鬼連れ獪岳   作:はたけのなすび

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九話です。

無限列車編または、地獄の遭遇戦編です。

では。


九話

 

 

 

 闇がのしかかる空の下で、鬼が嗤う。

 とても、とても楽しげに。

 ゆらゆらと、手に握った扇を弄びながら、構えも何もない自然体で、そこに存在している。

 

 上弦と、弐の文字が刻まれた、虹が浮いた不気味な瞳を細めた優男。

 手に持つ扇が、恐らくは武器。

 嗤ってこそいるが、それはあたたかみなど欠片もない無機質なものだった。

 

「どうかしたのかな。そんな化け物に出くわしたような顔をして。ああ、これを見たら君たちも本気になれるかい?」

 

 困ったふうに鬼が嗤う。

 嗤いながら、足元に転がる何かを無造作に掴み上げた。

 いや、何かではない。

 四つか五つの、幼い子ども。

 まだ術の影響が残っているのか、意識のない子どもの首をそいつは掴み、吊り上げていた。

 折れそうな手足がぷらぷらと、人形のように揺れている。

 

「……!」

 

 獪岳が動くより先、傍らから幸が消えた。捉えられないような速度で跳び、子どもを一瞬で鬼の手から奪い、抱えて戻る。

 だが、子どもをおろし、獪岳の横に戻った瞬間、幸は膝をついて口を押さえた。体が薄紅の燐光を纒う。

 幸が深い怪我を負ったときの血鬼術の発動に、獪岳の手足の感覚がようやく戻った。

 

「幸!」

「……なお、した。あい、つ、ちかよった、ら、だめ」

 

 我に返って駆け寄り名を呼べば、幸は蒼白な顔で立ち上がった。小さな手で、胸、特に肺の辺りを押さえていた。

 

「あぁ、俺の血鬼術は氷を操るんだ。そっちの小さい子は、俺の血鬼術を吸って肺胞が壊死したはずなんだけどなぁ」

 

 やっぱり鬼だから簡単に治せるよね、と上弦は楽しげに扇をくるりと手の中で回した。

 

「でも、近くで顔を見せてくれてありがとう。ねぇ鬼の女の子、俺を覚えていないかい?」

 

 閉じた扇で自分の顔を指し、上弦は幸に尋ねていた。

 目線で尋ねれば、幸は首を振る。

 引くほど物覚えがいい幸が覚えていないというならば、本当に知らないか……或いは忘れるほど嫌な記憶だったかの、どちらかだ。

 

「こいつは、テメェなんざ知らねェとさ。人違いしてんじゃねェよ、鬼」

「そうかな?そんなことはないと思うんだけど。大体、俺のほうこそ話を聞きたいんだぜ。その子、山で死にかけたことがあったろう?かわいそうだから血をやって鬼に変えたのに、どうして鬼狩りと共にいるんだい」

 

 この鬼の姿を目にしてから、うるさいほど鳴っていた自分の心臓の音が、遠ざかった。

 

 今、この鬼は嗤いながら何と言った?

 山で死にかけた子どもに、そいつに、かわいそうだから血をあげた?

 鬼に、変えた?

 

 下がりかけていた腕に、力を込める。

 刃毀れが目立つ刀を持ち上げ、正眼に構えた。

 刀を向けられながらも、若い男の形の鬼は、尚も言葉を続けていた。

 

「何年前だったかなぁ。俺のところに来た夫婦がさ、俺のこの瞳を見て面白いことを言っていたんだよ」

 

 酒に溺れて盗みに手を染め、仕事も家も失ったという貧しい夫婦は、自分たちの子どもの瞳も、教祖様のような珍しい色をしていたと語った。

 それは、家族の誰とも似つかない、黄金を固めたような金の瞳だったという。

 しかし、教祖様の虹色の美しいそれとは違って、あれは悪い、悍ましいものだ。

 あの子は、赤子なのに自分たちをじっと見る。目を逸らさない。滅多に泣きもしない。

 脚が折れても、ほとんど泣かずに虚空を見つめているだけ。

 見透かし嗤っているかのように不気味で、まるで自分たちの行いすべてを、記憶どころか記録しているかのようだ。

 

 怖い怖い、怖くて、不気味だ。

 怖いから、遠く離れた寺に捨てた。

 教祖様の瞳は、あれと似ても似つかない。

 美しい、尊い。

 

 その夫婦は、自分たちが娘を捨てたときの話を嬉々として語り、縋ってきた。

 

「あまりに愚かで面白いからね。どんな子かと思って、捨てたっていう寺に行ってみたんだよ。そうしたらその近くで、金の瞳の子どもが死にかけていたじゃあないか!」

 

 扇が翻り、幸を示す。

 縦に割れた金色の瞳孔が、針のように細くなっていたが、その顔には訝しげなものしかない。

 獪岳にもわからない。

 教祖様とは、なんなのだ。

 幸の実の親が、一体どうして鬼の話に出てくる。十年以上前、そいつらは娘を寺に捨て、幸も顔など忘れたと言ったはずだ。

 

「その子は腕も脚も千切られて、お腹の中をほとんど喰い散らかされて、かわいそうだったなぁ。そんなになってもまだ死ねなくて、芋虫みたいに這いずってるんだ」

 

 血だらけの、野獣の喰い残しのようなその子どもは、瞳ばかりが暗闇でも金色に輝いているようで、美しかったという。

 

「綺麗だったから、目玉を片方貰ったんだ。それでも死なずに、ずっと誰かの名前を言っていたねぇ」

 

 ねぇ、と鬼は首を傾げた。

 世間話のついでのような、自然な仕草だった。

 

「かいがくって、誰の名前だったのかなぁ」

 

 ぶちり、と耳の中で音を立て何かが切れた。

 腕に、脚に、力が戻った。

 呼吸が、空気が、体中を駆け巡った。

 

 ────雷の呼吸

────伍ノ型、熱界雷

 

 空気を引き裂いて、斬撃が男へ飛ぶ。

 

「おっと」

 

 扇がはたき落とされ、男は意外そうに体をふらつかせた。距離を詰め、獪岳は刀を振るう。

 

 ────雷の呼吸

────弍ノ型、

 

「だ、め!」

 

 弍ノ型を放とうとした直後、真横から突き飛ばされ、獪岳はふっ飛んだ。受け身を取って転がり立ち上がれば、髪から赤い血が滴る。

 獪岳の血ではなかった。

 自分は右脇腹と右肩を斬られただけで、それも今すぐ刀が持てなくなるほどの傷ではない。

 

「う……」

 

 鬼と獪岳の間に、小さな体が膝をついていた。右肩から左腰までを、ざっくりと斜めに深く切り裂かれている。

 ごぽりと、口から血の塊が溢れて草を赤く染めた。

 

「あれ、鬼なのに人間を庇ったのか。君、数年前に鬼になったにしては、なんだか気配が妙だけど、もしかしてずっと人を喰ってないのかい?」

 

 鬼が扇を一振りすれば、点々と血が地面に散った。

 扇は、二つあったのだ。

 一つをわざと落として見せて、二つ目で獪岳を斬ろうとし、間に幸が割り込んで、斬られた。

 

 幸はそれに気づいて反応し、咄嗟に鬼と獪岳の間に自分の体を差し挟んだ。傷を負ったのは、獪岳を庇ったせいだ。

 眠ることで体力を回復するせいか、幸は並みの鬼より再生力が弱いのだ。

 血鬼術で補っているが、使い過ぎれば眠らなければならず、無視して限界を越え続ければ理性が消える。

 

「幸、下がれ」

「だけ、ど……」

「それ以上やれば鬼になるぞ。わかってんだろ。俺は、お前の頚を落として切腹するなんざ御免だからな」

 

 悔しげに、幸が唇を噛むのが見えた。

 それでも、限界を理解してはいるのだろう。腹の傷を押さえて、後ろに下がった。

 骨まで断たれ、臓物が飛び出しそうなほどの、深い傷だ。人間ならば、数分で死んでいる。

 

 息をする、呼吸を続ける、刀を握る。

 何回も繰り返し、身にしみつけたはずの動作が、これほど難しいとは思わなかった。

 

 目の前の上弦は、これまで戦ってきた何者より強い。間違いなく、獪岳と幸よりも強い。

 当然だ。

 柱すらも殺してきたのが上弦で、弐ということは、こいつは上から二番目に強いのだ。

 それでも刀を手放さないのは、逃げられないのは、ひとえに恐怖を僅かでも上回る怒りが、獪岳の中で燃えているからだった。

 

 何がそれほど腹立たしいのか、獪岳にもわからない。

 傷つけられたのは幸で、憐れまれたのも幸。獪岳ではない。

 他人のことなど、どうでもいい。

 どうでもいいなら、何故自分は怒るのだろう。逃げないのだろう。

 わからないが、それでも昆虫のような目をした、この鬼の前から逃げるということが、できなかった。

 

「あれ、君が前に出るんだ。俺の動きについて来れてなかったのに。そっちの鬼の……ええと、幸ちゃんって子か。その子を出せば、まだ生き延びられると思うんだけどなぁ」

「……」

 

 聞かない。

 鬼の言うことなど、耳に入れない。

 鬼の一挙を、見逃すな。

 近寄れば肺を凍らせる鬼相手でも、近寄らなければ刀は届かないのだ。

 

「……テメェは、何しに来やがった」

「ん?」

「上弦の弍が、ふらふら散歩に出たわけじゃねェんだろ。人喰い列車の手伝いでもしに来たのか?そいつなら、もう死んでるのになァ」

 

 時間。

 時間が必要だった。最低でも、幸が傷を癒やすまで、動けるようになるまで。

 聞いてもいないことをぺらぺらと語ったことと言い、こいつはお喋りな鬼に見える。

 乗ってくるか否か、獪岳は刀の柄をきつく握る。

 柄巻きのざらついた感触が、この世に獪岳を繋ぎ止めている荒縄か何かのようだった。

 

「時間稼ぎかい?健気なことだねぇ。だけどまぁいいか。答えてやるよ」

 

 鬼の瞳がにんまりと歪む。

 

「この列車には、柱が来てるんだろう?そっちは、俺と同じ上弦の猗窩座殿が相手をしているよ。だから君たちにとっては残念なことに、柱はこっちには来られないね」

 

 上弦が、もう一体。

 では、炎柱はそちらにかかりきりだろう。

 言葉も返せない獪岳を見つつ、上弦の弍は続けた。

 

「俺が来たのは別件さ。要は、君たちを探して殺しに来たのさ。あのお方が最近、支配から逃れた鬼二体、見つけ次第両方殺せと仰るんだよ。特徴を聞いたら、そいつらの片方は金の目に黒髪の小さい子どもの鬼で、勾玉をつけた鬼狩りと共にいると言うじゃないか」

 

 それを聞いて、上弦はぼんやり思い出したのだという。

 何年か前に鬼にした、哀れな子。

 親からは見捨てられ、鬼に喰われ、目玉だけは満月のように綺麗だったから、覚えていた。

 人を喰わせてやろうとしたのに梃子でも喰わなかった、妙な鬼。

 

「あのときは、近くには人の気配が沢山する寺まであってねぇ。俺の扇で香を消してやったから、喰いたければ喰えたんだ。喰えば、怪我だってすぐ癒えたろうに」

 

 千切れた手足を治そうとせずそのままにして、涙を流して唸り続け、人喰いを拒んだ子どもの鬼。

 いつ人間としての残り滓というべき理性が切れ、人に襲い掛かるかと見守るのは面白かったが、夜明けが近くなってきたために捨て置いたのだ。

 

「日に焼かれるのは痛いだろうから、日陰には置いてあげたんだ。運が良ければ生きてるだろうとは思ってたさ。いやぁ、だけどまさか、鬼狩りと一緒にいたとは。だから俺がここに来たのは、後始末ってところだね」

 

 随分長くかかってしまったけどね、と上弦は嗤った。

 

「弱い鬼のままでいてくれてよかったよ。これで強くなられていたらさ、俺はあのお方に殺されていたかもしれないから。ところでさ、勾玉の鬼狩り」

 

 上弦が一歩足を進め、獪岳を瞳の中に捉えた。

 

「かいがくってのは、君なのかな?」

 

 瞬間、獪岳は地を蹴って走っていた。

 

 ────雷の呼吸

────参ノ型、聚蚊成雷

 

 敵の周りを埋め尽くす斬撃の波状攻撃が、鬼を襲う。

 

「お。雷の呼吸使いか」

 

 鬼が振るう扇の動きに合わせて出現した、氷の蓮の花。

 斬撃が砕いたのは、その蓮の花だけだった。

 氷の欠片が舞い散る中、鼻先に微かな冷気を感じ、獪岳は跳び退る。

 肺胞を壊死させられると、全集中の呼吸が使えない。そうなれば、動けなくなる。

 

 速さだけならば、まだついては行ける。

 力は並みの鬼よりないが、脚だけは阿呆のように速い幸と、何度も鍛錬した。

 動きには完全には追いつけず、反撃まではできなくとも、反応して避けることまでは辛うじてできた。

 

「あぁ、残念。やっぱり水辺じゃないから、俺も血鬼術を展開するのに時間がかかるし、威力も無くなるものだねえ。水が足りていないと、こんなものになっちゃうなぁ」

 

 だというのに、鬼は扇を揺らしてそんなことを宣う。

 

「今まで殺した剣士に、雷の呼吸を使うのはいたかな。ねぇ君、君がかいがくなんだろう?どうせ死ぬならさあ、他の技も見せてよ。次のは効くかもしれないよ」

「黙れ。テメェが死ね」

「刺々しいなぁ。幸ちゃんが鬼になったの、君にとっては良かったと思うんだけど」

「あ?」

 

 だってそうじゃないか、と上弦は聞き分けのない子ども相手のように語る。

 

「君は、その子に庇われるほど弱いだろうに。今までの鬼狩りで、何回その子を盾にして、生き延びて来たんだい?」

 

 空気が。

────凍った。

 

 刀の鋒の向こうにいる鬼が嗤う、嗤っている。

 決して手の届かない高い空で、ただ光るだけの、邪悪な三日月のように口を吊り上げて。

 

「俺が血をやったから、その子は生きてる。その子は君を守って、君に命を与えてる。死にかけの幸ちゃんは、恨み言も言わないで何度も君の名前を呼んでいたのに、君は何かをしてあげたのかい?今だって────」

「うるせェ!!」

 

 ────雷の呼吸

────肆ノ型、遠雷

 

 斬撃が氷の蓮を砕くと同時、ぴしりと嫌な音が鋼の刀身から聞こえた。

 上弦はひらりと躱し、扇を閃かせる。左肩と顔を冷たさが撫でた。

 

「ッ!?」

 

 咄嗟に足元の地面を伍ノ型、熱界雷で叩き、自身の体を背後へ飛ばした。

 そのままごろごろと、無様に地面を転がる。

 

「ぐ……が、ァ…」

 

 斬られた。

 左腕に力が入らない。

 顔の中心、鼻の辺りから血が流れている感触がある。

 後一歩踏み込んでいれば、左腕を落とされて両眼を斬られていた。だが、助かったとは言えない。

 左腕は付け根を深く斬られ、千切れかけだ。刀を握ることすらできない。

 呼吸で血止めをしようにも、太い血管が切られていて抑えられる怪我ではない。

 出血に意識が遠のきかけたとき、薄紅の光が肩にまとわりつき包み込んだ。

 肩に激痛が走り、ばきばきという音と共に肉と骨が新しく出来上がる。

 幸の血鬼術であった。

 

「へぇ、それが幸ちゃんの血鬼術か」

 

 痺れたままだが、ともかくも繋がった左手に力を込め、刀を構え直した獪岳に、上弦は楽しげに応じる。

 この鬼、遊んでやがると獪岳は悟った。

 攻撃を入れては、追撃せずに泳がせている。今だとて、幸の血鬼術が追いつく前に獪岳の首を斬れたろうに、治るのを見ていた。

 観察しているのだ。

 子どもが、捕まえた籠の中の虫を見て、楽しむように。

 

「うーん、でもこのまま俺が刻んでいっても、そっちの子が治すのか。いつかは限界が来るんだろうけど、それはつまらないなぁ」

 

 空中に、いくつもの蔓を持つ蓮の花が出現する。

 蔓が鞭のような勢いで伸びるのと、獪岳が放った陸ノ型、電轟雷轟が蓮を砕くのがほぼ同時。

 だが、砕けた蓮の破片は、空中に留まっていた。

 

─────不味いッ!

 

 槍のように尖った欠片が、一斉に射出される。半分を弍ノ型、稲魂で叩き落としたとき、刀が半ばで折れた。

 ぱきりと、呆気ない音を立てて。

 眼前には、氷槍の残り半分が迫る。咄嗟に顔を庇ったとき、獪岳の目の前を炎が満たした。

 

「えっ?」

 

 炎の壁の向こうで驚いたような声がし、残りの、炎の壁を抜けていた氷槍は刀で以て叩き落とされた。

 獪岳の目の前で、黄色の羽織が翻る。

 

「お前……!」

「……」

 

 刀の柄に手をかけた居合いの型を取り、獪岳の前に立っているのは、善逸だった。

 

「新手かい?おお、この炎は血鬼術みたいだね」

 

 炎の壁を、氷が切り裂く。

 頭上に差す氷蓮の陰に、獪岳は善逸の襟首を掴み、諸共背後に跳んでいた。

 一瞬後、獪岳と善逸がいた地面を、蓮の花が落ち、砕いていた。

 

「んえっ!?」

 

 そしていきなり、善逸から間の抜けた声が上がる。まるで、眠りから覚めたかのように。

 

「えっ!!えっ、ちょっと獪岳これどういうこと!あの鬼なんなの!」

「はぁ!?状況わかって飛び込んだんじゃねェのかよテメェ!上弦の弐だ!」

「はいぃ!?俺が見たの獪岳がバッサリ斬られたとこまでだよ!なんで俺の前に鬼いたの!?」

「退い、てぇっ!!」

 

 ぐい、と幸の叫び声と共に襟首を掴まれたかと思うと、獪岳の天地がひっくり返った。 

 逆さになった視界の中、幸が二本の脚で立っているのが見えた。善逸と獪岳を、まとめて放り投げたのだ。

 眼前に迫っていた氷の蔦を、幸が脚で蹴り砕く。残りの氷の花を焼き切ったのは、幸の後ろに立つ竈門の妹が放った炎だった。

 そこまでを見て、獪岳は善逸を下敷きにして背中から草地へ落下した。

 

「おや、今度は幸ちゃんと……ああ、もう一体の裏切り者の鬼っていうのは、その女の子か。君たちの両方を殺せばいいんだよね」

「……」

 

 空気を引っかくようにして、獪岳は起き上がる。

 幸は、先程までの姿ではなくなっていた。

 ほどけた髪が風になびき、何よりも背が高い。

 獪岳の腰までの高さしかないはずの身の丈が、肩先に届くまでになっていた。

 そして全身から、殺気が溢れていた。

 

「させ、ない」

「あは、君には無理だよ、幸ちゃん。そうやって、立ってるのがやっとだろう?人を喰いたくて、堪らないんじゃないかい?」

「名前、よぶ、な」

「君まで刺々し────」

 

 言葉が途中で途切れる。

 飛び掛かった幸の爪が、下顎を切り裂いたからだ。

 直後に幸の右腕が凍りつき、首元から血花が舞ったが、右腕は瞬時に炎に包まれ、幸はそのまま拳を振り抜いた。

 左頬に拳が突き刺さり、上弦の首の骨が折れる鈍い音が聞こえた。

 

「その炎、鬼だけを燃やす血鬼術か。だけどそれ、自分まで燃やしてて痛くないのかな。君、本当に鬼?」

 

 頭がぐるりと回り、まったく堪えていないふうの上弦は扇を一閃させる。

 軌跡に合わせて出現した蓮の蔦が、幸を叩いた。まだ燃えている体の肉が弾けるその音で、獪岳は折れた刀の柄を握りしめた。

 

「おい、カス。テメェ、戦えるか?」

 

 獪岳の刀は折れてしまった。

 まだ刀身は半分ほど残っているが、先程までのように型は使えない。

 霹靂一閃もできないのだ。

 弐から陸ノ型は、壱ノ型のように相手の懐に飛び込んで頚を取る技ではない。どちらかといえば、周囲を薙ぎ払うものだ。

 すぐに自身の周囲に氷の守りを展開できるあの上弦相手では、決め手にならない。

 

 獪岳には、一直線に懐に飛び込み頚を刎ねる霹靂一閃が、どうしても放てない。

 放てるのは、この場では善逸だけだ。

 しかし、善逸はぐずぐずの酷い顔で立ち上がろうとした瞬間、よろけた。

 

「……お前、脚やられたのか」

「う、うん。ごめん。だ、だけどあと一回ぐらいなら」

「立てねぇくせに馬鹿抜かすな、カス。……もういい。テメェの刀、俺に寄越せ」

「え、」

 

 霹靂一閃はまともに使えない。使えなくとも、飛び込んで頚を斬りでもしない限り、全員殺されるだけだ。

 幸はもう保たない。

 一年以上共に戦っていれば、鬼の力で戦うことの限界くらい測れる。

 度重なる血鬼術に、体の成長。あれ以上の負荷には耐えられまい。

 竈門の妹もいるが、あれは動きが幸より遅い。血が爆ぜる血鬼術も、勢いが無い。

 

「貸せ」

 

 獪岳の手に、善逸は刀を乗せた。

 

「なぁ、獪岳……」

「話しかけんな」

 

 そちらに割く余裕がない。

 刀を腰に佩く。

 何度も何度も、何度も何度も何度も何度も、気が遠くなるほど刀を振り、それでも成功したことのない壱ノ型の動きを頭の中でなぞった。

 最も鮮やかな壱ノ型の記憶が、列車内で見た善逸のそれであることは、何の皮肉なのだろう。

 嫌いで堪らない弟弟子に助けられるわ刀を借りる羽目になるわ、挙げ句にその技を模倣することになった。

 何もかもが最悪で、眼前に横たわる現実はどこまでも最低で、いっそあの鬼のように嗤いたいほどだ。

 

「幸ィッ!」

 

 嗤う代わりに、獪岳は腹に力を込めて叫んだ。

 上弦の氷を器用に避けていた幸が、その声を聞いた瞬間、一歩踏み込む、氷の蔦がその腹を抉る。

 血が舞った。氷が散った。

 そのまま、抉られる腹も吹き出る血も一切を気にすることなく、幸は上弦の下顎を殴り飛ばした。

 そして幸の拳が届く寸前で、獪岳は地を蹴っていた。

 驚いたふうに、僅かに仰け反る上弦の体。束の間見えたその頚だけが、獪岳の狙い目だった。

 

 ────雷の呼吸

────壱ノ、型

 

 低く深く飛び込み、すれ違いざまに相手の頚を狙う技、霹靂一閃。

 刀が伸びる。上弦の鬼の、驚いたような顔が見える。

 だが、その刹那に鬼は嗤った。

 刀の勢いが、殺される。獪岳の体が、がくんと力を失って落ちる。

 右脚が動かなかった。否、足首から先が無かった。

 斬られている。

 切断されている。

 善逸の叫び声が、ひどく遠くに聞こえた。

 

────死、

 

 それを、確信したとき、獪岳の胸に吹き上がったのは、目の前にいる敵への、どす黒い怒りだった。

 殺してやる、殺してやる!

 俺を、俺たちを殺そうとする者すべて、殺してやる!

 

────嗤うな、憐れむな!

 

 腕と腰を捻り、地に叩きつけられる寸前で、獪岳は日輪刀を渾身の力で投げた。刀は、鬼の右肩に突き刺さる。

 肩の肉が瞬時に盛り上がり、日輪刀を押し返そうとしたとき、刀ごと傷を上から押さえつける手があった。

 

「つ、か、まえた」

 

 幸が、小さく呟いた。

 

 ────血鬼術

────癒々(ゆゆ)ノ廻り・狂い咲き

 

 薄紅を通り越し、真紅に染まった雷が、幸の手から鬼の体へ直接叩き込まれた。

 刀が突き刺さった肩を中心に、鬼の腕が醜く、巨大に膨れ上がる。

 

 血鬼術・癒々ノ廻りは、肉体が本来持つ再生能力を一時的に高める術であり、治療されるほうは、相応に激痛を伴う。

 故に、元々異常に高い肉体の再生能力を持つ鬼相手に、血鬼術を高威力で叩き込めばどうなるか。

 

「かいがく!」

 

 幸が獪岳の胴を抱えて、跳んだ。竈門の妹も、同じく跳ぶ。

 三人揃って草地に倒れ込み振り返れば、上弦の鬼がいたところには、肥大した肉塊があった。

 

 幸の血鬼術により、上弦の鬼の再生能力が度を超えて暴走したのだ。

 術が保てば、肉体が限界を迎えるまであれは止まらない。

 

「かいがく、足!」

「む!」

 

 幸と竈門の妹に言われた瞬間、それまで感じていなかった痛みに、獪岳は襲われた。

 見れば、木の切り株のようになった足から血がだくだくと溢れていた。

 竈門の妹が拾っていたらしい獪岳の足首を、幸が切り口に押し当てる。

 再びの紅雷と共に気絶しそうなほどの激痛が走り、思わず獪岳は呻いた。

 

「おまっ……!さち……!」

「黙って!!」

 

 張り飛ばされるような声だった。

 紅雷が止んだとき、獪岳の右脚は元の通りに繋がっていた。

 それを見届けるや、糸の切れた人形のように、幸が獪岳の腕の中に倒れ込む。

 しゅるしゅるとその体は縮み、あっという間に片手で抱えられるほどに小さくなった。

 寝息は深く、目は固く閉じられている。完全に意識を失っていた。

 限界が来たのだ。

 小さく軽くなったその体を抱え、獪岳は立ち上がろうとした。

 

 ふぅわりと、周囲に氷の蓮の花がいくつも出現する。まるで、檻のように。

 竈門の妹が低く唸った。

 

「いやぁ、してやられたねぇ。まさか俺が、柱でもない相手に、片腕を自分で斬り落とすことになろうとは」

 

 肉塊の影から現れ、氷蓮を従えた隻腕の上弦の弐は、その足元に善逸の日輪刀を無造作に投げ捨て、踏みつけた。

 ぱき、と音がし、刀は半ばから二つに折れた。上弦の腕が、一瞬で元の通りに生える。

 

「傷を治すだけ、なんていう弱い血鬼術で、まさか再生能力の暴走を起こされるとは思わなかったよ。その子がちゃんと人を喰っていたら、俺を殺せたかもしれないねぇ」

 

 獪岳は、幸を抱えた腕に力を込めた。

 幸はもう起きない。刀は二本とも折れた。

 獪岳自身、再生されたばかりの腕と脚は張りぼて。上手く動かせない。

 目の前が暗くなった。

 

「最後だから聞いてあげようか。かいがく、君、鬼になる気はないかい?」

 

 扇が、真っ直ぐに獪岳を指す。

 

「鬼になるなら、命は助けてあげよう。傷は治るし、年も取らない。何より君をずっと守っているその幸ちゃんとも、同じになれるぜ」

 

 腕の中、深い眠りに落ちた小さな少女を見る。肩や腹は血まみれで、顔も小さな傷だらけ。

 

 月の光に照らされて、歩いた道を思い出す。この少女が、身を振り絞って泣いた声を思い出す。

 誇り高く生きよ、と師は言った。

 鬼になるために、化け物になるために、わたしは生まれたんじゃない、と少女は言った。

 

 言葉が、口を突いて出た。

 

「……断る」

「んん?」

「断る。テメェみてぇな化け物に、なってたまるか」

 

 嗚呼言ってしまった、という思いと、言ってやったぞ、という思いが起こった。

 上弦の弐は、いっそ楽しげに扇を持ち上げた。

 

「そうか。でも安心していい。君たちは俺が喰べて、救ってあげるから」

 

 氷蓮の蔦が、槍のように尖る。

 一秒後に死ぬな、とぼんやり思った。

 しかし鬼の幸も竈門の妹も、氷の槍に貫かれた程度では死ねないだろう。

 最後に空へ、蓮の花よりも高い空へ放り投げたら、眠っているこいつだけでも助かるだろうかと、両腕に力を込めた。

 

「全員、伏せろ!」

 

 耳朶を叩いた腹に響く声に、反射的に体が動いた。竈門の妹を突き飛ばすようにして、頭を押さえ、地面に伏せる。

 頭上で、甲高い音がした。

 それは、氷が金属で砕かれる音。

 

 地面が揺れ、目の前に誰かの背中が見えた。

 経文が書かれた羽織に、聳え立つ大樹のような巨躯。その手に持つのは、鎖で鉄球と繋がれた、手斧だった。

 

「間に合ったか……雀と鴉の使いに、感謝しなければならないな」

 

 岩柱、悲鳴嶼行冥が、そこにはいた。

 

 

 

 







【二通目の雀の手紙】

悲鳴嶼行冥さまへ

この前は、取り留めのない手紙を送ってしまって、ごめんなさい。

手紙を書いたことがなかったから、慌てていました。

だというのに、これも急いで書かなければならないようです。

次の任務は、無限列車というところです。
炎柱さまの手伝いとのことですが、獪岳が喧嘩したりしないか、心配です。

獪岳がやたら急かすので、急いで書きます。
変な手紙を送ってしまったことを謝りたかったんです。

任務、頑張ってきます。

お体に気をつけて下さい。


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