では。
今度は、半月も意識が戻らず寝込むということはなかった。
三日寝ただけで獪岳は意識を取り戻したし、獪岳が起きたときには幸も目覚めていて、真っ先におはようと返してきた。
幸は蝶屋敷に運ばれている途中で起きたらしく、獪岳が起きるまで暇にしていたという。
何にせよ、吉原遊郭で上弦の陸と戦って、戦いの後に昏倒した人間の中では、獪岳の目覚めが二番目に早かった。
音柱なぞは、昏倒するどころか、嫁たちの肩を借りながらも自分の足で吉原から歩いて帰ったという。片目が潰れて脇腹が抉れていたというのに、だ。
鬼の幸でも回復のために寝たのに、あの派手男は本当に人間なのだろうか。
それはともかく。
人間の隊士の中で目覚めが一番早かったのは、善逸だった。
蝶屋敷に運び込まれた翌日には起きたというが、両脚をひどく傷めたから紛れもなく重傷。
ついでに言うと、獪岳が投げた鞘で、善逸の腹には物の見事な青痣ができており、さらには肋もぼっきり折れていた。
獪岳くんが綺麗な折り方をしてくれましたからすぐくっつきますよ、とは傷の具合を診に来た蟲柱の一言だ。
痛くて寝返りが打ちづらいと善逸は溢したが、お陰で首が飛んでいないのだからむしろ感謝しろと、獪岳に謝る気はさらさらない。
獪岳も、最後に帯を蹴ったときに無理に力を込めた右脚を酷く痛めたが、善逸はどうやら神速と名付けた、霹靂一閃よりさらに速い踏み込みを使ったため、両脚をやってしまう羽目になったのだ。
毒で一度やられたからか目覚めに時間をくったが、獪岳の回復は速い。
傷の数なら最も多いが、最後に妓夫太郎に受けた背中の傷以外は、深手というほどではない。
急所を外して受けていたし、元々善逸たちより長く全集中の常中で体を鍛えていたのだから。
ただしその掠り傷の程度は、あくまで鬼殺隊を基準としたものである。
普通の人の基準に照らし合わせれば全員重体だったし、今も重傷だから、とは鬼の幸の一言だ。
翻って、現在。
蝶屋敷にての入院が始まってから、四日経った日の夜である。
獪岳は寝床の布団にうつ伏せて、両耳を押さえていた。背中の傷のために、仰向けになれないのだ。
「直るかなぁ?幸ちゃん、直せる?」
「……ん……んー……うん、これなら、なんとか」
「よっしゃ!ありがとう!」
「でもちょっと、時間が」
「大丈夫大丈夫!俺たちまだ当分は入院だし!」
かなり間近で交わされるひそひそ声のやり取りが、素直に鬱陶しかった。
「おい」
ぶん投げた手近の枕は、さっと伏せた幸の頭の上を掠めて、善逸の顔面に直撃した。尚、枕の中身は重たい蕎麦がらである。
「へぶっ!?」
間抜けな声を上げて布団の上に倒れた善逸を、幸が引っ張って起こす。
両脚が石膏と布で固められて使えないので、毎度の情けなさに拍車がかかっていた。
それは別にどうでもいい。よくはないが、今更である。
弟弟子の醜態など、修行時代に散々目にしたのだから。
で、何故に自分がこいつと同じ病室にされねばならないのだろうか。
苛々して髪をかきむしると、心を読んだように幸が口を開いた。
「二人共、脚を怪我したから大人しくしてないと。寝台だと転げ落ちて危ないって、しのぶさんが」
「……クソが」
「あなたたちが、大人しく寝台の上で寝ているような性格だったから私も考えたのですけどね、善逸くんは騒ぐし、獪岳くんも脱走の常習犯です、同門の兄弟弟子ならば同室でも構いませんよねぇ、炭治郎くんと伊之助くんは、まだ面会謝絶の絶対安静で昏睡中ですし、だって。……自業自得」
「嫌がらせじゃねぇか。お前も一言一句再現すんじゃねぇ、記憶力の無駄遣いしやがって」
「何に記憶を割くかは、わたしの自由」
襷で着物の袖を上げた幸は、肩をすくめた。
二つの寝床の枕元、畳の上に広げられているのは、獪岳の羽織りが置かれた風呂敷だ。
裾はまだマシだが、右片袖は半ばまで千切られ、左前身頃の布地は派手に破れている。背中はざっくり切られて、真っ二つになりかけていた。
遊郭の戦いで、獪岳の羽織りはかなりぼろぼろになったのである。
梅という名だった帯鬼の攻撃を、前に出て最も多く捌いた結果、纏っていた羽織りは、派手に切り裂かれることになった。
捨てればいいだろうといえば、嫌だ嫌だ、と善逸が喚いたのだ。
大事な先生がくれたものを捨てていいのかと切り返されては、答えられない。
かと言って、一度自分で捨てたことがある羽織りをもう一度欲しいと自分から言うのは、獪岳には嫌だったのだ。
喧々言い争う獪岳と善逸の横で、ぼんやりと破れた羽織りを弄っていた幸が口を挟んだのは、そんなときである。
「直せば、多分、いける」
その一言に、そういえばこいつは針仕事が大人顔負けに上手かったのだということを、獪岳は思い出した。
蟲柱や看護婦の少女たちから分けてもらったという黒い絹糸や布、借りて来た裁縫道具一式を抱えて戻って来た顔は、心なし嬉しそうだった。
今も、ふんふんと鼻唄混じりに黒の糸巻きを取り出しているのを見ると、あまり邪魔したくない。
だがその丈夫そうな糸、まさか傷口を縫うためのものじゃないだろうな。
幸の手元を覗き込んで嬉しそうにしている善逸の顔面に、獪岳は二個目の蕎麦がら枕をぶち当てた。
「いでっ!!」
「テメェはとっとと脚治しやがれ。んでどっか行け。鬱陶しいんだよ」
「俺より獪岳のほうが怪我の治り速いじゃん!早く治るのはむしろそっちじゃない!?」
「うっせぇ。一々喚くな。耳が良いだか何だか知らねぇけどよぉ、テメェは声が無駄にでけぇんだ。自覚しろ、蛸」
「蛸!?蛸ってなに!俺あんな面じゃねぇし!」
「そうだなァ。お前と比べちまうのは蛸に失礼だったな」
「ちっげぇよ!」
「そうやって騒ぐから、しのぶさんに怒られる」
しゃきん、と鋏が糸を断ち切る音が、やけに大きく聞こえ、二人同時にぴしりと固まる。
言った当人は手元から顔を上げることもせずに、ただひたすら羽織りを繋ぎ合わせているだけだ。
最後に針を持ったのは随分前だろうに、よくもまぁ淀みなくできたものである。
細く白い指が、小鳥の羽ばたきのように軽やかに銀の針を動かすたび、幸の手の中で羽織りが段々と元の形に戻っていく。
眺めていれば、見世物のようで案外楽しいものだった。
今日の幸の髪型はいつもと違い、後ろ髪の上半分だけを上げて胡蝶の髪飾りで留め、余った分を背中に流していた。
着ているものも、紺の行燈袴に薄青と白の矢絣の小袖だった。
「幸、お前そんな着物持ってたか?」
「持ってなかった。行冥さんにもらったの。前のが着られなくなったこと、知ってた」
「……あの人、いつ来たんだ」
「一昨日の夜。獪岳が寝てるときに来て、頭をなでて、帰った。忙しいから」
「……誰が、誰の」
「行冥さんが、獪岳の」
他の誰が誰の頭を撫でたりするのかと言いたげに、ようやっと顔を上げた幸は片眉を上げた。
「わたしもなでてもらったよ。会えるの、待ってるって」
ぽわぽわと頭から花を飛ばしていそうな能天気は放って、獪岳は呻いた。
この病室まで悲鳴嶼がやって来たなら、まさか起きていたかもしれない善逸に、頭を撫でられるところを見られたのか。
昔の、餓鬼だったころのように。
横目で睨むと、善逸はへらっと笑った。それでもう答えは出た。
投げる枕は無くなっていたので、獪岳は自分のやわらかい枕に突っ伏した。
最悪だ。とんだ恥さらしだ。
やはり弟弟子など、鞘を投げてまで庇わなければ良かった。ろくなことにならない。
「おう、邪魔すんぞ」
がらりと障子が開け放たれたのは、まさにそのときだった。
「ゲッ!」
「ん」
「……」
宇髄天元である。
片目を眼帯で覆って髪を下ろしており、隊服も着ていないが、それ以外はあまり変わりがないように見えた。相変わらず、無闇に背が高い。
「よォ。お前らが一等早く起きたんだってなぁ。意外に元気そうじゃねぇか」
片手をひらりと上げ、長身を屈めて部屋に入って来た音柱は、どっかと胡座をかいた。
起き上がろうとすれば、手のひらを向けられてそのままでいいと言われる。
寝転がったまま見下ろされるのは、落ち着かないのだが、無理に起き上がると背中の傷が痛むのも事実で、素直に聞いておくことにした。
「何しに来たんですか?」
「あ?見舞いに決まってんだろ。胡蝶に薬貰いに来たら、お前らは起きたっていうじゃねぇか。そりゃ顔くらいは見に来るさ。あとはそっちの鬼っ娘に聞きたいこともあったしな」
「?」
繕い物の手を止めて膝の上に手を揃え、正座していた幸はきょとんと首を傾げた。
「まァ、くだらねえといやぁ、くだらねえんだけどよ。お前、悲鳴嶼さんのなんなんだ?」
柱合会議にて、宇髄は吉原でのことを報告した。何しろ、百年以上欠けることがなかった十二鬼月の一体を倒したのである。
無限列車といい、今回といい、上弦と会敵または撃破して鬼殺隊には死人が出ていないことは、良い流れなのだとお館様は仰ったらしい。
片目を無くしたものの、結局宇髄も柱を続けることになったそうだ。
「煉獄が怪我で欠けたばかりってのもあるしな。ま、そうは言ってもしばらくは休養さ。俺の目もこうなっちまったが、雛鶴は毒を飲んだし、まきをと須磨も大分長いこと血鬼術に捕まってたからなぁ」
嫁が三人もいると諸々大変そうだ、と獪岳は半ば呆れながら思う。嫁の名を聞いて血涙流しそうな弟弟子は無視である、無視。
だがそれと、悲鳴嶼の名前が出てきた理由はどう繋がるのだ。
「あの、それで、行冥さんがどうかしたんです、か?」
「ああ、そうだった。会議終わったあとに、俺だけあの人に呼び止められたんだよ」
曰く、幸を遊郭に行かせたのか、と。
鬼殺隊の任地であるならば、遊郭だろうが何処だろうが幸が赴くことに否やは言えぬが、一人で吉原にて合流したというあの子は元気にしていたのか、何か精神的に参っているということはなかったか、と。
やけにあの鬼の娘に拘るんだな、と尋ねれば、昔助けた子どもだからだ、と返されたそうだ。
かつて助けた子どもが、人を喰わぬとはいえ鬼にされて現れた。その娘の幼馴染みが、鬼殺隊士になって鬼を庇っていた。
確かに誰にとっても、そうとだけ聞けば不幸な話である。内情はもう少し複雑だが。
それにしたって、聞き方に圧があったと宇髄は言う。その理由が何かと聞いているのだ。
しかし、問いを振られた幸はあまり話を理解していないようだっだった。
遊郭で戦ったことを、何故育て親にそこまで言われなければならないのかわからないという戸惑いが、素直に顔に出ていた。
ため息をつきかけた。
要は、世間知らずの気がある十七歳の娘が、一人で花街に行って精神的に色々と平気だったかを心配されているのだということに、気づけていない。
男の格好で現れていた辺り、吉原の何たるかをまるきり理解していないわけでも、頭の回転が遅いわけでもないのに、時々鈍くなる。
最近気づいたことだが、ふとしたときに、幸はこういう歪つな幼さが表に出る。
心の時計の歯車のどれかが、七歳の夜で錆びて、止まったきりなのではないかと思うほどだ。
黙っているつもりだったが、やむを得ずに口を開いた。
「助けたも何も、こいつを拾って育てたのがあの人なんですよ。赤ん坊のころから七つになるまで。そりゃ、思い入れもあるでしょうよ」
「……すると何か、幼馴染みだっていうお前もそうなのか?」
「俺は別に。あの人ンところで世話になったのは、精々二年ぐらいなもんです」
思い返せばあそこは、貧しいが優しい人間がいる、珍しいところだった。
自分たちも貧しいのに、身を削ってまで他人を慮れる人間など、本当に少ない。
他人に優しくできるのは、自分に余裕があるやつらだけだ。
しかしあそこは、拾われるまでの獪岳が、盗みを働いて生きていたことを知っても、もう二度としないならば自分たちは咎めないと、受け入れてくれた。
最悪な形であの場所が壊されてしまってから先生に拾われるまで、獪岳はあちこちを転々としたが、あの寺以上に安らげた場所はなかった。
そうと気づいたときには、もう
話を聞いた宇髄は、がりがりと頭をかいた。
元の顔がいいと、無造作な仕草でも逐一絵になるのだと獪岳は今学んだ。
「なんつぅか……お前らもあの悲鳴嶼さんも、色々あったんだな。あの人は、自分の昔の話とかあんまりしねぇし」
「訳有りじゃないやつとか、鬼殺隊にいるんですか?」
「ナマ言いやがるなァ」
不敵に笑い、ぐしゃぐしゃと宇髄は獪岳と善逸の頭をかき回した。
「わっ、ちょっ!なんなんですかアンタ!怪我してんなら家帰ればいいじゃないですか!嫁さん待たせてんでしょ!」
「応。三人とも俺の帰りを待ってくれてるぜ。てか善逸よォ、お前にはいねぇのか。兄弟子みてぇに、繕い物やってくれる良い人の一人でもよ」
「余計なお世話ですぅぅぅ!!俺には禰豆子ちゃんがいますから!!な!獪岳!」
「テメェの妄想に俺を巻き込んでんじゃねぇよ、カス」
「獪岳。カスは、駄目」
ぺち、と額を指で弾かれた。
良い人、と宣った宇髄の言葉は丸ごと無視である。顔色一つ変わらないどころか、髪一筋たりともそよいでいない。
流石に、良い人という言葉の意味ぐらい知らないわけないだろうにこの態度を取るということは、つまり宇髄の言を、幸はやり過ごしたいのだ。
獪岳も派手男の戯言に乗るのは面倒くさいので、それに付き合う。
何にしてもこの派手柱、いい加減帰っちゃくれないだろうか。
からかわれてごちゃごちゃ抜かしている弟弟子の声が喧しく、獪岳は枕で耳を覆う。幸もあっさり、羽織りを縫い直すのに戻っていた。
「宇髄さん」
底の知れない笑みを浮かべてそのとき入って来たのは、胡蝶しのぶであった。
「彼らも、まだ安静にしておかないといけないんですよ。あまり興奮させないで下さい。これでは、何のために煉獄さんに見舞いを止しにしてもらったのか、わからないじゃありませんか」
「……師匠が?」
耳をふさいでいた枕を退けて尋ねると、蟲柱は獪岳に視線を据えて頷いた。
「ええ。あなたたちが運び込まれてからすぐに来ようとしていたんですが、あの人が来ると、獪岳くん、また鍛錬したがるでしょう?だから、少しの間だけですけれど、見舞いは控えてもらったんです」
鍛錬だといって抜け出すのは、蝶屋敷で竈門たちと顔を合わせていたくないからなのだが、言うのはやめておいた。
それにしても、そうか。
師匠は、煉獄杏寿郎は、見舞いに来ようとしてくれていたのか。
今の自分の表情を誰にも見られたくなく、獪岳は枕にうつ伏せた。
そして宇髄は、しのぶに声をかけられれば、あっさりと腰を上げた。
「邪魔したなァ。お前ら、全集中の常中も忘れんじゃねぇぞ」
からから笑い、音柱は歩き去って行った。
音というより、嵐のようだ。
彼を見送り、しのぶは軽く手を叩く。
「さて二人とも、もう消灯しますから静かに、ね。あ、幸さん、お裁縫なら私の部屋でどうぞ。しばらくは起きていますから」
「……いいんですか?」
「ええ。あなたとは、話したいこともありますから」
こくん、と幸は首肯して、手際よく繕いかけの羽織りと裁縫道具を風呂敷に包むと立ち上がった。
「獪岳、善逸君。また明日。あんまり派手な喧嘩は、駄目」
「そこはまず、喧嘩をしないように止めてほしいんですけれど」
「それは無理です。ごめんなさい」
ほぼ同じ背丈の蟲柱と幸は、並んでいなくなった。明かりが消されれば、白い障子がぼんやり闇に浮かび上がる。
寝よう、と枕に顔を埋めると、隣でごそごそと寝返りを打つ気配があった。
「か、獪岳。まだ起きてる?」
「……」
音でわかるだろうがと思いつつ、薄目を開けた。怪我のため寝返りがろくに打てないので、背を向けることもできないのに苛立ちが募る。
「……なんだよ」
「え、えっと……いや、その、しのぶさんと幸ちゃん仲いいのかなぁって、気になって……」
「仇が同じ鬼だからだろ。あいつは蟲柱の毒作りに協力してるし、蟲柱はあいつに戦いを教えてる。協力してんだよ」
上弦の弐は、童磨という名だった。
陸の兄妹を鬼にしたのもやつだったというから、少なくとも童磨はそれより前から十二鬼月にいた古参だ。
その童磨は、元花柱の胡蝶カナエも殺しており、しのぶにとっては姉の仇になる。
たった一人の肉親、最愛の姉を殺されたと語ったしのぶの菫色の瞳は、あれを殺すと言った幸の金色の瞳とそっくりだった。
同じ復讐者なのだ。
相通ずるものがあって当然だ。
しのぶの作る毒を幸が自分の体で試して、より強力な毒を精製していると聞いたときは大丈夫なのかと思ったが、意地でもやめないと言うから獪岳は諦めた。
試すうちに幸には藤毒への耐性が次々出来上がり、しのぶがより強い毒素を持つものを作る、というふうに回っているらしい。
引き換えに、幸はしのぶから体術の基礎を教わっているというから、取り引きのようなものだ。
鎌鬼の、妓夫太郎の攻撃を自分に集めつつ、街の人間を庇う器用なこと、数ヶ月前の突撃しかできない幸には、できていなかったろうから。
「話はそれだけか?なら黙れ」
「あっ、待った待って!それだけじゃないから!えっとあの……吉原で戦ってたとき、獪岳、鞘投げて俺のこと助けてくれただろ。それがその、嬉しくて、だから……ありが───ぶぇっ!?」
三つ目の枕は、狙い通りに当たったらしかった。
「貸し借り消して、テメェの尻拭いしてやっただけだ。あんな馬鹿鬼に狙い外されやがって」
「へ?貸し?俺、獪岳になんか貸してた?」
気の抜けた声は、完全に覚えていないようだった。
無限列車で上弦の氷に串刺しにされかけた獪岳の前に飛び込んで、霹靂一閃で斬り払ったときのことである。
順の後先でいうと、獪岳のほうが先に善逸に助けられていた。
初めて庇われた獪岳の屈辱を、庇ったほうが覚えていないならば、拘っていた自分のほうが馬鹿ではないか。
こいつのこういうところが、自分は大嫌いだったのだ。
昔も、それに今も。
「……もういい。次は死んでも助けねぇからな。テメェで何とかしやがれ。神速だか何だか知らねぇが、新しい技ぐらいあるんだろ」
「あれまだ二回しか使えないんだって!獪岳のほうこそ、雷と炎混ぜてなんか新しい技出してたじゃん!獪岳も新しい型つくるんだろ!?」
「……獪岳、
「あっ」
あぁぁぁぁあ、と訳のわからぬ鳴き声を上げた善逸は頭を抱えた。
うっかり口を滑らせたらしい。
やがて呻くのをやめて、ぼそぼそと善逸は口を開いた。
「だって俺、雷の呼吸、ひとつしか使えないだろ。八連、六連ができても、神速で速く跳べてもさ。……獪岳が帯鬼の攻撃前で受けてくれてたから、俺はこんな怪我で済んだけどさ、あんたは俺より起きるのが遅かったじゃん。毒までくらってさ」
「で、だから?」
「だから、心配したんだよ、俺!幸ちゃんも、獪岳が起きたときはにこにこしてただろうけど、それまではずっと泣きそうにしてたんだからな!」
「……今あいつは関係ねぇだろ」
「ある!あります!こ、今度はあんたの横で戦えるように、俺はもっと頑張んの!強くなるの!そのために新しい型つくろうとしてんだ!だけどできるようになるまで恥ずかしいから言いたくなかったの!!以上!寝る!おやすみ!」
ふざけんな、と勝手に布団まんじゅうになった馬鹿の脛あたりを蹴ると、絞め殺された鶏のような声が上がった。
「イッタ!なんでわざわざ足蹴んの!?アンタそういうとこだよホント!幸ちゃんに愛想つかされても知らないからな!」
「ハッ。あり得ねぇし」
「本気で言ってんのが腹立ッつゥ!!」
「ねぇ」
善逸が叫ぶのとほぼ同時に、障子が細く開いた。
水のようにするりと入って来たのは、幸である。
手には何も持っていないまま、二つの寝床のちょうど真ん中ですっと音も無く膝を折り、座る。
障子の外の明かりを背にしているから、あまり表情が読めなかった。
「獪岳に言いたいことは、言えた?善逸君」
ゆっくり、幸が首を傾けた。
金色の目が、小猫のようにきらきらと光っている。
「あ、うん……。ありがとう」
「どういたしまして。……だけど、二人とも、声がすこぅし大きかった。すみちゃんなほちゃんきよちゃんが、気にしてる。……それに獪岳、自分の使うぶんの枕まで善逸君に投げた?」
「……ふん」
「……短気」
一度立ってから戻った幸は、獪岳の顎の下にそっと枕を差し入れた。
一瞬だけ額に軽く触れた手は、すぐ離れていった。
「今度は、二人がちゃんと寝るまで、戻らないから」
そう言って、しゃんと背筋を伸ばして正座した幸の口から心地よい音が溢れた。
少し掠れてはいるがやわらかい、低く、高く、また低く、途切れない漣のように続く節回しのそれは、唄だった。
言葉を持たない唄の調べが、寄せては返す波のような響きが、薄闇でひたひたと満たされた部屋の空気にとけて巡り、巡る。
緩くてあたたかい流れに、包み込まれていくようだった。
元々体は、受けた傷を癒やしている最中である。騒いでいた分と相まって、眠気は割合すぐに来た。
重くなる瞼を閉じる直前、薄闇の中で微笑んでいる顔が見えた気がした。
─────おやすみなさい、良い夢を。
だから、その呟きはきっと、まぼろしの声だったのだろう。
ほのぼの回です。
獪岳が起きる前に善逸と鬼っ娘は、少々打ち合わせしてます。
この二人はお互いを、自分の知らない獪岳を知っていて、かつ獪岳を気遣うひとだと認識しているので、割りと仲良しです。
ちなみに善逸は、戦いの後半起きてました。
鬼っ娘に、「変な格好」と言われて目をかっ開いた辺りからです。
次話で二章が終わり。
尚、些細なアンケートを設置したので、ポチリとご協力下さい。
【コソコソ噂話】
詞のない守唄は、いつかの日、女性の腕の中に抱かれて聞いた戯れ歌です。
口ずさむと、ずっと昔、泡のように短い間だったとしても、そんなふうに抱かれていた日もあったのだと思い出します。
それはそれとして、寝かしつけに何故かよく効きます。すごく便利です。