では。
小さな少女が一人、木の根本に座って空を見上げていた。
丈の足りない薄物の着物から飛び出た、細く肉のついていない手足を無造作に地面に投げ出し、ぼんやりと動かずにいるのだ。
金色の大きな瞳には、空に浮かぶ千切れた綿雲が映されていて、右手には先が土で汚れた尖った木の枝が握られている。
棒を握ったまま、少女は見るともなく空を眺めていた。こうやってかれこれ数時間、ぼう、としている。
朝飯時からお腹が減ったと腹をさすった子に自分の薄い粥を分け、腹が鳴らないように水をしこたま飲んだ。一番長くここに住んでいるから、平気だった。
住まわせてもらっている寺の仕事は終わって、日課にしている字のおさらいも地面に木の棒で済ませた。
だから、少女にはやることがなくなった。
なくなったから、ぼんやり雲の数を数えているのだ。
動くとお腹が減って気持ち悪くなるから、動かないのが一番楽だ。
「幸ぃ!どこぉ?」
それでも、名前を呼ばれたなら行かないわけにはゆかなくて、少女は木の幹に手をついて、ゆっくり立ち上がった。
右足は棒きれのようでうまく曲がらないから、どうしても動作が遅くなる。
ひょこひょこと歩いていけば、名を呼んできた仲間の女の子に手招きをされた。
「どうしたの?」
尋ねると、柱の陰に隠れているその子は、廊下に並ぶ部屋の一つを指さした。
「……また?」
「また、よ」
二人で頷き合った。
この寺に住んでいるのは、子どもが数人にお坊様が一人。
子どもは皆お坊様に拾われた子で、流行り病に親を取られたり、戦争に親を返してもらえなかったり、売られた先で逃げたり、捨てられたりと、様々だ。
お坊様────行冥さんは、そういう子を見ると放っておけない質で、だから時々子どもは増える。
金目の少女は、赤子のころ寺の前に捨てられて拾われ、六年の間ずっとここにいるから、歳は一番上でなくとも、寺で過ごした長さは一番だった。
だから自然、新しい子が来たら、彼女が面倒を見ることになっていた。
ここに来たとき荒れている子も、金色の眼でじぃっと見ていると、なんとなく落ち着き、そのうち寺に馴染んでくれる。
足が弱くて、他の子より外の仕事ができない少女には、向いている仕事だった。
尤も、そんな機会はここのところ途絶えていたのだけれど。
障子がからりと開いて、背の高い人が現れる。
目は見えていないその人は、きょろきょろ辺りを見回した。
「行冥さん」
名を呼ぶと、坊様の行冥さんはゆっくり微笑んだ。
隣にいた子が他の子どもたちに話をするためか去って行くのを感じながら、少女は行冥さんを見上げた。
「幸か」
「うん。新しい子?」
「ああ。街外れで倒れていた。私はこれから少し出てこなければならないから、頼んでもよいか?」
「うん」
こくり、と頷いた。
一人増えると夕飯が足りなくなるから、行冥さんはその分を買いに行くのだろう。
今はまだ蓄えがあるから、自分の分を削ると言い出さなくてよかった、と思う。
これで十人目、と心の中で呟いた。
行冥さんを見送って、入れ替わりに薄暗い部屋に入ると、件の子は布団の上に寝かされていた。
多分男の子で、髪の色は黒、瞳の色は閉じているからわからない。右頬と左眼を紫色に腫らしていて、下唇には切った痕。腕は、治りかけの痣の上に痣が刻まれたせいで、黄色と紫、青の斑になっていた。
殴られ、蹴られたのか、と察した。
拳や履物の跡の大きさからして、大人にやられたんだろうと思いながら、少女は子どもの額に手を当てた。
熱はない。
が、それにしては呼吸が浅く速いから、もう少し経ったら熱が出るかもしれない。前に、別の子が熱を出したとき、こんな息をしていたのを覚えていた。
冷えている井戸水でも汲んで来ようか、と考えている間に、ん、と男の子のほうがうめき声を上げた。
じぃ、と少女はそれを見た。
けぶる瞳が開かれて少女を捉え、一瞬で焦点を結ぶ。跳ね起きようとして仕損ね、彼はまた布団の上に倒れた。
「はじめまして。口はきける?」
「は?」
「あなたのけがはどこ?腹と背中に、あとは腰?」
腕で胴と顔を庇ったからそんな有り様なんでしょう、というと男の子は、薄気味悪いものでも見たようにあからさまに引いた。
最初は皆こうだから、少女はあまり気にしていない。顔にはいつも通りの、薄い笑顔が乗っているはずだ。
「……誰だ、お前」
「幸」
「あ?」
「幸福の幸とかいて、さち。名字はない。ここは寺。あなたは、行冥さ……お坊さんがひろって来た十人め」
拾って来た、の一言に男の子が反応した。
倒れていたのを連れてきたと言うなら、自分がどうなったのかわかっていないのだろう。
ここまで痛めつけられている子は初めてだが、とりあえずいつものように名を名乗ったのだが、いけなかったのだろうか。
「拾って来た……って」
「街でたおれていたから、連れてきたといわれた。ここにいてもいいし、でていってもいい。でもたぶん、あなたは夜に熱がでる。そのけがだと、半里あるくまえにたおれる」
夜の山で倒れるのは危ないから、ここにいたほうがいいと思うが、選ぶのはこの子だ。
「あなたの名前は?」
「……」
言わないのも、この子の勝手だ。
名前が無い子が来たことはないけれど、単に今まで来ていなかった、というだけかもしれない。
「ここは寺で、人買いの家じゃない。殴られることもないから」
そこまでを言って、少女は男の子の顔を改めて見た、
言えることは言ったのに、それでも男の子の瞳の奥から戸惑いや怯え、敵意がまったく薄れないから、少女は首を傾げた。
「水と布と薬、とってくる」
石みたいに黙り込んだ男の子をそこに置いて、少女は部屋を出る。
案の定、それから一刻後に男の子は熱を出して、一晩熱に浮かされることになったのだった。
十人目になった男の子は、名を言わなかった。
名が無いのではなく、言わない。
その上ろくに口をきかない。ぎらぎら光る目で、こちらを観察しているばかりなのだ。
怪我がひどいから動けないでじっとしているしかないから大人しいが、動けるようになったら大変かもしれない、と少女は思った。
それでも行冥さんは、受け入れる気のようだった。
行冥さんが受け入れると言うなら、受け入れる。追い出したら、行冥さんが悲しむ。
だから、本心で心を込めて面倒も見る。
他の子たちは、無愛想で寝てばかりの男の子をあまり受け入れたくなさそうだったけど、行冥さんの言う事ならばと渋々受け入れていた。
一人増えるからには、布団を買ってこないとならないと、久しぶりに街まで降りたのは、少女と行冥さんだけだった。
秋の終わりが近いから、他の子らは薪拾いやなんやらの冬仕度に忙しい。足が悪い少女は、どうせ大した量の薪も拾えないから、こちらの仕事に回されたのだ。
これ以上誰かを拾ってこないように見張っておいて、という意味も含まれていたかもしれないけれど、少女はそこまでは知らない。
「古道具屋、いくの?」
「ああ。さすがに、ずっと私の布団を貸しっぱなしというわけにも行かないからね」
「うん」
予備の布団など、孤児を抱えた盲目の御坊がやっている寺にはないから、あの名乗らない子は行冥さんの布団を使っていて、行冥さんは雑魚寝に混ざっている状態だ。
「ここで待っていなさい」
傾いた看板を掲げた道具屋の前で、少女は頷いた。
この店の中はごちゃごちゃしているから、足が何かを引っ掛けて壊してしまうと大変なことになる。
だからいつも、外で待っているのだ。
寒い、と薄い
いつもは夏の布団を売ったお金で、冬の布団を買っているのだ。あの子の分が一つ増えたら、どこかでお金を手に入れないとまた暮らしがきつくなる。
食卓が侘びしくなったら、他の子は面白くないだろう。子ども同士が仲良くないと、行冥さんは悲しむから、それは嫌だった。
また街に働きに出ようかな、と少女は考える。
少女は物運びはできないけれど、読み書き計算と針仕事は一通りできるから、手が空いていれば商家やお金持ちの家で使ってもらえる。
特に計算はべらぼうに速くて、学校を出た大人にも負けていないらしい。だから、帳簿付けを手伝ったりして、お金が貰えるのだ。鬼除けの藤の花のお香を買う分くらいにしかならないけど、やらないよりはいい。
着たきり雀で、痩せて膝小僧が飛び出しているような子への哀れみでもお情けでも、お金が貰えるならなんでもいい。
ちなみに、行冥さんには街に一人で出てお金を稼ぐことに難色を示されたけれど、子ども総出で押し切っている。
ただ、流石に明らかな
お嬢ちゃんならきれいなべべ着て、男の人にお酌をしていればいい暮らしができるよ、お家に仕送りもできるよ、と言われたことがあるけれど、そんな甘い言葉は信じられなかった。
悪い人は、いつも良いことしか言わない。
そんな良い話なんて、あるわけないのだ。
第一、足が悪い子どもなんて二束三文に決まっている。仕送りなんてできる道理がどこにある。
こういうときは、体が丈夫な男の子が羨ましい。男なら、兵隊さんになれるからだ。
土で汚れた自分の足先を見ていると、ふいに影が差した。
「ねぇあんた、泥棒かくまったってほんと?」
耳の奥に突き刺さる尖った声に、俯いていた顔を上げる。
目の前には着物の上に綿入れを着て、二本のお下げにリボンをつけた女の子がいた。
絹なのか、艶のある黒髪を飾る青いリボンはしっとりした光沢を放っている。少女が着ている着物のように、襟元が垢じみててらてら光っていたりしない。
その綺麗な布切れ、売ったらいくらになるのかな、と少女はぼんやり考えた。
「答えなさいよ。あんたのところに、泥棒小僧が拾われたって父さまが言ってたわよ」
にやにや笑っている女の子が一人、その後ろには似た感じの女の子が二人と、男の子が三人。
「しらない」
「そんなわけないじゃない。泥棒をかくまったなんてばれたら、あんたたちみんな役人に突き出されるわよ」
「わたしはしらない」
元々とんがった狐目をさらに吊り上げたこの子は、街で一番お金持ちの家の子だ。
周りの子は取り巻きみたいなもので、少女のみならず寺のみなし子たちを見つけると、からかいに来る。
こんな暇なことに時間を割く子でも、家族にとっては可愛い娘だから、ちょっとべそっかきになって帰ろうものなら、途端に周りが大騒ぎするのだ。
特に、この子の兄は歳の離れた妹の可愛さしか目に入っていなくて、底意地の悪さがまったく見えていないようだから、厄介極まりない。
本当なら関わり合うのも煩わしい。
でもこの子は、少女を見つけるとこうやってよって来る。
虫の死骸に群がる蟻のようなその嗅覚を、もっとマシなことに向けられないのだろうか。
今日もこの女の子は、薄く笑ったまま淡々と語る少女の言葉が気に入らなかったらしい。
偉い人みたいに反っくり返って、鼻の穴を膨らませた。
「知らないってんなら教えてあげる。そいつ、隣町でずいぶんあくどくやってた小僧よ。カイガクって変な名前の、人をだましてた盗人!」
「……盗人なんてしらない。盗られるものも、ない。気をつけないといけないのは、あなたたちの家だと思う」
盗られたら困るものが多いお金持ちのほうが、泥棒が怖いに決まっているから忠告したつもりだったのだ。
なのにやっぱり今日も、平手打ちされて顔を引っかかれてしまう。
解せなかった。行冥さんに隠せたのはよかったけれど。
「かいがく」
夕飯の、薄い粥と菜っ葉の汁物を持って行ったときに呼んでみれば、男の子は危うく白湯の入った湯呑を倒しかけた。
「お前、それ……」
「街できいた。やっぱりあなたの名前なんだ」
泥棒の名前だって聞いた、と続けると男の子、改めかいがくは顔を歪めた。
「べつに、わたしはあなたを役人さんにつき出したりしないよ」
「は?」
「行冥さんがあなたをひろってきて、ここで暮らしてほしいって言ったから。役人さんが、わたしたちに何かをしてくれたこともないし」
「……」
「それから、隣町にはもういかないほうがいい。あなたの名前、ここまできこえたくらいだから」
かいがくは、少女の言うことを測りかねているようだった。
少女は限りなく本音で話しているのだし、そもそも本音を隠して語ると言う器用なことができないのだが、人に信じてもらえるのかと言えば、話は別である。
「どのみち、もう冬が来る。いくあてがないなら、ここにいればいい」
言葉を重ねても、かいがくはじろじろと、引っかき傷をこさえた少女を睨めつけるだけだった。
痣だらけの腕は持ち上げるのも痛くて困難だろうからと、食事を手伝っているのに、少女を不気味に思っているのか、かいがくは自分からはなかなか喋ろうとしないのだ。
懐かれようが懐かれまいが少女にはどちらでもいいのだが、逐一睨まれながら世話をするのは、ひとえにやりにくいのだ。
「かいがくって、どういう字を書くの?」
「教えるわけねぇだろ」
「なんだ。あなたにはちゃんと字があるんだ」
適当な呼び名だけで、字をもらっていないのかと思った。
ちゃんと字をもらっているのなら、この子には少なくとも、名前をくれた誰かがいたのだ。
少し、安心できた。
「うるせぇ!出てけ!薄気味悪ぃんだよ、テメェ!」
それなのに、空になったお椀を投げつけられてしまったものだから、少女はそこでようやく久しぶりに笑みが剥がれた、困った顔になってしまったのだった。
名前の字がわからないかいがくは、怪我が治っても寺に居着いた。
あの子はかいがくだよ、と少女が皆に言って回ったから、行冥さんや寺の仲間は皆かいがくと呼ぶようになった。
「かいがく」
「……どっか行けよ」
それから、いつものようにかいがくの面倒は、少女が見ることになった。
他の男の子たちは面倒だから嫌だと言ったし、行冥さんから頼まれたから、少女はこくんと頷いて、引き受けた。
ただしこいつ、物凄く相手にしづらかったのである。
声をかけたら顔を歪める。側に寄ったら髪を引っ張る。腕を掴んだら反対の手で突き飛ばしてくる。
この寺で一番の古株じゃなかったら、泣いているところである。いや、結構涙で目が滲んでいた。
というか、実際かいがくに突き飛ばされて井戸にぶつかった少女を見た一番歳下の子、沙代が大泣きしてしまった。
打ち付けて痛い腰を庇いながら、沙代をあやしているうちにかいがくはぷいと何処かへ消えてしまうし、散々である。
「ねぇアンタ、アイツに関わるのやめない?」
「……ん?」
井戸端で野菜を洗っているとき、少女に尋ねたのは二つ歳上の
勝ち気そうな大きな黒目の女の子で、今日も腰に手を当てて少女を見下ろす目の中には、硬い光があった。
「アイツ、泥棒なんでしょ。そんなやつ置いてて、あたしたちが街の人に嫌われたらどうするの」
「かいがく、何も盗ってないよ」
「盗るものがないからでしょ。うちの蓄え見つけたら、絶対盗むわよ。アンタだって、アイツのこと嫌いでしょう?」
「嫌いじゃない」
「……それ、行冥さんがそう言ったからじゃないの?」
こてり、と少女が首を傾げると三津は肩を落とした。
「わかったわよ。アンタ、行冥さんのこと大っ好きだもんね。それ以外がどうでもいいくらいには」
「どうでもよくは、ないよ。かいがくのことは、どうでもよくない」
冬に追い出したりなんかしたら、寒さで凍え死んでしまう。名前と顔を覚えた子どもがそんな目に遭うのは、嫌だった。
どうだか、と三津は少女の言葉を聞いて片頬だけで笑った。
「とにかく、あたしはアイツ嫌いだから。アンタは、変なことしないかちゃんと見といて。それから沙代の前で怪我とかしないで。あの子、アンタが怪我するの見たら、またぎゃんぎゃん泣くわよ」
「うん」
変なこと、が具体的に何かはあまりわからなかったけど、頷いておいた。
別に少女も好き好んで怪我したわけではないし、泣きたいわけでもないから、本心ではあった。
足音荒く三津がいなくなるのと入れ替わりのようにして、物陰からかいがくがぬっと現れた。
唇を固くひん曲げていて、相変わらず頑固そうだ。さっきの話も、聞いていたのだろうか。
「かいがく、どうしたの?」
「……」
無言で突っ立っているかいがくを見て、少女はおや、と思った。
かいがくは、手に勾玉を持っていたのだ。そんなもの、昨日まで持っていなかったことは知っている。
「行冥さんに、もらったの?」
「……ああ」
「そう。よかったね。それ、お守りでしょ?」
あかぎれだらけの、かさついた小さな手は、突如握らされた艶めく石を持て余しているようだった。
青菜の水切りを終え、腰の手拭いで手をふく間も、かいがくはそこに勾玉を握りしめたまま突っ立っていた。
「やることないなら、来て。いいものあげる」
そういえば、案外素直についてきた。
握ったままの勾玉は、行冥さんが子どもたちに何かしら一つずつくれるお守りだ。
三津ならば柘植の櫛を貰って挿しているし、沙代は小さな姫達磨を転がして遊んでいる。男の子たちは駒や小さな数珠を貰ったりしていた。
かいがくの場合は、お守りが勾玉になったのだ。
「すわって」
縁側にかいがくを座らせて、その間に少女は私物を入れた箱を持ってくる。
綺麗な石や、木の実を綴って作った飾りなどがごちゃごちゃと収められた箱の中には、青色の平たい紐が巻かれて収まっていた。
「おい、おま……」
「あげる」
ぐい、と少女は平紐をかいがくに差し出した。
「石だけだと、無くすから」
その紐は、少女が捨てられていたとき包まれていた布を捩って作ったものだった。
二親の手がかりになるかもしれないから大事に取っておきなさい、と行冥さんに言われていたものだったが、少女は親が自分を迎えに来ることなど絶対にないと知っていたから、余分な場所を取るおくるみを、さっさと解して捻って紐にしたのだ。
大事にしなさいと言われたから、捨てるに捨てられず、一応宝箱に入れて取っておいたものである。
紐と勾玉を手にしたかいがくは、しばらくの間何も言わなかった。
「お前、その箱は?」
「だいじなものを入れてる箱。紐はあなたにあげる。勾玉、無くさないでね」
箱の蓋を閉じて戸棚に戻すと、縁側から地面に降りて少女はがりがりと地面を木の枝で引っかいて字を書き始める。
日課にしている、字の稽古の時間だったからだ。
動かなかったかいがくは、ようやくのろのろ動いて紐を勾玉の穴に通すと器用に首に巻き付けていた。
それから仏頂面のままで、地面に降りて少女の横に立った。
「それ、貸せ」
少女の手から木の枝を半ば引ったくるように取り、かいがくは泥濘んだ地面に二つ字を刻んだ。
「獪、岳?」
「俺の名前。お前、聞いてきただろ」
「うん。……変わった字」
素直に言っただけなのに、頭を叩かれた。
誠に解せぬと、少女は珍しいしかめっ面で頬を膨らませたのだった。
「幸、獪岳」
勾玉の飾りが獪岳に馴染んだころには、冬が終わって、春も通り過ぎていた。
行冥さんに二人して名を呼ばれたのは、珍しく冷えこんた夜の翌日である。
無口で仏頂面なのは相変わらずだが、獪岳は会話らしい会話もこなすようになっていた。
幸のお陰だね、と行冥さんに頭を撫でられ、アンタの根気強さには負けたわ、と三津には言われたが、多分殴られたり怒鳴られたりすることがなく、量が足りなくとも食べるに困らないここの生活のお陰だろう。
何せこいつ、小突くわ叩くわ引っ張るわと少女に対しては雑なのだ。一度、空腹で寺のお金を盗ろうとしたのを咎めて芋で我慢してもらってから、ずっとそんな調子である。
しかも、決まって行冥さんたちが見ていないところでやりやがるから質が悪い。
しかも、流石に苛立ちが爆発して、顎下に頭突きをかましたら、逆に驚いた顔をされた。
何が、お前そんな顔もできたのか、だ。
人を人形とでも思っていたのか。
「幸に獪岳。街に行って薬を買ってきてくれないか?沙代が熱を出してしまってね」
「うん」
熱冷ましの薬草だけでは足りなくなったから、高いけれど街の薬屋に行ってほしいと言われたら、否はなかった。
熱が出て苦しいから、沙代は行冥さんに側にいてほしいのだ。
頷いて、寺を出た。
「早くしろよ、グズ」
「待ってよぅ」
行冥さんだと、右足が曲げられない少女の足に合わせてくれるのだが獪岳はそんなこと、無論してくれない。
結構頑張って、少女は獪岳の後を追いかけた。
「獪岳、街に行ったら目立たないようにしてね」
「あ?なんでだよ」
「わたしたちをからかう子がいる。見つかったら、薬もって先に帰って。あの子、特にわたしにしつこいから」
「……ふん」
了解、の代わりに手をひらひら振られた。
そのまま歩いていると、獪岳のほうが口を開いた。
「お前はさ、あの坊さんがくれたお守りっての持ってないのかよ」
「もってた。でもとられたから持ってない」
「は?」
「行冥さんに言わないで。泣かれたくない」
少女も髪を結ぶ山吹色の組紐を持っていたのだが、二年くらい前に街の子に無理やり取られたのだ。
雨上がりの日の溝に捨てられてしまい、どれだけ泥やごみを浚っても見つけられなかった。あのときは、哀しくて泣いた。
行冥さんは目が見えないから気づいていないけど、聞いたらやはり泣くだろう。
「とられたくなかったら、あなたもお守りは、街で隠しておいたほうがいい」
そう言うと、獪岳は勾玉飾りを外して懐に押し込んだ。彼も、貰った物を取られたくはないのだ。
だというのに。
「ねぇ、あんた。あんたよ、そこの金目!待ちなさい!」
「……」
薬屋から出た途端にきんきん高い声を聞いて、少女は金色の目を眇めた。
薬の包みを獪岳にこっそり渡し、背中を押す。
獪岳は、振り返りもせずにさっさと走って行った。わかっていたが、薄情なやつである。
追いついてきた狐目の女の子は、にやにやと嫌な笑いを浮かべていた。
「あんたたち、あの盗人追い出さなかったの?」
「……それ、だぁれ?」
「カイガクよ!あんたもう忘れたの!」
冬が来る前に聞いた名前なんて、忘れているのが普通だろうに、この子の中では覚えていて当然だったらしい。
なんともまぁ、よい記憶力だ。
「盗人のカイガクなんて、知らない」
街の子どもら数人が寄ってくるのを見ながら、少女は淡々と返した。
「わたしたちの寺に、たしかに子どもは一人増えた。だけど、盗人のカイガクなんて知らない」
「なによあんた、悪いやつを庇うの?」
「しらない。あなたこそ、そのカイガクって人を、見たの?そんな人、ほんとうにいるの?見てもいない人をつくって、あなたはわたしをいじめたいだけなんじゃない?」
大した嘘つきだと、少女は心の中で自分自身を嗤った。
獪岳は本当にいるし、なんならさっきまでここにいた。泥棒をしようとしたことも本当だ。
だけどこの女の子が、正しいことをしようとしているのではなくて、少し自分らと毛色が違う少女をいじめて楽しみたいだけだというのも、本当なのだ。
少女は盗人と酒飲みは大嫌いだ。
親を思い出すから。
だけど、獪岳は嫌いではない。
一緒に住んでいるから。
そしてこの子らは嫌いだ。
人の宝物を捨てたから。
しかし常は言葉少なに反論するだけの相手が、長く喋ったのが女の子の堪に障ったらしい。
「う、うるさいのよっ!親無しっ子のくせに!」
どんっ、と突き飛ばされた。板塀に背中を打ち付け、肺からかふ、と空気が漏れる。
咄嗟に顔を庇うと、間一髪で手の甲に痛みが走る。爪で引っかかれたのだ。庇っていなかったら、目に当たっていた。
しゃがみ込んで腹を守れば、誰かに三つ編みにした髪を掴まれて、腰の辺りを蹴られた。地面に倒れれば、拳が降ってくる。
─────ああ、嫌だなぁ。
こんな無意味を働かずに、自分たちの家でそれぞれの親の膝に甘えていればいいものを。
すぅ、はぁ、と上手く息を吸って吐き、要らない力を抜く。
腹や頭を深く怪我しなければいい。
どうせ飽きたらやめる馬鹿な遊びだ。当たるのだって、やわらかい子どもの拳。
一番古い痛みの記憶に比べたら、なんてことはない。
わあわあと容赦ない雨のように降ってくる声は、頭の中から締め出した。
こんな言葉、
ぼんやりしていたから、少女は子どもたちが途中から手を止めて勝手に喚き出したのに気づくのが、遅れた。
「おい、グズ!」
ぐい、と襟首の辺りを掴んで引きずりあげられる。
「え」
「ボケんな!走れ!置いてくぞ!」
怒鳴られ、訳がわからないままに、足を動かす。息が上がり切るまで走って気づいたら、荷車の陰に転がり込んでいた。
隠れ場所の前を、子どもたちが騒ぎながら通り過ぎて行く。
ようやく少女は、ここまで自分を引きずった相手の顔を見た。
「……獪岳?」
隣に座り込んで肩で息をしているのは、獪岳だったのだ。
「……なに、したの?」
「猫とっ捕まえて、あいつらン中に放り込んだだけだ」
「え、ねこを……」
猫が好きな少女は少し固まり、ぜぇぜぇと息が荒い獪岳は、横目で少女を睨んだ。
「お前をほっとって帰ったらな、寺のあいつらに俺が怒鳴られんだ。下手すりゃ締め出しくうんだよ」
「……」
「なのにお前は足遅ぇし。なんでまともに歩けもしねぇんだ、馬鹿が。喧嘩もできねぇくせに喧嘩売ってんじゃねぇよ、グズ」
喧嘩を売ったつもりはない、と言おうとして、口から出たのはてんで違う言葉だった。
「……けが」
「あ?」
「治らないけが、あるの。ごめん。わたしの足、一生こうだから」
だから、ごめんなさい、とまたいうと目の前が滲んだ。
無理に動かした膝が、痛みを訴えている。たった今叩かれ殴られた怪我より、白く残る古い傷が痛くて、少女は喉奥で泣いた。
怖かった。本当はとても、怖かった。
怖い思いをしていたときにいきなり掬い上げられたから、どういう顔をしたらいいかがわからなくて、勝手に涙が出てきたのだ。
「馬鹿お前、泣きやめ!」
そう言われても、涙はなかなか止まらない。
結局、少女は泣き腫らした顔で寺に帰ることになり、それを見た三津や寺の子たちが勘違いで獪岳を殴りそうになり、それを止めようと散々騒いでいるうちに、行冥さんに、いじめられていたことから何から何まで、全部ばれた。
そういうことは隠さないでもっと早くに言いなさい、と涙ながらに少女は叱られ、獪岳は頭を撫でられてほんの少し嬉しそうに笑っていた。
夏の盛りを過ぎた、ある日のことだった。
「アンタさぁ、アイツが来てから変わったわよね」
「うん?」
獪岳が寺に来てから、季節が一巡りと少しした、ある春の日。
縁側に少女と並んで、豆の鞘剥きをしていた三津が、唐突にそんなことを言った。
寺を取り巻く空気の中に、藤の花のお香の匂いが混ざり始める、黄昏時のことだった。
小刀を片手に、竹を削いで竹とんぼを作っていた少女は、きょとんと首を傾げる。
「あいつって、獪岳のこと?」
「そうよ。アンタ、前はいっつも笑ってばっかりだったでしょ」
「え?」
自覚なかったのね、と三津はため息をついた。
「何があってもにこにこしててさ。アンタが悪いこと考えられない性格ってわかってても、ずれてるみたいで、ちょっと気味が悪かったのよ。アンタはさ、行冥さんに教わった通りの
「……わたし、気味悪い?」
「前のことよ!前!獪岳が来る前のアンタ!」
三津は、ばたばたと手足を振った。
「だけど、アイツ来てから、泣くし、怒るし、声上げて笑うようになったじゃない。だから、獪岳に困ってたアンタには悪いけど、あたしはほっとしたの。アンタも普通に怒れるんだって、ね」
そこまで言って、三津はきゅっと唇の端を吊り上げた。
「あたしはまぁ、獪岳のことは今でも好きじゃないけどね」
「獪岳、やっぱりきらいなの?」
「だってアイツ、意地が悪いもん。すぐ拗ねるし、めんどくさいのよ。だけど、街のやつらよりはマシだし、もう追い出したりしないわ」
そっか、と少女は少し笑った。
相変わらず、髪は引っ張られるしグズと言われるし、優しいとはお世辞にも言えないが、三津が嬉しいのは嬉しかった。
「そうそう。その顔よ。前の変な笑顔より断然マシね」
「えぇ……」
そんなに変だったのかなぁ、と頬を抓ってみた。
どこかが変わった自覚はないのだけれど、自分の顔なんて見えないから、案外そんなものかもしれない。
どたばたと、お堂の入り口辺りで騒ぐ音がしたのは、そのときだ。
黄昏時の薄闇の中を、黒い着物の小さな人影があっという間に走って行ってしまうのを見た。
「は?」
「あれ、獪岳?」
どういうことだろう、と三津と二人して腰を浮かせたとき、他の子たちがばらばらと寺から外に出てきた。
一番小さな沙代が、べそをかいていた。
「何があったの?」
「獪岳がさぁ……」
寺を囲むようにしてたく鬼除けの藤の香をつけていたとき、沙代の大事にしていた張り子の姫達磨をうっかり蹴飛ばし、壊してしまったというのだ。
素直に謝ればいいのに、こんなところに置いておくほうが悪いのだと開き直ったものだから沙代が泣き出し、それを男の子たち皆に叱られてぷい、と飛び出してしまったというのだ。
「な、何してんのあの馬鹿は!もう夜になるのに!」
剥きかけの豆の鞘を振り回して怒る三津を、少女は慌てて止めた。豆に罪はない。
しかたないなぁ、と作りかけの竹とんぼを置いて、小刀を懐にしまう。
「わたし、むかえに行ってくる。獪岳がへそ曲げたときに行く場所、いつもおんなじだから」
「待ちなさいよ。アンタ一人で行く気?」
「うん。獪岳、多分みんなで行ったらまたへそ曲げそう」
変なところで面倒な性格なのである。
一人のほうが、さっさと説得できそうだというと、皆渋い顔ながら頷いた。
「行冥さんには?」
「……先に寝たって言ってて。でないと、おいかけてきちゃいそう」
行冥さんは目が見えないから、夜道は危ないのだ。
ちょっとした嘘をつくことになるのだけど、どうせそんなに遠くには行っていないはずだ。
ぱっと行って、すぐ帰ればいい。慣れた道だから、迷うわけがなかった。
「気をつけるのよ」
「うん」
三津や沙代、少し罰が悪そうにしている男の子たちに手を振る。
歩き出した少女の前には、黄昏時の生ぬるい薄闇が広がっていた。
─────そう。
鬼が隠れる夜の闇が、広がっていたのだ。
少女は─────
鬼を知ってはいても、どこかで信じていなかった。
見たこともない鬼がいる暗がりより、沢山の冷たい人間が住む明るい街が怖かった。
だから、気がつかない。
─────これは
泣いても喚いても戦っても、時間は逆しまには流れない。
失くしたものは戻らず、それでも生きていかなくてはならない。
─────だってわたしは、人間だから。
────化け物に生まれたわけじゃ、ないのだから。
─────そうやって。
何処かの暗い部屋で、金色の瞳が二つ、開かれた。
過去の話、起きた話。
悲鳴嶼行冥の寺にいた子どもの名前及び、勾玉の入手時期を捏造しました。
しっかりもので少し短気な長女:三津
ほけほけでやや危なっかしい次女:幸
泣き虫で甘えん坊な三女:沙代
という具合。
全員が成長できていたら、物語現時点で19歳、17歳、14歳になったはずでした。