では。
丘の上の家へ続く馴染みの道の両脇には、昼下がりの日の光に照らされて艶めく緑が茂っていた。
懐かしくはないが見覚えはある景色の中、土を踏みしめて獪岳は歩いていた。
背には日輪刀を負い、肩には箱を担いでいる。
その箱相手に、獪岳は不機嫌に会話をしていた。
「で、結局お前はあの竈門なんとかいうのに頼まれて、血を分けたってのか」
「ん」
「勝手なことしてんじゃねぇよ」
「かいがく、ねてた」
寝ていたから起こすのはかわいそう、とでも思ったのだろう。
「俺に断りなく、勝手なことするなって言ってんだよ」
「ん」
肩にかけた箱と会話するなど、街中では到底やれない。人に見られれば、完全に奇人扱いをくらうからだ。
だがここは、人里から離れているから、遠慮なく喋っていられた。
蝶屋敷を後にして一路、獪岳は育手の下へ向かっていた。
獪岳が眠っている間に、幸は竈門炭治郎と会って血を欲しいと言われたそうだ。
なんのためにそんなものを、と疑問だったが、彼は鬼になった妹を人間に戻すために、鬼の血を集めているそうだ。
「鬼を人間に戻す、ねェ……」
そんなことを信じて、あの炭治郎は剣士になったらしい。
馬鹿馬鹿しい、と思った。鬼が、人間に戻れるわけがない。
日の光には触れられない。
言葉がたどたどしい。頭の中身が幼い。
湯気の立つ白い飯も、甘い香りのする果物も何もかも、人間の食べ物が何も食えなくなった生き物。
人の血肉を喰らわない鬼の例外ですら、十年もそのままで生きているのだ。
「できるわけねえだろ、んなことがよォ。お前、そんなやつに血を分けたのか。無駄なことしやがってなァ」
「ん!」
ごんごんごん、と内側から箱が連打された。珍しく怒ったらしい。
「くだらねえことしようとしてるやつを、くだらねえと言って何が悪いんだよ。お前も戻りたいのかァ?」
「……」
途端に箱の中が静かになった。
何故そこで、黙るのだ。
腹が立ったなら、言い返せばいい。
大人顔負けに口が回ること以外、お前に取り柄なんてなかっただろう。
いつも上手く動かない脚を引きずり、よたよたと獪岳の後ろをついてくる、グズだったのだから。
そんな脚で夜の山になど行くから、鬼になったくせに。
そう思っても、箱からはもう何の声もしなくなっていた。かすかな息遣いが続くだけだ。
「チッ」
日の光に照らされてきらめく、雨に濡れた下草に、葉を生い茂らせる桃の木。高く鳴いて飛ぶ雲雀の声。
今この瞬間、太陽の下にあって生を謳歌する、目にするすべてに苛ついた。
鬼とは、この太陽に守られた世界に追い出され、居場所を失った生き物だ。
今更元に戻るなど、有り得ない。
苛立ちが募って足元の小石を蹴り飛ばしたときである。
丘の頂上に立つ人影が、見えた。
手には木刀。構えは低い。型は居合い。
─────あれは!
即座に箱を放り投げ、背中の刀を抜く。胸の前に掲げる。
瞬間、びりびりと凄まじい衝撃が手に走った。
刀を上に振り上げて木刀をかち上げ、飛び退る。そのまま横っ飛びに避ければ、相手の木刀が地を叩き割った。
相手はそこで、手を止めた。
木刀を肩に担いでいるのは、獪岳よりも背の低い老人である。
皺と傷が深く刻み込まれた顔の表情は厳しい。彼の片脚は木の義足だが、そのままで居合を放ったのだ。
「久しぶりじゃな、獪岳。この馬鹿弟子が」
「……先生」
雷の呼吸を極めた元『柱』、桑島慈悟郎は、木刀を杖に獪岳を睨めつけた。
「精進はしているようじゃな。とっとと箱を拾ってついてこい」
放り投げた箱を無言で拾い上げ、獪岳はかつて住んでいた家に入る。
板張りの家は、記憶とどこも変わっていなかった。ただ、雨戸が閉め切られて全体に薄暗かった。
「座れ」
獪岳が向かいに座ると、慈悟郎は深く息を吐く。そして、刀を抜き放つように前触れなく言い放った。
「お館様から文が来て、お前が鬼を庇ったと知らされたとき、儂は腹を切ろうと思った」
「え?」
「何を驚いた顔をしとるんだ馬鹿弟子。雷の呼吸の継承権を持つ者が、鬼を庇うという隊律違反を犯したんじゃぞ。かつて柱であり、お前を鬼殺の剣士に育てた儂が、責任を負うのは当然であろうが」
「それは!俺が、先生に黙ってやってたことで……!」
腰を浮かせかけた獪岳の脳天に、慈悟郎の杖がめり込んだ。
痛みに無言で悶絶する獪岳を前に、慈悟郎は淡々と語った。
「馬鹿者。お前が勝手にやっていたことであろうが、鬼を庇うような人間と見抜けずに剣士にしたのは、儂の責任だ。規律とは、そうして守らねばならぬものだ。そこに、お前はまったく思い至っておらんかったようだな」
押し黙る獪岳に、もう一発杖の一撃が炸裂した。
「だがな、お館様は文の中で、お前が鬼と共に間違いなく鬼殺の隊士としての任を行い、人々を守っていたと書いておられた。くれぐれも、儂に腹を切ってくれるなと厳命されたぞ」
「……」
慈悟郎の視線が、獪岳の隣に置かれた箱に向く。獪岳がぶん投げてから、幸は静かなものだった。
「もう一体、人を喰わぬ鬼もいるとも書かれていた。鬼舞辻無惨への手掛かりとなるかもしれない特例として、お前の連れている鬼ともう一体の存在を、認めるとな」
正座したまま、獪岳は俯いた。
何を言えばいいのだろう。
何か言わねばならぬことはわかっていたが、言葉が一つも出てこなかった。
「獪岳よ。お前の連れている鬼は、どこの誰じゃ?もう一人の隊士は、鬼になった妹と共にあると書かれていた。が、お前には生みの親も実のきょうだいもおらんだろう。それとも、何処の誰とも知れぬ鬼がたまたま懐いてきたから、便利に使っていただけか?」
「違う!」
喉から勝手に、声が吹き出したようだった。
それで何かが、獪岳の中で音を立てて切れた。
「違う!全然違う!あいつは人間だった!俺のせいで鬼になった馬鹿だ!だから俺が使う!連れて行く!文句あんのか!」
「戯け!」
三度目の一撃が脳天に炸裂し、獪岳は派手な音とともに後ろにひっくり返った。
尻もちをついたまま、獪岳は仁王立ちした師を見上げた。
「……身内が、友が、鬼になるものなど多くいる。斬ってやるのが、慈悲とは思わんかったのか?」
「人を喰ってないと言った。俺の名前も呼んで、俺を助けた。斬らなきゃいけない理由がなかった」
「鬼の言うことを信じたのか!人を喰うためなら嘘も平気でつく!本能のまま血肉を啜って殺す!鬼とはそういうものだと教えただろう!」
「うるせぇ!喰ってねぇなら喰ってねぇんだよ!俺の怪我見ておろおろするグズが、他のやつの肉なんか喰えるわけねぇだろ!」
都合四度目の杖の一撃を、獪岳は素手でつかんで止めた。
ぎりぎりと杖を握りしめて師と相対していると、胸の奥からどす黒い何かが吹き上がってくる。
師範の真っ直ぐな目と、盲目の岩柱の鋭い眼光が重なったとき、獪岳は吼えていた。
「俺にもわかんねぇよ!なんであのグズは恨まねぇんだよ!恨むのが当たり前じゃねぇか!テメェのせいで鬼になったって言うだろ!俺が馬鹿をやって外になんて出なけりゃ、鬼になんざなってなかったってな!なんであのとき、俺を庇った!どうして逃した!今だってそうだ!弱ェくせに!俺より弱かったくせに!なんで何も言わない!なんで……」
息が切れて、獪岳は咳き込んだ。
剣士として培ってきた呼吸も何もかもが乱れて崩れ去り、滅茶苦茶になっていた。
獣のように吼え、叫びすぎた喉が焼け付くように痛かった。
その痛みが、ひとつの記憶を引きずり出した。
あの夜の山で鬼から逃げたときも、こんなふうに喉が、肺が、焼け付くように痛かった。
ただ前だけを見て、痛む足を動かして咳き込みながら、暗闇の中を一人で走って逃げた。
木の根で転ぼうが蔦で躓こうが、草の葉で手足が切れようが、ただひたすらに化け物から逃げたかった。
生きたかった。生き残りたかった。
ただ、それだけだった。
後ろに置いてきた少女のことは、一度も振り返らなかった。
そうして力尽きて気絶して、昇る朝日で頬を温められて起きたときに感じたのは、紛れもない安堵だったのだ。
ぬくい日の光に、冷えていた手足が暖められるのを感じた。自分が、自分だけが生きていると、実感できた。
自分が置き去りにし、二度と日の光の下に出られない化け物になってしまった少女のことは、あの一瞬、完全に心から消えていた。
次の瞬間、獪岳は自分がどうしようもなく安堵しているのを理解した。理解してしまった。
助けられなかったとか、自分だけが生き残ってしまったとか、そんなまともな人間がするであろう後悔や哀しみを、幼い自分は欠片も感じていなかった。
獪岳が見た、最後の人間としての幸の儚い顔が、記憶に焼きついて消えなくなったのは、あのときからだった。
その顔が浮かぶ度、あいつは弱かったから死んだのだと、思った。
本当は違うと、わかっていたのに。
鬼に喰われそうになりながら、それでも自分ではない誰かを庇い、小さな刀を持って立ち向かったやつのほうが、すべて忘れて逃げて、自分の生命の心配しかできなかったやつより強いと、わかっていたのに。
獪岳に逃げろ、生きろと言った幸の強さが、小さく弱い体でそんなことができた幸が、獪岳にはずっとずっと、わからなかったのだ。
口は回るが体が弱くて、いつも正しいことを言って獪岳を叱り、そのくせいじめっ子には負けて泣いて、自分が助けてやらなければならない弱虫だと、ずっと見下していた幸は、あのとき獪岳よりも強かった。
その強さがわからなかったから忘れられなくなって、あの顔が消えなくなった。
そういう、ことだったのだ。
「俺には、なんにも、わかんねぇんだよ……」
呟けば、杖を掴んでいた手から力がするりと抜ける。
師の杖は、勢いをなくしたまま下げられ、痛いほどの沈黙が、空間に満ちた。
「……初めてお前の本音を聞いた気がするわい」
やがて、師がぽつりと言った。
「昔からお前は、善逸のように泣いたこともなければ、爺ちゃんなどと呼んでくることもなかったな。教えたことは覚え、鍛錬にも励んでいた。だからなのかのう」
「何抜かしてんだ。教えられたこと、全部は覚えられてねぇよ。俺は、壱ノ型がまだできてねェんだから」
そう。
本当に呪いではないかと思えるほど、獪岳は基本とされる壱ノ型・霹靂一閃だけができないでいるのだ。
だが、師は首を振った。
「しかし、それ以外はできておった。これで壱ノ型だけできる善逸と補い合えば、雷の呼吸の継承者を任せられると思ったんじゃ」
「生憎だったな、先生。俺はあいつが嫌いだし、あいつも俺が嫌いだよ」
「急に砕けた口調になりおって。そちらが素か?」
ぺし、と大分勢いを失くした一撃が、獪岳の額に当たった。
「とにかく、お前は出来が良い弟子だった。それがまさか、深い事情があったとはいえ隊士になってから鬼を庇っておったなどと想像できるか。善逸も馬鹿弟子と思っていたが、お前たちは二人揃って大馬鹿弟子じゃ」
「……」
あいつと一緒にするな、とは言えなかった。
師に腹を切る覚悟までさせていたのだ。確かにそれは、馬鹿弟子どころか破門沙汰である。
あの出来損ないの弟弟子と二人揃ってようやく雷の呼吸の後継者だと言われたときは腹が立ったが、それでも桑島慈悟郎は獪岳には尊敬する師なのだ。
ふいに、かりかり、と板を引っかく音がした。
幸が、箱から出たがっているときの合図である。師を見ると、促すかのように軽く頷かれた。
「出て来ていいぞ」
「ん」
蓋を開けて、ころりと板の間に幸が出て来る。七つ、八つの少女の姿を見て、慈悟郎の目が微かに下がった。
そのまま、とたとたと近寄って来た幸は、丁寧に床の上に三つ指つくと、深々と頭を下げた。
見本のような、綺麗な礼である。
「獪岳、この子がそうか?」
「ああ」
「名前はなんという?」
「幸。幸福の幸と書いてさち、だ。その成りでも、歳は俺の一つ下だぜ」
つい最近も、似たようなことを言ったものである。
師の鋭い目が、幸に向けられた。
「お前さんにとっては、酷いことも聞かせたな。だが、許してほしい。儂は鬼殺の隊士だった。鬼は斬るもので、そこに例外はなかった。鬼とは、儂にとって憎むべき敵なのだ」
こくり、と幸が頷いた。
茫洋とした瞳は、鬼殺の剣士にとっての当たり前の理屈を理解して、受け入れているようにも見えた。
並みの七つそこらの子どもより、かなり小さめの体をしている幸を見て、師はふ、と目元の皺を微かに弛めた。
「そんな小さなころに、鬼にされたのか。……惨い目に、遭うたなぁ」
ぽん、と師の手が丸く小さな頭の上に乗る。
雑だが、優しげな手つきで頭を撫でられ、幸が伏せていた顔を上げた。
素直な戸惑いが、そこに浮かんでいた。
「怖かっただろう。恐ろしかっただろう。痛かっただろう。それでも頑張って、獪岳を逃したのだな。えらい子だ」
聞いたことがないようなゆっくりと穏やかな師の声に、幸の、曇ったガラス玉のような金色の瞳がみるみる濡れていった。
水晶のような透き通った粒が、大きな目の縁に盛り上がる。
粒は滴になってぽろりと零れ、滴は白い頬を滑り、紺の着物の襟に触れて砕けた。
あとからあとから、宝石のような涙が頬を伝っては落ちていく。
獪岳は、呼吸を忘れてそれを見た。
鬼になってから、幸が泣いたことはない。
昔は、ちょっと小突けばすぐ泣きべそかいたくせに、今は哀しそうに目を伏せたり、怒りで目を吊り上げたり、その程度のものしか見たことがなかった。
否、それだけしか、できないのだと思っていた。
「儂の弟子を救ってくれたことに、礼を言わせてくれ。儂がお前さんにしてやれることは、それくらいしかないがのう」
頭を撫でていた手で肩をゆっくりさすりがら、師が言う。
幸は両手で顔を覆った。
指の隙間から、子どもらしい甲高い泣き声が漏れていた。
獪岳はただ、見ていた。
涙を拭ってやろうとか、泣き止めばいいのにとか、そんなことは考えられない。
えぐえぐと、小さな子どものように泣き続ける鬼の少女から、ひたすらに目が離せなかった。
喉を鳴らしてしゃくり上げ、手や袖で涙をむちゃくちゃに拭い、鼻を啜り、それでも嗚咽を止めきれずに幸は泣き続けた。
本当ならきっと、鬼にされた日にこうしたかったのだろう。
怖いと、誰か助けてと、苦しいと、泣いて叫びたかったのだろう。
けれどあのときは、誰もいなかった。
誰も少女を助けなかった。助けられなかった。
藤の花の封印で、化け物たちと一緒に山に何年も封じ込められ、そこから出られても泣けなかった少女が、初めて流した涙だったのだ。
嗚咽が波のように引いていき、やがて幸が泣き疲れて静かになるまで、結局獪岳は何もできなかった。
涙は出尽くしたのか、幸はぽうっと夢見ているように獪岳の隣に座っている。
「獪岳」
名前を呼ばれ、獪岳は知らず俯いていた顔を上げた。
「この子を、ここに置いていかんか?」
「え」
「人を襲わぬ限り、斬ったりはせんよ。あんなふうに泣ける子だと、わかったからな。だが、この子を戦いの場に連れて行くのは正しいか?鬼ではあるが、知っての通り鬼は不死ではない」
そもそも鬼にされたとはいえ、この子の気性で戦いに向いているのか、とそう問われていた。
獪岳が答えに詰まったとき、膝の上に置いていた手を握られる。
横を見ると、金色の瞳が獪岳を見ていた。
「かいがく、いやだ」
────置いて行かれるのは、嫌だ。
は、と獪岳は固まった。
少し前まで幼子のように泣いていた少女は、今は大人の女のように凛と背筋を伸ばして獪岳を見ている。
それでも、幸は獪岳の答えを待っていた。
獪岳が、言わなければならなかった。
「先生、せっかくの申し出だけど断る」
「ん。かいがく、みちに、まよう。だれか、いない、と、だめ」
「は?誰がいつ道に迷ってたんだよ!」
「いつも。この、とうへんぼく」
ぽかり、と幸の手が獪岳の額を叩いた。
もちろん痛くはない。痛くはないが、何をしやがるという気にはなった。
やり返してやろうとすれば、ひょい、と軽い動きで避けられる。
二度目三度目も、最小の動きで躱された。
「何しとるんだお前らは!子どもか!」
途端に雷が落ち、獪岳の額と幸の額に、どごんと杖がめり込んだ。
当然、幸は鬼の回復力であっさり治り、獪岳だけが痛みで床の上をのたうち回る羽目になった。
全集中の常中の呼吸ができる剣士でも、痛いものは痛いのである。
呼吸で、頭の硬さは上がらない。
「善逸も馬鹿なら、お主も馬鹿じゃのう。よし、決めたぞ。お前たち二人は、しばらく任務を共にこなせ」
「は?……はぁ!?」
「騒ぐな馬鹿たれ。お前たちは揃って未熟者だ。一度戦いの中で互いを見つめ直してみろ。何も、ずっと共に戦えと言っているのではない。任務を一つ、力を合わせてこなせと言っているだけだ」
「ふっざけんな!できるか!爺ィ!」
「師範と呼ばんか馬鹿弟子ィ!やらねば破門に処す!」
「横暴だろうが!」
師と弟子の、雷の呼吸まで交えた乱闘と言い合いが止まったのは、それから一刻後のことである。
そのころには幸はとっくに言い合いを聞くのに飽きて、部屋の隅っこで膝を抱えて欠伸をしていた。
折れたのは、無論獪岳のほうだ。
破門を盾にされたこともあるし、そもそもは事情があったとはいえ、年単位での隊律違反を師にも打ち明けなかった獪岳に非があった。
そうしてその日の夜、眉間に皺を刻み、箱を背負った獪岳は師の家を後にした。
夜になったのは、なんだかんだで、夕餉までご馳走になったからだ。
鬼殺の剣士になってからのあれこれをぽつぽつと獪岳が語るのを、師は時々未熟者だとか馬鹿弟子だとか怒りつつも、聞いていた。
まだ壱ノ型が使えていないというと、師はどんぐりをぶつけられた栗鼠のような顔になっていた。
何故そこまで剣技と呼吸を練り上げられるのに、基本ができないのかと言われたが、獪岳も渋い顔になった。
そんなことを言われても、獪岳とて困るのだ。鬼の身体能力を駆使する幸を鍛錬相手にしても、できていないものはできていないのである。
それから打ち込み稽古を久々につけてもらって、気づけば出発は夜遅くになっていた。
とっとと善逸に合流しろ、と師が言うので、獪岳はそのまま発つことにしたのである。
「獪岳、死ぬでないぞ。死ぬことなく、誇り高く生きよ。今度来るときは、善逸も連れてこい」
「……あいつが生きてたらな」
そう言えば、最後に一発、杖で強か額をぶたれた。
丘の上の家を、そうやって獪岳と幸は後にした。
日はとうに沈み、街の灯りだけが小さく見えていた。
「おい、出てきたらいいだろ。太陽はもうねェぞ」
こんと箱を叩くと、兎のように軽やかに幸が出て来た。
地面に降りると、獪岳を見上げて幸は首を少し傾けた。
「かいがく、どうした、の?」
「……お前、少し喋り方変わったか?」
滑らかになったというか、自然になったというか、少なくとも前よりたどたどしさは消えていた。
「そ、う?ないたから、かも、しれない」
泣いただけで、そこまでになるのだろうか。
心の澱を涙で押し流して、言葉が滑らかになったというならなんとも不思議な話だった。
「この、とうへんぼく。わたし、頭では、ちゃんと、ずっと、かんがえ、てた。ことば、が、うまく、だせない、だけ」
「誰が唐変木だ!」
「かいがく、が」
幸は夜の坂道を、くるりくるりと獪岳の周りを跳ねるようにして降って行く。
後ろで編んで一つにした髪が、動きに合わせて千鳥の尾羽根のように揺れていた。
楽しそうだ。
嬉しそうだ。
唐突に、殻を割るようにして起きた変化だった。
一度の涙がそこまで幸を変えたのか、泣けたことで今まで堰き止められていた感情が溢れたかは、わからなかった。
ただ、もっと早くに側にいた者が、こうしてやるべきだったのだと思う。
「よかった、ねぇ。しかって、もらえて」
「どういう意味だ」
「じぶん、で、かんがえ、て」
べぇ、と小憎らしく幸が舌を出して、くすくすと笑った。
「あの、ね、わたし、がおに、に、なった、の、かいがくの、せい、じゃ、ないから」
そしてそのまま、幸はさらりと言った。
「わるいのは、おに、だよ。こども、のころ、のかいがく、じゃない」
「だから恨んでないってのか」
「うらむ、のは、それは、むざ、んだけ。きぶつじ、むざん、だけ」
すべての鬼の始祖の名を、幸は前を向いて夜道を歩きながら、告げた。
「わたし、たちを、おそった、鬼、も、わたしみたい、な、ふつうの、にんげんに、うまれたんだ。むざんが、いなかった、ら、みんなこんな、くるしいおもい、しなかっ、た」
寺のあの子たちを殺し、獪岳も、行冥さんも皆を苦しめているのは、鬼舞辻無惨なのだ。
「鬼は、くるしい、よ。ひかり、に、さわれない。おなかは、へるの、に、ものが、たべられ、ない。強いんだって、いばっても、けっきょく、みんな、なにか、をなくしていって、しまうんだ」
人と隔絶した肉体の力と引き換えに、鬼がすり減らせて行くのは、人間のころの記憶であり、感情であり、理性。
すべて無くせば、待ち受けているのはただの人喰いの化け物として生きるしかない、地獄のような長い、永い時間だ。
「人間、は、ばけものに、なって、ひとごろしを、するため、に、だれかをくるしめるためだけ、に、うまれて、きたんじゃ、ない。そんな、くだらないことのため、に、わたしたち、は、生きてきたんじゃ、ない」
だから、幸が許せないと全身全霊をかけて憎むのは、人を鬼に変える力を持ち、それを振るい続ける鬼舞辻ただ一人なのだった。
そうは言われても、獪岳には納得できない。
「それでも、お前が鬼になったのは、俺のせいじゃねえのか。俺が、行冥さんの言うこと破ったから、お前を置いて逃げたから。あの寺だって……」
「おばか」
黒い羽織の袖を翻して、幸が獪岳の方を向いた。
「うぬぼれないで。かいがく、は、じぶん、のこと、えらいと、おもい、すぎ。十歳にもなっていなかった、子に、なにができたの」
言いつけを破って外に出たこと、それは行冥さんに謝らなければならないけれど、幸を置いて獪岳が逃げたこと、それは罪ではない。
刀の持ち方も知らない子どもだけでは、二人とも喰われて殺されるか、一人が逃げて生き延びるか、どちらかしかなかった。
「かいがくが、あのおにを、寺につれてった、の?案内、したの?藤のはなのおこうを、けした、の?ちがう、でしょう」
藤の花の香で守られていたはずの寺が、どうして鬼に襲われてしまったのかはわからない。
でも、世の中には残酷な偶然というものがどうしたってあってしまうものだ。
「できもしなかった、ことをおもって、いつまでも、怒るのは、やめ、て。そうやって、じぶんで、じぶんのこころを、きずつけて、あなだらけ、にして、も、何も、かわらない。だいじなもの、を、なくしてくだけ」
怒りの刃を振るうべき相手は、無惨ただ一人だけだ。
自分で自分を傷つけて、不満と苛立ちを周りにぶつけて、自分のために声を上げて叱ってくれる人まで遠ざけて、そんなことをしたって、もう何も変わらない。
それでは自分の大切な何かを忘れて、人から奪い続ける鬼と、一緒だ。
「鬼殺の剣士が、いつまでもわめくんじゃ、ない。まえを、むけ。刀を、ふるえ。男の子、でしょう」
とん、と心臓がある辺りを指で突かれる。
鬼にされてから、時を止めたように変わらない幼い姿が、その刹那だけ成長し、背が伸びた少女の姿に見えた。
本当なら、本当だったら、幸はそうなっていたはずなのだ。
太陽の下で今でも笑って、あの寺にいたあいつらだって、死んでいなかった。
無論、それは錯覚だった。
瞬きをすれば幸は小さいままで、ひとつの三つ編みにした黒髪を揺らし、猫のような金色の瞳を闇の中で光らせていた。
ぐ、と獪岳は拳を握りしめた。
「言われなくたってやってやらァ!それに俺は泣いてねぇ!泣いたのはお前だろ、泣き虫!」
「そっちこそ。かいがくの、どんかん、とうへんぼく、がんこもの、わがまま、がんばりや、へそまがり」
「うるせェ!幸!」
ん、と幸が眉を上げた。
あ、と獪岳は固まった。
細い顎に指を添えて、幸が首を傾げた。
「なんだ、なまえ、ちゃんとよべた、んだ」
「お前俺のこと馬鹿にしてんだろ!忘れてねぇよ!」
「なんであなたが、怒る、の。よく、わから、ない」
呼びたくなかっただけなのだ。
それは、あのとき死んだはずの、見殺しにしたはずの少女の名前で、そっくり同じ顔をしているだけの鬼の名前では、なかったから。
だが今、ここでからかうように笑っているのは、紛れもなくあの少女だった。
ずっと、幸は幸として、ちゃんといたのだ。変わったのは姿だけ。そこから、獪岳が目を背けていただけで。
軽やかに道を歩いていた幸が、足を止めたのは、そのときだった。
空の端が、徐々に朝に追いつかれていた。
ひゃっ、と小さく言った幸は、箱の中に音も立てずに跳び込むと蓋を閉める。
こういうところは、まるでうっかり土の上に出てしまった土竜のようである。
箱を担ぎ直して歩き出すと、こんこん、と箱が叩かれた。
「かいがく」
「あ?なんだよ」
「ありが、とう。生きててくれて、うれしかった、よ」
獪岳の足が、ぴたりと止まる。
「でも、ね、ぎょうめいさんに、ちゃんと、あやまりに、行こう、よ。わたしも、いかなきゃ、いけないんだ、から」
それっきり、箱の中は静かになった。すぅすぅと寝息が聞こえる。
この状況で寝るのかこいつは、と箱に振り下ろそうとした手を、獪岳は止めた。
ここで殴れば、また、お馬鹿と幸に笑われるだろう。
「チッ!」
手を途中で下ろし、頭を乱暴にかいた。
空を見上げれば、あの馬鹿鴉が円を描いて飛んでいるのが見えた。
「カァ!獪岳!カァ!蝶屋敷ニ、忘レズニ戻ルベシ、戻ルベシィ!師ノ言葉守レ、守レェ!」
「うるせェんだよ!いちいち俺に指図するんじゃねぇ!つかテメェ!どこまで聞いてやがった!」
「カァ!スベテ、スベテェェェ!獪岳ノ、オ馬鹿、オ馬鹿ァァ!唐変木、唐変木ゥゥ!」
「降りて来やがれこのクソ鴉!記憶飛ぶまで殴ってやらァ!」
当然、鴉が降りてくることはなかった。
「カァ!蝶屋敷ヘノ途上デ、北北西ノ村ヘ寄レ、寄レェェ!鬼ガ出タ可能性アリ、アリィィ!」
「ぴぃぴぃぎゃあぎゃあ喧しいんだよ!とっとと案内しやがれ!」
けたたましく騒がれずとも、鬼ならば斬る。
自分は鬼殺の隊士であり、鬼を殺すために刀を振るい続ける剣士なのだから。
背に負った刀と、肩に担いだ箱の重みを確かに感じながら、獪岳は朝日に白く染め上げられていく道を、麓の街へと向かっていったのだった。
【コソコソ裏話】
獪岳の鎹鴉は、事あるごとに獪岳を煽りまくりますが、猫好き小動物好きで、木の実をくれたり羽づくろいをしてくれる幸とは仲良しです。
鬼なので当初は警戒していましたが、絆されています。
なので善逸からの手紙が来ていることも、獪岳がそれを無視していることも、幸には教えています。