鬼連れ獪岳   作:はたけのなすび

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十話です。

ファンブックネタがあります。

では。


十話

 

 

 

 鉄球がすべての蓮の花を砕き、上弦の弐目掛けて唸りを上げて飛ぶその音を、獪岳は地に伏したまま聞いた。

 鬼は先程とは比べものにならない大きさの蓮を生成。

 それで以て鉄球の軌道を逸し、蓮が割れた後には姿が消えていたのだ。

 どこだ、と獪岳が周囲の気配を探った瞬間。

 

「楽しかったぜ。時間切れまで、よく頑張ったよ」

 

 嗤いを含んだ声が、獪岳の耳元で囁いた。

 

「ッ!」

 

 獪岳が振り返るより先、扇の刃がその背中を撫でた。言葉と同時に、上弦の扇が獪岳の背中を斜めにざくりと切り裂く。

 背中から血を吹き上げて、獪岳は、地面に膝をついた。

 そのまま、上弦の弐は恐ろしい速さで去って行く。去り際に、大量の蓮の花と蔓の鞭を獪岳たちの頭上に張り巡らせて。

 

「獪岳!幸!」

 

 振り返った岩柱の、悲鳴嶼行冥の鉄球と鎖がそれを打ち砕き、彼が駆け寄って来る間に、上弦の気配は遠ざかって行った。

 幸を抱えたまま片膝ついた獪岳は、意地だけで叫んだ。

 

「いい!死ぬ怪我じゃねェ!アンタはあっちに行け!上弦のアカザが炎柱の方に行ってんだ!」

 

 上弦の弐が獪岳を殺さずに斬って、蓮の花をばら撒いたのは、足手まといをわざとつくって岩柱をほんの僅かな時間でもここに留め置くためだ。

 肩も腕も繋がったばかりの足も、凡そ傷がない箇所というものが体になく、獪岳の感覚は半ば以上麻痺していた。

 傷は深く、痛いはずなのだが、ほぼ何も感じない。体が自分のものではないようだ。

 耳の奥でがんがんと、金属がぶつかり合うような音がしていた。

 

「……わかった。死ぬなよ、獪岳。幸もだ。……よく、戦った」

 

 岩柱が一瞬で、獪岳が示した方へ走り去る。

 それを見届けて、獪岳はふらりと後ろに倒れ込んだ。

 弾みで、幸が力の抜けた腕の中から転がり落ちて、竈門の妹が慌てて受け止めるのが見える。

 悍ましいほど巨大だった上弦の弐の気配は─────消えていた。

 

 手品のように、あの化け物は去って行ったのだ。

 

 は、と息を一つ吐き出した。

 

「獪岳ぅぅぅぅぅ!禰豆子ちゃぁぁぁん!幸ちゃぁぁぁぁん!」

 

 這うような勢いで駆け寄って来たやかましい弟弟子の絶叫に、獪岳は顔をしかめた。

 脚が動かないからとほとんど手で進むな。地を這うな。蜘蛛か、蜥蜴か。

 

「獪岳!獪岳生きてるよな!?」

「……うるせェ」

 

 動けないが、生きてはいる。

 何故まだ自分たちが生きているのか、最早訳がわからない。

 何度も何度も、死ぬと思った。

 視界に、目に痛い黄色頭が入るとほぼ同時に、息が速く、浅く、荒くなる。

 再生された体のあちこちが燃えるように熱いのに、瘧にかかったような震えが止まらなくなり、獪岳はぞっとした。

 負傷と出血と再生を繰り返した反動が来たのだ。

 幸の血鬼術は、肉や骨は繋いでも失った血液は補えない。

 呼吸を意識した。

 隠が来るまで、呼吸で止血する以外にない。もう、自力では起き上がる力すらなかった。

 

「獪岳!?目ェ閉じんなよ!寝たら死ぬぞこれ!」

「知って……んだよ。テメェ、ほんっと、うる……せ」

「うるさくもなるよ!って、幸ちゃん!?起きたの!?」

「ん」

 

 霞んでいく視界の中で、澄んだ金色の光だけが二つ、ちらちら動いているのが見えた。

 そこからきらきら光る雫が溢れ、ぽたぽたと落ちて顔に当たるのを感じた。

 

 とても、とても綺麗だと、最後にそう思いながら、獪岳の意識はすぅっと闇に溶けていったのだった。

 

 

 

 

 

#####

 

 

 

 

 

「獪岳!」

 

 地面にじわじわと広がっていく血の染みを、幸は呆然と見ていた。

 善逸の悲鳴が聞こえる。獪岳の顔がどんどん白くなっていく。

 でも、手も足も動かない。

 頭がふわふわしていて、芯がどろどろ溶けてしまって、体が動かせない。

 目から、雫だけがほたほたと溢れる。

 

「む!」

 

 きゅ、と頬を挟み込まれて幸は目を動かした。

 正面に、禰豆子の顔がある。彼女の手が、幸の頬を挟んでいた。

 どうするの、とその大きな瞳が問いかけているようで、幸は我に返った。

 自分で自分の膝を勢い良く叩いて、幸は歯を食いしばった。

 しっかりしろ。ここで一番歳上なのは誰だ。

 

「善逸君!かいがく、を、ひっくりかえし、て!せなか、を、きつ、く、押さえ、て!」

「わ、わかった!」

 

 同じ人間に、短い期間で何度も血鬼術を使うことは躊躇われたが、せめて傷を塞いで血だけでも止めねば、獪岳は本当に死ぬ。

 獪岳の背、隊服に描かれている『滅』の文字は斜めに裂かれ、傷口からはじわじわと鮮血が滲んで隊服を赤黒く染めていく。

 傷口に手をかざし、幸は意識を集中させた。

 

 ────血鬼術

────癒々ノ廻り

 

 薄紅の光が傷口に降りかかり、新たな皮膚ができあがっていく。数分で血は止まり、幸は肩で大きく息を吐いた。

 血は止めた。

 あとは蝶屋敷に任せるしかない。

 幸の血鬼術は、当然万能でも何でもない。死人には効かないし、体力は戻せない。

 ほっと息を吐き、それから幸は悪寒を感じた。

 山の端、濃く緑が残る峰の上に、朝日が顔を出しかけていたのだ。

 

「あっ!」

 

 近くに禰豆子の箱はあったが、幸の箱は見当たらず、列車の残骸から板を引っ張り出して傘にした。

 

「あっ、ち、見てき、ます。誰か、よばない、と」

「あっ、ちょっと幸ちゃん!」

 

 獪岳は気絶だし、禰豆子は寝かせてあげないといけない。

 善逸はよっぽど無茶をして間に割り込んでくれた上に、幸が放り投げたとき獪岳の下敷きになって脚をひどく挫いたらしく、歩けなくなっていたのだ。

 誰か呼んでこなくちゃ、とその一心で横倒しになった列車と線路を越える。

 襤褸同然になってしまった着物を引き摺り、ひたすら歩く。

 

 千里にも思える距離を歩いて、線路が走る土手を越え、反対側の草地に辿り着いたとき、幸の鼻は濃い血のにおいを嗅ぎつけた。

 地面に一人、白い羽織の炎柱が座り込んでいる。その腹に、深々と鬼の腕が突き刺さっていた。

 

「え……」

 

 思わず上げた声に、炭治郎と伊之助、それに炎柱の正面に座していた行冥さんと、炎柱本人が反応した。

 ふ、と炎柱の顔が緩む。

 

「勾玉妹か。君たちは無事だったか。上弦の弍が来たと聞いたが」

「……ぶ、じ、です。乗客も、禰豆子ちゃんも、善逸君、も、かいがく、も。みんな」

「そうか」

 

 ゆっくり、炎柱が微笑む。

 その腹に刺さっている腕は、上弦の参のものだろう。片目が潰れ、口の端から血が溢れていた。

 煉獄杏寿郎の顔には、死ぬ直前の人間に現れるある種の影が、くっきりと落ちていた。炎柱はどう見ても、致命傷だった。

 何もしなければ、彼は死ぬだろう。すぐにでも。

 空を見て、自分の小さな手を見て、拳をつくる。

 

「炎柱、さま。いま、か、ら、死ぬほど、痛い、とおもい、ます、が、死な、ない、で、くだい」

 

 側で、行冥さんが反応したのがわかる。炭治郎は訝しげで、伊之助は……猪の皮を被っているから、顔がなんだかよくわからない。

 幸は、手を一層きつく握りしめた。

 会いたくて、ずっと会えなかった人が、隣にいる。だが今は、そちらを見ることができなかった。

 

「幸、まさか」

「行冥さ……い、え、岩柱、さま。血鬼術、を使い、ます。わたし、が、わたし、をおさえられな、くなった、ら、くび、を、斬って、くだ、さい」

 

 幸はぼろぼろで、今すぐ眠れと全身の細胞に絶叫され、叫ばれ続けているような状態だ。

 血鬼術を行使すれば、何が起きるかわからない。

 

 それでも、あれだけ獪岳や禰豆子や善逸と遊ぶように戦い、ずたずたにしていった上弦の仲間に、今この場で誰かを殺されることが幸には我慢ならなかった。

 体の中心の、最も深いところで、めらめらと猛る業火が灯ったようだった。

 

 あんな昆虫のような眼の鬼によって、自分が鬼に変えられて、血鬼術に目覚めたというなら、そいつに与えられたにも等しい力で、十二鬼月の思惑など砕いてやる。

 誰も、死なせてたまるものか。

 

 幸は炎柱のことなど、ほとんど何も知らない。向ける情も特にない。

 頑固な馬鹿と獪岳に何回も言われてきたけれど、今幸がしようとしていることはそれと同じ、単なる自分の意地なのだ。

 

「勾玉妹、何をする気だ?」

「治療、で、す。死なないで、くだ、さい。あ、と、妹では、な、い、です」

 

 溶かした黄金を丸く固めて嵌め込んだような、完全に据わった目で、幸は日除けの板を放り捨てた。

 それでも、成長できない小さな体は丁度座っている行冥さんの陰にすっぽり収まるから、日で焼かれることはない。

 

 真紅の光が両手に収束し、ぱちぱちと音を立てて空気を燃やす。

 血の気が失せつつある炎柱の顔が、赤く照らされた。

 

「いき、ます」

 

 朝日にしらじらと染められていく黎明の空を、真紅の稲妻が音高く劈いたのだった。

 

 

 

 

 

 

#####

 

 

 

 

 

 

 獪岳が目を覚ましたのは、無限列車の脱線事故と、それに伴う上弦の弐と参の襲撃から、十五日後の夕方だった。

 意識が戻っても体を動かせず、ぼんやり天井を眺めていた獪岳に最初に気づいたのは、病室をたまたま覗いた悲鳴嶼行冥の弟子、不死川玄弥だった。

 

「お前っ!お前なぁっ!意識戻ってんなら戻ってるでなんか言えよ!どんだけ心配かけてんだよっ!」

「……」

 

 無茶を言うな。喉が枯れているのにどうしろと。

 そう弁明するのも気怠く、無言で耳を塞いだ獪岳そっちのけで、玄弥は蝶屋敷中に獪岳が起きたと告げて回った。

 

「獪岳!」

「獪岳さん!起きたんですね!」

「バチバチ野郎!」

 

 その次にやって来たのは、善逸と炭治郎に伊之助である。

 三人団子になって駆け込んで来るから、何事かと思った。特に先頭のカスもとい善逸は、存在がうるさい。

 その次の次に来たのは、御神酒徳利三本立てのような、蝶屋敷の看護婦の少女たちだった。

 体温やら心拍やらを測られ、体にひとまずは異常がないことを確認され、この時点で獪岳は疲れた。

 自分が半月以上も寝ていたと知ったのは、それからの話だ。どうりで体がうまく動かせないわけだ。

 

「爺ちゃんから手紙が来てるよ。あと、悲鳴嶼さんからも」

「そうかよ。……で、幸はどうした?」

 

 こいつら三人が来て、幸が来ないのはおかしい。今は日が落ちたばかりで、箱の中から出て動き回っているような時間だ。

 予想通り、善逸と炭治郎の顔がみるみるうちに曇る。

 

「幸ちゃんは起きてないよ、獪岳。あれからずっと、眠ったままだ」

 

 やっぱりか、と獪岳はどこかその知らせを乾いた心持ちで受け取ったのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 炎柱、煉獄杏寿郎の重傷を治した後、幸は昏倒したそうだ。

 以来滾々と眠り続け、傷も一向に治らないという。

 

「限界超えて、血鬼術使ったからでしょう」

 

 理由を尋ねられても、獪岳には他に答えようがない。

 

「そうなのか!では、傷が治らないのも同じ理由か?」

「だと思います。血鬼術使って寝るときはいつもそうだ……です。先に消耗した分を回復させてからでないと、傷を治せないんじゃないかと」

 

 少なくとも、以前に幸が長く眠ったときはそうだった。

 あのときは七日目に起きていたが、まず五日はただ眠り、残りのニ日で傷を治していた。

 十日以上眠り、傷が治らないのは初めてだった。

 上弦の参に片目を潰されて腹に大穴を開けられ、それでも乗員乗客隊士含め全員を守り切った炎柱、煉獄杏寿郎は、下手な敬語を使う獪岳の答えにふむ、と首をひねっていた。

 

 何故か、本当になぜか、あの三人の次、獪岳が目覚めた翌々日に来たのが、こいつだったのである。

 ちなみに、蝶屋敷看護婦三人娘によると、獪岳は煉獄とどっこいどっこいで怪我が酷かったそうだ。

 出血多量と高熱で心音が一時途切れそうなほど弱まり、善逸が大騒ぎしたという。

 今も貧血気味で、動いているとふいに目眩に襲われる。それから斬られた顔には、横一文字に傷痕が残るらしい。

 幸いなのは、斬られてから繋がれた腕と脚は、今は感覚が鈍くなっているが、訓練すれば治ることだ。

 斬られてすぐに繋ぐことができ、切り口が綺麗だったから成功したことで、どちらかの条件が欠けていれば、二度と手足が使い物にならなくなっていたとか。

 

「アンタ柱でしょうが。柱なら自分の屋敷に戻ればいいじゃないですか。なんでここにいるんですか」

「獪岳少年が目覚めたというから、見舞いに来たのだ!獪岳妹が起きていないのは残念だがな!」

「妹じゃねぇって言っただろうが!」

 

 ついつられて敬語が外れて叫び返すと、顔が引き攣れたように痛んだ。

 思わず包帯の上から鼻の辺りを押さえると、煉獄は急に優しげな目になった。

 

「幸少女も同じことを言っていたな。自分は妹じゃない、と。幼馴染みというやつだと、悲鳴嶼さんが言っていたが」

「知ってんなら聞くんじゃねぇ……です」

「うむ!土壇場で彼が駆けつけられたのも、元を辿れば幸少女が出していた雀の手紙と、君の鎹鴉のおかげだ!目覚めたら礼を言うといい!」

 

 本当にどてっ腹に穴が開いたのかと言いたくなるでかい声で、煉獄はからからと笑った。

 これでも療養中で、現在待機状態だというからもう柱はどうなっているのだ。

 

「それから獪岳少年!君には三日後の緊急の柱合会議に参加し、上弦の弐についてお館様と柱に直接報告しろという指令が出ている。どの道、その怪我でしばらく任務は不可能だろう」

「はぁ!?」

「ではな!傷を癒やすとよい!」

 

 君たちは鬼殺隊としてよく戦った、とこれまたでかい声で言い残して、嵐のように煉獄は去って行った。

 

「また柱合会議かよ……」

 

 前は裁判、今度は会議。

 立場は違えど、想像するだに面倒な話だった。

 

「……お前が喋りゃ楽なのになぁ」

 

 布で窓を塞いだ小さな薄暗い部屋。

 小さな明かりに照らされ、布団の上で、仰向けに眠っているのは、幸だった。

 あれだけ声のどでかい炎柱がいても、閉じた瞼が震えることすらなかった。

 幸の体は、既にいつもの七歳くらいの姿に戻っている。

 ほどかれた黒い髪は、白い枕の上に広がり、やや体に合っていない大きめの寝巻きで隠れているが、脇腹や肩は包帯だらけで血が滲んでいる。怪我が治っていないのだ。

 丈夫だけが取り柄のような、鬼のくせに。

 

「クソッ」

 

 怒りの泡が浮かんできて、弾ける。

 畳を拳で叩くと、鈍い音がした。

 

 上弦の、弐。

 何度も、死ぬと思った。

 腕を千切られかけ、足首を斬り落とされ、その都度あの鬼は子どもが新しい玩具で遊ぶときのような目で、嗤っているだけだった。

 挙げ句の果て、幸を鬼にしたのは、あの化け物だという。

 腹が立つのは、あの鬼がいなければ、幸は十年前に間違いなく死んでいたという事実だ。

 

 手足を千切られ、腹を割かれて食い散らかされていた子どもから、綺麗だと瞳を片方抉り出したと、鬼は楽しそうに語っていた。

 子どもを鬼に変えてから、人を喰えるようにと香を消したことを、己の優しさのように思っていた。

 藤の香を焚いていた寺など、あの辺りには一つしかなく、その夜に別の鬼に襲われた。

 結局、幸がいくら耐えたところで、なんの意味も無かったのだ。

 幸は眠っている。あの日と同じ、幼い姿で。

 

「お前さぁ、何でそんなに頑張んだよ。何のために、何が楽しくて生きてんだよ」

 

 昔から、いつもいつもいつも、腹が立つほど前向きだった。

 親には捨てられ、腹一杯になるまで食えたことなんて一度もないような暮らしで、だのに年下に自分の飯を分けてしまうから、いつまでも体が小さかった。

 

 獪岳、獪岳、とついて来て、蹴ったり髪を引っ張ったりしてもやめなかった。

 村の子に泣かされても獪岳に馬鹿にされても、懲りるということを知らなかった。

 

 腹がどうしようもなく減ったとき、獪岳は寺の金を盗ろうとしたことがある。

 

 あのときは、盗る前に幸がすうっと音も無く現れた。

 転ぼうが殴られようが、寺の中ではにこにこしていたのに、能面を被ったような無表情だった。

 今度こそ言いつけられるかと思ったのだが、またすうっと消えたと思ったら、塩茹での芋を持って戻ってきたのだ。

 

 それは確か、その日の朝飯だった。

 

「食べて」

「は?」

「お腹が膨れたら、我慢して」

 

 笑みの欠片もない顔で、芋を突き出す金色の瞳は揺らいでいなかった。

 結局、獪岳はその芋を食べた。

 食べざるを得なくなる気迫のような何かが幸にはあったし、終わるまでじいっと金色の瞳で見つめてきたのだ。

 食い終わったら確かに腹は膨れていて、もう盗む気が失せていた。

 幸は、怖いほど真っ直ぐに獪岳の目を見つめて、一言だけ言った。

 

「獪岳。わたしの父さんや母さんと同じこと、二度としないで」

 

 幸が、実の父母のことを自分からまともに話したのはあれ一度きりだったし、幸は獪岳が金を盗もうとしたことを、誰にも言わなかった。

 普段は、親など忘れたと言っていたくせに。

 考えたことはなかったが、彼らは凡そ、真っ当な人間ではなかったのだろう。

 それがどう転んだか、上弦の弐と関わっていた。

 

 そいつらが、死んでいればよかったのに。

 

 だが彼らがいなければ、上弦の弐は訪れず幸は死んでいて、幸が鬼にならなければ、獪岳が死んでいたのだ。

 

 何度も獪岳は幸を盾にしたし、そうやって生き延びてきた。

 それをどうとも思っていなかった。幸も何かを言ったことはない。

 上弦が告げたことは、ただの事実だ。

 それなのに今、そのことでどうしようもなく惨めになったような気分の己がいる。

 

 何も変わっていない。

 呼吸を覚えても、刀を使えるようになっても、体が大きくなっても、幸を置いて逃げ、ただひたすら自分が生きていたことに安堵した餓鬼と、何一つ。

 

 幸は、起きない。

 もう二度と、目覚めないかもしれない。

 

 にゃあ、と唐突に部屋へ猫が飛び込んで来たのは、そのときだった。

 黒い毛並みに金の目の猫は、布団の上に飛び乗る。いつかの日に蝶屋敷の外で見た、あの人懐っこい小猫だった。

 何だこいつは、とつまみ出そうと手を伸ばす。

 

「獪岳」

 

 重々しい声と共に、部屋に入ってくる影があった。

 岩柱、悲鳴嶼行冥だった。猫はみぃ、と鳴いて、彼の足元に擦り寄った。

 飼い猫だろうと幸は言っていたが、まさか。

 

「そいつ、あんたの猫かよ。悲鳴嶼さん」

「そうだ。久しいな。……お前も、幸も」

 

 幸が眠っている布団を挟んだ反対側に、猫を肩に乗せた悲鳴嶼は座った。

 向かい合うと、圧倒されるようだった。十年近く前は枯れ木のようだったのに、今では巌のようだ。

 沈黙を続けたあと、悲鳴嶼が口を開いた。

 

「酷い怪我をしたと聞いたが、具合は良いのか?」

「血が足りてないだけだ。訓練すりゃ、手足も動くようになる。鬼殺隊もやめねぇよ」

「……そうか。よく、生きていたな」

 

 それは一体、上弦との戦いのことなのか、十年前のあの日からのことなのか。どちらなのだろう。

 答えられないでいると、悲鳴嶼は数珠玉を擦り合わせながら尚も続けた。

 

「幸は、煉獄の怪我を治す際に、万が一理性を失えば頚を落とせと、私に言った」

 

 如何にも、頭に血が上った幸の言いそうなことであった。

 

「あんたは柱でこいつは鬼だ。柱の前で柱に血鬼術かけたきゃ、頚かけなきゃならなかったんだろ」

 

 その場合、一緒に獪岳の首もかかっているのだが。

 幸が理性を飛ばして人を喰えば、獪岳がその頚を落として腹を切らなければならない。忘れていたのかこの馬鹿は。

 

────まァ、忘れてんだろうなぁ。

 

 髪をぐしゃりと手でかいた。

 

「こいつを鬼にしたのは、上弦の弍だった」

「何?」

「向こうがべらべら喋ったんだよ。こいつの親がこいつを嫌って捨てて、それを聞いた上弦が面白がってこいつを鬼にしたとさ」

「……それ以上はいい。柱合会議で聞こう。今は休め、獪岳」

「あんた、何か知ってんだろ。こいつの親のこと」

 

 悲鳴嶼を無視して、獪岳は尋ねる。

 沈黙の後、悲鳴嶼は口を開いた。

 

「酒浸りで、盗みに手を染めて身を持ち崩したとは聞いていた。……幸は、忘却ができない体質で、故にか自我の発達が異常に速かった。そのせいで疎まれたと、言っていた」

「俺には、親のことは忘れたって」

「それは嘘だな。幸に、『忘れた』は有り得ない。つらい記憶を敢えて忘却し、痛みを雪ぐことができないのだ」

 

 悲鳴嶼は首を振った。

 それでか、と獪岳は悟った。

 あのときに獪岳を圧倒した、幸の氷のような気配の理由が、わかった気がした。

 

「あの夜、お前たちは寺にいなかった。皆はお前たちは先に寝たと言ったが、鬼は外にいた女の子を喰い、男の子を喰い損ねたと言っていた」

「……こいつが、俺たちが抜け出したままだってことを黙っててくれってあいつらに頼んで出てきたんだよ。日暮れ前に帰ってこねェと、あんた、俺たちを心配して外に出たろ」

 

 くだらないことで叱られ臍を曲げ、寺を飛び出した獪岳を迎えに来たとき、幸は言っていた。

 みんなに嘘をついてもらって抜け出して来た。明日の朝、一緒に行冥さんに謝ればいいじゃない、必ず許してくれるから。

 だから、早く戻ろうよ、と。

 鬼に襲われたのは、その直後だった。

 

 叱られた原因は、もう思い出せない。

 思い出せないほど、くだらないことだったのだ。

 

「お前が鬼殺の剣士として生きていて、しかし鬼を庇った隊士だと聞いたときは、驚いた」

「そう見えなかったけどな。処刑に賛成してたじゃねぇか」

「……私は鬼殺隊で柱として戦い、その中で鬼の醜悪さなど幾らも目の当たりにした。それに私はあの日以来、とても疑り深くなった。お前や幸だからと言って……いや、だからこそ信じることができなかった。お前たちの生存を、喜ぶことができなかった」

 

 生き残りの子どもが、みんなあの人が殺したと言ったから、悲鳴嶼は殺人犯として役人に捕まったと聞いた。

 守り抜いた沙代にそう言われ、お人好しで優しかったあのころの悲鳴嶼は、何を思ったのだろう。

 

「役人になら、俺も会ったし言ったよ。あんたが子どもを殺すわけない。子ども殺しは化け物の仕業だってな」

「そうだったのか」

「役人共は信じやがらなかったけどな。腹立って殴ったら、俺を放り出しやがった」

「……また、随分乱暴なことをしたものだな」

 

 淡々としていた声に、僅かに昔と同じやわらかい色が混ざった。

 

────どうして。

 

 どうして、この声を先に聞くのが自分で、会いたがっていた幸ではないのだ。

 

「悲鳴嶼さん」

「なんだ?」

「こいつ、いつ起きるんだろう」

 

 言ってしまってから、獪岳は口を押さえかけた。

 そんなことを言ってどうする。

 誰にもわからないし、怪我を押しても炎柱の傷を治すと決めて実行したのは幸だ。

 獪岳がその決意に対して思うことも、今こうやって眠りに落ちている姿を見て憂うことも、必要はないはずだ。

 だが、一度言った言葉は、取り消せなかった。悲鳴嶼はゆるゆると首を振った。

 

「最も長く、この子の側にいたお前にわからないならば、誰にもわかるまい」

「……」

「私が言えたことではないかもしれない。が、それでも言おう。幸の側にいてやれ。昔から、お前はこの子の特別だった」

 

 大切な壊れ物を扱うかのように、悲鳴嶼は幸の額にそっと触れた。

 特別という言葉が、耳の中で反響した。

 

「俺が幸の、特別?」

「そうだろう。昔から、お前の側を離れなかった。理由を問うても、答えてはくれなかったな。理由など、なかったのかもしれないが」

「俺は、こいつのためになるようなこと、何もしてないのにか?」

 

 思わず顔を上げれば、少し上に盲いて白く濁り、それでも昔と同じ優しい瞳があった。

 頭の上にあたたかいものが乗せられた。

 それが悲鳴嶼の手で、自分が撫でられていると気づくのに、数秒かかった。

 

「損得など関係なく、ただ安らかに生きてくれているだけで嬉しいと思う相手は、いるのだよ。かつてはお前たちが、私にとってはそうだった。お前たちが健やかに生きて大人になってくれるだけで、私はよかった。ずっとそうして、生きていくつもりだった」

 

 それも、永久に叶わない願いになってしまったが。

 

「お前も幸も、鬼殺隊としてよく戦った。無辜の人々と、仲間と、自分の命。それらすべてを守り、生き残った。誇るべきことだ。今は、休め」

 

 悲鳴嶼は、その言葉を最後に出て行った。

 小猫もその後をついて行く。

 存在感のあった悲鳴嶼がいなくなれば、獪岳には急に部屋の中ががらんと広くなったように感じた。

 

 急に、目が霞むほどの疲れを感じて、獪岳はその場で自分の腕を枕にし、畳の上でごろりと寝転がった。

 拳二つ分ほどの距離に敷かれた布団の上で、幸は眠っている。

 小さく薄い体は、首元辺りまでかけ布に覆われ、深い呼吸にあわせてゆっくりと胸が上下していた。

 白い陶器のような横顔は静謐で、深い傷を負ったままであることを感じさせないほどに、穏やかなものだ。

 

 閉じた瞼の裏で、こいつはどんな夢を見ているのだろう。

 次に目覚めたとき、何と言うのだろう。

 それとも、もう二度と目覚めることなどないのだろうか。

 

 そう考えて、獪岳はそれを恐ろしいと思っている自分がいることに気がついた。

 手を伸ばして、細い手首の脈を探る。

 微かだが、それでも確実に脈打っている生命のあたたかさが、そこにはあった。

 

「……言いたいことが、聞きたいことが、まだあるんだよ」

 

 身勝手と罵られてもいい。

 何を今更と笑われて、呆れられてもいい。

 だから、だから頼むから、まだ死んでくれるなと、もう一度目覚めてくれと、そう思いながら、疲労に追いつかれた獪岳はゆっくり目を閉じる。

 触れた指先に、確かに巡る血の勢いを感じながら、獪岳は眠りに落ちていったのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それから、病室にいない獪岳を探す看護婦の少女たちが見つけたのは、胎児のように手足を縮めて体を丸め、幸の手首に自分の手を重ねて布団の隣で眠る獪岳と、眠り続ける幸だった。

 

 とても気持ち良さそうに寝ているのに起こしてもいいのかな、と戸惑う彼女たちを置き、部屋から勝手に消えてあちこちに心配をかけた馬鹿を、通りすがりの不死川玄弥が容赦なく叩き起こして病室に突っ込んだのは、言うまでもないことだった。

 

 




【すべて見て知らせていた鎹鴉の一言】

 ソコデ、ゴメンナサイモ、アリガトウモ、言ワナイカラ、オ前ハ、カイガクナノダ。

 コノトウヘンボク!トウヘンボクゥ!!

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