目を開ける、見知らぬ天井。
はてさてここは仕立て屋でも無さそうだし、何処だろうか。頭を動かして周囲を見回してみると、どうやらここは誰かの寝室であるようで私はベッドに寝かされていたようだ。
起き上がろうとすると体が痛む、顔をゆがめて痛む箇所に視線を向けると包帯が巻かれている、起き上がる事を諦めて、ベッドに横たわり、再び天井を見上げる。
朝日が差し込んでくる窓からは賑やかな喧騒が聞こえてくる、戦闘音ではない人々の営みによって生み出される音だ。
その音に耳を傾けながら、自らの体の状態を再確認する。
体が鉛のように重い、血が足りないのかもしれない。腹部に当たった弾丸は急所は外しているようだが、右腕と左肩がまだズキズキとした痛みが残っている。
痛いのが生きている証拠であるという事は重々承知しているが、苦痛に思わず呻き声が漏れる。
暫く、何度か深呼吸を繰り返して、苦痛を和らげることには成功。額に浮かんだ脂汗を拭おうとするが腕が動かなくて拭えない、目に染みるが、仕方あるまい。
天井を見上げながら、果たしてあの戦いの戦闘後、私の臨時の部下になった者たちが生き残る事が出来たのか気になって仕方ない。
あの後皇帝陛下はどうなったのだろうか、ギロチン送りになっていないと、良いが。
色々と考えてしまっているうちに瞼が重くなってきた。きっと、疲れているせいであろう。
眠気に抵抗せずに瞼を閉じる。今は傷ついた体を休めて、疲れを取ろう。
生きているのだから、考えるのは後で良い。
誰かの足音が聞こえてくる、目が覚める。
既に夜になってしまっているようで、窓からは喧騒は聞こえてこない。
咄嗟に身構えようとするが、体は言う事を聞かない。扉が開き、誰かが入ってくる。
そちらに首だけ動かして見て見ると、白いひげを生やした禿げ頭の年老いた男性が一人。
「よぉ、お前さん、意識が戻ったみたいだな」
「手当をしてくれたのですか?」
「ああ、随分と大きな傷を負っていたようだから、もう助からんと思ったが、生きてたようで何よりだ」
「……ありがとうございます、助かりました」
どうやら、この男性が私の命の恩人であるらしい、その手には木のトレーの上に載せられた木製の器が一つ、どうやらシチューが注がれているようであった。
シチューの美味しそうな香りが鼻腔をくすぐり、私の腹部がぐぅ、と鳴る。
頬が急速に熱くなるのを感じる、命の恩人の微笑ましい視線から逃れるかのように私は顔を反らした。
「やぁ、お前さん。お前さんの名は、なんていうんだ?」
「ジルベール・ティエリー。近衛隊の軍曹です」
「俺の名前はアンソン。宿屋の亭主をやってる。まぁ、それは兎も角、シチューは一人で食えるか?」
「……お恥ずかしい事に、両手を負傷していますので、食べさせて貰えると助かります」
傍までやってきたアンソンさんがスプーンで木で作られたスプーンでシチューを掬い、口元まで運んできてくれたソレを一口。
どうやら私の予想以上に腹が空いていたようで、スプーンで掬われたシチューを口元に運ばれるたびに勢いよくそのスプーンを口に咥えてシチューを呑み込んでゆく。
余りの食べっぷりに彼はよっぽど腹が減ってたようだな、と豪快に笑い、すぐに空になったシチューの器を見て私は羞恥にまた頬を赤らめてしまうのだった。
「お前さん、良い食べっぷりだったな、まぁ、若い奴はそれぐらい食欲旺盛な方が良いだろう」
「すいません、手当して貰った上に食事まで食べさせて貰って……」
「気にするな、まぁ、俺がお節介でやってる事だしな」
「本当にありがとうございます……その、一つ聞きたいことがあります。大陸軍は、ナポレオン陛下は、いったいどうなったのでしょうか」
「大陸軍? ナポレオン?お前は一体何を言ってるんだ?まぁ、暫く安静にしておくように、良いな?」
首を一つ傾げて何かあったら呼んでくれ、と去ってゆくアンソンさんの背中を視線で追いつつ、私は天井を見上げる。
ここは少なくともプランスノワ村では無さそうだ。
もっと言えば、オランダ周辺でもないのかもしれない、もしくはここがヨーロッパという場所自体ではないのかも。
ヨーロッパならばどんなに小さな農村に住む農夫であれナポレオンの名を知らない者は居ないはずだ。
特に宿屋の亭主ともなれば、宿に泊まる客から様々な情報を得る事もあるだろう、ナポレオンの名を知らないという事などはあり得ない、これは間違いなく断言できる。
だというのに、なぜアンソンさんはナポレオンの名を知らなかったのだろうか、大陸軍についても知らない様子であった。
この場所が余程辺鄙な場所に存在している、という線も考えづらいだろう。
第一、プロイセン兵に撃たれた自分が倒れた場所は仕立て屋の中だった、恐らく統制を取り戻したプロイセン兵が私の生死の確認の為に中に入って来て銃剣で死にかけであった私の体を突き刺してくることだろう。
だというのに、少なくとも私は生きている。夢なのだろうか、ここは、いや、違う、夢ならば痛みも感じないはずだ。
ならばなぜ?
疑問が湧きだしてきてはキリがない、ため息一つ、もう一度天井を見上げる。
考えていても、仕方ない、自分がどういう状況に置かれているのかは、体の傷も癒えれば分かる事だろう。
空腹が満たされたお陰で襲い掛かってきた睡魔に身を任せ、瞼を閉じる。
あれから何日か経った、毎日食事を食べさせてくれたアンソンさんには頭が下がる。
やっと体を病み上がりと言えども起こせるようになったので、ベッドから身を起こし、朝日が差し込んでくる窓の方に歩いてゆき、窓を開く。
外の空気が入ってくる、心地よい風が頬を撫でる。
目を細め、自らが生きてるという実感を味わっていると、視界の端に奇妙なものが映った。
外套を着こむ、分かる。見た所麗しい女性であるようだし、体を女性が体を冷やすのは不味いからな。杖を持っている、まぁ分かる。旅人ならば色々と必要であるだろうから。
だが、あの長い耳はなんだ?
あんな人間、見たことが無い、見間違えたのかと思い、瞼を閉じて深呼吸一つ、もう一度彼女を見る。
耳が長い、一体どういうことだ?
いや、もしかしたら私が知らないだけで耳が長い人間はいるのかもしれないが。
彼女だけではない、巨大なクロスボウを担いだ兎耳が生えた外套を身にまとった少女までいる。
どういうことだ……?
余りの出来事に混乱して、ベッドに座り込みながら呆然と天井を見上げる。
――神よ、私に降りかかった出来事を詳しく説明してください。
人は本当に自分の理解に超えた事に遭遇すると普段はあまり信仰していない神にすら縋るものである、心の中で私は神に現状の説明について求めながら、必死にあまり頭脳明晰とは言えない頭をフル回転させて現状の理解に取り組もうとする。
必死に頭を使って、これは神の悪戯やら、精巧な夢やらあまり現実的な考えではない事を考えていると、扉がノックされてドアが開かれる。
「おお、起き上がれるようになったみたいだな、そいつは良かった」
「アンソン、さん……。その、長い耳の人を、見かけたんですけど、あの、あれはいったい」
「おお、お前さん運がいいな、
「ええ、まぁ……そりゃあ、美人、でした、けど……。その、私の暮らしている国で、ああいう人は見たことがありませんでしたので……それに、兎の耳が生えた少女も居たんですけど、ここでは珍しくない人なんですか?」
自分でもうわずった声を漏らしてしまっていると思う、明らかに動揺している様子の私の姿を見て、ふむ、とアンソンさんは腕組み一つ。
「そうなのか……?
「……その、今は西暦何年です……?」
「西暦?何言ってるんだお前」
「……」
唖然となる、口があんぐりと開いてしまっている私の今の姿は滑稽に見える事だろう。事実私の今の顔を見てアンソンさんは思わず吹き出してしまっていた。
さながら異世界に来たみたいだ、いや、異世界にやってきてしまったのだろう。
私が想像していた異世界というのは地獄や天国と言うものであったがこの世界は私の想像をはるかに超えるモノであるらしい。
「……あの、その、えーっと。ここはヨーロッパのどこに存在する街なんですか?」
「ヨーロッパ?変な事ばかり言うなお前」
「本当に気になってるんです、教えてください」
「まぁ、良いか。ここは、所謂辺境の街って呼ばれてる所だな」
そう言って、懐から羊皮紙に書かれた使い古された地図を取り出して、地図上の端の方に存在する丸い円の中に英語に似たような言語で書かれた文字を指さし。
少なくとも私の知っているヨーロッパの地図とは違うそれを見て本格的に眩暈がしてきた。
どうやら顔色が悪くなかったようで、茫然としている私の顔をアンソンさんが心配そうな顔をしながら覗きこんでくる。
「す、すいません……ちょ、ちょっと驚いてまして……」
「お、おう……お前さんにも何か事情があるみたいだからな……良かったらどんな事情があるのか、話してくれ」
「実は、ですね、信じて、貰えないかも、しれませんけど」
ぽつり、ぽつり、と自分が大陸軍の兵士としてワーテルローで戦い、臨時で部下となった者たちを逃すために殿として戦った事、そしてその場所で自分が死んだことについてアンソンさんに説明してゆく。
私の言葉を聞きながら、うぅむ、とアンソンは一つ唸り。
「……信じられん話だが……嘘を言ってるようには、見えんな」
「本当の話なんです、信じられないかもしれませんけど、信じてください」
「疑いはせんよ、お前さんがここで嘘言った所でお前さんに何の得もないしな、しかし、それにしても、お前さんの話を聞く限りだとこの世界以外にもまた別の世界があるんだなぁ……」
ふぅむ、と私の顔をじー、と見つめて。
「それで、どうするんだ?流石に俺はこの世界から別の世界に移動する方法なんて聞いたことなんてねぇぞ。傷が癒えた後はどうするつもりなんだ?」
「傷が癒えた後は、原隊に戻り部下の安否を確認するつもりでした、けど……それもどうやら不可能なようですからね」
このままでは、部下たちがどうなったのかさえ、分からない。私の持ってる通貨がこの世界で使えるかどうかさえも分からない以上、命の恩人に最低限の恩返しする事すら不可能だろう。
そして、この世界では頼るべき人も居ない、戦友も、上官も、そして陛下もここには居ないのだ。
急に無限の荒野に放り出されたような気分であった、顔に出てしまったのだろう、アンソンさんは顎の白い髭を軽く撫でて。
「……もしかしたら、元の世界に戻る方法が見つかるかもしれない職業を、俺は一つ知っている」
「本当、ですか!?教えてください!」
勢いよく身を起こした私は腹部の傷から走る苦痛に呻き声を漏らしながら蹲ってしまう。
心配そうに背中を撫でるアンソンさんの顔を見上げて、続きを話すように促すと、アンソンさんはふぅ、ため息を一つ付いてどこか諦観した様子でその職業について教えてくれた。
「冒険者だよ、冒険者。冒険者ギルドって所に行けば、誰でも登録することは出来る。あいつらは未知の物を求めて未開のダンジョンやら遺跡やらに潜るからな」
「冒険者になれば、もしかしたら元の世界に戻る方法も分かるかもしれないって事ですよね」
「ああ……だが、余り冒険者は良い職業でもないぞ、若者は立身出世の為になろうとするやつがいるが、成功できる奴は一握りの人材だけでほとんどの奴は死ぬ」
――なぜ、そんなに詳しいのかって?俺も元は冒険者だったからな
そう話すアンソンさんは何処か遠い目をしていた、しかしながらも、アンソンさんはすぐに切り替えて私の肩を軽く叩き。
「冒険者になりたいってのなら、俺が教えられることならば教えてやろう。命を助けてやった奴が死地に旅立とうとするのを見過ごすわけにはいかんからな」
「本当に、何から何までありがとうございます!」
「気にするな、俺がやりたい事をやってるだけだ……だが、その傷じゃあまだ無理だろう、もうちょっと傷が癒えてからにしろ」
俺も奇跡の一つや二つぐらい使えたら良かったんだがな、と白い髭を撫でるアンソンさんの姿を見つつ、自分を見失いかけていた私は新しい目標を作る事に成功した。
冒険者になり、私が元の世界に戻る方法を見つけ出す、それが、今の私が生きる理由の一つだ。
そしてもう一つが、この恩人の為にせめてもの恩返しをする、金銭的なものでも、精神的なものでも良い、何でもいいから、私に手を差し伸べてくれたこの人の為に何かをしたいのだ。
ジルベール君のお父さんは元は貴族の三男坊でありながら共和制に賛同した人材で、革命戦争の際に騎兵隊に配属されて勇敢さで鳴らしたユサールであったそうです。
ダヴーさんとは面識があって最終階級は大尉とそれなりに昇進した方でありましたがボルジノの戦いで戦死しました。
元貴族のお父さんに躾けられたお陰で礼儀作法はそれなりに出来てるというどうでもいい設定。