では。
あれから、雪五郎はふと気がつくと目に届く範囲にいるようになった。
気を抜いたら頭を蹴っ飛ばしに来たり、ぎゃあぎゃあ騒いでいた雷右衛門とはまた違って、気がついたら獪岳の視界に入るどこかにはいるのだ。
見当たらないなと思った辺りで戻って来て、ぽん、と幸からの手紙を放り投げて飛んで行く。
受け取る手紙の中身はいつも、大したことは書いていない。草を見たとか花を見たとか、そっちは平気なのかとか、その程度。子どもの日記のようなものなのだ。
獪岳が返そうが返さないでいようが、まったく気にしていない様子で向こうは几帳面にやって来るので、二、三通に一回は返すようになった。
何かあったときほど何もないふうに装う幸の性格は、いい加減把握済みだった。だから多分、あちらにはあちらで『何か』はあるのだろう。
かと言って、尋ねても素直に吐いたりしないのだから、獪岳は何にも気づいてないふうな手紙を返す以外にない。そういう手紙を、幸はほしいだろうから。
本当の本当に駄目になっているときはさすがにわかる……と思っているし、雪五郎や蝶屋敷の面々が多分、放っておかない。
それくらいには幸という一人の人格は、鬼であっても好かれているはずだから。
「なぁ、お前のところの鴉、よく手紙持ってくるけど、何かあるのか?」
と、周りが稽古のきつさでへばっている中、そうやって頻繁に手紙のやり取りをしているのは目立つらしく、話しかけられるようにもなった。
「俺は村田って言うんだけどさ、お前、那田蜘蛛山にもいただろ?」
もう遥か昔のことのように思ってしまう、那田蜘蛛山の一件。あれがきっかけで柱合裁判にかけられて、悲鳴嶼とも再会した。
今から思えばあれが始まりだったといっても、よかった。
「いたよ。……こっちは蝶屋敷に連れを預けてるから、そいつからの手紙だ」
「連れって、お前がいつも持ってた箱の中にいた子のことか?」
「ああ」
先日握り飯をくれて、今はもう次の稽古場へ移った田津と、目の前にいる村田は、何というか、似ていた。
似ていたから、話をする気になった。
どちらも、悪いやつではないのだ。鬼殺の隊士としても、恐らく人間としても。
鬼に身内を殺されてここに来た、或いは来ざるを得なかった、ごく有り触れてしまった人間だ。
尚、どうでもいいのだがこの村田という隊士、髪にやたら艶があった。
ひょっとして、椿油でも使っているのだろうか。高いだろう、あれは。
首を傾げる獪岳に、村田は、人の良さそうな笑みを浮かべた。
「そっか。ってことは、お前も我妻も蝶屋敷にいる女の子と縁があるのか」
「は?」
自分の声が、いきなり低くなるのを獪岳は聞いた。
「あ、あれ?違うのか、蝶屋敷で待っててくれてる禰豆子ちゃんって女の子の名前、我妻がよく言ってんだけど」
「そいつ、竈戸の妹だろ。あの馬鹿が騒いでるのは俺も知ってる」
「ば、馬鹿……。あ、あのさぁ、こんなこと聞くのはあれかもだけど、お前と我妻ってもしかして仲悪いのか?」
「……仲が良いと思ったためしは、一度もねぇ」
そう返せば、村田は不思議そうに目を瞬かせていた。
無限列車でも遊郭でも共闘し、十二鬼月を相手にした同門で兄弟弟子ならば、仲が良いと思われていて当たり前だろう。獪岳も、村田と同じ立場だったならば、同じ判断をしている。
だが、違うのだ。獪岳は善逸が嫌いだ。それはもう、どうしようもなく。
どうしようもないのなら、どうしようもないままでいいと、そのままにしていたことだから。
獪岳にそれを言った幸は、どうしようもなかった親を、恐らくは童磨に殺された。永久に、断絶したままになったのだ。
獪岳と善逸の間にあるもの、幸と彼女の親の間にあったかもしれないものは、まったく違う。
違ってはいても、もう決して結ばれることがない繋がりを持ったままの人間が、一人身近にいることは、変わらなかった。
幸も善逸も、どちらも側にいないせいで、却ってあれこれと考えてしまう。
あの二人は、時々不思議なほど真っ直ぐに獪岳を見てくるのだ。瞳の色も、少しばかり似ている。
「あー、うん、なんかややこしいってんなら俺はもう聞かないぜ。じゃあ、またな」
「……また、な」
手を振って、別れる。
走りながらも、少なくとも柱稽古の間、村田にはまた会いそうな気がした。
鬼の出現がこうも途絶えていると、不気味で仕方がない。上弦の残りは三体のはずだが、揃いも揃って十二分に化物だ。あいつらが今もどこかで太陽を克服した鬼を────竈門の妹を狙っていると考えると、ぞっとした。
特にあの、六つ目の鬼、上弦の壱。
元々は鬼殺の剣士だったようだが、何があって上弦の壱となるまでに至ったのやら。
あの鬼の顔に出ていた痣は、ひょっとすると痣者と同じなのではあるまいか。
鬼になり容貌が変わっただけなのかもしれないが、人間のころに出た痣者の痣が残っているのなら、柱相当に腕が立つ剣士だったはずだ。
─────そんなやつが、どうして人を喰う鬼に。
やめよう、と走りながら獪岳は頭を振った。
あの鬼のことを考えたら、抜群に夢見が悪くなる。
翼を斬られて落ちた鎹鴉の悲鳴と、幸の悲痛な金切り声に目を血走らせて牙を剥いた形相、鬼の剣術で全身を斬り刻まれた痛み。
そんな諸々が夢に木霊して、夜中でも昼でも飛び起きる羽目になるのだ。
あれ以来、眼が八つある蜘蛛までがなんとなく嫌なものになった。ばれたら絶対に幸に微妙な顔をされるから、死んでも知られたくない。
「おーい、獪岳」
名を呼ばれて上を見上げれば、道を見下ろす岩の上に竹刀片手の音柱が座っていた。
「それ走り終わったら、もう次の稽古に行っていいぞ。体の鈍っちまってた分、もう戻せただろ」
「はい。……ありがとうございました」
流石元忍びと言うだけあってか、話しかけられるまで獪岳には気配がわからなかった。
それだけを言って、宇髄はまたあっという間に去って行く。でかい図体だというのに、音も立てていなかった。
とはいえ、終わりと言われたならば終わりで良いのだろう。
走り終わってすぐ、獪岳は荷を纏めた。その荷物の上に、雪五郎が舞い降りる。暇なのかこいつ。
まあ、鬼がいないなら鎹鴉も暇になるのだろう。
「お前、どけよ」
「ケッ!」
どく気がないらしい鴉をそのままにして、獪岳は荷を持った。
当然追い落とされた雪五郎は、ばさばさ羽ばたいて今度は肩に止まる。だったら、最初からそっちへ止まっておけばいいだろうに、この鴉はわざわざ絡んでくるのだ。
雷右衛門の悲鳴が耳から剥がれないせいか、殴って追い払う気も起きない。
「で、鴉。次はどこに行きゃあいいんだ?」
「恋柱邸!恋柱邸ト聞イテイナカッタノカァ!」
「順番は知ってんだよ。場所を知らねえんだ」
柱たちの邸宅がどこにあるかなど、継子でもない限り普通は知らない。病院代わりの蝶屋敷は例外として。
「コッチダ!」
「最初からそう言え」
肩に雪五郎を乗せたまま、その案内に従って歩く。
辿り着いた先は、例に漏れず大きな屋敷だった。中から漂って来る菓子のような甘い匂いは、何なのだろうか。
「あっ、来たのね!こっちよ!」
戸口のところで朗らかに声をかけて来たのは、桜色と黄緑色が混ざった髪を編んだ、若い女だ。
直接顔を見て、薄っすらとしていた記憶が蘇る。柱合裁判にもいた恋柱、甘露寺蜜璃である。最近、刀鍛冶の里で上弦とも戦ったはずだ。
「ようこそ!あなた、獪岳くんよね?」
「え?……あ、はい」
「やっぱり!私は甘露寺蜜璃。私ね、昔あなたの師匠の煉獄さんに剣を教わっていたことがあったから、だから、同じ師匠の弟子の人に会うの、楽しみにしていたの!」
刀鍛冶の里では入れ違いになってしまったし、と恋柱は屈託が一切ない笑顔で楽し気に言った。
獪岳も、笑顔を見たことはある。
あるが、こうも屈託なく、しかも開けっ広げで明るい笑顔というのは見たことがなかった。
幸も微笑むことはあるが、牙を気にしてか微笑みそのものは小さい。雪五郎や雷右衛門は鴉だ。鴉の笑顔はわからない。
知り合いの中で甘露寺と一番似ているのは、竈門家の二人だろう。あそこの兄妹の微笑みの底抜けなさが、最も近いものに見えた。
「獪岳くん、どうかした?そういえば、あの幸ちゃんはどうしたの?」
「あ、いや、いえ、何でもありません。幸は蝶屋敷で見てもらってます。昼間の柱稽古には連れて来れないんで」
連れて来るだけならできたろうが、荷物のように持って移動していても時間の無駄になるだけだ。
そう返すと、甘露寺は少し表情を止める。心無し悲しそうというか、気遣っているようだった。
甘露寺蜜璃は、会ったこともない相手にも、そういう顔ができる人間なのだなと思う。
「別に、元気にはしてますよ。蟲柱様の手伝いができるってんで、張り切ってもいたんで」
「そうなのね、すごいわ!悲鳴嶼さんに聞いたけど、幸ちゃんは頭が良いのよね」
「ええ、まぁ……」
良いのは頭というより記憶力だと思うのだが、些細な違いだろう。そのまま頷くと、甘露寺は屋敷の中に獪岳を導いた。
肩の上の雪五郎も、そのままである。
「ここでは柔軟性をつけてもらおうと思ってるの、まず、この服に着替えてね!」
そう言って渡されたのはなんとまあ、ほぼ胴体しか覆わないような、変わった形の服だった。
動きやすそうではあるが、足など付け根までほぼ剥き出しだ。他の隊士も同じものを着ているが、何人か恥ずかしいのかもじもじとしている。
鬼殺隊士は、大体全員上背もあり体格のいい男共で、何ならやくざ者以上に体や顔に傷跡があるやつもいる。獪岳もそうだ。
そんな輩たちが、妙な服を着て小さい餓鬼のように恥じらっているのはなんというか、奇妙だった。
その服を、獪岳も今から着なければならないわけだが。
「これを着て踊ったり、柔軟をするの。私の型は体の柔らかさが肝心だから、色々と視てあげられると思うわ!」
恋柱から、悪気とかそういうものは一切合切感じない。多分、言っていることも正しい。服の形が少々あれなだけだ。
肩の上で笑いを堪えてかぷるぷる震える雪五郎を、今すぐ焼き鳥にしてやろうかと思う。
修行修行、これも修行、と頭の中で何度も唱えて、若干引きつった笑顔で獪岳は頷いた。
見たものを絶対に忘れない幸がいないだけ、百倍マシである。
「わかりました。よろしくお願いします」
他の答えは、なかった。
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柔軟は結局、ほとんど力業によるほぐしだった。
飛んだり跳ねたりで鬼と戦う鬼殺隊士なのだから、体が固い人間はいない。いないのだが、恋柱・甘露寺蜜璃の柔軟さはそれ以上。
見た目にそぐわない剛腕で体を引っ張ったり伸ばされたりする隊士からは、かなり悲痛な叫びが上がっていた。
情けない声を上げるのは癪極まりなかったため、獪岳は根性で耐えたが、終わるころには疲れてもいた。
華奢な外見の恋柱だが、完全記憶能力がある幸や、鬼喰いができる玄弥、稀血の風柱・不死川実弥と同じく特異体質の人間だという。
彼女には常人より、筋肉が八倍ついているそうだ。筋肉の密度が半端なく高い。
だから普通の町娘の細腕と同じに見えていても、実質は大男顔負けの腕力があるそうだ。いつだったか、師匠の杏寿郎がそう言っていた。
鬼殺隊には、そういう特異体質者がかなりいるのかもしれない。
軽く現実逃避をしてしまうくらいには、甘露寺の連日の柔軟は堪えていた。尚、雪五郎は飽きたのかなんなのか、どこぞへ飛んで行った。
そんなふうに、二日目辺りで道場の隅の床の上で獪岳が潰れていると、甘露寺のほうから話しかけて来る。
「獪岳くん、平気?」
「平気……です。あの……甘露寺さん?」
どう呼べばいいか迷った呼び方は、間違っていないらしい。なぁに、と甘露寺は微笑んだ。
「あなたはその、炎の呼吸から恋の呼吸をつくったって聞いたんですけど……どうやったんでしょうか?」
「ん?」
「だから、その……」
獪岳は炎の呼吸と雷の呼吸、二つを習っている。
どう足掻いてもどうやっても、雷の呼吸の基礎ができなかったからそうした。だが、かと言って炎の呼吸が完全にできるようになったわけではない。
二つの型を組み合わせて動かすこともあれば、どちらかひとつの型だけを使うこともある。滑らかに動かせるようにもなり、手数も増えたが、だからこそ半端だと感じることも少なくない。
甘露寺のように、元の呼吸から派生した、完全に自分に合った新しい型をつくるには至っていないのだ。
あまり上手くないと思っている説明でなんとか言えば、甘露寺は真面目な顔になった。
「難しいわよね。私は習っていたとき、こうグァァッってなったから、ガーッとして、それで」
「は?」
素の、地を這うような低い声が出てしまった。
いやひとつも説明がわからない。何を言っているんだろうこの柱は。
首を傾げると、わかりやすく甘露寺は眉を下げた。
「あ、ご、ごめんなさいね!私の説明、あんまり上手くなくって……」
そうですね上手くないですね、とは言えない。
確かなことは甘露寺蜜璃は、竈門炭治郎と似ているということだ。
あいつもあいつで、人に何かを教えるのが爆裂に下っ手くそだった。擬音が独特過ぎるのだ。
「えっとね、私の刀はほら、こんな形なの」
あわあわとしたまま、甘露寺は持っていた刀を抜く。でてきたのは、薄く長い、紙のような刃を持つ刀だった。
よくしなるこの刀をどうやって扱うのか、見当もつかない。巻き付けるようにして、鬼の頸を捩じり斬るのだろうか。
疑問が顔に出ていたらしく、甘露寺は慌てたらしかった。
「こうやってこう、ビュバッとして戦うんだけど……わかるかしら?」
「すいません。全然わかりません」
「ぜ、全然?」
途端にしょげられると、滅多に感じない罪悪感が湧く。
だからと言って、すぐさま落ち込んだ人間を励ましたりなぞできない。そういうのが得意なやつは、今頃蝶屋敷の箱の中辺りで眠っている。呼んでも来られない。
「ううん……あ、そういえば獪岳くんは、上弦と戦ったことがあるのよね」
「はい」
「私はその、教えるのが煉獄さんくらいには上手くないけど、でもね、こう思うの。獪岳くんが上弦と戦ったこと、その経験はきっとつらかったし、痛かったと思うわ。お友達だった鎹鴉くんが、亡くなってしまったと聞いたし」
友達。自分の友達、だったのだろうか、あの鴉は。
仲間だったし、助けてくれた。幸を抜かせば、多分隊士になってから最も長く話していた相手だと思う。
「それでも、戦って生き残ったことと、戦った事実そのものは、長い鍛錬にも勝ることだと思うの。思い出すことは大変かもしれないけれど、獪岳くんはあのとき、どうやって戦ったの?」
どうやって。
常に必死で、一秒先にどう生き残るかを考えていた。それでも死にかけ、生き残り、今ここに座って恋柱の話を聞いているのだ。
「よく思い出して、その経験を生かすのが一番じゃないかしら?」
刀鍛冶の里で痣者の痣を発現させ、上弦を一人で足止めしたという恋柱は、そう明るく微笑む。
寿命の枷が嵌ったことなど、微塵も感じさせないように。
────本当に、どいつもこいつも。
その言葉を飲み下して、獪岳は頷いた。
「……そうですね。ありがとうございます、甘露寺さん。あと……」
あなたの言うこと、師匠に似てますね、と獪岳が言えば、甘露寺は一瞬きょとんと不意を突かれた顔をした。
「経験に何ものにも勝る価値があるって言うそれ、煉獄師匠も言ってましたから」
師弟だったから、言葉も似るのだろう。
そう返すと、恋柱はとても嬉しそうにはにかんだ。
「獪岳くん、幸ちゃんと一緒に列車で煉獄さんを助けてくれてありがとうね!お互い、頑張りましょう!」
「……はい」
「それからね、獪岳くんはもうここでの修業は大丈夫だから、次に行っていいわよ!頑張ってね!」
むんっ、と拳を握って、甘露寺蜜璃は去って行く。
その背中に軽く頭を下げて、獪岳は立ち上がった。道場を出たところで、ちょうど門から入って来る見覚えがある姿があった。
「お、久しぶり。ってお前、何なんだよ、その変な格好」
鶏冠頭に顔を横切る傷跡、大柄な体躯。
どう見ても間違えようがない、不死川玄弥がそこにいた。
頭から爪先までじろじろ獪岳を見た玄弥は、かなり訝し気な顔をしている。
ぴし、とこめかみに細く青筋が立った。誰が好きで着るか、こんな珍奇な服。
「生憎だな。ここじゃ皆これ着て鍛錬してんだよ。お前もやるんだぞ」
「え」
「じゃ、俺はもう次に行くけど精々頑張れよ。恋柱様がしっかり教えてくれるからな」
獪岳は、ひとつも嘘は言っていない。鍛錬の中身は地獄の柔軟であるが。
そういえば、体を大きくした幸に詰め寄られたときや、蝶屋敷の看護婦たちに寄ってたかられたとき、玄弥は顔を茹で蛸のように真っ赤にして照れていた。
今回は、大丈夫なのだろうか。
─────まあ、大丈夫だろう。
上弦と戦う度胸があるなら、大体なんでもいけるだろうし、獪岳がそんなところまで気にかける義理はない。
多分今、自分は凄く悪い顔をしているのだろうと思いながら、獪岳は玄弥にひらひら手を振って歩き出した。
「えっ、はっ?いや、ちょっと待てよ!」
誰が待つというのだろうか。時間が勿体ない。
既に顔が赤くなりかけの玄弥をするりと躱して、獪岳は荷物を取りに向かったのだった。
恋柱は、弟弟子が来ることを実は楽しみにしていました。いつも一緒だという鬼の子にも会いたかったのですが、いないので残念。
尚、獪岳はパンケーキをご馳走になってます。食べられたら喜んだろうな、と思いながら。