鬼連れ獪岳   作:はたけのなすび

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あけましておめでとうございます。

本年もどうぞよろしくお願いします。

では。


十四話

 

 

 

 不死川玄弥は、柱になりたいらしい。

 柱になってどうするのかと尋ねれば、実兄である不死川実弥に会うためだと言う。

 柱にならねば、柱に会えない。だからなりたいのだと、そう告げた。

 しかし彼の呼吸音や所作からして、剣士に必須とも言える『呼吸』ができていないことは、獪岳にもわかっていた。

 それを補うために手を出したのが、鬼喰いだったのだろう。

 が、流石に獪岳も、いくら飢えていたとしても鬼の肉を喰らうという発想をしたことはない。鬼舞辻の細胞を持つ化け物共の肉に、齧りつく気は起きない。

 自ら鬼を喰った不死川玄弥は、明らかにまともな精神状態でなかったのだろうし、そうでもせねばならなくなるまで追い詰められたとも考えられる。

 すべて、兄に再会したい一心で。

 

 そういう彼のところに、師匠である悲鳴嶼と関わりがあって、傍から見れば何の障害もなく呼吸を会得し、それぞれ違う上弦と二度戦って生き残った剣士がふらりと現れたらどうなるか。

 

 面白くないに決まっている。

 もっと言えば嫉妬もしよう。八つ当たりもしたくなろう。

 

「獪岳も、善逸君にはきついから」

 

 あまり話すのが得意でないのか、単に話したくないのか、三人で屋敷の壁を背にして並び、目線を合わさないままぽつぽつと語る玄弥の話を聞いて、幸が言ったのはこれだった。

 だから、そうやってざっくりと切り込むような一言だけを漏らして黙るなと。

 人の心がわかっているのかいないのか、いまいち判然としないまま、獪岳の心だけは的確に抉ってくる幼馴染みの少女の一言は無視して、獪岳は玄弥に水を向けることにした。

 

「……お前の兄貴ってあいつか?風柱の不死川実弥」

「そうだよ。なんでそんなこと聞くんだよ。知ってんだろ」

「別に。柱の弟でも呼吸使えねぇときあるんだなって思っただけだ」

 

 即、幸に後頭部を引っ叩かれた。

 加減された一撃だが、地味に痛い。

 

「玄弥くん、ごめんなさい。悪気しかないんです、この人は」

 

 真面目な顔で馬鹿のように真摯に謝る幸に対しては、玄弥も言うべき言葉が見つからなかったらしい。

 不死川玄弥はひどく疲れたように息を吐いた。何故かこいつは、本来の十七歳の姿になっている幸と微妙に距離を取っていた。

 

「……もう、いいよ。あんたが作った飯台無しにしたのは、俺も悪かった」

 

 ただしお前のことは嫌いだ、と言わんばかりに獪岳を立ったまま見下ろし、睨みつける玄弥である。

 上等だ、と獪岳も睨み返した。

 立つのが辛く、地べたに座る獪岳の隣でしゃがんでいる幸は、困り果てたように、抱えた膝に額を押し付けた。

 

「この、針鼠、山嵐」

「あ?なんだよそれ」

「しのぶさんの図鑑にのってた。全身針だらけのねずみ。獪岳にそっくり」

「俺が鼠に似てるって言いてぇのかよ」

「少なくとも、玄弥くんより獪岳のほうが、背、小さい」

「俺が鼠ならお前は豆粒じゃねぇか。俺よりどんだけ小せぇと思ってやがんだ」

 

 獪岳が鼻で笑うと、幸はつん、と横を向いた。

 二人を見た玄弥の目が、ふ、と落ちるように遠くなる。

 懐かしいものを見たような、失ったものを目の当たりにしたような、ここではない何処かを見る目だった。

 昔の、寺にいたころの話をするときの幸と、同じ目だった。

 

「お前、風柱の兄貴以外にもきょうだいがいるのか?」

 

 気づけば、そんなことを尋ねていた。

 聞いたところで、自分とは何ら関係はないはずなのに。

 

「……いたよ、弟と妹が。俺、上から二番目だったから」

 

 無意識なのか、顔を横切る大きな白い傷跡を撫でながら玄弥は言った。

 そいつらは、多分既にこの世にはいないのだろうとその仕草と目つきで察した。

 一言も話に出ない親のことは、聞くまでもないだろう。

 不死川玄弥にとっては、この世に残った唯一の身内が風柱なのだ。

 柱合会議に引きずり出されたときに、獪岳も風柱を見ている。

 最も苛烈な調子で鬼を殺せと言い、自分の腕を切ってその血で幸と竈門の妹を釣ろうとしたやつだ。獪岳も肩から腰まで浅くだが、斬られた。

 幸が言うには、風柱はあり得ないほど強いにおいのする稀血だったそうだ。理性が危うくなると思えるほどだから、二度と、絶対に風柱には会いたくないという。

 

「稀血の兄貴には近寄って平気なのかよ」

「……兄貴は、俺のこともう弟じゃねぇってさ。昔に俺がひどいこと言ったの、許してないんだ」

 

 つまり、近寄れていないのだ。

 兄弟か、と獪岳は息を吐いて空を見上げた。

 親やきょうだいと言われても、誰の顔も思い浮かばない獪岳の頭を過ったのは、悲鳴嶼行冥のことだった。

 幸を拾い、寺の子らを拾い、獪岳を拾った人が良すぎる坊さん。

 鬼にすべてを奪われて鬼殺隊に入り、入ってからは柱にまで上り詰め、子どもだった蟲柱とその姉を鬼から救った。

 けれどその間に、寺で拾った子どもらの一人は鬼に、一人は隊律破りの鬼殺隊になっていた。

 鬼殺隊に入ってから救った姉妹も、一人は柱になって死に、もう一人は今も柱として鬼を殺している。鬼の頸が斬れない、唯一の柱として。

 そして今、弟子だというこいつは呼吸も使えないまま鬼を喰って戦い、兄と会うため鬼殺隊に居続けているが、当の兄には突っぱねられた。

 

 獪岳が何か言えたことではない。

 ないのだが、悲鳴嶼という男は今一体何を想い、生きているのだろうという気分にはなった。

 

「そういえば二人とも、一体、なんて言って、出てきたの?」

 

 沈みかけた空気を引き上げるように、幸が口を開いた。

 

「お前に謝って来るって言って出て来たに決まってんだろ」

 

 幸が獪岳の方を向いて首を傾げた。

 

「なんで、獪岳が怒ってるみたいにいうの」

「怒ってたのはお前だろ」

「頭、ひやしてただけ」

「嘘つけ。怖ぇ顔しやがって」

 

 何か言い返そうとした幸を遮って、玄弥が呆れ声を出した。

 

「お前らさぁ、仲良いのか悪いのかどっちなんだよ。あんまり悲鳴嶼さん困らすんじゃねぇよ」

「うっせぇ。最初に喧嘩吹っかけたのはテメェだろうが」

「けんか、しないでったら。それこそ行冥さんをこまらせる、よ」

 

 もう、と幸は立ち上がって両腰に手を当てた。

 すると何故か玄弥が下がった。その顔はほんのりと赤いし、目が泳いでいる。

 そこに鬼への嫌悪はなく、単なる戸惑いと照れが透けていた。

 いかつい風貌の割に存外照れ屋なのかと思うとおかしく、獪岳はく、と喉奥で笑った。

 幸が鬼だから避けていたのではなく、単に一応は年頃の少女を前に照れていたから、近寄れなかっただけか。

 避けられた幸のほうが戸惑って固まっている始末だ。本当、こんな夜に三人揃って、何しているんだろう自分たちは。

 

「わかったわかった。じゃ、戻るぞ。あの人中で待ってんだろ。昔っから喧嘩止めんのは苦手だったしよ」

 

 寺にいたころ、子どもたちが喧嘩すると、悲鳴嶼はおろおろと間で困っていた。

 優しすぎて、叱るということができないのだ。加えて口下手でもあった。

 

「……悲鳴嶼さんて、昔から喧嘩止めるの、得意じゃなかったのか?」

 

 歩きながらに玄弥が尋ねる。

 こくん、と幸が頷いた。

 

「うん。わたしたちがけんかしたら、よく、こまってた。黙ってじっと見てて、静かになったころに、出てきてくれて、た」

「体がデカいから、俺らが怖がるんじゃないかってよく障子の陰にいたな」

「ぜんぜん、そんなこと、なかったのにね。あ、玄弥君、行冥さんって今でも尺八ふいてる、の?」

「吹いてるぞ。吹きすぎて、そこらの婆さんに箒で叩かれたことあるけどな」

 

 梅干しのような小さな婆さんに箒で叩かれる悲鳴嶼を想像すると、また笑えた。

 悲鳴嶼行冥は鬼殺隊の柱となり、あれだけかわいがって大事にしていた子どもの一人にすら、死んだほうが良い、生きていることさえ哀れだと言い放った。

 まるきり変わってしまったのかと、あのときはそう思ったのだ。

 だけれど、彼は獪岳の頭を撫でてくれてもいたのだ。最もあの子の側にいたのはお前だから、側にいてやれ、と。

 ふと、幸が眠っていたあの日に、悲鳴嶼の大きな手が撫でた自分の額に、髪に、獪岳はなんとなく触れた。

 当然そこには何ら、形のあるものは残っていない。だけれど何か、ぬくいものが心を掠めて奥底に沈んでいった。

  

「獪岳?」

「何してんだよ」

 

 戸口のところで、幸と玄弥が振り返る。

 今行く、と獪岳は二人の後に続いて屋敷に入ったのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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 尺八と口下手以外にも、悲鳴嶼の変わっていないところはあった。

 ひどく、涙脆いところだ。

 台所の食材を使っていいと改めて屋敷の主から言われ、ぱたぱた駆けていった幸が作って持って来た、悲鳴嶼の好物の炊き込みご飯を見た途端、ぼろぼろと悲鳴嶼は無言で目から涙を流したのだ。

 南無南無言いながら涙をこぼす彼を前に、そんなに不味かったのかと幸がうろうろ焦り出し、締まらない空気になった。

 鬼殺隊最強の岩柱と、ほぼ根性で鬼舞辻の呪いを抑え込んだ鬼が、揃って何をしているんだか。どちらも距離を詰めるのが下手くそ過ぎだった。

 

「不味くはねぇだろ」

 

 冷静に突っ込んだのは、炊き込みご飯を一口食べた獪岳である。

 ついでに諸々が面倒になったのと小さな腹いせで、玄弥の口にも雷の呼吸の速度で匙を押し込んだ。玄弥は目を白黒させるはめになった。

 獪岳にとっては、食い物なぞ三度口に入るだけで万々歳。腐って腹を下すものでなく、腹が膨れればそれでいい代物だ。修行時代によく食べていた桃は別にしても。

 が、ともかくも出されたものの美味い不味いくらいはわかる。それだけしかわからないとも言えるが。

 これは美味というほどではないが、至って普通だ。

 

「うむ……。この味付けは……昔のままだな」

 

 と悲鳴嶼に言われると、幸は盆で顔を半分ほど隠したまま、嬉しそうに目を細めた。

 幸は鬼になって以来、人間の食い物を食い物として認識できない。口に入れても、砂を噛んでいるようでなかなか飲み下せず、腹がくちくなることもないという。

 当然味見もできないが、一度覚えた手順を間違わず繰り返すことで、食い物は作れる。

 だから、今回作ったこれも寺のころに覚えた味そのものになり、新しい味が作れない。

 この人にとっては却って良かったのだろうと、飯を食う悲鳴嶼とそれを見ている幸をまとめて眺めながら、獪岳は思った。

 

「わたしは、掃除してきます。しのぶさんに、この家に来たらあちこち見てきてって、言われてます、から」

 

 それでもやはり、幸はまたぱたぱたと何処かへ駆けて行った。

 同じ食事の場に居続けることへの、緩やかなだが確かな拒絶だった。

 変わらなかったものもあれば、変わり果ててしまったものもある。

 鬼と人では食べるものが違うし、鬼が通常食べる人肉すら拒否した者は、何も口に入れられない。

 その様を悲鳴嶼に見られるのが、幸は嫌だったのだろう。

 恐らく、蟲柱に屋敷の様子を見て来てほしいと言われたことも本当だろうが、何も今でなくともよかったはずだ。

 獪岳に見抜けることならば、悲鳴嶼に見抜けない道理もない。

 

「……悲鳴嶼さん。早く飯、食いましょうよ。冷めて不味くなったら、あいつまたうじうじするんで」

「いやお前、うじうじはねぇだろ」

「他に言いようがねぇんだよ。それにお前も食え。さっきろくに食う前に膳倒しただろうが」

 

 いらねぇとか何とか玄弥が言って逃げる前に、獪岳は玄弥の前にも椀に盛られた飯を押しやった。

 この状況で悲鳴嶼と二人にされては、堪らない。辛気臭くなっては敵わない。

 玄弥を逃がすつもりは全然なかった。

 

「玄弥、獪岳。少し、打ち解けたのか?」

「いえ全然」

「ンなわけね……ないです」

「そうか……」

 

 とは言いつつも、悲鳴嶼の口角は上がったように見えた。

 漬物の大根をがりりと齧り、獪岳はそっと椀越しに二人の顔を伺う。

 

「獪岳、上弦との戦いはどうだった?」

「報告は上げましたよね?」

「目を通したが、直接聞くのとはまた異なるだろう?」

 

 柱と一般隊士の間で交わされる会話としては、それ以上に相応しいものもなかった。

 感情を交えないで済む話のほうが、獪岳もやりやすい。

 

「……強かったですよ、上弦ですし。音柱様がいなかったら、俺ら全員死んでたでしょう」

 

 柱が一人、一般隊士四人に、鬼二人。

 それだけの数でかかって、吉原はあの惨状になった。鬼殺隊側の死者はいなかったが、町の女や客共は巻き込まれて不運にも死んだという。

 幸が妓夫太郎相手に粘れず、音柱の嫁三人が避難を誘導していなかったら、もっと大勢死んだろう。

 

「弐よりはマシとは思いましたけど、あいつらは十分反則でした。頸斬っても死なねぇんだから」

「兄妹の鬼で、同時に斬らねば死なぬという話だったな」

「ええ、はい。種は単純でした」

 

 だがその単純さに引っかかった結果が、あの大破壊だ。音柱がいなければ勝てなかった戦いだが、音柱一人だけでは絶対に勝てなかったとも言える。

 兄妹揃って、大勢柱を喰ったと宣っていたのも頷けた。

 

「では上弦は、頸を一度斬ったとしても油断できないな。簡単には死なぬか、敢えて斬らせて不意を突こうとする場合もあると」

「単に、斬れる間合いにまで入らせねぇってのもいると思います。弐がその類じゃないでしょうか」

「肺を壊死させる氷の血鬼術、だったな。初見では対処の仕様がなかったところだ」

 

 臓腑も再生できる鬼の幸が受けたから切り抜けられたが、獪岳や善逸だったら死んでいた技だ。

 先代の花柱が殺されたのも、もしかすると同じ技をくらったからだったのかもしれない。

 

「それと、幸が言ってました。上弦の陸の兄妹を鬼にしたのは、あの弐だったそうです」

「えっ?」

 

 十年前のおおまかな事情を知っているという玄弥が、驚いた声を上げた。

 

「またあの鬼、か。今回倒した陸も、百年以上生き残っていた鬼だったが……」

「あの氷の鬼は、あいつら以上長く十二鬼月を張ってたってことになります」

 

 上弦の陸と幸を鬼にしたのは上弦の弐であるが、今回陸の兄妹の討伐に幸も参戦した。

 かつて弐が手を出して鬼に変えたものの、鬼舞辻の配下にし損なった鬼が、十二鬼月の一角を倒すのに貢献したのだから、責任を取ってあの弐が粛清されたりはしないだろうかと、思わなくもない。

 本当あの屑には、一分一秒でも速く死んでほしい。できれば幸の見えないところで。

 

 が、そんな都合のいいことは無いだろう。

 柱単独でも殺せる下弦はどうだか知らないが、十二鬼月の上弦は幹部中の幹部で、鬼舞辻にとっては惜しい手駒である。

 むしろ目をつけられて、あの弐が気まぐれに襲撃しに来ないことを祈るばかりだ。

 今の自分たちでは殺されるだろうし、そもそもあの鬼は、馬鹿な親に忌み子だ化け物だと捨てられた子どもを好奇心で見に来、目玉が綺麗だったから抉り取り、死にかけで可哀想だったから鬼に変えた、と笑顔で言い放つようないかれ者だ。

 どう殺せばいいのかと、まともに考えたら挫けそうになる正真正銘の化け物だ。

 だが、幸は決して諦めない。

 元々の頑固な質故なのか、鬼になってからの日々故かはもうわからないが、刺し違えようが諸共地獄に落ちようが構わないという純粋な殺意で動いている。

 あいつはそういうやつで、そういうやつの瞳が、獪岳はどうしようもなく欲しくなってしまった。

 

 自分のほうが余程度を越したいかれ者に思えて、獪岳はかぶりを振った。

 それから後は、食べ終わるまで会話らしい会話はなかった。

 食べ終わったころ、測ったように正確に幸が膳を下げに来たが、とことこと呑気に近寄ってきたところで、その腕を掴んだ。

 

「悲鳴嶼さん、すいませんけどこいつ、籠で寝かしていいですか?」

「え」

「え、じゃねぇよ馬鹿。普段なら寝てる時間だろうが。寝ろ。縮んどけ」

 

 どす、と手刀を脳天に落とすと、そこを押さえたまま幸はしゅるしゅると小さくなった。

 

「籠ってこれか?」

「ああ」

 

 部屋の片隅に置いていた、布覆いがついた籠を玄弥が寄越した。

 

「片付けが……」

「あのな、お前は睡眠取らねぇと死ぬよりやばいことになるんだろうが。寝ろ。悲鳴嶼さん、いいですよね?」

「構わない。むしろ早く寝なさい、幸」

 

 悲鳴嶼に言われたら幸は逆らわない。

 ぽすん、と籠に入るや、膝を抱えてくるりと丸く収まった。籠の中に蟠った黒い髪と、奥がとろりと融けた金色の瞳が、そのまま小猫のようである。

 

「……おやすみなさい」

 

 そこだけは嬉しげに言って、幸はするりと眠った。毎度のことだが、寝付きはやたらいい。

 籠の布蓋を閉めて顔を上げると、悲鳴嶼の盲いて白濁した目と視線がぶつかった。

 何か言いたげな視線であったが、彼は何も言わない。獪岳も何かを返せない。

 

「あー、俺が片付けして来ます」

 

 頬をかいて、玄弥が言う。

 動きかけた悲鳴嶼を任務帰りでしょうと止め、獪岳のほうにはその足でうろうろするなと軽く睨んで来た。

 三人分の膳を持って玄弥がいなくなると、部屋の中には寝息を獪岳と立てる籠と、悲鳴嶼だけになる。

 視線を外に逃がした獪岳を悲鳴嶼は見下ろし、言った。

 

「獪岳、今日は泊っていきなさい」

「はい?」

「胡蝶から鴉が来た。お前たちがそちらにいるだろうから帰さずに、脚を動かすなと。……蝶屋敷を無断で抜け出して来たとは知らなかったぞ」

「別に、杖あったら歩けますよ。大袈裟ですって」

「鬼が出たらどうするのだ。お前は怪我人だというのに」

 

 要するに、説教だった。

 幸が気配を探りながら来ていたから、遭遇することはない、と言い返そうとして獪岳はやめた。

 今気づいたが、悲鳴嶼の叱り方と幸の叱り方は似ている。

 似ていて当たり前なのだ。彼らは養い親と、養い子だったのだから。

 

 夜道で聞いた、静かな幸の声が蘇った。

 最も長い間自分の隣にいた小さな少女、自分とは似ても似つかない少女が、嫌いだと吐き捨てた名前のことを。

 

「悲鳴嶼さん」

 

 呼びかけると、悲鳴嶼は数珠をすり合わせていた手を止めた。

 

「俺、ここに来るまでにこいつと話してたんです」

 

 幸が入っている籠を手で示すと、悲鳴嶼は頷いた。

 続けていい、ということだろう。

 

「こいつは自分のことが嫌いだって言いました。俺はその言葉の意味がわからない。あなたなら、わかりますか?」

 

 嫌いなやつはいないのか、と獪岳は尋ねた。

 その問いに幸は、『わたし』が嫌いなのだと返した。

 意味がわからなかった。

 精一杯、自分にできることをやって生きて、人を助けて、並みの人間よりよほど上等な生き方をしているだろう。

 とんでもない方向から、肩透かしをくった気分になった。

 

「あなたは前、こいつの側に一番長くいたのは俺だって言いました。けど、本当は違いますよね」

 

 確かに、寺にいたころの悲鳴嶼は子どもらを養うために働かなければならず、幸は幸で子どもらを宥めたりすかしたり自分も働いたりと、最も悲鳴嶼に寄り付かず、甘えることもなければ、甘える必要もない子どもだった。

 幸は一番の年嵩ではなかったが、一番の古株で、誰も不思議に思わなかった。

 だからこそ、最後に寺に来て馴染めていない獪岳が悲鳴嶼より近く、幸の近くにいたとも言える。

 鬼になってからは、言うまでもない。

 しかし、違うのだ。

 

「昔から、こいつはそんなことを言うやつでしたか?うんと昔のこいつを……幸を知ってるのは、もうあなたしかいない」

 

 生き残りには沙代もいるが、寺が襲われたときはようよう四つだった。ろくに覚えていないだろうし、第一会いに行けるわけもない。

 人間だったころの幸を知ろうとするならば、獪岳が頼れるのは悲鳴嶼しかいなかった。

 柱や隊士や鬼という枠を越えてでも、これは聞かなければならないと獪岳は思った。

 

「……言わなかった。が、手がかかるということが無い子だった」

 

 泣かず、ぐずらず、赤子のころは静かに眠り、伝い歩きができる歳になってもひたすらに密やかな気配を纏っていた。

 あまりに寡黙で、話しかけねば口を利かない不思議な子。

 さらによくよく話を聞けば、一度見たもの聞いたものを、覚えて決して忘れることがないという体質を持っていた。

 語る悲鳴嶼の目が、過去を透かし見るように遠くなった。

 

「自分を捨てる父の顔も母の顔も覚えている。人の善悪を知らぬ赤子の内はわからなかったが、今にして思えば父母は酒浸りで盗人の小悪党だった。あのまま育っていれば自分も同じになっていたから、そうならずに済んで良かった、と言っていたな」

「さすがに強がりでしょう」

「そうだったと思う」

 

 とはいえ、幸が三つ四つそこいらのころ、悲鳴嶼とて十四歳になるやならずだったはずだ。

 どんな苦労があったのだろう。

 確実にろくでもない暮らしをしていたはずのそのころの己のことを、獪岳は思い出せない。

 獪岳にとって、寺に拾われるより前の過去は既に曖昧だ。

 味わったはずの辛さ、苦しみ、悲しみ、痛みの記憶は、勝手に消えていく。抱え込んでいては、生きていくにも往生するばかりの塵同然の記憶だからだ。

 まともに見られないような過去に蓋をして、何でもない顔を取り繕い、口元を拭ってでも生きていくし、獪岳には、世の人間の大方には、そうするより他に道などないだろう。

 

「私は確かにこの子の体を拾った。だが、心まで拾い上げていたのかはわからない。出会ったころから、何か形を定めていた子だったから」

「あり得ません。幸はあんたのことが好きでしたよ」

 

 何言ってんだと、獪岳は思わず噛み付いた。

 

「一年前のこいつが喋れた一番長い言葉は、『ぎょうめいさん』だったんですよ。人を傷つけるのはやっちゃいけないって『ぎょうめいさん』が言ってたから、だから人は食べないんだって。……ほんと、そればっかりだったんです」

 

 悲鳴嶼の言葉を大事に大事に抱え込んでいたから、幸は悪鬼にならなかった。

 幸のひとりぼっちを助け続けていたのは、他の誰でもなく悲鳴嶼だった。

 孤独の地獄へ突き落としてしまった獪岳では、なく。

 だから、悲鳴嶼行冥が心を拾い上げられていなかったなんて、あるはずがない。

 よりによってあんたが、ひどい的外れを言うな。

 

 どろりと動いた獪岳の感情を感じ取ったのか、悲鳴嶼はまた数珠を持つ。

 虫と風の音が微かに届く静かな部屋に、じゃらりと珠が擦れ合う音が響いた。

 

「ああ、今、思い出したことが一つある」

 

 白く濁った目を虚空に据えて、悲鳴嶼が言う。

 

「この子が自分を嫌っていたかという問いに、私はそんな素振りはなかったとしか言えない。が、昔小さな問答をしたことがあった」

 

 綺麗な着物を着た、自分と同じ年頃の子を街で見てしまった沙代が悲しくなり泣き始めて、あやすために始めた雑談が転々としたときのことだ。

 

「幸せが何かと、皆で言い出したのだ。腹一杯食べること、綺麗な着物を着ることなどと皆が言っていて、幸も答えていた」

「何て、言ったんです?」

「……寂しくないこと、だそうだ。自分の幸せは、寂しくないことだと言っていた」

 

 ひもじさより寒さより、綺麗な着物を持てない惨めさより、何より寂しさが痛いのだと、幸は答えた。

 だからこそ『今』が、皆と暮らせる今この夜は幸せだから大切なのだと幸が楽しげに語れば、つられてか沙代も泣き止んだ。

 

 たったそれだけの、何ら特別のない夜だった。

 

「幸は、自分の幸せが何かを知っていた。言葉にしてわかっていた。……だが今は、自分のことが嫌いなのだな」

 

 自分の『今』が幸せだと語れる人間は、己を嫌ったりなどしないだろうに。

 

 詰まる所は、悲鳴嶼にもわからない。

 獪岳にも、わからない。

 だが果たして聞いて尋ねれば、答えてくれるものなのだろうか。

 はぐらかされそうな気もする。口では獪岳は幸に勝てない。というよりも、何か一つまともに勝てた覚えもない。

 

「……俺が聞きます。放っておいたらこいつ、また自分を盾にして頭吹っ飛ばされるかもしれねぇし」

 

 乱暴な口調だとわかりつつも、獪岳には他に言いようがなかった。

 要するに、獪岳は知りたいのだ。知らなければならない気がして、堪らないのだ。

 自分の幸せの形を知っておきながら、己を嫌いだと言う言葉を吐いた、その心を。

 幸が何を考えているのか、何を思って生きているのかを。

 

 そういう獪岳の内心を知ってか知らずなのか、悲鳴嶼は深く頷く。

 

 どこか遠くでは、虫が声を途切れさせることなく、鳴き続けていた。

 

 

 




月餅(げっぺい)様、柴猫侍様から頂いたイラスト二枚を、あらすじ欄に貼っております。
説明すれば野暮天になるほど大変素晴らしい絵ですので、皆様もぜひ。

ちなみに今話の彼らの身長は、
悲鳴嶼行冥:220cm
不死川玄弥:180cm
獪岳:175cm(推定)
幸:149cm
ぐらいのつもりで。
豆粒と言ってますが鬼っ娘は平均身長程度あります。
周りがでかい。

二章『羽織り獪岳』はこれで閉幕です。
次章はまたしばらくお待ちください。

『祖父』と『孫』、『親』と『子』を目の当たりにして来た人生で何を想ったかなぁ、と。
あと、暴走しかけて以来、蟲柱に言われて睡眠の時間管理は割とちゃんとやるように。
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