では。
饐えている、というのが率直な感想だった。
どこがどう、というのではない、漂う空気が饐えている。淀んでいる。
売られた少女を集めて借金で店に括り付け、客を取らせる街には相応しい空気だ。
きらびやかに飾り立てた花魁も、内実は借金地獄で、花街からはなかなか抜け出せないと聞く。
良い旦那に身請けされるか、年季が開ければここからは出られるが、そんな幸運に恵まれる女郎は少ない。足抜けに失敗すれば、よくて半殺し。悪ければその場で責め殺される。
彼女らの多くは病で死んで無縁仏として寺に放り込まれるか、老いて客がつかなくなって切見世に沈むか、私娼窟に投げ込まれるかだ。
生まれては苦界、死しては浄閑寺、とは誰の言葉だったか。
その言葉に絡んで、わたしももう少し大きくて、足がこうでなかったら岡場所に売られていたろうね、といういつかの幸の冷めた声が思い出された。
あれは、何かの弾みで街に出て、人買いに声をかけられたときだった。
人買いは容易く人攫いに化けるから、これはまずいと、幸の手を引いて逃げたのだ。あのころの幸は足がうまく動かない鈍間だったから、逃げるのに手間をくった。
売れる歳まで育てることすら嫌だったから捨てたんだろうけど、とあのとき七つの幸が言ったことは、真実だったのだろう。
咄嗟になんと返せばいいかわからず、お前なら良い値で売れただろうな、と憎まれ口半分に答えた餓鬼の自分は、流石に顎下を平手打ちされたはずだ。
今思うと、よく平手打ち一発で済んだものだ。
それはともかく、と獪岳は過去の記憶から意識を逸した。
吉原に鬼が紛れ込んでいる、というのは有り得そうな話だ。
鬼は、男より栄養価が高くなる女を好んで喰うというから、遊女から見習いの少女から、とにかく女が多いこの街は餌に困らないうってつけだろう。
だが、遊女というのは店の持ちものであり、財産だ。
姿を眩ませれば、当然騒ぎになる。
足抜けで誤魔化すにも限界がある。仮に売れっ妓の花魁が足抜けして姿を消したとなると噂になる。
実際、誤魔化しきれなくなったから音柱に目をつけられたのだろう。
が、まったく忍んでいない元忍びの音柱、くのいちだという彼の嫁三人でも見つけられないとなると、十二鬼月かもしれない、と獪岳は考える。
雑魚な鬼なら、食欲に負けて人間を喰い、ばれているはずだ。
身を隠し気配を消して、狙い定めたご馳走だけを喰っているとなると、格段に厄介になる。
「……どいつだろうなぁ」
鬼が人に化けて潜んでいるとするなら、どこにいるのだろう。
楼主や女将は長く見た目が変わらなければ怪しまれるだろうから外すにしても、こうも人が犇めいている場では、仮に竈門や善逸の鼻や耳で見分けられたとしても、下手に正体を暴けば今度は大立ち回りになって被害が甚大になりかねない。
列車のときのように、人質を取られると一気に戦いづらくなる。
幸がいれば、ある程度の範囲を離れた場所から索敵できたのだが、こちらは未だに珠世から連絡がないから、獪岳からはどうしようもない。
いないと、本当に自分がどれだけあの小さい少女に頼っていたかが浮き彫りになる。
剣の稽古でも、師匠から何度か言われているのだ。君は自身の護りが甘いきらいがある、と。
それは獪岳が『幸が庇ってくれる』と思い込んでいる部分があるからだ。
実際これまではそう戦ってきたのだが、珠世や愈史郎によれば、幸は頭をひどく怪我すれば、また理性を失いかねない。
獪岳を庇っていらぬ怪我をし続ければ、限界が来るのだ。
元々、幸が本気で動けば、獪岳では追いつけない。並みの鬼より体が脆い分、幸はそれだけ速いのだ。
追いつけないはずなのに、追いつけて共に戦えているのは幸が獪岳を庇うために、遅く動いているからだ。
自分が枷になっていると考えると、苛立ちで胃の腑が焼けそうになった。
苛立ちはすべて、稽古で自分の動きを見直すために注ぎ込んだ。
五日十日で、体に染み付いてしまった癖がどうにかなるものではないが、自覚ができただけマシだろう。
この街の、饐えた空気を嗅いでいるとそんな苛立ちを思い出してしまった。
昔は、こういう懐を掏られても気づかないような間抜けが彷徨く街にいれば、食うことはできていたのだが、今はなんともこの空気が煩わしかった。
清潔で空気が澄んだ蝶屋敷に、慣れてしまったせいかもしれない。
あの凸凹凸な三人組の女装など遅かれ早かればれるだろうから、それまでに鬼の情報があがればいいと思う。
鬼殺隊員ならばばれても、自力で勝手に逃げて来れるだろうからと、獪岳はそちらはとんと気にかけていなかった。
音柱が探しているという三人の嫁に関しては、正直なところ獪岳は生きているとは思っていなかった。
死んでんじゃねぇの、と口にした伊之助が音柱に殴られていたから黙っていたが、鬼が捕まえた鬼殺隊の人間を生かしておく理由などない。
まして女と来れば、既に喰われているだろう。
が、音柱には諦めている様子がない。
九年前に鬼に喰われて死んだはずの人間も生きていただろうがと言われれば、獪岳はその通りだと返すしかないし、本当に死んだとわかるまでは任務を続けるしかないのだ。
ふらふらと歩く酔漢や忙しく歩いていく男たちを避けて歩いていると、耳に声が届いた。
「……あそこの……もなぁ……女将が死んだだろ?」
「ああ……どんな別嬪…ても……ナァ……」
足を止めて振り返れば、声の出処は路地に置かれた縁台に座った男たちである。
女待ちをしている客なのか、一様に洒落た和装洋装が入り混じる彼らは、皆煙草をふかして無駄話に興じていた。
「なぁあんたら、ちょっと聞きてぇことがあんだけどよ」
妙な死に様にまつわる話は、とりあえず聞いたほうがいいだろうと獪岳は路地へ踏み込んで行った。
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我妻善逸が潜入できたのは、『京極屋』である。ここには音柱の嫁の一人、雛鶴という人がいたはずだった。
だが、他二人と同じく姿を消したのだ。
彼女を探しに来たわけだが、手がかりはとんと得られない。
耳を澄ませてはみたが、大勢の女性が慌ただしく働く音しか拾えない。ここでは、鬼の音が仮に紛れていても聞き取れないかもしれなかった。
テメェに耳の良さ以外の取り柄があんのかよ、という兄弟子の罵声を思い出しつつ、善逸はうろうろと店の中をそぞろ歩いていた。
昨日入ったばかりの子どもとあってか、仕事は簡単な荷運びや、掃除くらいしか言いつけられていない。
炭治郎や伊之助も似たようなものだろう。
ガァ、と一羽の鴉が善逸の肩に止まったのは、まさに店の裏手を箒ではいているところだった。
「どわっ!?何なに!?」
「ガァ!善子ニ手紙、手紙イィ!」
最後の言葉を二度繰り返す癖のある鴉の声に、善逸は覚えがあった。
兄弟子の獪岳の鴉である。獪岳よりも幸と仲が良いらしく、時々彼女の手から木の実を貰っている食いしん坊な鴉だ。
ぽと、と善逸の手の中に手紙を落とした鴉は、物陰に隠れた。
とっとと読め、と睨まれているようで、善逸は慌てて手紙を開く。
「京極屋の女将さんが死んだ理由が何か……?」
走り書きしたらしい斜めの字で、そんな一言が記されていた。
引っくり返しても日に透かしてみても、それだけしか手紙には書いていないのだが、要はこれを調べろということなのだろう。
「獪岳、何かつかんだのかなぁ」
「グァ!獪岳ハ、不機嫌ニ街ヲ歩イテイル!歩イテイルゥ!」
「あ、やっぱり不機嫌なんだ……」
「グァ!幸ガイナイ!イナイィ!イタラ、鬼ヲモット調ベラレタ!故ニ不機嫌!不機嫌ンン!」
この鴉も、幸がいつ戻るかは知らないらしい。
改めて手紙に書かれた文字を見れば、大分斜めに傾いた金釘流だ。急いで書いたのがありありとわかる。
丁寧に折り畳んだ紙切れを懐に仕舞い、善逸は鎹鴉の前に屈んだ。
「わかった。女将さんのこと聞いてみるよ。獪岳にもそう言っといてくれる?」
「了解シタ!シタァ!気配ニ気ヲツケロ!獪岳ノ弟弟子!弟弟子ィ!」
ばし、と翼で善逸の脛を叩き、ぴょんぴょんと跳ねて離れてから、鴉は飛び立っていった。
鴉に弟弟子と呼ばれたことが嬉しくて、少し頬が緩む。
何気に、これが獪岳から善逸へ送られてきた初の手紙である。手紙というより走り書きだが、手紙は手紙だ。自分が手紙と思えば手紙なのである。うん、間違いない。
「よしっ!」
頬を叩いて気合を入れかけたところで、白粉が剥がれることを思い出し、慌ててやめた。
音柱に白粉を何重にも塗ったくられた善逸たちの顔を指して、獪岳は不細工なおかめ野郎と遠慮なくこき下ろしてくれたものである。
あっちは女装なしなのが心底羨ましい。
女装したらしたで、とんでもないものが仕上がっていたとしても、帰ってから一発くらい脛を蹴っとばしても、バチは当たらないと思うのだ。後で漏れなく百倍返しされそうだが。
が、いつまでも愚痴っても仕方ない。
仲は改善のかの字もないが、あの兄弟子と同じ任務で戦えているし、ほんの僅かにしてもあちらから頼られているのだから。
それを思うと、頬が緩みそうになる。
獪岳に見られたら気持ち悪ィとまたも蹴飛ばされそうだから抑えているし、鬼がどこにいるかわからず、行方不明者も見つけられない状況なのは笑っていられないほど大変で怖くて堪らないが、それでもだ。
「こらあんた!いつまで掃除してんだい!次の仕事はやったのかいっ!」
「は、はいっ!今終わりました!すみませんっ!」
決意を新たにした端から矢のように飛んで来た店の女の甲高い怒鳴り声に、善逸は立てかけていた箒を慌てて掴んで答える。
店の中に飛び込めば、女中の一人が腰に手を当てて仁王立ちになっていた。
「次は蕨姫花魁への贈り物を届けるんだよっ!早くしな!」
「わ、蕨姫花魁……?」
「北の角部屋に行きな!いいかい!くれぐれも花魁の機嫌を損ねるんじゃないよ!」
善逸に怒鳴り散らした女は、どたどたと去って行った。
その彼女から聞こえるのは、怯えを孕んだ音。たった今自分が口にした蕨姫という名前に、まるで怯えているようだった。
蕨姫は確か、今の吉原で売れている花魁の一人だったような気がする。
そういう花魁ともなれば、馴染みの客から贈られる物も山と積まれる。
事実、どさりと置かれたきらびやかな小物や着物の山を目にして、善逸は目が点になった。これすべてをたった一人の花魁の部屋に運ぶのかと。
こちとらそれなりに鍛えた鬼殺隊員でしかも男だから運べるが、音柱が化けた仲介人の売り込み通りの十五歳の女の子だった場合、そんなさっさと運べるものではない。
それを全部押し付けるなんて、新人いびりかと思うが、あの怯えて狼狽えた様子ではむしろ、自分が蕨姫花魁と顔を合わせたくないから、全部押っつけて来たという感じがあった。
「北の角部屋って言ってたよなぁ……」
荷を担いで呟けば、怖いことが頭を過る。
蝶屋敷にいるときの獪岳は、幸がうろつくからと北側の、日の当たりにくい部屋を選んで居着いているのだ。
北の角部屋、つまり日の当たりにくい部屋にわざわざ住まうなんて、まるで日光を厭うているようだ。それこそ、鬼のように。
それに獪岳は、わざわざこの店の女将の死を調べろと言ってきたのだ。この店に何かあると思わなければ、あの兄弟子が自分に手紙など送ってくるわけがない。
「えぇぇぇえ……。嘘過ぎない?」
自分の思いつきが足を竦ませる。
しかしまさか、誰かを頼るわけにはいかない。
周りは鬼のことなど何も知らない普通の人間ばかりで、彼らは皆、いざとなれば善逸が守らなければならない人たちなのだ。
「うぅぅぅ……」
それでも行きたくないよぉ、と耳を澄ませた途端、善逸の足が止まる。
人より何倍も優れた耳が拾ったのは、微かな女の子の泣き声。それは善逸が、今から向かおうとしている方角から聞こえていた。
聞き取った瞬間、善逸はしゃんと背中を伸ばしてきりりと眉を引き締めた。
「よし、急ぐぞ!」
泣いている女の子とみれば、誰であろうとどこにいようと放っておけずに駆け出してしまうのが、良くも悪くも我妻善逸という少年の変わらない性なのであった。
#####
音柱が指定した定時連絡の場所は、屋根の上だった。
なんでそんな場所で、と思うが上官命令は致し方ない。とん、と獪岳が屋根に飛び乗れば、竈門と猪頭を外した猪頭は、既に来ていた。
しかし何故か、屋根の上では猪頭が竈門の頭をぺしんぺしんと叩いている最中である。
なにやってんだこいつらと、獪岳は屋根の上で呆れた。
気配に気づいたのか、箱を背負ったままの竈門が獪岳の方を見た。
「獪岳さん!」
「うるせぇ。お前ら、なんか見つけたか?」
「だから見つけたつってたところだよ!俺んところに鬼がいるってんのに、権八郎が信じねぇんだ!」
「い、伊之助、それはちょっと待ってくれ」
叩かれながら竈門が反論するが、今来たばかりの獪岳は、何が何やらわからない。
ぎゃあぎゃあ騒ぐ猪頭もとい伊之助の話をよく聞けば、要するに自分の潜入した店に鬼が出たからとっとと退治しに来い、ということなのであった。
「お前が入ってんのは、荻本屋だよな?」
「ああ!バチバチ野郎、お前ヒマしてんだろ!とっとと来やがれよ!」
「ヒマじゃねぇよクソが。で、その鬼の外見は?」
「見てねぇ!だけど気配があった!」
「おいこら、ふざけんな」
きっぱり言い切った伊之助を、竈門が押し留めていた。
「伊之助、ちょっと待ってくれ。まだ宇髄さんと善逸が来てないんだ」
竈門がそう言ったときだ。
空気が動く。
「善逸なら来ない」
屋根の上に音もなく現れたのは、音柱の宇髄天元である。獪岳に数瞬遅れて、竈門と伊之助も気づいた。
「来ないって、どういうことですか?」
「……死体でも出たんですか?」
ほとんど同時に違うことを口走る。
音柱は頭を振った。
「死体が出たわけじゃねぇ。が、善逸は行方知れずだ。昨晩から連絡がない」
思っていたより早くばれたものだ、と獪岳はほとんど表情を変えることなく考える。
「ここにいる鬼に対して、お前らは階級が低すぎる。帰れ」
「えっ」
音柱がそのまま告げた言葉に、獪岳はつい声を上げた。
蝶屋敷から非戦闘員なやつらまで引っ張り出そうとした柱が、まさか鬼殺隊員に、鬼を殺す前に帰れというとは思わなかったのだ。
音柱は、獪岳をちらりと見る。
「……お前らまで連れてきたのは、俺の落ち度だ。恥じるな。生きてたほうが勝ちなんだ。それから獪岳、お前はまだ残れ。だが、危ういと思えばすぐ退け。俺は京極屋へ向かう」
「待って下さい!」
竈門の声が消える前に、音柱は去っていた。
「か、獪岳さん……」
「……チッ」
音柱が竈門と伊之助に戻れと言って、獪岳に残れというのは単に獪岳が三人組に比べて階級が上だからだろう。加えて言うと、獪岳は煉獄杏寿郎の弟子でもある。
が、竈門と伊之助は、要はお前らは弱いから信用できない、と言われたに等しいのだ。
心なしか、竈門は肩を落としていた。
「残りたきゃ残って戦えばいいだろ。俺は、お前らにどうこう言う気はねぇよ」
「はい!」
「当たり前だろ!こんなとこで帰れるかよ!」
勝手にしろ、と獪岳は頬杖をついた。
ともかく、竈門にも伊之助にも帰るという頭はまったくないのだ。
「俺は切見世の方へ行く。お前らはその、怪しいと思う店に行ってみろ」
「き、切見世ってなんですか…?」
「客のつかねぇ遊女が沈んでるとこだ。京極屋から抜けた女が、何人かそこに落ちたって聞いたから話を聞きに行くんだよ」
「京極屋?……紋逸が行ってたとこじゃねぇか」
流石に気づくか、と獪岳は頷いた。
「そこの女将が数日前に死んでやがんだ。客の話じゃ、酷ぇ死に様で、店の屋根より高いところから投げ落とされたのかって思うほどに、体がぐしゃぐしゃだったとさ」
それこそ、人知を超えた力で蹴られるか、放り投げられでもしたように。
並みの人間ならば、不気味な話として噂話と一緒にして片付けたろうが、獪岳は鬼殺隊だ。
現に、脚力が高い幸辺りが本気の本気で蹴れば、人間の体など木の葉より軽々と吹っ飛ぶ。
だから京極屋の女将の死を調べてみろと、善逸に伝えたのだ。
失踪するなら、情報を寄越してから失踪しろと文句を言いたい。鴉にせっつかれて手紙まで出したというのに。
「おい。それじゃ俺んとこに出た鬼はどうなんだよ」
「一体の鬼が移動したか……そうじゃないなら分身する能力があるか、それとも複数いるんじゃないかな。獪岳さんはどう思います?」
「そんなとこだろ。鬼は群れねぇって話だが、もうこの際ンな話は当てにできねぇ」
数ヶ月前の無限列車が良い例だ。
柱は獪岳たちより遥かに強い。
が、いくら強者であっても場に一人しかいないときに、十二鬼月などを複数相手にすれば、すり潰されて殺されるだろう。
それに、柱がいても足止めされればやはり間に合わない。
あのまったく追いつける気がしない炎柱すら、上弦の参を単独で相手にすれば死にかけた。弐も、鬼二人に鬼殺隊員二人で立ち向かっても、戦い自体がほぼ成立せず、何度も殺されたに等しい。
「わかりました!あの、俺は善逸も宇髄さんの奥さんたちも皆生きてると思ってますから!だから、獪岳さんも諦めないでください!」
「……ああ」
諦める諦めない以前に、雷に撃たれても髪の色が変わるだけで死ななかったほど生き汚いやつが、こうまであっさり死ぬのかと疑問に思っていたくらいなのだが、言わないでおく。
結局それから、夜になった後に竈門と伊之助はまず荻本屋を調べるということになり、別れた。
もう戦いづらい変装するのも面倒になり、いつもの隊服に戻って羽織りを纏う。
あの目に痛い真っ黄色の羽織りを、先生のところに届ける役になるのだけは御免被る。
そう思いながら、獪岳は刀を背に負って、夜の街へと飛び出したのだった。
切見世は、竈門に説明したように客がつかなくなった遊女、或いは怪我や病をしたりで店から放り出された者が行く、最下層の女郎屋である。
表に並ぶ
いざというとき、刀が振り回しにくいのだ。
遊び人風に変装したとき、音柱から数本渡されていた藤花の毒が塗られた苦無もあるにはあるが、手に馴染んだ武器ではない。
ともあれ、言っていられる場合ではないから踏み込む。
誰でもいいから京極屋から来た女はどこにいるのかと適当にそこらの人間をつかまえて聞けば、獪岳の纏う荒事に慣れた空気と、ちらつかせた金で大体は口を開いたのだ。顔に残った傷も、凄みをつけるのに一役買った。
多少時間はかかったが、見つけることはできた。
見たところは、他の建物と何ら変わりない荒れた戸に手をかけた瞬間、獪岳は項にぴり、と何かの気配を感じる。
「ッ!」
横に跳べば、たった今獪岳が開こうとした戸が内側から弾け、何か色鮮やかなものが飛び出してきた。
さらに横へ回避してから振り返れば、ようやく正体が掴めた。
ちらりと見えたものは、女物のぞろりと長い帯。それが蛇か蚯蚓のようにのたくって、木戸をぶち破ったのだ。
珍妙で、無駄に派手な血鬼術である。
刀を抜こうとした途端、帯を挟んだ向こう側の建物がガラリと開いて、半裸の男が顔を突き出した。
「おい!お前ら何の騒、ヒッ!?」
「馬鹿!出んな!」
帯の化物を見、狼狽えている男の首目掛けて、帯が伸びる。
「チィッ!」
背の刀を抜いて斬りかかる。派手な蛇のような帯は遅く、一跳びで追いつけた。刃を振り下ろせば届く。
が、切り裂いた手応えがない。
ぐにゃりと柔い布が刀を受け止め、勢いを殺していたのだ。
刀が絡め取られる直前で刃を引いて帯を躱し、まだ凍りついている男を遠くへ蹴り飛ばす。悲鳴を上げていたが、知ったことか。
狭い、と帯の攻撃を避けながら獪岳は舌打ちした。
刃渡りが長い刀を振り抜けないところに、ぐねぐねと斬りづらい帯が襲って来る。
刀で帯を縫い止め、苦無で刻むしかないのかと構え直したときだ。
「頭、下げて!」
背後からの声を確かめる前に、体が先に動いた。
屈んだ獪岳の頭上を跳び越えた人影が、帯に突っ込む。家の戸から漏れる細い灯りを、長く伸びた爪が照り返してぎらりと光った。
数秒後には帯は鋭く尖った爪によって左右からばらばらに引き裂かれ、ぼろ屑のような汚い塵の山と化す。
それを成した人影は、地面に音もなく着地するや、獪岳の方を見てぱたぱたと駆け寄って来た。
目深に鳥打帽を被り、立て襟の白シャツの上に紺の着物、黒の袴を合わせた小柄な姿である。
「獪岳、大丈夫?」
あっさりと帽子を取れば、その下から組紐のような黒い三つ編みが流れて、細い肩の上に落ちた。
「……どうもねぇよ、幸」
刀を背の鞘に戻してそう返せば、変わらない黄金色の瞳の少女は、安心したように微かにはにかんだのだった。
一人消えて、一人戻った話。
戻ったほうが衣替えしていた理由は次回で。
そして花街事情に割と詳しい兄弟子と弟弟子。