これは、獪岳の物語です。
では。
一話
駆けつけたとき、山あいにあるその村は、既に壊滅していた。
十戸ほどの家屋はすべて戸を蹴破られ、踏み荒らされ、そこ此処に人の食いかけが散らばっている。
逃げようとしたと思しい男の側には、箸と茶碗飯が転がっており、そこから少し離れたところには、子どもを庇って倒れ伏している母親の亡骸がある。
女の背中には、拳で貫かれたような大穴が開いており、幼い子ども諸共胸を貫かれて死んでいるのは明らかだった。
どの体も頭や手足、胴体のどこかが食い千切られ、土の上に倒れ伏している。
歪な形の丸太のように転がる彼らの体を、冴え冴えと冷たい月の光が照らしていた。
濃厚な血と臓物の臭いに手で鼻を覆いたくなるが、そうはいかなかった。
まだ鬼が残っているかもしれないこの村において、刀から手を離すのは愚か者のすることである。
辺りを見回し、人間の仲間がいないことをよくよく確認してから、獪岳は背後の森の木々の間に向けて声をかけた。
「おい、ここらに鬼は残ってるか?」
がさがさと枝を動かし、ころりと転がるようにして出て来た人影がひとつあった。
先だけを三つ編みに結った長い黒髪に、紺と白の絣模様の着物を着、黒い羽織を纏った、七つか八つくらいの幼い子ども並みの小さな体。
だが、『それ』は鬼である。
縦に割れた金色の瞳孔と鋭い牙を持つ、幼い女の子どもの形をした鬼は、ふるふると首を振って、辿々しい口を開いた。
「ない。おに、ない。かいがく」
「本当だろうなぁ」
「おに、いない。ひと、ある、だけ」
それを聞き、獪岳はようやく背負っていた日輪刀の柄から手を離す。
ここを襲い、村人を全員殺した鬼は、既にどこかへ去った後なのだろう。
間に合わなかったという苦い失望が、束の間胸を満たすが、獪岳はすぐにそれを振り払った。
鬼がいないならば、鬼殺の剣士の役目はもうない。刀の柄から手を離し、改めて周りを見渡してから、傍らの鬼を見た。
人間の獪岳がむせ返りそうなほどの濃い血の臭いの中にあっても、この鬼はまったく正気を保っている。
涎を垂らして肉に食いつくこともなければ、牙を剥きだして唸ることも、鋭い爪を伸ばすこともない。
茫洋とした瞳で、殺しつくされて静まり返った村を見ているだけだ。
だがいきなり何を思ったか、鬼はぱたぱたと獪岳に駆け寄ると、くいくいと袖を引いてきた。
「かいがく、ひと、うめない?」
「あ?んなことは後から来る隠の連中の仕事だろうが」
「けもの、からだ、くう」
要するに、遺体をこのままにして行けば体が野の獣に食い散らかされるから、埋葬して行かないのか、と言いたいらしい。
舌打ちを一つして、獪岳は鬼の体を突き放した。
「面倒くせぇ。もうくたばった奴らなんざ知るかよ。行くぞ」
死んだ人間の体を埋めた程度で、何が変わるというのだろう。
どうせ、こちらの後を追っている後始末部隊、隠が彼らの埋葬を行う。
剣士である獪岳の仕事は、一体でも多く、一刻でも早く鬼を見つけ、その頸を斬って殺すことだけだ。
大体、埋葬なんてことをしている間に隠に追いつかれ、自分の姿を見られたらどうするつもりなのだろう。
「かいがく」
「うるせぇ。俺が話しかけるまで喋んじゃねぇ」
吐き捨てれば、子どもの鬼はぎゅむ、と手で口を押さえて獪岳の後からとたとたとついて来た。いちいち仕草が幼く、無邪気に見えて腹立たしい。
日が昇るまでは後三時間ほど。それまでに建物か洞窟を見つけなければならなかった。
さもなければ、この鬼は他の鬼と同じように日に焼かれて死んでしまうだろう。
鬱陶しい話だが、自分の役に立っているうちはこの鬼を殺すつもりはなかった。
「ったく。変な鬼だな、お前は。鬼になる前から変な奴だったけどよ」
つい呟けば、鬼は顔を上げて、首をちょっと傾けた。
未だ空気の中には血の臭いがあるというのに、この鬼は一向に食欲を刺激された様子はなかった。
獪岳は鬼殺隊の剣士である。
雷の呼吸を使い、背に負った日輪刀で鬼の頸を斬り、殺す剣士。
だというのに、獪岳は鬼を連れていた。
鬼を連れたまま、鬼を殺す。
鬼の力を借りて、鬼を狩る。
獪岳がそんな奇妙な鬼狩りになった理由は、何年も前にまで遡る。
それにしても一体自分は、何故こんなことになったのだろう、と獪岳は、山道を下りながら考える。
背後からは、子どもの足音がずっとついて来る。つかず離れずの距離を守り、ずっと側にいるのだ。
軽いその足音を聞いていると、否が応でも昔のことが思い出される。
今は鬼っ子と呼んでいるこの鬼は、元の名を
ーーーーー
鬼狩りの剣士になるより前、獪岳は寺で暮らしていた。
親も家もない子どもを集め、面倒を見てくれる物好きな坊さんがいたのだ。
目は見えないが、体がやたらと大きく、それでいて優しい性格をした坊主だった。
獪岳の他にも、寺には数人の子どもがいた。
獪岳はその中でも年上のほうで、幸という少女はその一つ下だった。
幸は、頭が良かった。
計算が早く、文字もすぐ覚えたし、大人を相手にしてもまったく引かないくらいに口も回った。
獪岳は体は強かったが、幸ほど勉強はできず、口も回らなかった。
だが、引き換えのように幸は体が強くはなかったから、獪岳はそれで溜飲を下げていたようなものである。
ちょっと小突けば、すぐ涙目になって言い返してくるのは痛快だった。
「遅ぇよ、グズ」
「獪岳が速いの」
寺を出て村へ買い物に行くとき、計算が得意な幸と、体の強い獪岳はよく組まされては、そんなふうに言い合いながら歩いていた。
それでも、村の子どもに幸がいじめられたときは、何だかんだと獪岳が庇っていた。
赤ん坊の時分、生みの親にひどく扱われたとかで、幸は足が悪かったのだ。
床に落とされて足を怪我し、骨が変なふうにくっついてしまったそうで、歩くことはできても、走ることができなかった。
口が回るみなし子なくせに体が悪いと来れば、いじめっ子にとってはいい的になるだけだ。
「いつもありがとう、獪岳」
「うっせぇ。お前、頭良いんだったら適当に言いくるめて逃げろよ」
「できないよぅ。あいつら、数が多いんだもん。獪岳はやっぱりすごいね」
「……勝手に言ってろ、グズ」
口が回ろうがいじめっ子は怖いのか、幸は何かと獪岳の近くにいることが多かった。
歳が一番近いせいもあって、坊さんも話が合うのだろうと買い物やら何やらを、一緒くたにしてきたものだ。
獪岳はすごいね、というのがあれの口癖だった。
幼い子どもだったが、子どもなりに上手く動かない脚を持つ自分が情けなくて、体の強い獪岳に憧れていたのだろう。
幸の素直な憧れは心地よく、からかうことはあっても本気で邪険にしたことはなかった。
すべてが壊れたあの日も、幸は獪岳と一緒にいた。
日が沈む前に寺に帰れと坊さんに言われていたのだが、獪岳はあるときくだらないことで坊さんに叱られ、ぷい、と寺を飛び出してしまったのだ。
暮れていく山の中、一人でぶらぶらしているところに出てきたのが、幸だった。
なんでもないように近寄って来て、獪岳の前に手を伸ばしたのだ。
「獪岳、戻ろうよ。みんな、獪岳のこと待ってるよ」
「……テメェ、どうやってここがわかった」
「獪岳は怒られたら、おんなじ道をぐるぐるしてる。だから、すぐわかるよ」
それでも、動かしづらい脚を引きずって、山道を歩いて探すのは並大抵のことではなかったはずだ。
手足には擦りむいたり切ったりした細かい怪我が、いくつもあったのを覚えている。
頬に切り傷をこしらえてまで、自分に手を伸ばしてくる馬鹿なお人好しを目にすると、意地を張るのが馬鹿らしくなり、ふん、と鼻を鳴らして戻ろうと歩き出したときだ。
「危ないっ!」
いきなり突き飛ばされ、獪岳は地面に転がった。何しやがると怒鳴る前に、体の上に倒れて来たのは、幸だった。
何がなんだかわからず顔を上げれば、そこにいたのは、額から二本の角を生やし、血走った目と牙を剥き出しにする化け物。
あれが、獪岳が初めて見た鬼だった。
そこから、記憶は一度途切れる。
次に覚えているのは、幸の首に腕を回して抱え込み、嫌らしく笑っている鬼の姿だ。
「おおっとぉ、逃げんなよォ。餓鬼ィ。逃げたら、この女の餓鬼の首をへし折るぞォ?」
実際鬼には、痩せた子どもの首をへし折る程度、何でもなかっただろう。
ぽたぽたと幸の背中の傷から溢れる血と、目の前にいる化け物に気圧され、獪岳は動けなくなった。
「に……ぇ、かいが、く」
獪岳が我に返ったのは、名を呼ばれたからだ。
首を抑えられながら、背中を深く切り裂かれながら、その少女は声を張り上げたのだ。
「にげて!」
「このガキィ!」
鬼が声を荒らげた。
幸が持っていた小刀を、鬼の腕に深々と突き立てたからだった。
鬼の腕にしがみつきながら、幸は叫んだ。
「獪岳、にげて!いいから!にげるんだ!」
そこから、どこをどう走ったかはわからない。
気づけば、獪岳は山の中で倒れていて、朝日が既に上りきっていた。
めちゃくちゃに走り、どこかで足を滑らせて斜面を転がり落ち、頭を打って気絶してしまったのだ。
怪我をした脚を引きずって人里に戻れた頃には、何もかもが終わっていた。
獪岳が住んでいた寺は壊れ、子どもは一人を残して皆喉を切り裂かれて殺されていた。
化け物を寄せ付けないための藤の花の香炉は蹴倒され、扉も壁も壊されていた。
そうして、子どもたちを殺した犯人として警官に捕まったのは、坊さんだったのだ。
生き残ったただ一人の子どもが、あの人がみんなを殺したと証言したから、死刑になるだろうと警官に言われ、獪岳は愕然とした。
そんなわけ無い、あの優しくてお人好しの坊主にそんな真似ができるわけがない、殺したのは山の中にいた化け物なんだと、獪岳は訴えた。
だが一人だけ道に迷い、山にいた子どもの証言は誰にも取り上げられなかった。
化け物に襲われた場所に行っても、幸の死体はおろか、血の跡すらなかったのだ。
山で熊か何かに出くわし、怖い思いをして気が触れた子どもだと囁かれたときは腹が立って、その場にいた大人を殴りつけ、脛を蹴り飛ばしてしまったほどだ。
それがまずかったのだろう。
獪岳は捕まった坊さんに会うこともできずに、後は己で生きて行けと放り出された。
幸のことを探してくれと言ったのに、熊にでも食われたのだろうから諦めろと、突き放されたのだ。
幸が生きているとは、無論獪岳も思っていなかった。
お人好しでグズで力も体も弱く、足まで悪いのだ。あの化け物から、逃げ切れるわけがない。
それでも、腕や足の一本くらいあれば、墓に入れてやれると思ったのだ。
だが、それすらなかった。
きっと、全部喰われてしまったのだと思う他なかった。
「馬鹿だろテメェ。なんで俺を庇ったんだ」
他人を庇って己だけが死ぬなんて、どうしようもない馬鹿のすることだ。
獪岳はきっと、幸に逃げてと言われようが言われまいが、逃げていた。もし助けてと言われていても、見捨てただろう。
頭がいいくせに、そんなこともわかっていなかったグズ。
お前が命懸けで逃げろと言った相手は、そんなやつなんだと笑ってやりたかった。
だのに、自分はそのグズのお陰で生き残った。
そう思うと、笑うことすらできなかった。
鬼を殺す剣士たちの噂を聞いたのは、放り出されて間もなくのことである。
あの化け物は、鬼という人を喰うモノ。
人より何倍も力も体も強く、殺すには日の光で焼くか頸を斬り落とすしかないのだと。
だが、世には鬼殺隊と呼ばれる鬼狩りの集団がいて、彼らは刀で以て鬼を殺すのだと。
これだ、と思った。
どの道生きていく術はなかった。
それならば、あのときの化け物を殺せるだけ殺してやろうと思ったのだ。
どこにいようが、戦う術がなければあの化け物には殺される。守りだったはずの藤の花の香炉も、結局は役に立たなかったのだから。
人から盗んだり奪ったりして金を得て、辿り着いた旅の果て、見つけたのはかつて鬼殺隊の頂点の『柱』の一人だったという老人だった。
さらに幸運なことに、獪岳はその老人、桑島慈悟郎から『雷の呼吸』の才能があると認められて、入門を許されたのだ。
獪岳は、鍛錬を積んだ。
刀を振り、山を走り、やれることはすべてやった。
師に殴られようが蹴られようが、鍛えた。強くなれるならば、なんでもやった。
強くなりさえすれば、それでよかったのだ。
弱かったから、あいつは死んだ。
獪岳を探しに出るようなお人好しで、弱かったばかりに化け物から逃げられもせず、そのくせに最後まで獪岳を庇って守った救いようのない馬鹿。
化け物からたった一人を守っただろうあの坊主だって、人殺しとして処刑されたはずだ。
優しかったやつは皆、片っ端から死んでいく。他人への優しさや思いやりが報われることなんて、あり得ない。
逃げてと言ったあのときの顔が、何度もちらついた。
笑いそうにも、今にも泣き出しそうにも見える幸の不思議な顔。毀れる寸前の、ひどく脆いあの表情。
走り込みすぎて脚の筋肉が剥がれそうなほど痛む夜や、刀を振り過ぎて腕が上がらなくなった日の朝。
そんなときに、あの顔を思い出すのだ。
弱ければ、あんなふうに死ぬことになるのだと。
強くなれば、生きてさえいれば、あの顔だっていつか見えなくなるはずだと、振り払うようにして刀を振った。
それでも、獪岳は六つの『雷の呼吸』の型のうち、一つだけをどうしても会得できなかった。
寄りにも寄って、他の型の基本となるべき壱ノ型が、獪岳にはできなかった。他五つの型は、すべてものにできたにも関わらず、である。
それだけでも腹立たしいのに、おまけとばかりに獪岳を苛立たせることがあった。
途中で入門した弟弟子のほうが先に、この壱ノ型を会得したのだ。
幸以上のグズで、鍛錬がつらいとぴぃぴぃ泣くような根性無しであるのに、彼は壱ノ型を得ていた。
ふざけるな、と思った。
だがどれだけ呪おうが罵ろうが、自分には壱ノ型ができず、弟弟子にはできるという事実は覆らない。
しかし結局、さらに苛つくことに弟弟子は壱ノ型以外をものにできなかった。
獪岳は壱ノ型だけができず、弟弟子は壱ノ型しかできない。
まるで分け合ったような奇妙な具合が、腹立たしくて仕方なかった。
そうして、師は自分と弟弟子を二人で『柱』の後継として認めると決めたのだ。
お前たちは二人でようやく一人前となれるのだと、師は言った。
ふざけるな、と思った。
五つの型ができる自分と、一つしか型のできない泣いてばかりの弟弟子とが、何故同じにされなければならない。
だが誰を罵ろうが、獪岳が壱ノ型を使えないという結果は変わらないのだ。
そのまま、獪岳は鬼殺隊の剣士になるための最終試験に赴くことになった。
年中、鬼の嫌う藤の花が狂い咲く奇妙な山に赴き、そこで七日間を生き残る試験だ。
ただ七日を過ごせばいいと言うだけではない。
山の中には、鬼殺隊が捕らえた鬼が生きたまま放たれている。
藤の花で以て山の中に閉じ込められ、人の肉も与えられない鬼は弱らせられているがひどい飢餓状態にあり、人間と見るや襲いかかってくる。
それらを躱し、或いは殺し、七日を生き延びてみせたなら鬼殺の剣士となれるのだ。
上等だった。
鬼殺隊最強の『柱』だった師に剣を学べる者は、剣士たちの中でも一部のみ。
獪岳はその師に、雷の呼吸の継承権を認めると言われたのだ。
自信が、あった。
死ぬなよという弟弟子を、誰が死ぬかと蹴り飛ばしてから、獪岳は旅立った。
そうして辿り着いた山の中で、獪岳はあの鬼と出会ったのだ。
月の光に洗われて白く輝く岩の上、打ち捨てられた人形のように、そいつはひとりぼっちで座っていた。
「かい、がく?」
長い前髪の隙間から覗くのは、縦に割れた金の瞳。小さな口元から生えた、白い二本の牙。
あの溌剌とした声ではなく、舌っ足らずの幼い声で、その鬼は獪岳の名前を呼んだ。
何故、と思った。
何故お前が、幸が、鬼などになっているのか。
最後に見たあのときと変わったのは、瞳の形と牙だけ。食い物が満足になく、村に住む同い歳の奴らよりずっと小さかった体は、まったく変化していないようだった。
だが、戸惑ったのは一瞬だった。
鬼は、斬る。
腹が減れば、肉親だろうが友人だろうが喰らうのが鬼なのだ。
理性はなく、ただ人の血肉を喰らうことしか頭にない化け物。幼い子どもであるとか美しい女であるとか、そんなものは見せかけの話でしかない。
中身は例外なく腐り果てて、人間だったころの面影など残っていない悍ましい生き物なのだ。
鬼とはそういうもので、鬼殺隊は鬼を殺す者。
だから躊躇いなく、獪岳はその鬼の首に刀を振るった。
「ん」
だが、その鬼は獪岳の一閃を軽々と避けたのだ。
ひらりと跳んで、伸びていた枝の上に梟のように止まる。
「かいがく?」
「口を開くな、鬼」
一太刀を避けられたこと、あのころとそっくりの顔で名を呼ばれたこと、何もかもが腹立たしかった。
尚も追おうと、一歩踏み出した瞬間である。
ぽぉん、と枝の上にいた鬼が、跳んだ。
大きく弧を描いて跳び、獪岳の背後に迫っていた別の鬼の頭を、蹴りで飛ばしたのだ。
「ぎ、ザマァァァァ!裏切リモノォォォォ!」
「ん」
だが、普通に頸を落とした程度では鬼は死なない。鬼を殺せる武器はただ一つ、日の光で鍛えられたにも等しい、日輪刀だけなのだから。
口汚く、裏切り者の糞餓鬼と罵る鬼を、幸の姿の鬼は曇ったガラス玉のような瞳で見ていた。
そして暴れる鬼の体を足で押さえつけたまま、獪岳の方を向いたのだ。
「かいがく、きって」
獪岳はその鬼に日輪刀でとどめを刺し、やはり残った鬼に刀を向けた。
鬼は、攻撃してこなかった。向けられた刃先に戸惑うように、首を傾げている。
人間だったころの、幸の仕草だった。
「何のつもりだ」
「ん」
「テメェは鬼だろうが。鬼を先に殺したのはどういうことだ。横取りされたくなかったのか」
ふるふる、と鬼は首を振った。
「かいがく、ひと。ひと、たべない」
「……あ?」
「ひと、ころす、だめ。ぎょうめいさん、いった」
久々に聞いた、あの坊さんの名だった。
目の前の鬼が、あのお人好しの馬鹿の成れの果てなのだと認めるしかなかった。
大方あの後鬼になり、この山に最終選抜用の鬼として閉じ込められたのだろう。
鬼に血を与えられたもの、傷口に血を浴びたものは鬼となる。鬼とはそうして、増えていくものなのだ。
運が悪くなった人間は、とことん悪くなるものなのだと思うより他なかった。
例え誰であろうと、鬼になったならば、頸を落として殺す。
そうしなければ、こちらが殺されるのだから。
「何人、食べた」
しかし刀を持ち上げ尋ねれば、幸の鬼は首をはっきりと横に振った。
「ひと、くう、ない。ひと、くう、だめ。ひと、だれも、くう、ない」
「テメェは、鬼になってから誰も喰ってないってのか」
「うん。さち、ひと、たべない、おに」
人は誰も食べていない。
人を殺すのは駄目なことだから、だから、誰も喰らっていない。
人は食べない、殺さない。
継ぎ接ぎの言葉をよく繋ぎ合わせて聞けば、そういうことだった。
「あ」
すん、と鼻を犬のように動かした幸の形の鬼が、向けられた刀をものともせずに獪岳の手を引く。
咄嗟のことで反応できないでいるうちに、獪岳は岩の陰に引っ張り込まれた。
「何しやが……!」
「だまる」
しぃ、と口を手で塞がれる。
重たい地響きが聞こえたのは、すぐ後のことだ。
ずしん、ずしんと何か重いものが近くを通り過ぎていく。
音が遠ざかってから鬼が手を放すと、獪岳は深く息を吐いた。
「なんだあれは」
「おおきい、つよい、おに。たくさん、くった、おに」
「ハァ?ここの鬼は、人間ニ、三人食っただけの弱ぇやつしかいないんじゃないのかよ」
またも首を傾げられた。
だがどう考えても、今通り過ぎた音の持ち主は相当な巨体。人を喰らい続け、異形に変貌した強い鬼としか考えられなかった。
ある考えが獪岳の頭に浮かんだのは、そのときである。
「お前、ここにいる鬼のことよく知ってんのか?」
「ん」
「じゃあ、俺を手伝え」
この選抜の目的は、七日を生き延びること。
この山に閉じ込められて長い鬼ならば、山道のことも鬼のことも知っているはずである。何より、鬼は人間より気配に敏感だ。
獪岳が気づけない鬼にも、この幸の形の鬼ならば見破れる。
すべては自分が、生き延びるためだった。
そのためなら、この明らかに鬼としては異常な生き物でも利用できる。
でも、と胸を冷たいものが刺した。
もしもこの鬼が、獪岳を恨んでいたらどうだろう。
寺の外に勝手に出た獪岳を連れ戻そうと追いかけたから、幸は鬼になったのだ。
鬼になって、ひとりぼっちでこの山に閉じ込められて腹を減らし、そんな有様になってもずっと生きていた。
自分がこんなに苦しい思いをすることになったのはお前のせいだと、獪岳ならば思う存分罵っている。いや、罵るだけでは飽き足らず、殺しているだろう。
どう答える、と刀の柄を握った手に力が籠もる。
幸の顔をした鬼は、月明かりの下でにっこりと笑った。
昔とそっくり同じ、やわらかな微笑みだった。
「いい。かいがく、いきる、てつだう」
言って、鬼は手を差し伸べてきた。
いつかの夜と、同じように。
けれど戻ろうよ、と言ったあのときとは、決定的に違っていた。
差し出された手は、尖った爪が異様に伸びて青白い。
それは、紛れもない鬼の手だった。
考えるより先に、獪岳はその手を振り払っていた。
ぱしん、という乾いた音が、夜の山に響く。
「うっせぇ。精々俺の役に立て、グズ」
振り払われた手を見て、子どもの形の鬼は目をぱちぱちと瞬き、こくりと頷いた。
「ん」
こっちだよ、と先導するように歩き出す鬼の跡を、獪岳は追う。
獪岳が、藤の花の山を降りたのはそれから六日の後のことであり、山から一匹の鬼が生きたまま消えたのもまた、同じ日のことであった。
ーーーーー
そう遠くないように思える過去に思いを馳せ、獪岳は目の前にいる小さな鬼を改めて見た。
なんとか太陽が昇り切る前に辿り着いた宿屋の一室。その押し入れの中で、小さな鬼は眠っていた。
鬼となった幸は、人を喰わない。
代わりに眠ることによって体力を回復し、人を喰わずに済ませているようなのだ。
そんな珍妙な鬼を、獪岳は他に知らない。
藤の山からこっそり幸を連れ出すのは、あまり難しいことではなかった。
幸の力を借りて選抜を終えたあと、そのまま帰ると見せかけて山の端に行き、そこから赤子ほどに小さく縮んだ鬼の幸を回収したのだ。
隊員一人一人に支給され、上との連絡役を担う鎹鴉は、無闇にばらすと焼き鳥にするぞと脅かして、幸のことは報告させなかった。
今のところ、獪岳が呼び出されたことはない。
師匠のところに戻って選抜を生き残ったことを報告し、鬼殺隊員として旅立ってからずっと、獪岳は鬼となった幸と共に行動していた。
鬼となった幸は、獪岳にひどく懐いていた。
かいがく、かいがく、と回らない舌で名前を呼び、どれだけ邪険にしようがついてくるのだ。
恨み言の一つも聞かされると思っていたのに、拍子抜けな話だった。
やはり鬼となっても、お人好しは変わっていないのだ。
幸は獪岳が鬼と戦うときは幸も共に戦うし、他の鬼の気配がないか探るのは専ら幸である。
人間だったころ、脚をうまく動かせなかった少女は、鬼となって異様なまでに発達した脚力を持つようになっていた。
目覚めた血鬼術も、獪岳にとっては都合が良いものだった。
仕事をしくじって鬼に殺されかけたとき、幸に担がれて離脱したこともある。
獪岳のせいで鬼となった少女は、鬼となっても獪岳の側を離れようとしなかった。昼に移動する際は赤子ほどの大きさにまで縮んで箱に入り、それを獪岳が背負っている。
今では日輪刀とはまた違う、獪岳の武器の一つだった。
おかげで獪岳は、幸を隠すために一人の任務をこなすことがほとんどになったが、構わない。
壱ノ型ができないとはいえ、雷の呼吸の継承権を持つ獪岳と同じほどの剣士は、鬼殺隊の中でも少ないのだ。
下手に足を引っ張ってくるような人間の味方より、鬼であろうが獪岳の言うことをよく聞き、時には身代わりとなって庇うやつのほうが、都合が良かったのだ。
尤も、『柱』の誰かに鬼を連れているとばれればただでは済まないだろうから、獪岳は彼らの側には寄らず、鉢合わせもしないように、細心の注意を払っていた。
故に今も、獪岳が泊まる部屋には幸がいる。
「平和な顔しやがってよ」
押し入れの中に持ち込んだ布団をくるりと巻き込んで、すぅすぅと眠っている幸は、人間だったころと変わらぬ安らかな顔をしている。
人間だったころの夢でも、見ているのだろうか。
だがそもそも鬼とは、夢を見る生き物なのだろうか。それも、獪岳にはわからない。
鬼となった幸は、言葉が満足に話せなくなっていた。
言葉はいつも途切れ途切れで舌足らず。発音できる一番長い単語は『ぎょうめいさん』である。
もしもこいつが人間に戻ったら、何と言うのだろう。
そうなったらいよいよ、恨み言を吐かれるのかもしれない。
お前のせいで鬼になったのだと、罵って来るのかもしれない。
「……くっだらねぇ」
鬼になった人間を、元に戻す方法などある訳が無いし、獪岳にも探す気はない。
幸はこれから先、頸を落とされるか日に焼かれない限り、永遠に生き続けるのだ。
鬼とは、そういう生きものなのだから。
何故か無性に腹立たしくなって、獪岳は開け放ったままの、青い空が広がる窓の外を見た。
すると、黒い点が段々と近寄って来る。次の仕事を告げる、鎹鴉のご到着だった。
窓から室内に入って来た鴉は、羽をたたんでぐぱりと嘴を開ける。
「次ノ任務!次ノ任務ゥゥ!」
「うっせぇ馬鹿ガラス。グズが起きたらどうすんだ」
「グギュ。……次ノ任務ハ、那田蜘蛛山ァ!那田蜘蛛山、那田蜘蛛山ニ向カエェェ!」
「やっかましい!焼き鳥にすんぞテメェ!」
一頻り叫んだあと、鴉はどこかへと飛び去って行った。
初対面のときに、幸のことをばらせば焼き鳥にすると刀を向けて脅したせいか、獪岳の鴉はなかなか獪岳に近寄らないのである。
「ん」
案の定、馬鹿でかい鴉の鳴き声のせいで、幸は目を覚ましていた。
布団を頭から被ったまま、押し入れの暗がりの中から獪岳の方をじっと見つめる。
金色の瞳が、何かを問いかけているようだった。
「行くぞ、グズグズすんな」
「ん」
こくんと頷き、幸はしゅるると縮んで箱の中に入る。
刀と箱を持ち上げ、獪岳は立ち上がった。
目指すのは那田蜘蛛山。
何がいようが斬ってやると、獪岳は己の日輪刀を強く握りしめたのだった。
ぼちぼち続きます。
キメツ時空だと彼らはどうなっているか(イメージで)
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高校の先輩後輩
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大学生と高校生
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高校生と中学生
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大学の先輩後輩
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中学生と小学生