では。
その、いつもとまったく違う格好はなんなのかと聞けば、幸は両袖を引っ張って服を広げてみせた。
「いつものだと、この街を歩けないから。珠世さんたちに頂いた」
日が落ちた後、吉原で年頃の娘が一人でうろついていると、どこかの店の女と勘違いされてややこしいことになるだろうから、と言うことらしい。
してみると、幸は珠世たちのところから吉原まで一人で来たのだ。
「愈史郎さんは、炭治郎くんに猫をつけてるから、その子を頼りに来た」
髪をまとめて鳥打帽に押し込むと、確かにとても小柄な少年に見えなくもなかった。
とはいえ、日が落ちてからしか動けないため、ここに来るまでにそれなり面倒なことにはなったのだろう、と土で汚れた袴の裾をちらりと見て獪岳は思った。
「わたしのことより獪岳、さっきの家は?」
「……ああ。そうだな」
京極屋を出て来た遊女に話を聞きに来たのだ。だが、その女の部屋から帯の化け物が飛び出して来たならば、ここが当たりだったということだ。
「おい。誰かいるのか?」
砕けて今にも倒れそうな木戸を跨いで入ると、薄汚れて暗い部屋の中には、布団とその上に倒れている女が一人いた。
「……だ、れ?」
「鬼殺隊だ。あんた、もしかして雛鶴か?音柱の嫁の」
明らかに立っていられぬほどやつれていると思しいのに、獪岳を見る鋭い視線は女郎のものではなかった。
試しに尋ねてみれば、女は頷いた。
「ん?」
が、箱を背負った幸がひょこりと戸口から顔を覗かせた途端に、雛鶴の顔が引きつる。
「鬼……!」
「待った!ちょっと待ってくれ。こいつは鬼だが人を喰うやつじゃねぇんだよ。あんた、旦那の音柱から聞いてねぇのか」
またしても人に襲われるのは御免だった。
音柱と言えば、雛鶴はゆっくり頷いた。
「天元様の、言われていた、鬼を連れた隊員の一人が、あなた?」
「そうだ。あんたら三人を探しに来たんだ。音柱も来てるぞ」
そう伝えれば、雛鶴の顔が明らかに和らぐ。
だが彼女の呼吸は荒く、額には玉のような汗が浮かんでいる。明らかに様子が尋常ではない。
そろそろと戸を潜った幸が、雛鶴の傍らに膝をついた。くん、と鼻を動かす。
「……毒、ですか?」
「ええ。店を出るために、自分で飲んだの」
「ってことは、やっぱりあんたのとこに?」
「ええ。鬼がいたわ」
そこで雛鶴は、一度咳き込む。
幸が手ぬぐいで、その額に浮いた汗を拭った。
「ありがとう。鬼の名前は、蕨姫。花魁に化けていたわ」
「わかった。蕨姫だな」
「ええ。天元様に早く伝えて。……わたしなら、大丈夫。これでも忍びの訓練は受けてるから」
儚げに雛鶴がほほ笑んだときだ。
「おい。こりゃ一体どうし……」
破壊された戸に、ぬっと影が差した。
振り返れば、背に刀を負った音柱である。
幸が、ひゃっと驚いた猫のように跳びあがった。
いやお前、大蛇になった鬼は平気の平座だったくせに、どうしてたかが人間の大男に驚く。
大体そいつは、お前の大好きな行冥さんより背が低いだろうに。
「雛鶴!」
名を呼んで妻に駆け寄る柱を獪岳と幸はさっと躱して、土間の片隅に引っ込んだ。
妻の名を呼んだ彼と、手を伸ばした妻は、とてもではないが邪魔できる空気ではなかったからだ。
懐から解毒薬らしい瓶を取り出した音柱の背中に、獪岳は声をかけた。
「宇髄さん、鬼は京極屋にいるとさ。俺たちはそっちに行くからな」
「ああ。助かったぞ。お前ら。俺もすぐ行く」
よし行くぞ、と獪岳は幸と共に駆け出した。
屋根に跳び上がり、その上を走る。
日輪刀ではない幸の爪で斬って倒せたならば、あの帯は鬼ではない。
鬼の分身としたら、倒したことが本体に伝わった可能性があった。急がなければならない。
「幸、お前、状況どのくらいまでわかってんだ?」
「吉原に鬼がいて、竈門君たち四人と獪岳に、音柱の人が潜入してること。鬼は花魁の蕨姫。だからこれから、それを倒す」
「十分だ。体の具合は?」
「暗示はかかってる」
つまり、またも頭を吹っ飛ばされるようなことにならない限り問題はない、ということだ。
「……ごめん」
こちらの方を見ず、前だけを向いて走りながら幸が短く言った。
獪岳も、走りながら返す。
「そりゃなんに対してのごめんだよ。人間を喰いかけたことか?」
「うん。迷惑、かけた」
「ンなもん、かけられっぱなしだ。今更だろ」
違う、阿呆、と獪岳は己で己を罵った。
そう言うことが言いたいのではなかったのに、言葉はどうしてこうなるのだ。
案の定、元々小さな幸の肩がさらに下がってすぼまる。
走りながらもう一度口を開いた。
「お前は、ちゃんと俺に言ってただろ。いつまで自分が自分でいられるかわからない、怖いって」
聞いて、無視したのは獪岳だ。これまでが大丈夫だったから杞憂だと。
幸は知っていた。
精一杯に守ってきた自分の理性が砂の上に築かれていることを、理屈はなくとも実感としてわかっていたのだ。
わかっていたから幸は告げたのに、獪岳は聞かなかったのだ。
だから、獪岳が今言わなければならないことは、一つだった。
「……俺が、悪かった。お前に散々無理させて、お前の言うことも無視した」
沈黙が降りた。
自分の行動を顧みて謝るなどしたことがなかったから、危うく舌が縺れかける。が、何とか言い切った。
聞こえるのは互いの呼吸音と、瓦を踏み締めては、後ろに蹴る足音だけになった。
なんとか言え、何か言え、と獪岳が叫びたくなったのと同時に、幸が言った。
「……うん、いいよ」
「いいのか?」
「いい。わたしも言い方がよくなかった。それに、足が速いのに、二度も頭を撃たれたのはわたしがのろまだった」
だからあいこにしよう、と続けた。
「それより今は、鬼が先。獪岳、京極屋ってどっち?」
それなら、と獪岳が指で示そうとしたときだ。
京極屋がある方角からずれた街の一角が、轟音と共に崩壊した。
建物が、まるで何か巨大な刃物によって切り裂かれたように崩れたのだ。
「もう始まってやがんのかよ!」
「急がなきゃ!」
言われるまでもなかった。建物が崩れたのは、炭治郎が潜った店がある方角である。
屋根から屋根へ跳び、走るうちに崩された建物がよく見えてくる。壁が真っ二つに切り裂かれており、その切り口は鋭い。
巻き添えにされたと思しい人々が泣き叫ぶ声が聞こえ、血臭が濃くなる。
人を逃がすが先か鬼と戦うのが先か、獪岳は一瞬逡巡して足が緩んだ。
その刹那が、獪岳を救った。
鼻先の空間を、何かが切り裂いたのだ。
「獪岳!」
器用に身を捻った幸が、もう一度飛来した何かを回し蹴りで弾く。勢いで帽子が取れ、編んだ髪がふわりとなびいた。
的を外され、くるくると宙を舞ったのは、二本の鎌である。形こそ草刈り鎌であるが異様に大きく、まるで骨を削って作ったかのよう。
あと半歩先に進んでいれば、鎌で頭を縦に割られていた。それを理解して、背筋が冷えた。
「なんだぁ。お前死んでねぇのかよぉ」
瓦屋根に、上から何者かが飛び降りる。
鎌を二本とも空中で掴み取った男は、獪岳と幸をじろりと眼を動かし見た。
肋を数えられるほどに痩せこけた、猫背の男である。
下は袴とも呼べぬ布を巻き付けたような衣で上は裸。ぼさぼさの髪は、緑と黒という奇妙な色である。
何から何まで尋常でない男、否、鬼だった。
血のような黒い痣に顔を侵食された鬼は、にたりと口の端を吊り上げた。細められていた瞳が開く。
「上弦の……陸!」
「そうだなぁ。それでお前は、裏切り者の鬼と連れの鬼狩りだろぉ」
男の両眼に浮かぶのは、上弦と、陸という字である。
「あっちの鬼は妹が殺すけどなぁ。お前らを野放しにして、また柱を助けられると面倒だからなぁ。だから先に殺しとくのさぁ」
陸の鬼の手に握られた鎌に、黒い血のようなものが纏わりつく。
咄嗟に抜いた獪岳の刀が繰り出したのは、雷の弐ノ型、稲魂だった。
雷光を纏った五斬撃が、黒い斬撃を斬り飛ばす。
─────速い。
それでも、いつ斬られたかすら見えなかった弐の扇よりは、まだ攻撃が見えた。
喉元に迫った鎌を、上体を倒して避ける。鎌を振り抜いた体勢の鬼の側頭に、幸の爪が迫った。
が。
「弱ぇなぁ。お前ら、本当弱ぇよ。人間に、人を喰ってねぇ雑魚鬼だもんなぁ」
鬼の腕が、蛇のように素早く動いて幸の腕を掴み、止めていた。
骨の折れる鈍い音が響く。鬼はそのまま腕を振り、幸を小石のように投げた。
建物が崩れるほどの勢いで、幸は壁に叩きつけられる。粉塵に紛れて姿が見えなくなった。
「幸!」
「余所見してる場合かぁ?」
鬼を見、認識する前に、訓練で散々戦い方を叩き込まれた体が先に反応した。
刀を顔の前で横に構え、二本の鎌を受け止める。斬られるのは防げたが、みしり、と刀が軋んだ。
鬼の膂力に人間は耐えられない。刀は簡単に折れる。
「離れろっ!」
鬼の体が、横にぶれた。
下から跳んだ幸が、頭を蹴り飛ばしたのだ。
力が緩んだその隙に、獪岳は足元の瓦を蹴った。
ごろごろと屋根を転がり落ち、地面に着地する。
すぐさま、鬼も飛び降りて来た。数十先に音もなく山猫のように着地し、鬼はかくりと不気味に首を傾けた。
「弱ぇなぁ。鼠みてぇに弱ぇ。でもお前は鬼だからなぁ。殺すのが手間なんだよなぁ」
「……」
ばきばきと、折れた骨が再生する音が、螺子曲がった幸の腕から響いていた。
鎌鬼が、歪な笑みを一層深くする。
「手足を落として刻んで、首だけにしてやるさぁ。それで帯に閉じ込めて、日に当てりゃあ死ぬよなぁ。あっちの鬼と鬼狩りのほうは、もう妹が殺すだろうしなぁぁ」
あっちの鬼と鬼狩りとは、言うまでもなく竈門と妹のほうだろう。
吉原に潜んでいた鬼は、二体いるのだ。
この鎌鬼と、その妹の鬼が。妹が、蕨姫と偽って花魁に化けていた鬼だったのだろう。
極低い声で幸が囁いた。
「獪岳、炭治郎くんたちの方へ行って」
「は?」
「聞いて。禰豆子ちゃんの気配が変。あっちの鬼も強い。炭治郎くんたちだけじゃ、無理」
「……お前は」
「足止めする。鬼同士だから、できる」
そう遠くないところで、また建物が崩れる音がした。悲鳴の音が高く、うるさくなる。
「何をごそごそ話してやがんだ、よぉ!」
鎌鬼の手が動いた瞬間、獪岳は幸に襟首を掴まれた。
「早く、行って!行け!」
ほぼ怒号に近い咆哮を聞くと同時、獪岳は宙に放り投げられていた。黒い鎌を振りかざした鬼を飛び越し、月が大きく見えるほどの高さに。
「このっ……馬鹿がぁぁぁ!」
通り一本隔てた向こう側に届く勢いで、投げられたのだ。何もせねば死ぬ。
咄嗟に地面に向けて混じり気なしの怒号と共に、刀を振った。
炎の肆ノ型、盛炎のうねり擬きが下にあった屋根を叩き割り、獪岳はそのまま建物の中に落下した。
「ちょっ!なんなの!?」
直後に背後にある鬼の気配目掛けて、遠雷で斬りかかる。鍛練で体に馴染ませた動きで半ば無意識にそこまでをやって、獪岳はようやく、刀を受け止めた相手を見た。
女の鬼である。
派手な帯を何本も侍らせている、長い髪に簪を幾本も差した美しい容姿の女。獪岳の刀を止めたのも、帯の一本。
切見世で襲って来た、動く帯と同じ柄だった。
殺意でぎらぎらと光る両の瞳には、またもや上弦と陸の字がある。
「お前らふざけてんのか!!」
「はぁ!?お前こそ何なのよ!お兄ちゃんはどうしたの!」
「知るか!」
─────雷の呼吸
────陸ノ型、電轟雷轟
襲いかかる帯を、纏めて切り刻む。
部屋の中の障子や畳、屋根が、鬼を巻き込んで吹き飛んだ。
追撃しようとしたとき、獪岳はようやく気づく。
ここは室内。まだ人がいる。部屋の隅で遊女と客らしい男が固まり、震えていたのだ。
「畜生が!」
咄嗟に型を変え、炎の呼吸、盛炎のうねりを放つ。
薙ぎ払われた帯が後退し、獪岳は動いた。
腰を抜かしている男と女を、床に開いた穴から下の階に落とす。
「ぎゃっ!」
「女連れて逃げろ!巻き込むぞ!」
這うように二人が逃げていくのを確認した途端である。
「獪岳さん!」
技を放つ猶予がなかった。
蹴ってかち上げ即席の盾にした畳ごと、帯に斬られる。
獪岳の左肩から、赤い血が飛んだ。
「禰豆子、駄目だ、止まるんだ!」
「ガァ!ガ、ァァァァァァ!」
首をひねって後ろを見れば、竈門と妹がいた。
だが妹のほうには角が生え、しかもどう見ても獪岳の肩の傷の血を求めて暴れていた。それを竈門が羽交い締めにして、抑えようと藻掻いているのだ。
数日前の幸と獪岳と、同じように。
「竈門、
「ど、どうやって……!」
「兄貴ならなんとかしろ!」
「……はいっ!」
限りなく適当なことを吠えた獪岳の言葉に、竈門は躊躇いなく返事をして、妹ごと窓から外へ飛び出した。
「逃さないわよ!」
「テメェこそ動くんじゃねぇよ不細工!」
「なんですって!」
竈門を捕らえようとしていた帯が曲がり、すべて獪岳の方へ向く。
挑発への乗り方といい、こいつは頭が鎌鬼より単純にできているらしい。
─────雷の呼吸
────参ノ型、聚蚊成雷
帯鬼の周りを巡って避けつつ、帯を斬る。
「テメェ、本当に上弦か?」
「はぁ!何言ってんの!アタシは上弦よ!見てわかんないの!」
「弱ぇんだよ!上弦の弐や兄貴と比べりゃ、お前、雑魚だろ!」
「うるさいッ!うるさいうるさいうるさいっ!死ねぇぇっっ!」
身を捻り、刀で弾き、帯をひたすらにあしらう。
数ヶ月、散々煉獄杏寿郎と打ち込み稽古をし、数えるのも馬鹿らしいほどに打たれ叩かれ、地に叩きつけられた。これくらいならば、いなせる。
致命傷になる攻撃には、目や耳で感じるよりも先に体が動いた。
それでも細かい傷は顔や腕につき、羽織りが切られていくが、対処はできる。
しかし、挑発に乗らせてこちらにだけ意識を向けることができたはいいが、獪岳だけでは帯を捌き続けるのが精一杯。
何かきっかけがあるか、もう一人でもいなければ、頸まで刀が届かない。
しかも、こいつと兄の頸を両方斬ればそれで終わりと思えないのだ。
鎌鬼の目にも、同じ上弦の印があった。
しかし兄のほうが明らかに強い。気配がこの帯鬼より異質で、重かった。
単に兄と妹で称号の名を仲良く分け合っているだけ、なのだろうか。
鬼がそんな人間じみたことを、するか?
強さに、大きく開きがあるのに?
─────まさか。
「ちょこまかと、鬱陶しいのよォ!」
獪岳がぞっとする考えを思いついたと同時に、ついに堪忍袋の緒が切れたらしい帯鬼が喚き、帯が爆発した。
天井を、床を、遠慮なく四方八方に振り回された帯が砕き、切り裂く。
床が崩壊し、体が宙に投げ出された。
全力で後ろに跳び、崩れ行く建物から間一髪で飛び出す。
瓦礫を避け着地したそのとき、崩壊して来た瓦の一つがこめかみにぶち当たった。
ぐわぁん、と撞木で突かれた鐘のように脳が揺らされ、星が散った。
膝をつき、体勢を崩した自分目がけて、帯が波のように迫るのが見えた。
「獪岳!」
幾筋もの雷光と斬撃が散って、獪岳を両断しかけていた帯が切り裂かれる。
獪岳の前で肩で息をしているのは、善逸と伊之助だった。伊之助はいつも通りな猪頭を被っているが、善逸は女装した珍妙な格好のまま、手には日輪刀を握っていた。
「獪岳、平気か?」
「……お前、死んでなかったのか」
「死んでねぇよ!!」
ぎゃあ、とよそ見して吠えた伊之助の前に迫った帯を、今度は獪岳は斬った。
頭を打ったせいで吐き気がしたが、呼吸を整えて抑え込む。
眼前に帯が迫っていた。
「避けろ!」
三人別れて避ければ、開いた空間を帯が切り裂いていった。
瓦礫の中から傷一つない姿で現れたのは、やはり帯鬼である。
上弦と陸の字が刻まれた血走った眼を見開き、凄まじい目つきで睨む。
さらなる帯が、瀑布のように押し寄せた。斬っても避けても、きりがない。
「上弦!?じゃあ、あっちで暴れてる鬼はなんなんだよ!?」
「騒ぐな猪!どっちも上弦の陸だ!」
襲い来る帯を切り裂きながら、獪岳は叫んだ。
「どういうことだよ!?」
「俺にわかるか!いいからとにかく、頚を斬るぞ!」
帯鬼を斬っても終わりではない。幸が足止めしている鎌鬼がまだいるのだ。
鬼同士の戦いは、確かにどちらも死ににくい。長引かせることはできる。
それでも十二鬼月の上弦の鬼と、人を守りながら戦うしかない鬼では、どちらが先に動けなくなるかはわかりきっていた。
再生できなくなるまで切り刻む、とあの鎌鬼は言っていた。その通りにするだろう。
急がなければならなかった。
「獪岳、落ち着け!あっちには宇髄さんが行った!炭治郎もすぐ戻る!俺たちはこっちの鬼の頸を斬ることに集中するんだ!」
「は!?」
帯を避けながらの善逸を、獪岳は一瞬まじまじと見た。
落ち着いているのだ。任務となれば、泣くわ喚くわ大騒ぎしていたやつが。
上弦の弐との戦いに跳び込んで来たときの、善逸の動きが今の姿と被る。
こいつに指図されたくないというどす黒い苛立ちと怒りが吹き上がる。
それを、刀の柄をきつく握ることで抑え込んだ。
──────正しい。
善逸の言うことが正しい。
幸の言葉を受け入れなかったから、あんなざまを招いたばかりだ。
今ここで焦ろうが何も変わらない。手元を狂わせた者から、死ぬ。
柱が行ったならば、あの鎌鬼もまだ何とかなるはずだ。
幸は
強がりはあの馬鹿の十八番だが、一度言い切ったのならばもう、獪岳には信じるしかない。
鬼にされても変わらなかったほどの、頑固で強い性格なのだから。
「……帯は俺が全部斬る!お前ら、まっすぐ突っ込んで頸を狙え!」
「わかった!」
「おう!」
元々この帯鬼の狙いは、獪岳にあらかた向いている。
不細工と罵ったことが、よほど勘に障ったらしい。
三人ばらばらに散れば、思った通り帯鬼は獪岳にいの一番に狙いを定めた。
「お前だけは逃がさないわよ!苦しんで死ね!死ねぇぇっ!」
「きぃきぃうるせぇ!何百年も生きてる婆なくせに、癇癪しかできねぇのかよ!」
「ッッッ!!」
怒りが振り切れたのか、最早言葉も無く帯を振るう鬼相手に、電轟雷轟、稲魂、その他の型を組み合わせて、帯を斬る。
習ったことのすべてを受け取れなかったとはいえ、獪岳は二つの呼吸を教わった。手数を増やして来たのだ。
避けそこなった帯が、体のあちこちを浅く抉っていく。羽織りが千切れ、襤褸布となっていく。
それでも、帯を斬る手は止めない。止めてはならなかった。
帯の束をまとめて斬った瞬間、踏みしめた足が、地面に転がった瓦礫の欠片を踏む。
ずるり、と体が滑る。
帯鬼がほくそ笑むのが見えた。帯の群れが、獪岳に向かう。
それを見て取って、獪岳も口角を上げた。
──────狙い通り。
帯鬼の注意が、束の間獪岳だけに向いた。
ぎりぎりで踏ん張り、倒れ込む体を留める。
その背後に、離れていた善逸が雷光を纏った踏み込みで回り込む。腰の刀の柄には、既に手が添えられていた。
獪岳よりも速い、抜刀術だった。
直前に気づいたのか、善逸を叩き落とそうとした帯は、獪岳の刀と伊之助の二刀流が落とした。
霹靂一閃が、帯鬼の頸に吸い込まれる。
善逸が刀を振り切る、その直前に獪岳は見た。
帯鬼の額にさらにもう一つの眼が現れたのだ。
ぎょろりと瞼を押し上げたそこにあったのは、逆さまになった陸の字。
帯鬼の口から、まるきり違う調子の声が響いた。
「妹は、やらせねぇよぉ」
異常に速い速度で新たに生えた帯の一本が善逸を薙ぎ払うと同時、家屋をぶち抜き巻き込みながら、黒い血の旋風が背後から来た。
帯鬼に最も近い善逸は、咄嗟に動けない。技を外された故の硬直だった。
「クソがァ!」
咄嗟に、獪岳は鞘を投げた。
善逸の首を切りかけていた帯に鞘が当たり、軌道が逸れる。
それを認識した瞬間、獪岳と伊之助は黒い風に飲み込まれた。
上から次々と、瓦礫が振り落ちてくる。
一際強く頭に衝撃が走り、視界が闇に閉ざされた。
ぼと、と何か重たいものが落ちた音が遠くから聞こえた。ぬるい液体が頬にかかり、意識が闇の中から引きずり出される。
うつ伏せに倒れたまま、重い瞼を押し上げた。立とうとしても、背中に何かがのしかかっていて、立てない。
眼が、苛立つほどの遅さで色と像を結ぶ。
明瞭になった視界に初めに映ったのは、腕だった。
細く白く、鋭い爪が生え揃った鬼の腕が、瓦礫の上に転がされている。
無理に肉と骨を引き千切られ、折られたように断面からは血を流す、獪岳が見間違うはずがない腕があったのだ。
頭が、真っ白になった。
接敵即地雷踏み抜きの話。
妓夫太郎と堕姫が一体化していたことを炭治郎以外が目撃しておらず、また周辺の避難が行われる前に兄鬼が現れてしまったため、こういう具合です。