鬼連れ獪岳   作:はたけのなすび

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十二話です。

これで第一部完です。

では。


十二話

 

 

 

 

 悲鳴嶼行冥が訪れる日の朝から始まった蝶屋敷での機能回復訓練を、獪岳は難なくこなすことができた。

 体のこわばりを取るための柔軟は痛かったが、その次の鬼ごっこという名の反射訓練は、普通にこなせた。

 相手になったのは、炭治郎と同期で蟲柱の継子という女の隊士だったが、幸より足は遅い。

 幸の速さでの斬り合いに慣れていた獪岳には、楽とは言えないが追いつけない速さではなかった。

 後は、薬湯のかけ合い合戦。

 苦い薬湯入りの湯飲みを幾つも並べ、これを正座したまま取り合って、先に湯飲みを掴んで持ち上げたほうが、相手の顔に湯飲みの中身をかける、というものだ。

 これにも獪岳は勝ったが、さすがに女の長い髪に苦い薬湯をぶっかけるのは気が咎めて、頭の上に湯飲みを置くだけにした。

 

 獪岳さん、顔に似合わず優しいんですね、と看護婦三人娘に言われたが、一言多い。

 鬼の血を頭から引っ被った幸の髪のにおいが、一時ひどいことになったのを覚えていただけだ。

 

「獪岳さん、速いんですね!俺まだ、そんなに速くはなれなくて」

「……」

 

 そして、一緒くたに訓練に参加した竈門炭治郎はこれである。

 答えるのも面倒なので黙っていたが、あっちはまったく懲りずに話しかけて来る。

 お前の後ろで死にそうな顔になっている黄色頭を連れて、どっかに行ってはくれないだろうか。

 一言くらい返さないと、延々構われそうで、獪岳はやむなく口を開いた。

 

「……速いやつ追っかけてりゃ、速くなるだけだ。それでも上弦には通じなかったけどな」

 

 もうこれはいいから木刀振って来る、と道場を後にした。外は、明るい陽射しに照らされている。

 獪岳や炭治郎、善逸の日輪刀は、明日届くと言う。

 木刀ではやはり重さに違和感があるから、早く刀を振りたかった。

 屋敷の裏庭で、一通り型を浚う。

 思った通りかそれ以上に動きが荒くなっており舌打ちが出たが、幸の血鬼術がなければ手足が千切れて死ぬか、二度と歩けなくなっている所だ。

 贅沢を言っている場合ではない。

 

 その血鬼術の使い手はどうしているのかと言えば、屋敷の暗い部屋でやはり、眠っている。

 元々日中は、寝てばかりなのがいつものことなのだ。竈門の妹と同じく、くうくう寝ているだろう。

 夕方になってもまだ眠っていたら、笑ってやろうと思う。

 急速に、本来の年齢にまで成長した体に異常はないのかと蟲柱があれこれと調べていたようだが、特になかったという話は聞いている。

 だが、未だ幸が何故理性を保ったままなのかはわからないままだ。

 竈門の妹もはっきりした原因はわからないというから、そんなものなのかもしれない。

 

 鬼になっても理性を失くさぬ者と、人に食らいついてしまう者、何が違うと言うのだろう。

 同じ病気にかかっても、死ぬ者と死なぬ者がいるのと同じ理屈なのだろうか。

 

 獪岳にはわからないし、そんなことを自分が逐一考えていることが驚きだった。

 

 風切り音と共に、木刀をさらに激しく鋭く振り下ろす。

 体の具合が戻るまで、あと三日と言ったところか。ひと月弱、任務から離れていたことになる。

 

「カァ!」

 

 空から、見慣れた鴉が降りて来たのはそのときだった。

 

「テメェか。任務ならまだ出られねぇだろ」

「当然!当然ンン!幸、起床シタト聞イタ、聞イタァァ!」

「あいつならあっちで寝てるぞ。やかましい鴉じゃ屋敷の中に入れねぇよ。残念だったな」

 

 からかってやると、翼でべしりと叩かれた。

 

「お前もなぁ、最初はあいつが鬼だから近寄りもしなかったよな」

 

 それが、今や幸の頭の上に乗って手から木の実を食べるほどに懐いている。

 尚、獪岳には全然懐いていない。

 事あるごとに煽って来るので、正直便利でなかったら焼き鳥にしたいと思ったこともある。今も思っている。

 藤襲山での帰り道に舞い降りて来たこの鴉相手に、獪岳がまず真っ先にしたことは、借り物の刀を突きつけて幸のことを言いつけるな、という脅しだったのを考えると、当然な気もするが。

 

「ケケケ!今回ハ、手紙、手紙ィ!師カラノ、手紙ィ!トットト読ム、読ムゥ!」

 

 げしげし、と獪岳の頭を蹴った鴉は、ぽとりと嘴に咥えた手紙を落として来た。

 腕が届きそうで届かない、ぎりぎりの距離で煽って来るあの鴉、一体何を考えている。

 だがそういえば、昨日幸が起きた後のやり取りですっかり頭から吹っ飛んでいたが、善逸に師匠からの手紙を渡されていたのだった。

 持ってみれば随分と重い。開けてみれば、これは幸の嬢ちゃんにも見せるように、との一言がついていた。

 

「チッ」

「確カニ、確カニ届ケタァ!カァ、カァ!」

 

 鎹鴉は飛び去って行った。

 二人で読め、とわざわざ但し書きがついているのだから、幸にも見せないとならないだろう。

 他の誰かからの手紙ならば無視しているが、相手は師匠だ。無視するわけにはいかない。

 履物を脱いで木刀を置き、屋敷に上がる。

 そういえば、炎柱からの話もあったのだと、師からの手紙を持って廊下を歩きながら思う。

 

 柱から継子に選ばれた、ということを、少し前までの自分ならば舞い上がっていただろう。

 だが、今はそんなことで舞い上がってどうする、という冷めた思いがあった。

 それほどに、上弦の弐は圧倒的であったからだ。

 回復特化の血鬼術使いがいなければ、獪岳など五回は殺されていたし、善逸や竈門の妹にまで助けられる始末だ。

 

 あれだけの力の差を見せつけられて、天狗になれる馬鹿がどこにいる。

 いたら、首でも落としてやるところだ。

 その上弦を殺したいという少女に、つき合うと獪岳は決めたわけだ。道が果てないことくらい、重々承知だ。

 

「おい、幸。先生からの手紙だぞ。お前と俺、二人宛てだ」

「ん?」

 

 幸に宛がわれている部屋に入ると、当の本人は起きていた。

 寝台から降り、姿見の前で立って髪を弄っているところだったらしい。

 普段は飾り気なく三つ編みで一つに束ねている髪は、ほどかれて腰辺りにまで届いていた。

 口に髪紐をくわえ、手には小さな蝶の髪飾りを持っていた。

 

「お前それ、どうしたんだ?」

「しのぶさんが目印にくれた。何かないと、隊士の人たちが普通の鬼と間違うかもしれないし、しのぶさんとは血鬼術で協力することになったから。けじめみたいなものだって」

 

 可愛いでしょう、という顔は嬉し気だ。

 確かに、同じものをここの看護婦の少女や、蟲柱の継子がつけていた覚えがある。

 

「じゃ、とっととそれつけろよ。先生から手紙が来てんだ」

「いやそれが……つけ方がよくわからなくて」

 

 三つ編みができて、どうして蝶の髪飾りひとつがつけられないのだ。

 思わず白い目になると、幸は不満そうに獪岳を振り向いた。

 

「仕方ないじゃないか。こんな綺麗なものちゃんとつけたことがなかったんだから。それに壊しそうで」

 

 思えば寺の暮らしの中では、当然そんな飾りを買う金などなかった。

 というか、多少余裕があったとしてもこいつの性格ならば、食べ物や薬、藤の花の香を買っていただろう。

 獪岳ですら、勾玉飾りを持っていたというのに、だ。

 

「面倒くせぇなぁ。お前そこ座れよ、俺がやる」

「本当?じゃあ頼む」

 

 部屋の隅にあった適当な椅子を姿見の前に置いて、幸はすとんと腰かけた。

 後ろに回って適当に手で梳いてやる。縺れもなく、髪は獪岳の手の中でさらさらと流れた。

 

「獪岳に髪を結ってもらうのって久しぶりだなぁ。前はいつだったっけ?」

「三ヶ月ぐらい前だろ。お前がカマキリみてぇな鬼に両腕斬られて、髪結べなくなったときだから」

「そうだった。両腕斬り落とされて喰われたから、再生に時間がかかったんだ」

 

 そこまで言って、気づいた。

 こいつは、覚えたものを忘れることができない体質だ。つまり、そのようなことを聞かなくともわかっているのだ。

 思わず顔をしかめると、鏡の中で幸がにこりと笑った。

 

「いやぁ、獪岳のことだから忘れているかと思ったんだよ。聞いてみただけ」

「お前こら、髪、適当にするぞ」

「謝るからそれはやめて。ちなみに正確に言うと、二ヶ月と二十八日前」

 

 本当にきっちり日付まで覚えていたらしい。質が悪い。

 さらに顔をしかめると、鏡の中で幸は今度はほろ苦い感じで笑った。

 

「わたしは小さいときからこういう感じだったから、父さんと母さんに気味悪く思われちゃったんだよね。普通にこんな話を聞いて信じてくれる人、あんまりいないから」

 

 それはどことなく、柱をやめたと告げて来た煉獄杏寿郎を思わせる笑い方だ。

 もう二度と、手に入らなくなったものを諦めて、微笑むしかできない人間の表情だった。

 軽いため息が漏れる。

 

「悲鳴嶼さんには聞いたけど、実際どれくらいまで覚えてるんだ?俺に、お前の父親と母親みたいになるなって言ったってことは、相当餓鬼のころまで覚えてんだろ」

「ああ、あのときのあれか。……いつからって言われたら、目が見えるようになって、耳が聞こえるようになってから全部だよ。わたしの記憶が欠けてるのは、鬼にされたときの部分だけ」

 

 悲しみも怒りもなく、ただ乾いた口調で語る幸の中で、親に捨てられた瞬間の記憶さえ、本当に過ぎ去った些細な記憶になっているのだろう。

 獪岳も人のことを言えた義理ではない生まれ育ちだが、自分を捨てた親の顔は真っ先に忘れている。

 

「仕方ない。人間、どうしても受け入れられない相手って言うのはいるものなんだ。それが、たまたま親と子だったんだよ」

 

 三つの束に分けた髪を編みながら、獪岳は幸の言葉に肩をすくめた。

 実の親に関しては、ほとほと淡白なやつだ。

 その分、自分を拾ってくれた悲鳴嶼やあの子どもたちに向ける情が、深くなったのだろう。

 

「そいつらの名前、何て言うんだよ。あの上弦の鬼を教祖様って崇めてたんだろ。何か手がかりとかあるんじゃねぇのか」

「あー……父は銀次で、母は朝って名前だったよ。名字はぬかづき」

「ぬかづき?」

「奴さんの奴に、加賀の賀、築くの築と書いて、奴賀築(ぬかづき)。ご体層で変な名字だから、探せば見つかるかもね」

「じゃお前は、奴賀築幸(ぬかづきさち)って名前だったのか。……馴染まねぇな」

「わたしはただの幸だよ。それだけでいい。もう関係がないから。……あの鬼を見つけるためにあの人たちを探すのはいいけど、でも生きてるのかなぁ」

 

 もう殺されてしまったかもしれないね、と淡々と言った。

 

「だってほら、足がつくから。現に、わたしがこうやって覚えているわけだし」

「ないよりはマシな手がかりだろ。後で知らせとく」

 

 髪を編み終わり、残った蝶の飾りの留め具を確認しながら、獪岳は尋ねた。

 

「覚えてるなら恨んでんのか?」

「少しはね。だって、愛してたから。小さかったから感情に名前はつけられなかったけど、今から思うとわたしはあの人たちを愛してたと思う。泥棒でも酒浸りでも、やっぱり親だから、さ」

 

 自分を産み、名前をくれた親だから、愛していたから、傷つけられ、捨てられて、裏切られたから、恨んだ。今はもう、どうでもよくなってしまったが。

 もしも喰われていたなら悲しいが、他の鬼の犠牲者たちに向ける感情しか、抱けない。そんなことを幸は言った。

 まぁつまり、こいつは実の親をもう見捨ててしまっているわけだ。先に見捨てたのはあちらだから、獪岳からすれば今更過ぎる話だが。

 

「愛してた人に裏切られるのって、つらいからね。どうでもいい人に裏切られても、別に何とも思わないけど、特別な人は違うから」

 

 そりゃその通りだなぁ、と呟くと、何故か笑われる。

 面白くなくて、獪岳はややつっけんどんに言った。

 

「……おい、これはどっちにつけりゃいいんだよ。髪の根元か?先か?」

「根元」

 

 留め具を締めれば、翅を広げた翠の蝶が一羽、黒い髪に止まっていた。

 終わったぞ、と軽く肩を叩くと、幸は椅子から立ち上がって姿見の前でくるりと回った。

 

「ん、ありがとう。似合う?」

「知るか」

「あなたはそこで嘘でもいいから似合うと言えないのか」

「お前相手に世辞言ってどうすんだよ」

 

 人の心のわからないやつ、と舌を出された。

 言葉が戻ると、前より五倍くらいうるさくて生意気だ。

 どうして自分は、こんなやつの瞳に見惚れて、魅入られてしまったのか、甚だ疑問だった。

 

「いきなりため息ついて、どうした?そんなに髪を編むのが難しかった?」

「ンなわけねェだろ。いいから先生の手紙だ。さっさと読むぞ」

 

 幸は椅子に座り、獪岳は寝台に座る。

 開いてみれば、中には無事を言祝ぐ文がある。

 上弦の弐と戦い、それでいて死者も出さず、生き延びたことを心底喜んでくれていた。

 

「誇りに思う、だって。よかったね」

「……ふん。当然だろ」

「あ、わたしのことも書いてある。嬉しいなぁ」

 

 獪岳も幸も、どちらも体に気をつけろ、という言葉が紙の上に綴られていた。

 その部分の文字を指さして、幸は目を細めた。

 

「手紙もらうのって、嬉しいんだねぇ。目の前にいない人の言葉が届くんだからさ」

「そうかよ。お前はへったくそな手紙書いてたけどな」

「元を正せば、どこかの誰かが意地張って会おうとしなかったからじゃないか。って、ちょっと待って!獪岳、あれの中身を読んだの!?」

「不死川が見せてくれたぞ。お前の下手な手紙をな」

「不死川君、何してくれてるんだ……」

 

 不貞腐れたように腕組みをした顔がおかしくて、獪岳は喉の奥で笑った。

 

「わたしの手紙のことは置いておこう。獪岳、ちゃんと返事書くんだよ。あなた、半月は音信不通の意識不明で、重体だったんだから」

「わかってるっての。ったく、お前、喋れるようになったらほんとうるせぇんだな」

「元からこんなものだったと思うけど」

「元っていつだよ。十年前だってんならお前、七歳児と変わってねぇことになるぞ」

「なんだとこの十八歳児」

 

 こいつ、と腹立たしくなって拳を握るが、どれだけ華奢に見えても、幸は鬼の腕力と脚力を持つのだ。

 素の殴り合いだと、人間は鬼に、まず勝てない。獪岳は、渋々拳を下ろした。

 

「獪岳、何かあった?いや、絶対何かあっただろう。善逸君と喧嘩した?」

「してねぇよ。なんであんなカスと」

「でも何かあったでしょう」

 

 薄暗い部屋の中で、大きな金の瞳が獪岳を見ていた。この目で見られるのは弱い。というより、獪岳がこの瞳に弱くなった。

 こいつの瞳は、血鬼術か。

 

「……炎柱に、継子にならねぇかって誘われたんだ」

「ならないの?」

 

 即切り返され、獪岳は黙った。

 椅子から降りた幸は、寝台に座る獪岳の前で膝をついた。

 獪岳の顔を、金の瞳が見上げる。

 

「あなたの戸惑う理由はなに?」

「は?」

「獪岳は迷ってる。それはどうしてかと聞いている」

 

 幸は一度言葉を止めてから、ゆっくりと言った。

 

 ────壱ノ型が、できないから?

 

 咄嗟に立ち上がりかけた獪岳の額を、幸の指が押さえた。

 そこを押さえられれば、立ち上がれなかった。幸はまったく力など入れていないようだが、それでも立てない。

 

「人の話は、最後まで聞いて。……わたしは鬼だけど」

 

 真っ直ぐ、なんの曇りもない瞳で、幸は獪岳を見ていた。

 

「壱ノ型ができない自分が許せなくて、霹靂一閃を諦めたように思えて、躊躇っているのかと思った。獪岳。あなたは乱暴で頑固だけど無法者ではないし、努力家だから」

「……お前それ、褒めてねぇな」

「褒めるつもりで、言っているわけじゃないから」

 

 幸は音もなく立ち上がり、獪岳の目を覗き込んだ。

 

「獪岳、強くなって。その躊躇いは、捨てて。そうでないと、また死ぬだけだよ」

「死んでねぇだろ」

「確かに、わたしたちの誰も死んではいない。でも、何度も殺されてるも同じだ。わかってるでしょう。そんな敵を、殺すんだよ。殺すと決めたんだよ。あなたが、霹靂一閃を何度も、何度も何度も練習していたことは知っている。そのために積み重ねた努力も見ていた。だけどそれでも、強くなって」

 

 何を迷っているんだ、と幸はほとんど囁くように言う。

 強いやつ、と不意に思った。

 情が強くて、その瞳は底無しのようだ。

 こいつが鬼と化しても人を喰わなかった理由も、ひょっとしたらそこにあるのかもしれない。

 

「チッ。わぁってるよ。別に迷ってねぇよ。あのクソ野郎を殺さなくちゃなんねぇのは、わかってんだよ」

 

 獪岳の理由は幸のそれとは異なって、金色の瞳が欲しい、という私欲が入っているが、幸は額から指を離して腰に手を当てた。

 

「ふーん。だったら、ちゃんとお師匠さんに手紙でこれこれしかじか炎の呼吸を教わることになりましたって、手紙を書くんだよ」

「……」

「こら、そこで面倒くさいって顔しない」

「いちいち口うるせぇんだよ。お前竈門に似て来てんぞ」

「わたしはあの子ほど察しは良くないよ」

「どうだか」

 

 鼻で笑って、獪岳は立ち上がった。

 

「俺は木刀振って来るからな。お前、騒ぎ起こすんじゃねえぞ」

「了解したよ。頑張れ剣士。髪結んでくれて、ありがとう」

 

 椅子の上に座り、片手をひらひら振る幸に背を向けて、部屋を出ようとしたとき、ふ、と獪岳は昔親しんでいた気配を感じた。

 幸を振り返ると、こちらも扉の外を見ている。

 

 今度は流石に、蟲柱のときのように気配を逃したりは、しなかった。

 

「来たのか、あの人。思ってたより早かったな」

「来たみたいだね」

 

 弾みをつけて、幸が椅子から飛び降りた。

 きらきらと、瞳が輝いている。

 

「お前が扉開けろよ」

「どうして。一緒に開けようよ。そのほうが行冥さん、喜ぶよ」

 

 ぐい、と幸に手を握られ、引っ張られた。

 会いたがっていたのはお前であって別に自分は、という一言は、結局喉の奥で声にならずに埋もれ、手は振りほどかなかった。

 たまには、こいつに付き合ってやってもいい。

 気配が段々と、近づいてくる。

 扉の前で気配が立ち止まったとき、幸が、がらりと引き戸を一気に横に開いた。

 

 廊下にはまだ斜陽の光が残っていて、その光を背負って、悲鳴嶼行冥の、あの大きな姿が立っていた。

 気配くらいあちらも読めていたろうに、幸の声に驚いたように固まっている。

 

「行冥さん!」

 

 言って、叫んで、幸がなんの躊躇いもなく兎のように飛びついた。

 一緒に手を繋がれたままの獪岳も、振り回されて体当りするような格好になる。

 巌のような体は、二人分の重さを受け止めても小動ぎもしなかった。

 離れる前に、上から大きな手が頭の上に優しく乗せられて、獪岳は固まった。

 

「獪岳に……幸、か?」

 

 悲鳴嶼は、どこか戸惑っているようだった。

 そういえば、幸が一晩で七歳から十七歳に姿が変わったことは、伝わっているのだろうか。知らなければ混乱しきりだろう。

 

「悲鳴嶼さん。こいつな、昨日起きたときに体がでかくなったんです」

「そんなことが……あったのか」

「あったんです。て言ってもなァ、中身は普通の十七歳のうるせぇやつなんで。あと、もうこの手、こいつはともかく俺はいいですよ。退けてくださいって」

 

 チビで泣き虫の幸ならともかく、自分が誰かに頭を撫でられているところを見られたら、必ず見たやつを殴り倒す。

 これが自力で外そうにも、外れないのだ。

 幸は隣で悲鳴嶼の服に顔を埋めて、黙っている彫像になってしまったし。

 

 それだけ会いたかった、ということなのだろう。

 ふぅ、と獪岳は息を吐いた。ようやく、頭から手が離れる。

 

「幸、獪岳。今日、私はどこにも行かぬ。お前たちの話を聞くために来たのだ。部屋に戻りなさい、幸。西日でも、お前にはつらいだろう」

 

 日は落ちきったわけではなく、廊下は徐々に斜陽で茜色に染められている。

 鬼である幸の体は、やはり日に触れれば崩れてしまうのだ。

 

「おら、早く離れろって。火傷したいのかよ」

「……してもいい」

「よくねぇんだよ、ばーか」

 

 べりっ、と猫の子にするように、獪岳は幸を悲鳴嶼から引っ剥がした。

 

「獪岳……もう少し丁寧にできないのか。お前は前々からそうやって……」

「俺なりに丁寧にしてますよ。こいつが頑固なんだから」

 

 部屋に戻って、戸を閉める。

 三人、椅子の上や寝台の上に適当に座った。幸は悲鳴嶼に頭を撫でられて、幸せそうである。

 

 それでも、師匠のときのように泣きはしないのだな、と獪岳はその様子を見てぼんやり思った。

 てっきり悲鳴嶼の顔を見た瞬間、泣くくらいはすると思っていたのに、幸は一滴も涙を溢さなかった。

 昔の話をして、獪岳と藤の花山で会ったときの話をして、そこからどうやって鬼狩りをしていたかを話して。

 

 一度も、泣かなかったのだ。

 幸の話を、悲鳴嶼は何度も頷きながら聞いていた。獪岳はそれを、黙って見ていた。

 あれこれは喋るのは面倒であったし、かといってこの状況で部屋を出ていくとなると、後で必ず幸に何か言われそうだ。

 頭を撫でているときに、獪岳がつけてやった胡蝶しのぶからの髪飾りにも気が付いたらしく、そのときに一度、大きく目を見開いた。

 

「幸、お前は、これからも鬼狩りを続けるのか?」

 

 言葉の裏に何か痛みがあるような気がした。

 悲鳴嶼は、覚えているのだ。

 小さくて、気は強いがよく泣いて、体が弱くて、脚を引きずっていた、そんな幸を。

 しかしそれは、この世で知っている者がもう二人だけになってしまった、人間だったころの幸だ。

 

 ここにいるのは、あのころの幸ではない。人間でも、なくなってしまった。

 

 それでも、悲鳴嶼にとっては、そちらの記憶の中の姿の幸をよく覚えているのだろう。

 というより彼の中では幸という少女の姿は、死んでしまったときの幼い形のまま、長い間その時を止めていたはずだ。

 それがいきなり生きて動いて、鬼になって現れて、鬼狩りをしていたと来た。戸惑いがないほうが、おかしいのだ。

 一年以上も、幸と共に狩りを続けていた獪岳は、最早何とも思わなくなってしまっていたが。

 

 多分、幸も言葉の揺れに気づいたのだろう。

 盲目の悲鳴嶼の目を、正面から見て、短く言った。

 

「続けます。わたしはずっと、獪岳と鬼狩りを続けます」

「ま、そういうことです。悲鳴嶼さん」

 

 あの上弦の鬼を必ず殺すために、とは言わなかった。

 

「……そうか。では、よく任務に励めよ、幸。鬼で、血鬼術を使えると言っても傷つけば痛みもあり、限界は存在するのだろう。それから獪岳、お前もだ。あまり幸の術に頼りすぎてはならないと肝に命じて置くべきだ」

「わかってますよ。散々死にかけた後ですしね」

 

 言うと、げし、と幸に脛を軽く蹴っ飛ばされた。

 

「何すんだてめぇ!」

「憎まれ口しか叩けないのかあなたは。他に言うことがないの?」

「一回この人とは喋ってんだよ俺は!お前が呑気に寝てるときにな」

「ずるい。ずーるーいっ」

「ずるくねぇ。寝てたお前が悪い」

 

 は、と鼻で笑う。

 笑ってやって、ふと悲鳴嶼の顔を見ると、彼は滔々と目から涙を流していた。

 合掌したまま、盲いて白い目から涙を流しているのだから獪岳は面喰う。

 

───そういえば。

 

 この坊さん、とても涙もろかったのだと、獪岳は今更のように思い出した。

 転んだ子どもを見ても、幸せそうな家族を見ても、嬉しかろうが哀しかろうがよく泣いている人だったのだ。

 他人のことでいちいち泣くなんて、なんと変な人間だろう、とあのころは思ったし、今もそう思うのだが。

 ちらりと幸を見ると、ぺろ、と舌を出して片目を一瞬瞑っていた。

 

────こいつ。

 

 さっきのやり取りはわざとか。

 獪岳は思いきりダシにされた、ということであるらしい。

 しかも、悲鳴嶼の涙はまったく止まる気配がなかった。

 そこまで泣くとは思っていなかったのか、最初見ているだけだった幸もやがてあわあわと布や水を探し始めるし、まさか十年分泣く気じゃあるまいな、と獪岳は天井を仰ぎ見る。

 

 悲鳴嶼行冥の涙が止まったのは、それから十分後のことであり、そこからまたあれこれと話をして、彼が帰ることになったのは、数時間後のことであった。

 慌ただしいと思うが、激務を背負う柱が、ここまで時間を割いてくれたこと事態、異例のことだ。

 そのころにはとっくに日が落ちており、獪岳と幸は蝶屋敷の門のところにまで、悲鳴嶼を見送りに行った。

 名残り惜し気に幸と獪岳の頭をまた撫でて、夕闇に消えていく広い背中が遠ざかって見えなくなるまで、幸はやはり泣かなかった。

 振っていた手を下ろした幸は、獪岳の視線に気づいたらしい。上目遣いに獪岳の方を見上げて来た。

 

「なに?」

「別に、なんでもねぇよ。泣き虫のくせに、先生のときみてぇには泣かないのかって思っただけだ」

「それ、全然なんでもない話じゃないと思うんだけど」

 

 天邪鬼なんだから、と幸は肩をすくめた。

 すくめてから、ぽつりと言った。

 

「泣けるわけ、ないじゃない。今更だよ」

「は?」

「なんでもない。それよりもう夜だよ。夕飯食べてきたら?お腹減ったんじゃないの」

 

 踵を返し、母屋の方へと歩き出す幸の髪には、翡翠の翅を広げた蝶の髪飾りが光っていた。

 その背中がどうしようもなく小さく見えて、獪岳は追いかけた。

 

「おい。今更ってなんだよ。俺にまで隠し事すんじゃねぇ」

「別に、なんでもないよ」

「なんでもないわけないから聞いてんだ」

 

 土を踏んで振り返り、立ち止まった幸が獪岳を見上げた。

 

「珍しいね。獪岳が、他人をそんなに気にかけるなんて」

 

 それは本当に、幸にとっては何でもない一言だった。

 瞳には何の色もなく、声も平らかだ。

 わかりきったことを言っただけ、という自然さがあった。

 

 それなのに、他人、という言葉で胸を刺されたようだった。 

 君は、あの子に何かをしてあげたのかい、という上弦の弐の嘲笑う声が、耳の奥に蘇る。

 あの夜からずっと心の何処かに刺さっていた棘が、この瞬間に幸の一言で深く押し込まれたようだった。

 

「獪岳?」

 

 すぅ、と音もなく幸が近寄って来る。

 立ち竦んだ獪岳の前に来て、下から顔を見上げている。

 自分の言った言葉に気づかず、ただ当たり前のように獪岳を気遣う色がそこにあった。

 

 どうしてこいつは、こうも人の目を真っ直ぐに見ることができるのだろう。

 どうしてそこまで、人として正しく在れるのだろう。

 

「……他人扱い、すんじゃねぇ」

「え?」

「お前が、俺を、他人扱いすんじゃねぇ」

 

 その言葉を口にした途端、獪岳は何かが怖くなった。

 これまで幸に何をしても何を言っても、怖いと感じたことはなかった。

 

 それなのに、今は。

 もしも、もしも今、自分が人であることを惨い形で奪われたのはお前のせいだと、そんなお前など他人だと、そう突き放されるかもしれないと考えると、それがひどく恐ろしかった。

 

 人のそれではなくなった黄金の瞳が、刀のように細くなる。

 く、と喉の奥で幸が弾けるような笑い声を上げたのはそのときだ。

 呆気にとられる獪岳の前で、幸は身を折って笑っていた。

 

「違うよ。全然違う。獪岳が他人だったことは一度もない。勘違いだよ」

「は?」

「あのね、わたしは、獪岳にとってのわたしは他人かなと思ってたの。わたしにとってあなたが他人じゃなくとも、あなたがわたしをどう思っているかは、まったく違う話でしょう?」

 

 そんな死にそうな顔で尋ねなくてもいいのに、と幸はくつくつと笑いながら告げた。

 かぁっ、と頬が熱くなるのを感じた。

 とんでもなく勘違いして、阿呆のような台詞を吐いたことになる。

 さっきの言葉、思い返すと、まるで捨てないでくれと縋った女のようではないか。

 言われたほうはといえば、笑い過ぎて目尻に浮かんだ涙を袖で拭っている始末。

 

「あー、おかし。獪岳の今の顔がいとおかし」

「テメッ……!忘れろ!今のは忘れろ!全部だっ!」

「わたしの体質を忘れたか。残念ながらあなたの間抜け面は、わたしが死ぬまで忘れられない記憶になったぞ。よかったな」

「何もよくねぇよ畜生が!」

 

 叫びながら気づいた。

 他人へ自分が向ける感情と、自分が他人へ向ける感情。その二つに食い違いがあるのは当たり前だと、幸は言った。

 獪岳が自分へ向ける感情が、仮に他人へのそれと同じくらい薄いものであっても、幸は気にしなかったろう。

 気にせずに、やはり今までと同じように獪岳を助けていただろう。

 何の見返りも、そこに求めていない。

 

 獪岳には、理解できない生き方だった。

 

「今度はなんでそんな珍妙な顔になるんだ。わかったよ。他人じゃないし他人になりたくない獪岳にはちゃんと言うよ。あのね、行冥さんの前で泣いたら、絶対あの人は慰めてくれたでしょう。それが駄目なんだよ」

「駄目?」

「うん、駄目。慰められたくない。受け入れられない。それだけ」

 

 とにかく駄目だから、と幸は念押しした。

 幸にしては珍しい、はっきりした拒絶である。しかも相手が、あの坊さんときた。

 

「……やっぱり俺には、お前のこと一生理解できそうにねぇな」

「わたしにも、獪岳の頭の中なんてわからないよ。でもわからないなりに、やっていくしかないでしょう。一人だと足りないんだから」

「あの鬼を殺すため、か?」

「そうだよ。殺すため」

 

 幸は、躊躇いなく頷いた。瞳がまた、焔のように燃えている。

 あの上弦の鬼への純粋な殺意を宿したとき、黄金の瞳は最も美しく見えるのだ。獪岳が欲しいと思った光が、そこにあるのだ。

 変なものに見惚れて、魅入られてしまったものだと、自分でも思う。

 

「獪岳。話はもういいじゃない。夕飯食べて来たら?食べたらまた、稽古しようよ。あなたもわたしも、強くならなきゃいけないんだよ」

 

 くるくるり、と胡蝶の髪飾りと瞳を光らせて、幸は歩き出した。

 

「強く、なァ……」

「そう。強くならなきゃ。殺すために、死なないために」

 

 ね、と大切な約束でもするように唇に指を当て、幸はほんの少し首を横に傾ける。

 小さいころから変わらない仕草なのに、初めて見たかのような妙に目を奪われる艶がそこにあって、獪岳はつい視線を逸した。

 

「おいこら。こっちを向いてよ。あなたに目を逸らされると悲しいぞ。わたしの他人になりたくない獪岳」

「お前それ忘れろって言っただろうが!」

「やぁだよ」

 

 あはは、と軽やかな笑い声を上げ、幸は高々と跳んで屋敷の屋根の上に乗った。

 上り始めた月を背に、思わず見惚れるような笑顔を獪岳に向けて見せ、幸は止める間もなく屋敷の向こうへ跳び去る。

 

 後には、一人獪岳だけが残された。

 あの分だと、恐らく獪岳が飯を食った後あたりでひょいと現れることだろう。

 

 強くならなきゃ、という何の衒いもない言葉の余韻が、そこらの空気の中に溶けて、漂っているようだった。

 

「強く、な……」

 

 強くなって強くなって、あの鬼を殺す。そのために生きる。

 そうやって進んでいき、仮に殺したその後、あの少女の瞳に宿る炎は、一体どうなるのだろう。

 彼女自身は、一体どうなるのだろう。

 

「わかんねぇなぁ」

 

 そこまで考えて、獪岳は頭を振った。そんな心配、後からいくらでもすればいい。

 今の自分たちは、羽虫のように叩き潰されかけ、すんでのところで救われた、ただの弱者だ。

 

 強くならなければならない。

 何かを諦めても、何かを捨てても。欲するものがあるならば。

 

 そう思って、獪岳は空を見上げ虚空に片手を伸ばした。

 

「……すみません、先生」

 

 あれだけ努力して、ついぞ手にすることができなかった、霹靂一閃。

 先生の特別になりたくて、認められたくて、手に入れたかったあの技。

 雷の呼吸のすべてを捨てるのでは無論なく、諦めたわけでもない。

 しかし。

 

「今の俺だと、雷の呼吸だけだと、あれは殺せないんです」

 

 半分とはいえ、雷の呼吸の継承権を持つ者が他所の呼吸を扱う者の弟子になるというのは、咎められるかもしれない。

 それでも、許されなくとも、強くならなければならない。いざとなったら、土下座でも何でもすればいい。

 少なくとも、ひとりぼっちで泥水を啜って生きていたころよりは、今の自分は何百倍もマシだろう。

 

 そう思うと、腹の底から笑いの粒がせり上がって来た。さっきの幸のように、喉を押さえて獪岳は、ひとり笑う。

 

 ひとしきり笑って、獪岳は口元を拭った。

 

 今のやり取りで、どこかが強くなったわけではない。何かが変わったわけでもない。

 それでも、自分が何かを手に入れたという感覚はあった。

 それをもう二度と誰にも奪われないよう、壊されないよう、強くなる。

 そんな決意と想いが、自然と湧いてきた。

 

 確かな足取りで屋敷へ向かう少年を、満月が静かに照らしていた。

 

 

 




【コソコソ本音話】


 獪岳。

 ありがとう。

 獪岳は多分、何とも思ってないんだろうことが、わたしにはあるんだよ。

 藤の山でわたしを見つけてくれたときのこと。
 あなたが思うよりずっと、わたしは嬉しかったんだよ。救われたんだよ。

 鬼のわたしに、ついてこいって言ってくれたこと。
 それでどれだけ救われたかなんて、ちっとも気づいてないんだろうね。

 だから、あなたのことを唐変朴と言ったんだ。

 うん、獪岳がね。鬼を自分のために利用したかったって理由はわかってる。

 それでも、それでもね。
 ここから出ていいって言ってくれたのは、あなただけだったから。

 だから、ありがとう。

 それから、ごめんね。

 わたしの復讐に、引き込んだこと。

 獪岳は、やっぱり気づいていないんだろうけれど、あなたは欲しいものがあると、瞳の奥がどろりと溶けるんだ。

 昔、お金持ちとか、美味しそうな食べ物とか、そういう、手に入れたくても手に入らないものを見かけたとき、どろりと溶けていたの、わたしはよく覚えてる。

 だから、わたしの目を見たときにあなたの瞳の奥が溶けたのを、知っているよ。

 わたしの復讐は、わたしのものだけにすべきなのにね、この瞳が獪岳の欲しいものになって、そこ瞬間にあの鬼への殺意が獪岳の中に生まれたんだってこと、わたしは知っているのにね。
 
 わたし、あなたの手を、取ってしまったよ。

 一人が、嫌だったから。


 ごめんね、獪岳。

 それから、ありがとう。

 ずっとわたしを覚えていてくれて、ありがとう。
 

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