では。
蝶の髪飾りをくわえて逃げた猫を捕まえたのは、人の気配が途絶えた、街外れの破れ屋の中である。
消えたり現れたりと、巧みにちょこまかと裏通りを走って行く猫を追い詰め、ようやく掴み上げたと思ったら、そこは街外れの荒れた空き家の中だったのである。
板が所々に打ち付けてあり、家の中は薄暗かった。
「手間かけさすんじゃねぇよ」
首根っこを掴んで持ち上げると、猫は素直に口を開けて、獪岳の手に髪飾りを置いた。
胸元に貼り付けられていた、目玉に似た模様が描かれていた紙がはらりと落ちる。
名前札にしては、珍妙すぎるものである。
「本当にこれで釣れるとはな」
急に間近で聞こえた見知らぬ声に、体が先に反応した。
猫と飾りと箱を床の上に落とし、刀の柄に手をかける。
声のあった方向に抜刀すれば、しかしそこには誰もいなかった。
「おい、その刀を仕舞わないか」
逆の方向から不機嫌な声が飛ぶ。
見れば、箱を持った見知らぬ男がひとり立っていた。猫がその足元に擦り寄り、獪岳に向けてぎゃお、と不満げに鳴く。
「お前、炭治郎に比べると勘が悪いな。鬼狩りというのは皆こんなものなのか?」
炭治郎の名に、獪岳は斬りかかろうとする自分を止めた。
目の前の若い男の気配には、妙なものがある。だが、人を喰い殺して来た鬼特有の嫌な気配というものは、なかった。
幸や竈門の妹のような人を喰ったことのない鬼の気配と、そっくりなのだ。
着物に袴を身に着けた、書生風の身なりの若い男である。外見の歳のころは獪岳と同じほどだろう。
額に皺を刻んだ端正な顔には、ありありと不満が浮かんでいたし、何よりも胡散臭いが、殺気や人の血の臭いはなかった。
「あんた、鬼か?」
「その程度はわかるのか。ついてこい。お前たちに用がある」
見せつけるように幸が入った箱を振って、青年は勝手知った様子で荒れ屋の中を歩き出した。その後を猫が追っていく。
「早くしろ。珠世様の時間を無駄に取らせるな。お前たちのために、わざわざ血鬼術まで使ったんだ」
「どういう意味だ」
「お前の連れているその女、人を襲いかけただろう。珠世様がその女を診ると仰ったんだ」
珠世、という名前がまた記憶を刺激する。
時々幸や竈門炭治郎が言っていた、鬼を人間に戻す薬を作ろうとしている医者の名前である。
何度か幸は血を送っていたらしいが、会ったことはないはずである。当然、獪岳も顔など知らない。
敵ではないその医者が、何故現れたのだ。
「おい!」
「……わかった。ついて行くから、それを返せ」
刀を鞘に納め、両手を広げてから獪岳は青年が持っている箱を指さした。
それを他人に取られたままなのは、気分が悪い。
「ふん。言っておくが、これを返したからと言って俺を斬ったりするなよ。尤も、目隠しの術をかけてあるから、お前には俺を斬ったりできないだろうがな」
青年は不機嫌そうな表情を崩すことなく、箱を突き出した。
言い草に腹は立ったが、珠世というその鬼は信用できる名前ではあった。
あっさり箱を返してきたことといい、少なくともこいつに敵対の意思はないらしい。
人の顔色を常に上目遣いに伺い、生きてきた時間が長いのだ。自分に向けられる敵意のある無しは、見抜ける。
箱を肩に負って落とした髪飾りを拾い、青年の後をついて行く。彼が向かったのは、下へと続く階段だった。
この青年もやはり鬼で、太陽の光は天敵なのだ。
階段を下り、辿り着いた部屋には椅子に腰かけた一人の女がいた。
「初めまして。突然あのような方法で呼んでしまって、ごめんなさいね」
着物の上から、医者が着るような白い服を羽織った若く、美しい女である。
気配に、やはり、そこらの鬼とは異なった何かがあった。
「あんたが、珠世って鬼なのか?」
直後、青年の肘がかなりの勢いで獪岳の脇腹に入る。
ちょうど痛めていた肋骨に肘が諸に突き刺さり、獪岳は思わずしゃがみ込んで呻いた。
「お前!珠世様になんて口を利いているんだ!」
「やめなさい。愈史郎。どうしていつも暴力を振るうの。炭治郎さんのときのように」
「はいっ!すみませんっ!」
女にやわらかい口調で咎められると、別人のように背筋を伸ばした青年、愈史郎を、獪岳は下から睨み上げた。
なんなのだこいつは。
愈史郎という鬼の青年が、獪岳の中で嫌いな相手に振り分けられた瞬間だった。
「あなたが、珠世さんという鬼です、か?」
「ええ。あなたは獪岳さんでしょう。炭治郎さんからの手紙で、何度か名前を見かけましたから」
座って下さい、と珠世は椅子を示した。
座る気はあまりなかったのだが、愈史郎が拳を構えたのが見え、ひとまず座ることにする。
四角い地下室は、人が住んでいる気配こそないが、目立つような埃はなく綺麗に整えられている。椅子や寝台もあり、即席で作られた病院に見えた。
「やり方が唐突になってしまったことは謝ります。知っておられると思いますが、私は長年鬼を人に戻す薬を作って来ました。鬼ではありますが、医者でもあります」
「竈門や幸から聞いてます。幸が、何度かあんたに血を送ったと言ってたんで」
「ええ。彼女は炭治郎さんから私たちの話を聞き、協力してくれていました。……ですが、私も一度幸さんを直に診察したいと思ったのです」
この珠世という医者も、かつて鬼舞辻の血によって鬼と化したが、自分で自分の体を弄り、鬼舞辻の呪いは外しているのだと言う。
竈門の妹も一度診察したことがあり、そのときの記録や血、また炭治郎が送って来る鬼の血なども併せて研究することで、鬼を人から戻す治療を確立しようとしているのだ。
その一環で、一度幸の診察もできないものかと、こちらに会う機会を伺っていたのだと言う。
獪岳は監視されている気配などまったく感じていなかったのだが、そこは愈史郎の視覚に作用する血鬼術を使っていたそうだ。
「あなたたちが、あの里でどのようにして、何と戦ったかも見ていました。何も手助けができませんでしたが」
痛ましそうに、珠世が目を伏せる。
声音には本当にこちらを気遣っている色があり、不快ではなかった。
「俺たちのことを見てたってんなら、医者のあんたには、幸がああなった理由もわかるんですか?」
「それを含めて、一度幸さんを診たいのです。幸さんが鬼になったのはいつですか?」
「……十年前です。俺が八つで、こいつが七つのころだから、大体そんなもんです」
珠世の目が大きく見開かれる。
「俺がこいつといるのは一年少し前からですが、そのときから今まで、こいつがあんなふうになったことは一度もなかったんです。理由があるなら、教えて……ください」
「おい、十年前に鬼にされたなら、九年間もそいつはどこで何をしていたんだ?」
黙りこくっていた愈史郎が、腕組みをして尋ねてくる。
話には混ざらないつもりなのかと思っていたら、そういうわけでもないらしい。
「……藤襲山で、鬼殺隊の最終選別に使われる鬼になっていた。俺と会ったのも、最終選別のときだ」
「なんだそれは。それじゃその女は、お前が見ていないときに人を喰っているかもしれないじゃないか」
「喰ってない」
「根拠は」
「こいつが、喰っていないと俺に言ったからだ」
信じられるか、と愈史郎が鼻を鳴らした。
「お前、言ってることが滅茶苦茶だぞ。要するにその女が言ったことをただ信じているだけじゃないか。その女が嘘をついていなくても、さっきのように怪我をして狂っていたときに喰っていないと言えるのか?」
「うるせぇ」
確かに、証拠も糞もない話なのだ。
竈戸は鼻で幸が人を喰っていないにおいを嗅ぎ分けたらしいが、九年も前のにおいまで嗅ぎ分けられるのかはわからない。
それでも、最もひどい飢餓に苛まれただろう九年前の夜、幸は寺を襲わなかった。寺を襲って子どもたちを殺したのは、他の鬼だ。
詰まる所、喰っていないというただの言葉を、信じる以外にないのだ。
「わかりました。そのことについては、ひとまず別のことと考えましょう。幸さんが我を忘れたのは、二度頭を撃たれ、それからあなたが銃で狙われたのを見た、その瞬間だったように見えましたが、間違いありませんか?」
「ない……と思います」
一度目に頭をふっ飛ばされたときは、まだ正気を保っていたように見えた。
やめてとかなんとか、そんなことをあの里人に言おうとしていたのだろう。
二度目に撃たれてからも、その場で蹲り自分を抑えようとしていた。
箍が外れたように人に襲い掛かったのは、あそこの人間たちが獪岳に銃を向けた瞬間だった。
「……そうですか。獪岳さん、幸さんは確か、一度記憶したものを忘れないという体質だそうですね」
「関係あるんですか?」
「あるかないかは、まだはっきりとはわかりません。では、幸さんを診察して構いませんか?」
珠世の視線は、獪岳が足元に置いた箱に向いていた。
幸はまだ、箱の中で眠っている。決められるのは獪岳しかいなかった。
起きていたらどういうのか、などということは考えない。獪岳が勝手に決めるし、勝手にやる。
箱を珠世の方へ押し出して、頭を下げた。
「それ、頼みます」
誰かに何かを頼むために、頭を下げたのは一体いつぶりだったろうかと、そんなことをちらりと考えた。
「お前、あの女のなんなんだ?」
診察しますから、と部屋を出された獪岳は、不機嫌そうな愈史郎と隣の部屋にいる羽目になった。
この愈史郎という青年は、鬼舞辻ではなくあの珠世の手によって鬼に変えられたという。
飢えを満たすには少量の血で事足りるし、血鬼術も相手の視覚を操り、目くらましも行えるという優れものだそうだ。
先ほどの猫にも、愈史郎が術をかけており、時々消えたり現れたりするように感じたのは、錯覚ではなく本当に血鬼術でそうなっていたという。
ばかすかと人を喰わねばならない鬼舞辻の手による鬼たちよりも、よほど優秀ではないだろうか、と獪岳は首を捻ったが、愈史郎一人を鬼にするのに二百年というから、おいそれとできることではないらしい。
となると、どう見積もっても二百歳以上になる珠世の年齢を考えるのはやめた。鬼はやはり、人とは違う生き物になっているのである。いずれ幸も、あんなふうに残されるのだろうか。
そして、その珠世により鬼化した愈史郎は、やたら獪岳に突っかかって来た。
部屋に入るなりそんなことを言うものだから、獪岳も毎度の仏頂面で応じる。
「お前とあの女は血縁ではないだろう」
「どうでもいいだろ、そんなこと。幼馴染みだよ、幼馴染み」
「惚れたのか?」
「ちげぇわ、阿呆。色呆けなテメェと一緒にすんじゃねぇよ」
「どういう意味だ!」
どうもこうもない。
どう見てもあの珠世という女に傍目からもわかるほど心酔しておいて、何を今更という話だ。
白い目を向けると、顔を真っ赤にしつつも愈史郎はふんと鼻を鳴らした。大分、感情が面に出やすいらしい。
「惚れてもいない、鬼になった幼馴染みを利用しているわけか、お前は」
「あいつが、俺に大人しく利用されてるような馬鹿ならそうしてたな」
あれが、そんな可愛らしい性格なものか。
家族を殺した上弦の弐を殺したいと望み、その為ならば自分が地獄に堕ちても構わない、鬼の力でもなんでも使ってやると、殺されかけた後すぐに覚悟を決めたようなやつだ。
思い切りが良すぎるし、情が深いし
とはいえ誰が馬鹿と言ったら、復讐心で燃え上がったその瞳に見惚れて、その瞳に映っている上弦の弐を消したくなり、自分を勝手に突き放さずに地獄への道連れにしろと言った獪岳もだろう。
馬鹿さ加減は大概という自覚はあったが、それでもあの黄金の瞳に、あの糞がいるということへの怒りが、獪岳の中の常識に僅かなりとも優ったのだ。
だからこそ、こんなことになっているわけなのだが。
それにしても、珠世の診察というのはいつ終わるのだろうか。一晩山の中を走って里で戦ったせいか、頭が眠気で鈍くなっている自覚があった。
空腹は携帯食を食べれば治まるが、眠気は寝なければどうしようもない。
くあ、とたまらずに欠伸が漏れた。
「おい、あんた、床の隅、借りるぞ」
「何をするんだ」
「寝る」
「は?」
「寝るっつったんだ。こちとら寝てねぇんだよ」
愈史郎の返事を待つのももどかしくなり、刀の鞘を背から外し、部屋の片隅の床の上に腰を下ろす。
埃っぽい上、地面の冷たさが直に伝わる板敷きの床だが、屋根もない泥の中で眠るよりは何倍もいい。
「じゃあな、勝手に起きるからほっといてくれ」
「……」
胡乱な目つきの愈史郎の顔を最後に見て、獪岳は胡座をかき、刀を抱くようにして目を閉じる。
大丈夫、大丈夫だ、とそう思いながら意識が闇に沈んで行ったのだった。
いつものことながら、夢は良いものも悪いものも、ろくなものを見なかった。
「おい」
愈史郎の気配に、獪岳の意識はすぐに浮かび上がった。
獪岳の眠り自体は深いが、何か気配があればすぐに覚醒できる。そんなふうにできているのだ。
「おい、鬼狩り。起きろと言っているんだ。珠世様の診察が終わったぞ」
「あいつは起きたのか?」
「知らん。気配はないからまだ眠っているんだろ」
げしげしと叩いてくる愈史郎に追い立てられるようにして、元の部屋に入る。
最初に目についたのは、寝台の上で仰向けに眠っている幸だった。
ほどけて縺れて、ひどく乱れていた黒髪は丁寧に編まれて、先には綺麗になった蝶の飾りがつけられていた。
「お待たせしました。獪岳さん」
珠世はその傍らに座っている。
「……そいつ、どうなってるんですか?」
「今から説明します。座って下さい」
獪岳が椅子に腰かけるのを待ってから、珠世は話し始めた。
「幸さんは先ほど、短い時間ですが目覚めました。正気であり、私とも言葉をかわしてくれました」
初めは警戒していたが、珠世が名乗ると警戒を徐々に解き、鬼になってからの覚えている限りの記憶を珠世に話し、それからまた眠ったという。
「ごめんなさい、とあなたに伝えてほしいと言われました」
何に関しての謝罪だそれは、と頭が痛くなった。
珠世は続ける。
「幸さんと話してわかったことがあります。彼女が人を襲っていなかったのは、精神力と、もう一つ、その特殊な記憶力によるものでした」
生まれつき、幸は忘却という機能を脳に持っていない。
十七年生きてきての記憶の欠損は、鬼にされ体が作り替えられた前後のみだ。
本来、鬼になれば記憶や理性が薄れるところが、おそらく幸は体質のおかげでそうはならなかった。
人間のころに教えられた、『人を傷つけてはならない』という言葉で自分を縛っていたのだと言う。
その言葉を授けたのは、悲鳴嶼だ。
よく彼の説法染みた話を楽しそうに聞いていたし、一緒になって聞かされるはめになっていたあれか、と獪岳は思い出した。
幸は人間だったころの記憶で自分に暗示をかけ、自分を縛っていた。禰豆子にも同じく、炭治郎の師匠がかけた暗示があるという。
二人とも精神力が強靭であり、体質が特殊だからこそできたことだという。
「ですが、幸さんの特異性はそのほとんどを脳に依存しています。二度も深く脳を傷つけられ、また守るべき人間があなたを撃とうとしたことに大きく衝撃を受け、混乱したそうです。元々、幸さんは禰豆子さんよりも回復力に乏しいのでしょう。血鬼術で補って、ようやく並みの鬼と同程度の回復力と言っていましたから」
要となっている頭を撃たれ、そのときに暗示が緩み、人を襲いかけた。
だが、原因は恐らくそれだけではないと珠世は語った。
「数ヶ月前まで、幸さんは言葉や感情を表すことができず、幼子のような状態だったそうですね。そのころは今のように複雑な、人並みの十七歳と同じ情動は、なかったのでは?」
「俺にはないように見えてました。まともに喋るようになったのは、四か月前からです」
そこらの十七歳ほどの少女たちと同じように喋るようになり、姿が成長したのは、桑島慈悟郎に慰められ、上弦の弐を憎んだことがきっかけのようだった。
それまでは、幼子どころか、下手をすると獣並みの単純な言葉や行動しか取れていなかった。
鬼になってからの九年、誰ともまともに言葉をかわせなかったから、そういうものなのかと思っていた。
元には戻らないものと思っていたのだ。
珠世はそれを聞いて、どこか悲し気に眼を伏せた。
「暗示は、思考が単純であるほどよく利く場合があります。複雑な感情や強固な自我を持つ者を暗示で縛ることは、難しいのです。幸さんの場合、人並みの感情や自我を取り戻したことで、却って自分で自分にかけていた暗示が緩んでしまったのではないかと」
「……つまり、あいつが人間らしくなったから人間を襲いやすくなったってことか?」
簡単に言えば、と珠世は獪岳を肯定した。
唐突に、掌に痛みを感じた。見れば、くっきりとそこに爪痕が残っている。無意識にきつく握りしめていたのだ。
「人を喰わないようにするには、もう一度、あいつはあの白痴に戻らなきゃならないってのか?」
「お前、珠世様に失礼だぞ!」
それがどうした、と獪岳は怒鳴りつけて来た愈史郎を睨んだ。
胸がむかついていた。
ふざけるな、と叫びたかった。
何故あんな臆病者たちは、人間だからというそれだけの理由で無条件で守られ、救われて、人を守ったやつが取り戻したものをまた捨てねばならない。
何故自分たちがしようとすることは、したいと望むことは、こうも上手く行かないのだ。
─────いつも何かが、誰かが、俺たちの邪魔をする。
珠世の向こうで、幸は眠っている。
いつも失くしてばかりで、取り上げられてばかりのちっぽけな体で。
「手がないわけでは、ありません」
獪岳に前を向かせたのは、珠世の静かな言葉だった。
「幸さんが己でかけていた暗示より強いものがあれば、これからも元のままに生きていくことは可能です。それでも、あれほどの傷を頭に負わないこと、という条件はありますが」
「つまり、お前を庇ってしなくてもいい怪我をしていれば、保たなくなるぞということだ。そいつは所詮、怪我を治すだけの血鬼術しかないんだろう」
体も小さいし目方も軽い。
本来なら脚で逃げ回るしかない弱い鬼だろう、と愈史郎の追い打ちのような言葉が入る。
自分や他人の傷の治りを速くするという血鬼術は、共食いの性質を持ち、元々高い回復力を持つ鬼には無用の長物なのだ。
人間と共に戦う、などという普通ならあり得ないことを幸がしていたから、大層便利であるだけで単純に強い弱いで言えば、弱い。
攻撃に転用しているが、あれとて力をかなり無理に使っており、ひどく消耗する大技だ。
「暗示ってのは、どうするんですか?俺にやれるんですか?」
「お前に、そんな高度でややこしいことができるわけないだろう、阿呆。珠世様がやられるに決まっている」
「愈史郎!」
珠世の叱責が飛んだが、事実その通り、おいそれとできるものでもないのだという。
大体三日から五日はかかると言われ、流石に面食らった。それだけ自我がはっきりある者を暗示で縛るのは、難しいのだ。
「あなたたちがここにいることは、獪岳さんの鎹鴉にも気づかせていません。愈史郎の血鬼術で目隠しをしているからです」
「要はお前たち、今は鬼殺隊からすれば行方不明扱いなんだよ。丸一日程度だがな」
「はあ!?」
確かに珠世も愈史郎も、無惨に支配されていない医者とはいえ鬼だから、鬼殺隊からも無惨からも、逃げ隠れしなければならないのである。
愈史郎がやたら獪岳に突っ掛かったのも、鬼殺隊員を拠点に招き入れることが嫌だったからなのだ。
それでも珠世という鬼は、幸のことを放っておけなかった。
が、暗示がかかるまでずっと待っているわけにも行かない。
鬼殺隊員の任務は途切れるということがないし、あのやかましい鎹鴉は、こちらの行方不明に騒ぎまくっているだろう。
「しばらく幸さんはお預かりします。暗示が問題なくかかったことがわかれば、必ずお伝えしますから」
「そうなれば早く引き取りに来いよ。俺は邪魔者は大っ嫌いだからな」
「……わかった」
珠世と愈史郎に、獪岳は黙って頭を下げた。そんなふうに誰かに何かを頼み、臆面もなく縋ることは、初めてかもしれなかった。
獪岳だけが先に戻るときも、幸は起きなかった。寝が足りていないから仕方ないのだが、寝坊助め、となんとなく腹が立った。
「では、獪岳さん。お気をつけて」
愈史郎に、目隠しの術の範囲外にまで送ってもらう段になって、珠世はそう言った。
最後まで丁寧で凛とした鬼である。人間でも、なかなかお目にかかったことがないくらいの。
「お前は、炭治郎のようにあの女を人間に戻したいとは言わなかったな」
珠世の姿が見えなくなってから、愈史郎が問うてくる。独り言のようにも聞こえたそれに、獪岳は答えることにした。
「あいつと俺には、殺したい鬼がいる。そいつを殺すまで、幸は戻りたいと思わねぇよ」
「誰だそれは。鬼舞辻無惨か?」
「違う。上弦の弐だ」
「……身内でも殺されたか」
「お前には関係ない」
少なくとも幸にとっては、そうだ。
寺の子どもたちという家族を殺した仇、それが上弦の弐である。
鬼殺隊の人間には、珍しくもない動機だろう。生き残れる隊員には、元々鬼殺隊の家系の者か、鬼に襲われたときの恨みや憎しみで刀を取った者が多い。
翻って獪岳の恨みは、いささか毛色が違うものであるが、そんなことを愈史郎に説明する謂れはないのだ。
愈史郎も面倒な気配を察知したのか、それ以上何も言わなかった。
「じゃあな。完了すれば猫を送る。いいか、くれっぐれも見逃すな。そしてとっとと引き取りに来い」
「しつけぇな。見逃すかよ」
どれだけ念押ししてくるのだ、と鬱陶しく思いながら、獪岳は列車に乗った。
行きは二人で乗った列車に、一人で乗って帰る。
箱を抱えて向かいの座席に座り、獪岳に話しかけながら鎹鴉の頭をこっそり撫でていた少女の姿はなく、味気ない闇に沈んだ窓の外でも見るしかなかった。
二人で任務に行って一人だけで帰ったならば、蝶屋敷の面々には事情を話さねばならないのだろうか。
となると、珠世という鬼の話をどうしたものなのだろう。
炭治郎によれば、お館様は珠世の存在を知っていたらしいから、蟲柱には告げても構わないのだろうか。
説明というか、言い訳が面倒そうだと考えているうちに列車は、駅に着く。
人の流れに沿い、外へ押し出された獪岳は、そこで駅舎の側に座り込んでいる最近見慣れてしまった黄色頭を見つけた。
無視しよう、と思う間もなく、がばりとそいつは獪岳の方を見る。
元々でかい目をさらにでかくして、我妻善逸は霹靂一閃ばりの速度ですっ飛んできた。
「獪岳ぅぅぅぅ!どこ行ってたわけ!?鎹鴉が行方不明だって騒ぎまくるから、俺たちめちゃくちゃ心配したんだけどぉぉぉ!」
「うるっせえ!大声出すんじゃねぇよ、カス!」
容赦をかなぐり捨てた拳が善逸の鳩尾に入り、金髪の弟弟子はその場に蹲った。
だが、十秒も経たない間に復活し、再び立ち上がった。全集中・常中を覚えた隊士は、回復が滅法速くなるのだ。
自分の回復力を棚上げし、獪岳は善逸の立ち上がり方にドン引いた。
「とにかくちょっと!獪岳ちょっとついて来て!」
「テメッ……引っ張んなボケ!」
「ダメェ!獪岳絶対面倒だからって逃げるだろ!……って、獪岳、幸ちゃんはどうしたの!?何でいないんだよ!?」
恐ろしい力で自分を引きずっていこうとする善逸をもう一発殴って引っ剥がし、獪岳は叫んだ。
「預けて来たんだ!一々騒ぐんじゃねぇよ!」
「はい!?じゃあそれも煉獄さんたちに説明しろよ!煉獄さんちに、岩柱のオッサンが来てなんかややっこしいことになってんだよぉぉ!」
「はぁ!?」
「いいからとにかく、あの人たち何とかしろよ!」
ぎゃあぎゃあと騒ぐ善逸と共に、獪岳は一路、煉獄家への道を辿ることになったのだった。
ちょっと離脱の鬼娘の話。
だいたいこの二人、間が悪い。
本人たちが悪いわけでなくとも、何か間が悪くなるという。
究極に悪くなると単独で上弦・壱に出会うのかもしれない。