これで二章終わりと言っていましたが、結局伸びましてまだ一話あります。度々変更し、申し訳ありません。
では。
「お前さぁ、前みたくに喋れなくなってんのか?」
悲鳴嶼の家、岩柱邸へと向かう山道を歩きながら尋ねると、獪岳の数歩先を歩いていた幸は、三つ編みにした髪を揺らし、振り返った。
「前って、いつ?」
「前は前だよ。お前、無限列車の後はぺらぺら色々と喋ってただろ」
「別に、頭が暗示でまた鈍くなったということはないよ。ほら、ね?」
それは確かに、炎柱の家や蝶屋敷での微妙な辿々しさがなくなった滑らかな口調だった。
「わたしはどこでも、普通に考えているつもりだけれど、緊張すると、こう、言葉がうまく出なくなるだけ。わたしが鬼であることとは、関係ないよ」
「ならなんで、今は……」
「獪岳に緊張はしないから」
それだけ、と幸はまた前を向いた。
岩柱邸は、炎柱邸からそこそこな距離にあった。
それでも、日が暮れる前にはなんとか辿り着けるだろうと思っていたのだが、怪我をした獪岳の脚は思った以上に動きが悪く、山道を歩くうちに日が暮れてしまったのだ。担いで歩こうか、と幸に言われたのは全力で断った。
幸が探せる範囲に鬼の気配はないが、ざわざわと葉が風で擦れ合う音と、服の上から染み込むような冷たい夜気、辺りに満ちる土のにおいが、否が応でも記憶を掘り起こす。
闇の中を一人で逃げた日、小さな少女を見捨てて逃げた、あの夜のことだ。
あの夜から成長したようにも、あの夜に閉じ込められたままにも思える少女は、小さな明かりを片手に、淀みなく暗がりを歩いていく。その明かりも、鬼の彼女には本来必要ない。
怪我をして足元が覚束ない、獪岳のためのものだ。
獪岳に緊張しないと、少女は言った。
つまり、それ以外の人間には、仲間には、緊張しているのだ。
獪岳よりよほどうまく人に好かれる、穏やかで朗らかな気質なのに、言葉がままならなくなるほど彼らの前では平静ではいられなくなる。
獪岳は知らなかったし、知ろうともしていなかった。違和感を覚えてこそいたが、それだけだ。
「仲間の……あいつらの前でもそうなるのか?」
「なる。しのぶさんのお医者様の本にあったけど、長い間、人と話していないと、言葉がうまく出なくなるんだって。だからわたしも、多分それ。病気……というよりは、怪我らしい。それも、心の」
見えないから、治せない。
治せないから、どうしようもない。
鬼になったことは、関係ない。
「知ってるよ、わかってる。皆、理由もなく刀を抜く人じゃないって、だけど……」
藤襲山の選別用の鬼として過ごした年月が、枷になる。
悪鬼と呼び刀を向けてくる人間と、飢えて肉を狙ってくる鬼しかいなかった八年間。
太陽から隠れ、毒花の香りに包まれて眠るしかなかった八年間。
根付いた恐怖と巣食った諦観が、言葉を自分の中から消してしまう。
藤の山の夜が、終わらないから。
「どうして、急にそんなことを聞くの?」
振り返った幸の瞳に、今まで気づいていなかったくせに、とそう咎められているような気がした。
わかっている。
そんなものは、錯覚だ。
楽になりたいがために自分の心が生んだ、まぼろしで、嘘だ。
だってこいつは、いつも優しい。
怒るときがあっても、理不尽な、道理のない怒りを振り翳したことは一度だってない。
幸は決して、獪岳に罰を与えない。
お前のせいだ、というたった一言さえ口にしない。
下る罰がないならば、与えられる赦しも永久になく、だから自分のような人間は、考え続けるしかない。
あの夜。
自分はどうすればよかったのか、本当はどうしたかったのかと、解が与えられることなどない問いを、永遠に、一人で。
黙り込んだ獪岳に、幸は音もなく近寄って顔を見上げた。
「獪岳、脚が痛いなら戻る?」
「痛くねぇよ。今晩外したら、また悲鳴嶼さんは任務に行っちまうだろ。会いたくないのかよ」
「それは、会いたいけど」
「なら、勝手に遠慮なんかすんじゃねぇ」
幸が純粋に、ごく単純に、獪岳の脚を心配しているのだとわかっているのだ。
悲鳴嶼に会いたがっているのに、雷の呼吸には脚が重要だと知っているから、そういう言葉が出て来る。
「さっきから何か変だよ。煉獄さんのお父さんに言われたこと考えてるの?」
「……そりゃまぁ、考えるだろ」
刀を取った理由、鬼を殺す理由。
生きるために鬼殺隊に入ったとは言ったが、自分の行動が矛盾していることに気づかないほど馬鹿ではない。
上弦の弐に鬼になれと言われたときに、自分は誘いを蹴った。
誘いに乗らねば死ぬとわかっていたし、助けが都合よく来るとは微塵も思っていなかった。
それでも、鬼になるのは嫌だったのだ。
理性より先に心が口を利いて、あの鬼が伸ばして来た手を払いのけていた。
あの夜を想起させる山道を歩きながらやれることと言ったら、考えるしかなかった。
「獪岳って、桑島さんとどんなふうに出会ったの?」
「あ?」
「善逸くんは、女の人に騙されたときの借金を肩代わりしてもらって、弟子入りしたって言ってた。獪岳は?」
「ンな間抜けな借金するかよ」
「でも、普通に会ったわけでもないよね。……もしかして、桑島さんの懐掏ろうとして、捕まったり、した?」
はた、と足が止まる。
あぁやっぱり、と幸が額に手を当てていた。
「……悪いかよ。食わなきゃ死にそうだったんだよ、こちとら」
「開き直らないで。悪いことは、悪いことだよ。ちゃんと謝ったの?」
「謝る前にぼこぼこにされたからもう手打ちだろ。で、そんだけ逃げ足が速いなら弟子になれって言うんで、なった。鬼も殺せるって聞いたしな」
かたわの爺だと思ったら、凄まじい気迫で追いかけて来て杖でぶん殴られたのだ。
鬼殺隊の育手で元鳴柱と知ったのは、まず気絶から起きた後である。
運よく育手に巡り合えたことに獪岳は驚いたが、鬼の存在を知っている獪岳に桑島の先生も驚いていた。
鬼に襲われ、鬼殺隊に助けられることなく生き残った子どもに、驚いていたのだ。
鬼に何を奪われたのかと尋ねられて、さてあの日の己は何と答えたのだろう。
多分先生には、自分が、鬼に何もかもを奪われた子どもに見えていたのだ。
元々何も持っていなかった惨めな餓鬼が、元に戻っただけだったのに。
「なれって言われたから、鬼殺隊になったんだ」
「俺がなりたかったからなったんだ。肝心なとこ間違ってんじゃねぇよ」
「それなら、どうしてなりたかったの?」
灯りを胸の高さに掲げて、幸が振り返り、立ち止まった。
「獪岳が鬼をそこまで殺したがってるって、わたしは思っていなかった。だって鬼のわたしを、便利だからって山から出したでしょう?あの山に来る人はただの一人も、そんなことはしなかったよ」
幼い子どもの姿であっても、鬼であるならば恨みと憎しみに満ちた目を光らせ、刀を振りかざすのが最終選別にやって来る人間たちだった。
それが鬼殺隊で、それが当たり前のことだと幸は思っていたのだ。
理由は簡単だった。
「そんなもん、お前だから山から出したに決まってんだろ。他の鬼だったら、人を喰ってねぇって言おうが殺してる。信じらンねぇからだよ」
鬼の言葉を信じてはならない、と、繰り返し教えられていた。
すぐ嘘をついて騙す、欲望をむき出しにする、腹が空くまま人を喰らう、本能と我欲の塊だ、と。
聞いた時分には、人間だって大差はないだろうがと鼻で笑ったが、いや人はよほど追い詰められなければ、人の肉を喰らって飢えを満たしたりなどしないから、その点は確かに化け物の行動だな、と納得したものだ。
「俺は、鬼を殺したかったんだ。どっかで顔も知らねぇ誰かを喰ってるやつらじゃなくて、あの夜俺たちを襲った鬼を」
見ず知らずの人間は、鬼に食われずともどうせ獪岳の知らないところで生きて死んでいく。
彼らは獪岳の生き死になど頓着せず、獪岳にしてもそれは同じだった。
他人のために生命はかけられなかった。かけたくなかった。
そんな自分に逃げろと、生きろと、自分の生命を捨ててでも庇ってくれたやつがいた。
自分の生命すべてを使った優しさを最期にくれたそいつを、惨たらしく殺しただろう鬼を、あれからも与えられるはずだった自分の幸福を壊した鬼を、心底恨んで、憎んだ。
でも、その鬼はとうの昔に死んでいて、獪岳を庇ってくれたそいつは、また別の、塵のような鬼の手で、鬼に変えられていた。
滑稽な話だ。
何ひとつ、あの夜に逃げた獪岳にできたことは、なかった。
ああそうだ、
雷が落ちるように一瞬に、その事実が胸の中に降りて来た。
「獪岳……それ、鬼殺隊としては……」
「失格だってんだろ。悪かったな。俺はこういうやつだよ」
人を守り、鬼を斬る。それが鬼殺隊だ。
しかし自分は、見ず知らずの人間と、この幼馴染みの鬼と、どちらか一つだけしか守れないならば、躊躇いなく後者を選ぶ。
何度問われようが、必ずそうする。
鬼殺隊の掟など、くそくらえなのだ。
だがそれがどうした。失格で上等だ。
何も持てなかった自分が、どうしてこれ以上奪われなければならない。
何も悪くないやつが、どうして殺されなければならない。
恨みがましかろうが、誤りであろうが、変えられるものではなく、変えるつもりもなかった。
ふわ、と幸が微笑んだ。
「獪岳で失格なら、じゃあわたしも失格だ」
「は?」
「だって今の、嬉しかったんだもん」
くるり、と幸は前を見て、歩き出す。
「おいちょっと待て!どういう意味だよ!」
「教えない。自分で考えて」
「またそれか!!」
肩をつかもうとするも、幸はひらりと蝶のように避けて、逆に体勢を崩しかけた獪岳の腕を支えた。
「ほら、気をつけて。片脚、まだいつもみたいに使えないんだから。あともう少しだよ」
「……」
屈託のない顔を見ていると、肩から力が抜けた。
どうして、こいつは、こうあれるのだろう。
道の先には確かに、屋敷の灯りが見えていた。
「お前、なんで誰も嫌わねぇんだよ。あの糞野郎以外でさぁ」
間近の顔には、幼いあたたかさと大人びた涼しさが混ざり合う不思議な透明さがあった。
金色の瞳が瞬かれ、幸はごく小さな、ほとんど囁くような声で言った。
「そんなこと、ないよ。どうしても好きになれない嫌いな人ぐらい、いる」
「へぇ、誰だよ」
それは何気ない問いだった。
からかいついでのような、軽口のつもりだったのだ。
「 」
小さな声が耳朶を打つ。ざぁ、と音立てて風が吹き抜けていった。
聞き違えたのだと、獪岳は思った。
「……あ?」
聞き返そうと、そう思った。
だが、それはできなかった。
ドン、という大きな音が、岩柱邸の方から聞こえたのだ。
尋常でないその音に、幸も獪岳も身構える。
「なんだ今の。鬼か?」
「鬼はいない。……と思うけど」
それならば何なのだと思った途端に、もう一度、ドン、と音が響いた。凄まじい力で何かを殴りつけるような、そんな鈍い音だ。
「ん?」
空気のにおいを嗅いだのか、張りつめていた幸の肩から力が抜けた。
「大丈夫だよ。今のは、鬼じゃない。鬼じゃないけど、獪岳は鬼喰いを知ってる?」
「鬼喰い?」
「じゃあ、今から知って」
行こう、と幸は歩き出した。
門をくぐらず、屋敷をぐるりと囲う塀に沿って裏手へと進む背中を、獪岳は杖をつきながら追いかけた。
歩きながら、幸は何故か小さく縮んだ。
「おい。鬼喰いってなんのことだよ」
「前に、しのぶさんに教えてもらった。わたしが鬼にしては余りにまともだから、もしかしたら鬼になったんじゃなく、鬼喰いから戻れなくなっただけなんじゃないか、って」
その仮説は間違っていたが、鬼喰いに関して幸はそこで教わったのだ。
「鬼喰いは、人が鬼を食べること。食べてその力を使うこと。……今の鬼殺隊でそれができる人が、一人だけいる」
屋敷の裏手の林の中、こちらに背を向けて立っている人間がいた。頭の両側を剃り上げた特徴ある髪型は、見覚えがあった。
「不死川、玄弥君」
振り返ったそいつの目を見て、獪岳は身構えた。縦に割れた瞳孔と、白目の部分が黒く染まったそれは、鬼の目だったからだ。
「……お前らかよ」
「うん、そうです。こんばんは、玄弥君」
「悲鳴嶼さんならいねぇ。でも、あんたらが来るってことは聞いてる。……遅かったな」
しかし、幸も玄弥もごく当たり前に挨拶を交わすのだから、獪岳は混乱した。
玄弥の足元に転がっているのは、大穴が開いた木や砕けた岩の欠片である。
苛立った子どもが当たり散らしてそこらの物を殴り、投げたあとのような野放図さだった。
先程の音も、恐らく不死川玄弥が何かを殴った音だったのだろう。
「おい、何なのか説明しろよ」
仏頂面の玄弥の後について屋敷の入り口に向かいながら、小声で尋ねると幸も小声で返してきた。
「あなたが、ちゃんと話を聞いてくれるなら、ね」
思いがけなくも、深いところにぐさりと刺さる一言だった。
言い返すのを抑えて、獪岳も岩柱邸の中へと入ったのだった。
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悲鳴嶼行冥は岩柱であるから、多忙である。
今日会いに行くと何日か前に鴉伝手で伝えていたとしても、任務が入ればそちらに向かわねばならない。
柱が呼ばれる任務は、既に事態がかなり悪化したものであるから、行かないということはありえない。それこそ、無限列車や那田蜘蛛山のときのように。
そういう事情がわかっているから、任務でいないと言われても、だろうな、としか思わなかった。
幸にしても変わらず、残念であっても肩を落とすほどのことではなかったらしく、すんなり頷いていた。
「お前らが来たら待たせとけって言われてるから、適当にいりゃいいだろ。悲鳴嶼さんは、多分あと少しすれば帰ってくる」
悲鳴嶼の弟子だという不死川玄弥は、ぞんざいに言う。
言葉や態度から滲み出ている、あからさまに歓迎しない空気に気づいているのか、気づいていて尚気にしないことにしたのか、ともかく幸はけろりとしていた。
「はい。あの、玄弥君、お勝手を借りてもいいですか?こっちが、お腹を減らしていて」
こっち、と幸が獪岳を手で示した瞬間に、測ったかのように獪岳の腹が盛大に鳴った。
考えてみれば、朝に蝶屋敷を抜け出して夕方に炎柱邸を出、ここまで歩いて来たのだから、腹が減っていて当たり前だ。
あれこれと珍しく考えを巡らせていたから空腹感を忘れていたのだ。それにしたって、死ぬほど恥ずかしかったが。
「……お前なら、使っても悲鳴嶼さんは怒らねぇだろ。好きにしろよ」
「ありがとう、ございます。では」
などと言って、幸はとっとと消えてしまった。
その脚で歩いて来たんだからじっとしてて、と割とにべもなかった。
後に残ったのは、これまでろくに話したこともない不死川玄弥である。
瞳孔も気配も人そのものだったが、さっきは明らかに鬼のように瞳孔が割れて白目が黒くなり、気配が妙になっていた。
鬼喰い、というやつの結果なのだろう。
外へ出るでもなし、玄弥は獪岳の向かいに腰を下ろしてじろりと獪岳を睨む。
顔を横切る白い傷跡に三白眼が目立つこいつの人相は、有り体に言って良くない。女子どもに怖がられそうである。
尤も、顔面に派手な傷が残っているのは獪岳も同じで、目つきが悪いのも同じだ。幸に怖がられたことはないが。
「……なんだよ」
「お前、鬼喰いをしてたのか?」
「関係ねぇだろ。お前なんかには」
かちんと来た。
悲鳴嶼さんに会いに来い、心配をかけているぞ、と蝶屋敷で何度か遭遇したときは声をかけてきたというのに、何故こいつは今、獪岳に向け、気に入らないという感情を向けてくるのだ。
自分へ向けられる嫌悪や敵意に、獪岳は敏感だ。
玄弥君のことを気にかけてあげてほしい、と幸は言っていたが、これでは御免被る。
完全に嫌われているだろうがこれは。
しかし、それなら謎も出てくる。
獪岳を嫌っているならば、何故こいつはどこにも行かず、仏頂面のままここにいる。
これが竈門や善逸ならば、鼻やら耳やらで不死川玄弥の心がわかったろうが、生憎そんな便利なものは獪岳にはない。
「……?」
幸が二つ膳を持って戻ってくるまで、無言の空間が続く羽目になった。
何してたの、と言いたげに首を傾げられたが仕方ないだろうが。お前みたいに人当たりよく振る舞えるかと。
とん、と自分の前にも置かれた膳を見て、玄弥が顔をしかめた。
「俺はいらねぇよ!」
「蝶屋敷の子たちに、頼まれてます、から。玄弥さん、多分食べてないだろうから、て」
またも、ややぎこちなくなった言葉で幸はすました顔をしている。
「玄弥君は、これがまだ、ちゃんと食べ物に、思えるんでしょう?その感覚を見失わないために、少しでも食べたほうが、いいです」
「……っ」
玄弥が、言葉を封じられたように一瞬凍った。
「はい、獪岳も。味は、多分普通だと思う。味見できてない、けど」
「お前、分量が正確なんだから失敗はしねぇだろ」
「だと、いいね」
炊いた飯と味噌汁だけだが、米はふっくらと艶々していた。だが、鬼には食べられない。
「外で、薪をつくってきます。使った分は、戻すから」
「おい。待てよお前。鉈の……」
「いりません、わたしには。壊したく、ないし」
置くだけ置いて、さっさと幸は外へ出て行った。
双方無言である。薪割りなぞどうでもいいから、普通に残ってほしかった。
が、食べられない物を食べている人間を見るのは嫌だったのだろう。或いは、食べもしないやつに見られたままの食事を、獪岳たちが嫌がると思ったか。
どちらにしても、残るのは仏頂面としかめっ面の男二人という空間である。重い。
味噌汁に手を伸ばして啜ると、普通に旨い味だった。玄弥は動かない。
「お前それ、食えば?鬼喰いだかなんだか知らねぇけど、お前は人間なんだろ」
「……関係ねぇだろ」
ふい、と顔を背けた玄弥の前にある飯と味噌汁の湯気は、どんどんか細くなる。
獪岳の額に、ぴきりと青筋が浮いた。
「それ無駄にしたら、殴るぞ」
「……っ!お前には!関係ねぇだろ!話しかけんな!」
「だったら俺の前でしけた面してんじゃねぇ!!鬱陶しいんだよ!」
売り言葉に買い言葉である。
玄弥が勢いよく立ち上がった弾みで膳が引っくり返り、味噌汁と飯が畳の上にぶち撒けられる。
かっとなった獪岳が投げつけた箸置きは、玄弥の額にまともに当たった。
「何やってるの二人とも!」
飛び込んできた幸に、両方襟首掴まれて引き剥がされるまで、二人の怒鳴り合いは終わらなかった。
「数分でケンカって嘘すぎでしょう!食べ物まで無駄にして!怪我人が雁首揃えて、怪我をふやすんじゃぁ、ない!」
張り飛ばすように二人並べて叱られ、そこからの飯は通夜のように静まり返った。
「……どうしたのだ、お前たち」
悲鳴嶼が帰ってきたときには、三人別々の方へ、そっぽを向いているような状態だった。おかえりなさいという言葉だけは、てんでばらばらにぼそぼそと出たが。
「あたま、冷やして来ます」
流石に怒ったのか背を向けて縁側に座り、足をぷらぷら振っていた幸は、悲鳴嶼の横をすり抜けて出て行く。
悲鳴嶼は困ったように、獪岳と玄弥との間で視線を動かしていた。
「何が、あったのだ?」
「喧嘩しました」
「喧嘩……では、裏手の岩や木は……」
「玄弥ですよ。俺たちじゃない」
「それはっ……!」
腰を据えた悲鳴嶼が、数珠を巻いた手を打ちつける。
ぱぁん、という音が響いた。
「座りなさい。理由はどうあれ、人がお前たちのために作った食事を、無駄にして良い理由にはならぬ」
部屋の中にはこぼれた味噌汁の香りが残っていて、作った当人はたった今出て行った。
「あ」
作った物を壊されたら、至極当然に怒るし、悲しむだろう。面に出すときにしくじるだけで、幸は感情豊かな質だから。
「………謝って、きます」
先に喧嘩を吹っかけたのは玄弥だが、喧嘩を買って怒鳴って膳を倒したのは獪岳も同じである。
急に、何か自分がとてつもなく悪いことをしたように思えて、獪岳は杖を支えに立ち上がった。
「あの子ならば裏手だ。気配がそちらにあった」
「ありがとうございます」
軽く会釈して外へと出れば、不死川玄弥もついてくる気配があった。
「……」
「……」
互いに、何も言わないまま土を踏みしめる音だけが続いた。
裏手についてみれば、確かにそこには幸がいて、太い木の棒を手にしていた。
ただし、その薪の作り方は随分と独特だ。
薪を宙に放り投げ、長く伸ばした爪で切り割き、縦に割るのだ。普段使われているだろう鉈は、壁にたてかけられたまま、うっちゃられていた。
一際高く投げ上げた木の枝を爪で真っ二つに割り、薪を受け止めた幸が、獪岳と玄弥の方を見る。
感情の揺らぎそのものが欠片も読み取れない、凪いだ顔をしていた。金色の目が一切光なく据わっている。
どういう気持ちの顔だこれは。下手な鬼より怖い。
「悪かった」
頭を下げた。
ばん、と幸がだんまりのまま手の中の薪を拍子木のように打ち付ける。
何を悪いと思っているのか、と問い詰められているようだった。
「お前の作った飯、無駄にした、から」
「俺も、悪かった」
一秒、二秒と時間が過ぎた。薪の音はもう鳴らない。
「……わたしも、やり方が強引だっだから……。ごめんなさい」
獪岳が顔を上げれば、薪を片手に持ったままの幸が気まずげに頬をかいていた。
「だから、あの……すわって、話せるかな?」
幸のその問いは、獪岳だけでなく、不死川玄弥にも向けられていた。
束の間硬直したようにも見えた玄弥は、ややあって頷いたのだった。
虹色の目も六ツ目も怖いだろうが、多分主人公が一番怖いのは光が皆無な金色の目じゃないか、と。
それと、この時空で最も幸せなのは、桑島師範でなかろうかと。
無論相応に心配はしてると思いますが。弟子二人とも上弦とバトっては負傷するし、手がかからなかったほうの弟子は鬼連れをやらかしていたし。
以下はお知らせです。
Twitter上での呟きを元にし、8000字ほどの短編を一つプライベッターに上げました。
興味のあるかたは、お手数ですが作者マイページにありますリンクから、Twitterアカウントの方へ飛んでいただければ。
尚、こちらに上げない理由は、本編と雰囲気が異なりすぎて作者が戸惑ったためです。書いたのは己なのですがね。
ざっくり言えば、どこかの平和な時代の学生たちの話であり、本編ネタバレはあるようなないような。
また、年末は身内の手術や入退院、負傷などがあったため、更新はまた遅くなりますことをお知りおきください。
それでは皆様。
少々早いですが、良いお年をと年末の挨拶をさせて頂きます。
来年もよろしくお願いいたします。