。
「卯月ちゃんはお買い物?」
「そうですね」
「何かいいものはあった?」
大きな物を購入した形跡はない。リュックにアクセサリの一つでも入っているかもしれないと思ったが、卯月ちゃんは左右の人差し指を合わせて苦笑いした。いちいち可愛い。
「すごく可愛い春っぽいワンピースがあったんですけど、ちょっとお値段が……」
「そういえば、卯月ちゃんって、あんまりワンピースって着ないよね。いや、私服は知らないけど」
「あんまりないです。サイズもぴったりだったし、ピピッて来たんですけどね」
ピピッて来たのか。それは是非見てみたいと思い、後から考えると信じがたい一言を口走った。
「それはそのワンピースを着た卯月ちゃんを是非見てみたいな。お店は遠いの?」
「いえ、すぐそこです。でも、さっき試着したばっかりで戻ったら変じゃないですか?」
「すごく迷ってる感」
「なるほど。じゃあ、行きますか?」
神よ!
俺は思わず叫びそうになってぐっと堪えた。二つ返事で頷いて、卯月ちゃんと並んで歩き出す。
ずっとずっと大好きで、毎日毎日CDを聴いて写真を眺めている卯月ちゃんと、二人で歩いている。俺が心の中で号泣しながら打ち震えている隣で、卯月ちゃんはまるで友達といるかのように、普通に話しかけてきた。
「普段は制服だから、私服ってせっかく買っても意外と着ないんですよね」
「あー、なるほどね。1シーズンで週末が何回あるかっていう」
「そうそう。外に出ない時なんて、ジャージでごろごろしてるし」
「卯月ちゃんは、いつもオシャレしてるイメージがあるけど」
「そんなことないです。でも今日、油断しちゃダメだって思いました」
「いや、俺の方こそ、こんな格好で卯月ちゃんの隣を歩いて、なんだか申し訳ない感じ」
「えー、別に悪くないですよ? ライブの時よりオシャレじゃないですか」
「ライブはもみくちゃになるから、ガチ戦闘モードっていうか」
「なるほど。じゃあ私も、非戦闘モードの○○さんが見られて嬉しいです」
俺は溶けそうになった。
大胆に誘っておきながら、会話が途切れたらどうしようと心配していたが、まったく無用の心配だった。
「○○さんは、この辺りにはよく来るんですか?」
「よくってほどでもないけど、乗り換えがここだから、今日みたいな感じでふらっとすることはあるかな。卯月ちゃんは?」
「私はよく来ますね。家が世田谷だから、近いし、お買い物は大抵ここです」
「世田谷の高級住宅街?」
「たぶんそういうのじゃないです」
あっけらかんと笑う。ちなみに、何気なく口にした「家が世田谷区」という情報は、俺の記憶では初出のはずである。それをさらりと言うということは、知っている人は知っていることなのだろうか。
ひょっとしたら失言かもしれないので、それ以上は突っ込まずに話題を変えた。
「凛ちゃんや未央ちゃんとは、プライベートでも遊ぶの?」
「未央ちゃんは遠いからそうでもないけど、凛ちゃんとは時々会います」
「凛ちゃんって、花屋さんなんだっけ?」
「そうです。○○さん、凛ちゃんにはお手紙出してないんですか?」
「卯月ちゃんだけだよ」
「○○さん、ライブでもずーっと私を見てますよね。嬉しいですけど、たまには凛ちゃんと未央ちゃんも見てくださいね。時々決めポーズを入れ替えたりとか、色々やってるんですよ?」
楽しそうに笑う。正直凛ちゃんと未央ちゃんには興味がなかったが、卯月ちゃんがそう言うのであれば、今度しっかり見てみようと思った。そういうのも手紙に書けたらと思う。
そんな他愛もない話をしている内に、ショップの入っているビルに着き、エスカレーターに乗った。俺はこういう女性向けの店が並ぶ空間に来たのは初めてで、思わずキョドってきょろきょろしていると、卯月ちゃんがいたずらっぽい目をして顔を近付けてきた。
「○○さん、こういうところは来ないんですか?」
過去に一番近い距離ではなかろうか。俺はドキドキしながら首を振った。
「まさか。男が一人で来る場所じゃない」
「いい人はいないんですか?」
「卯月ちゃんにしか興味がないよ」
思わずそう言ってから、今のはドン引きの台詞だったと激しく後悔した。明らかにアイドルを現実の女性と同じフィールドで見ているとバレる発言だったが、卯月ちゃんは惚れ惚れするスルースキルを発揮してエスカレーターをトンと降りた。
「ここです」
卯月ちゃんがバスガイドのように手を上げた先に、聞いたこともないブランド名のショップがあった。マイナーなのか、自分が無知なのかもわからない。
店に入ると、店員のおねーさんが卯月ちゃんを見て、それから俺を見て合点いったように頷いた。卯月ちゃんは気が付いていないようだが、一度一人で来て諦めた店に、男を連れてくるということは、つまりそういうことだろう。店員さんがそう考えるのは自然だし、できれば俺もそうしたいと思っていた。
俺には会釈だけして、店員さんが卯月ちゃんに歩み寄る。卯月ちゃんは明るい色のワンピースを手にして、「もう一度着てみてもいいですか?」と笑った。
「もちろん。私も大概お世辞も言いますけど、こんなにも本心から、このワンピースはお客さんのために作られたんだって思ったのは初めてですよ」
「なるほど。上手なお世辞ですね」
「お世辞じゃないから!」
フランクな会話をしながら、卯月ちゃんが試着室に入る。
考えれみれば、たまたま街で会っただけのファンのために、わざわざ店に戻って試着して見せてくれるというのは、一体どういうことだろう。卯月ちゃん自身も、少なからず俺に買ってもらえることを期待しているのだろうか。
店員さんが試着室の前で突っ立っている俺に近付いてきた。
「絶対に似合いますから」
「彼女、ここにはよく来るんですか?」
「去年の秋以来かな」
「よく覚えてますね」
「もちろん」
店員さんが得意げに笑った。
試着室の中から着替えをする音が聞こえる。今この薄い布一枚の向こうで、卯月ちゃんが下着姿になっているのかと思ったら、思わず全身が熱くなった。すぐ隣に店員さんがいるので、色々と堪える。
やがてカーテンが開いて──そこには天使が立っていた。もはや可愛いという形容詞で言い表せるレベルではない。
俺はピッと卯月ちゃんを指差しながら、店員さんを見て言った。
「じゃあ、これください」
「はい。ありがとうございます」
一瞬の間があって、卯月ちゃんが慌てて手を振った。
「いえいえいえいえ! それはダメです!」
「そのワンピースは卯月ちゃんのために作られたんだよ」
「それ、さっき聞きました! そういうつもりで来たわけじゃないですから!」
本気で慌てたように卯月ちゃんがそう言って、俺は若干の違和感を覚えた。本当にそういうつもりだったのではないのなら、なぜ一ファンのために、わざわざここまで来て試着してくれたのだろう。
「これ、そのまま着ていけますか?」
「はい、もちろんです。今日は温かいし、ちょうどいいですね」
「もうっ、聞いてますか、○○さん!」
「まあまあ。同じCDを10枚買うより、ずっと有意義なお金の使い方だと思う」
そう言いながら、そういえばそのワンピースがいくらなのか知らないと思ったが、もうこの際いくらでもいいと思い直した。
「俺は、卯月ちゃんにそのワンピースを買ってあげるために生まれてきたんだって、今わかった」
真顔でそう言うと、卯月ちゃんは少しだけ照れたように俺を睨んだ。
「そういうの、よくペラペラ言えますね。慣れてるんですか?」
「緊張で死にそう」
結局うやむやのままレジへ。卯月ちゃんもこれ以上引き止めると空気が悪くなると感じたのか、もう何も言わなかった。
なお、2万8千円だった。なんとなくクレジットカードを作ったあの日は、今日ここに繋がっていたのだと、俺は思った。これで手持ちが足りなかったら、いい恥さらしだった。
購入したワンピースに、先ほどまで着ていたカーディガンを羽織る。リュックは少し似合っていないが仕方ない。
着ていた服は、綺麗にたたまれてお店の紙袋に納められた。店員さんが俺に渡してきたので、なんとなくそのまま俺が持っている。この中にまだ卯月ちゃんの温もりの残る服が入っているかと思うと、それだけで興奮した。隙をついて嗅ぎたい。
先にエスカレーターに乗ると、1段後ろで卯月ちゃんが言った。
「絶対にお礼をしますからね!」
振り向くと、本当にすぐ目の前に卯月ちゃんの胸の膨らみがあって、俺は思わず仰け反った。その勢いで背中から落っこちそうになり、反射的に卯月ちゃんの腕を掴んで体勢を立て直すと、顔がむにょっと胸に埋まった。その柔らかさに頭の中が真っ白になる。
恐る恐る目だけで見上げると、卯月ちゃんがぽかんと口を開けていた。
「結構大胆なことしますね」
「ごめんなさい」
「いえ、今落ちそうになったのはわかったので大丈夫です。あっ、それで、お礼をするっていう話です」
並んでビルから出て、卯月ちゃんが隣で俺を見上げた。先ほど胸に顔を埋めた件は不問にしてもらえたようだ。
お礼ということだが、今のおっぱいの感触だけでもう十分すぎたが、そんなことを言ったら本当に終わってしまうのでやめた。
「じゃあ、せっかく買ったし、その服を着た卯月ちゃんの写真が欲しいな」
それなりに勇気を出してそう言うと、卯月ちゃんはうーんと首をひねった。
「そんなのでいいんですか? ちょっと割が合わない気がします」
「じゃあその後で、卯月ちゃんのオススメのカフェを紹介してよ。ケーキを奢るよ」
「私が出します。じゃあ、公園に行きましょう。お花が咲いてる綺麗な公園があるんですよ!」
そう言うと、卯月ちゃんは道の先を指差して明るく笑った。本当に笑顔の可愛い子だと思う。