鬼連れ獪岳   作:はたけのなすび

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六話です。

幸の話(上)です。

では。


六話

 

 

 

 獪岳の弟弟子の善逸と、同期の炭治郎、伊之助が一晩病室を抜け出たことで、こってりと蝶屋敷の人々に絞られた話を、幸は箱の中で聞いた。

 蝶屋敷の縁側の片隅に腰を下ろし、刀の手入れをしている獪岳から、まるでついでのようにその話を聞かされ、幸は頭を抱えたものだ。

 何故かってそれは、概ね幸のせいであったから。

 とはいえ箱の中にいるしかない昼間では、謝りにも行けない。

 箱は、太陽が空にある限り、外を歩けない幸のために獪岳がそこらで調達してきたものである。

 これまで戦いの中で数度派手に壊れていて、その都度補修やら継板などをして使っているため、見た目はかなりみすぼらしい。

 同じように鬼を連れた鬼殺隊、竈門炭治郎が使っているように二本の肩紐で背負うものではなく、紐一本で肩に引っ掛けるようにして持つから、安定感があまりない。

 

「何してやがんだろうなァ、あの馬鹿どもは……」

 

 ちなみに、獪岳はよく無意識なのかわざとなのか、考え事をしながら箱を振ったり揺すったりすることも多い。

 今回も、手持無沙汰にでもなったのか、左右に箱がゆらゆらと揺らされた。

 

「ん」

 

 抗議のつもりで内側から箱を叩くと、すぐに止まる。珍しいことだ。前ならば、なかなかやめなかったのに。

 先日、剣の師のところで散々に怒られてから、獪岳は少し変わった……ような気がする。

 

 頑固で意固地になりがちな上、他人を尊敬するということが滅多にない獪岳でも、剣の師であるあの老人のことは、本気で凄い人と認識しているようなのだ。

 離れていた八年ほどの間に、獪岳がそういう相手に出会っていたことは嬉しくもあり、そういう相手に出会っていたのに、良い方向に変わっていないところのほうが多い、というのは悩ましくもあり。

 

 色々と、箱の中でも幸は複雑に物思いをすることになっていた。

 

 幸にとって獪岳は、兄のような弟のような存在である。

 生みの親に捨てられて、赤子の時分に引き取られた寺に後から来た、一つ歳上の幼馴染み。

 だから、歳は上でも寺暮らしの中では幸が先輩だった。

 幸を生かして育ててくれたのは、いつも赤の他人から与えられる善意だったから、肉親というものが、どういうふうに互いを慈しみ合うのかは知らない。

 ただ、一番近い繋がりの名前として、獪岳や、寺に引き取られてきた他の子どもたちとはきょうだいだと思うことにしたのだ。

 そのきょうだいも、もうほとんどこの世にはいない。

 

 十年ほど前、まだ幸が人間だったころに人喰い鬼に襲われて、みんな殺されてしまったからだ。

 幸はその中で、運良く生き残った。

 鬼になってしまったが、生きてはいるのだから、生き残ったと考えてもいいと思っている。

 あの日に、自分の人間としての部分が死んでしまったとは、さすがに考えたくないからだ。

 もしかしたら、あのときに幸という人間は死んでしまって、今こうやって物を考えたり、獪岳の隣にいる自分は、亡骸の中に宿ってしまった別の生き物なんじゃないか、とか怖いことを考えたりもするのだ。

 

 獪岳によれば鬼になっても幸という少女は、昔通りの馬鹿なグズ、だそうだ。

 そういう聞き慣れた悪態を聞くと、安心できた。

 寺にいた時分から、幸は獪岳の側に長くいたが、格別仲が良かったのかと言われると、ちょっと首を傾げる。

 

 行冥さんのお寺に拾われるまで、獪岳がどのように生活していたかは知らない。でも多分、幸せではなかったのだろう。

 初めて獪岳と会ったときの感想は、なんというか色々と捻くれて拗ねた目つきのやつだなぁ、というあんまりといえばあんまりなものであった。

 人から奪ってもいい、自分が生きてさえいればいい、何故なら誰も助けてくれないのだから、とそんなふうな荒んだ考えが、緑がかった瞳の奥に透けていたから、幸はどうしようと困ったものだ。

 

 わからなくもないけれど、他人からの善意で生きてきた幸には、その考え方を正しいと受け入れたくなかったし、元々少ない食べ物や粗末な服を切り詰め、爪の先に火を灯すように生活している寺なのだ。

 自分勝手なことをされては、すぐに叩き出されるに決まっているし、村から何か盗もうものなら、寺の全員ごと追い払われかねない。

 みなし子と盲目の若者だけが暮らす貧しい寺に、哀れな子どもたちだと優しい目を向けてくれる人もおれば、薄汚い子どもらは村にいらないのだと、厳しい目を向けてくるものもいるのだ。

 どこで誰に何で付け込まれるか、わかったものではない。

 十歳にもなっていないときから、そういうことに気を張ることができる程度には、幸も世間というものの気まぐれさと、冷たさを知っていた。

 

 仮に、寺の全員が追い出されることにならなくても、誰か一人でも追い出されれば、幸を拾ってくれた行冥さんはとても哀しむだろう。

 行冥さんが哀しむのは、ひもじさよりも寒さよりも辛いことだったから、そうならないように頑張ろう、と決めたのだ。

 元々目端が利いた幸は、そんなふうに獪岳の側によくいるようになったのだ。

 

 獪岳が何か間違ったことをしたり、下の子に意地悪をしようとしたら飛んでいって止めたり、手伝ってほしいと村への買い物に引っ張ったり、とにかくよく絡んだと思う。

 邪険にされてもめげなかったし、目を離したら危なっかしいからと、どこへ行くにもついて行った。

 幸が獪岳に構っていることに気づいた行冥さんに、幸は獪岳のことが随分好きなんだな、と言われたときは、曖昧なことを言って誤魔化したこともある。

 好きは好きだが、多分お互いに思っている意味が違っていたと思う。

 小さいときの怪我でうまく曲がらない片脚を引きずって、やんちゃでじっとしていない獪岳と歩き回るのはかなり疲れたのだが、幸は頑張った。

 とても、頑張った。

 

 幸は、昔から頭がおかしいと言われていた。

 どういうわけか、一度覚えたものを忘れることができないのだ。

 

 すれ違った人の顔とか、たまたま見上げた雲の形とか、一回だけ覗き見た本の中身とか、何気ない会話とか、とにかくそういうものを片っ端から覚えてしまって、忘れられない。

 人間は普通、そういうくだらないことは忘れてしまうし、覚えもしないものだと知ったのは、物心ついてからだった。

 女のくせに賢しらだと罵られたり、覚えてもいないことを覚えたふりする嘘つきだと、村人から言われることもあったのだ。

 それでベソをかいていたとき、行冥さんに幸は嘘つきではないよ、と慰めてもらわなかったら、幸は自分をわかってくれない世の中すべてに対して、ひねまくった性格になったろう。

 

 多分、何回邪険にされようが獪岳に構うことができたのは、そういうわけである。

 本来幸は直情的で、大して我慢強くもないのだ。

 理不尽と思ったら即言い返し、脚が弱いから殴られて負けるのが毎度のこと、という聞かん気さと気の短さ、不器用さがあった。

 一つ歳上の少年の中に、つまり幸はあったかもしれない自分の姿を見ていたのだ。

 

 貧しくはあれど、理不尽に奪われることもなく、寝床と食べものの心配をしなくていい生活が与えてくれる安らぎは、獪岳の心にもゆっくり染み通っていったようだった。

 

 幸が村の子どもと喧嘩して負けていたら助けてくれるようになったし、他の子の前でちょっとは屈託のない顔で笑うようになったからだ。

 

「獪岳は、ずっと笑ってたらいいのに」

「は?」

 

 お使いの帰り道、そんなことを言って獪岳に完全に変人を見る顔をされたことがある。

 何故か獪岳は、他の子には少しはまともに接するようになってからも、幸相手だと前と変わらない態度なのだった。

 まぁ、今更優しくなられても気味悪いだけなので、そのままでよかったのだが。

 

「別に。獪岳は、笑ってたほうがいいと思っただけ。わたし、獪岳の笑顔は好きだよ。笑顔は」

「……意味わかんねェこと言ってんじゃねぇ」

 

 交わされた言葉はいつもどおりの悪態で、いつも通りの帰り道だった。明日も明後日も明々後日も、そんなふうに過ごしていくはずだった。

 

 その日の夜、鬼に襲われるまでは。

 

 その夜、些細なことで叱られて寺を飛び出してしまった獪岳を迎えに行った夜、何の前触れもなく鬼は来て、幸は捕まって、食べられた。

 だって幸は脚が遅いから、仕方ない。

 捕まったときに、もう自分は無理だと思った。獪岳だけでいいから、生きていてほしかった。

 それでも手足を棒切れみたいにぽきぽき折られて、お腹を熟れた果物みたいに裂かれて食べられるときは、痛くて痛くて、死にたくなった。

 やめてと言ったのに、鬼はやめてくれなかった。 

 幸が苦しむのを嘲笑って楽しんで、喰っていったのだ。

 痛みと怖さで気を失って、再び意識を取り戻したときには、幸はもう鬼になってしまっていた。

 だから幸は、自分がどうやって鬼になったかを知らない。

 人が鬼に変わるとき、傷口に鬼の始祖の血を受けるらしいが、幸はそのときのことのみ何も覚えていない。

  

 目を覚ましたら、鬼だった。自分を食べていた鬼は、いなかった。

 手足や着ている物は血まみれだったが、それはすべて自分の血だった。

 その事実しか残っていない。

 

 自分が鬼だと自覚した瞬間から、人間を食べたいと思ったけれど、それを止めたのは、あの呪いのような記憶力だった。

 

 人を傷つけるのはいけないことだと、行冥さんが言っていた。

 人を悲しませてはならないと、み仏さまの教えは言っていた。

 

 駄目なのだ、とにかく駄目なのだ。

 人を食べてはならない。人を傷つけてはならない。

 行冥さんも獪岳も、寺のあの子たちも、みんな人だ。

 あの人たちを傷つけてはならない。食べたいなんて、思ってはならない。

 

 わたしは、そんなことしたくない。

 わたしは人喰いの化け物じゃない。

 わたしは人だ、人だったのだ。

 

 鬼になっても、幸からは人間だったころの記憶が何一つ消えなかったし、色褪せなかった。

 それを、幸は自分で自分を縛る鎖になるように変えた。強く深く、人を傷つけてはならないと思い込んだのだ。

 行冥さんが教えてくれたみ仏さまの教え、獪岳や沙代や、寺のみんなと過ごした日の記憶。

 全部全部、一つ残らず、欠けることなく覚えていた。

 食べたら駄目だと蹲って、頭の中を人間だったころの記憶だけで満たして、ずっとそうやって日陰に隠れて動かなかった。

 刀を持った人たちが来て、山の獣にするようにして網を投げかけられ、縛られて荷物みたいに運ばれるときも、ずっとそうやって自分でつくった殻の中に閉じこもった。

 運ばれて他の鬼がたくさんいる山に閉じ込められてからも、一人でかなり長い間眠って過ごしていた。

 

 幸を捕まえた彼らは鬼殺隊という鬼と戦うための組織の人たちで、捕まえた理由は、鬼殺隊入隊の試験材料にするからと知ったのは、かなり後のことだ。

 鬼は藤の花が嫌いで触れないから、藤の花が年中狂い咲きする山に閉じこめて使う。

 外から鬼殺隊になりたい人たちを連れて来て、山へ入れる。それで七日生き延びたら合格、死ねば不合格。

 

 鬼を倒すためには、修羅みたいな人間にならないといけないんだ、とそれを知ったときには思ったものだ。

 

 人を喰うことを幸は我慢できたけど、そもそも人を見て『美味しそう』、『食べたい』なんて思ってしまうことそれ自体が、もう化け物みたいな考え方なのだ。

 

 自分の頭の中がどのくらい化け物になってしまって、どのくらい人間の部分が残っているのか、誰か教えてほしかった。

 でも誰も、幸の言葉なんて聞いてくれなかった。

 

 幸の姿を山で見かける人たちは、みんな刀を持って追いかけてきたのだ。

 特に、幸は弱そうな鬼に見える上に人間への殺意がないから、山にいる他の鬼たちに比べて狙われやすかったように思う。

 鬼はどんな怪我をしても死ねないけれど、鬼殺隊の人たちの刀で頚を斬られたときと、太陽の光を浴びたときだけ死ねるのだ。

 太陽に焼かれて死ぬのは時間がかかってとても痛そうだったから、自分ではできなかった。

 自分から斬られておしまいにしようかと、何度も思ったけど、でもいざ刀を向けられて怖い目で睨みつけられたら、そんな勇気が出なかったし、獪岳や寺のみんながどうしているか知りたかったから、やっぱり死にたくなかったのだ。

 

 どうして自分が、死なないといけないんだろう、と思った。

 

 体が弱かったから、脚が悪かったから、大人の言うことを聞かないで一人で獪岳を追いかけたから。

 寂しくて死にたくなると、自分が悪い理由をそうやって一つ一つ考えてみたけど、納得できなかった。

 自分は悪いことをしたかもしれないけど、死ななければならないほど悪い子じゃ、なかったと思うのだ。

 人を食べたくなる衝動にも、耐えた。

 耐えて耐えて耐えて、一人でずっとずっと、ずうっと耐えたのだ。

 自分で自分の終わりに納得ができなかったから、もう少しだけ生きていようと思ったのだ。

 

 そんなふうにして藤の花の牢屋の中で過ごしていた、ある夜のことだった。

 

 いつもと同じ、月と藤の花だけが嫌になるほど綺麗な夜。

 随分大きくなっていた、獪岳に会ったのだ。

 幸は他人の顔を忘れるということができないから、獪岳の顔も見たらすぐに分かった。

 

 数年ぶりの顔はやっぱり何かに怒っているみたいで、すぐに幸に刀を向けてきた。

 それを見て、獪岳になら斬られてもいいか、と思った。

 だって獪岳なら、幸が人だったころのことを知っている。顔を見たときに瞳の奥が揺れたから、忘れてもいないみたいだった。

 

 同じ死ぬならせめて、幸が人間だったころを知っている人に、殺してもらいたかったのだ。

 死んで当然の、名前のなくなった化け物だと、恨みと憎しみのみが籠もった冷たい目で斬り捨てられたくなかった。

 

 獪岳が藤の花の山で死なないように手伝って、山を降りるときに斬ってもらえれば、それでよかった。

 知っている人間と同じ顔の鬼を斬らなければならない獪岳は、少しくらい哀しむかもしれないけど、でも幸ももう生きていくには疲れていた。

 何だかんだあったのだろうけど、ひとまず元気そうな獪岳を見て、安心して、もう辛いことしかない自分の生なんてどうでもいい、と思った。

 獪岳が、ちゃんと生きていてくれたのが、嬉しかった。

 鬼殺隊なんて危なそうなところに入っていてほしくなかったけれど、でも獪岳が決めて選んだことなら、仕方ないだろう。

 

 と、思っていたのだが。

 

 山を降りるときに、獪岳は普通に幸について来いといった。

 お前がいたら便利だし必要だから来い、と当たり前みたいに言って、本当に幸を藤の花の山から連れ出してしまったのだ。

 鬼を山から出したら、獪岳が怒られるんじゃないのかと思ったのだけど、獪岳は気にしていなかった。

 

 獪岳は、幸が鬼になっても自分についてくるし、傷つけたりはしないと、頭から信じているみたいだったのだ。

 

 その自信は、一体全体何を根拠にしているんだ、とまともな言葉が喋れたら問い詰めただろう。

 幸が力を込めて殴ったら、獪岳の頭なんて熟しすぎた柿みたいにぐしゃりと潰れるのに、どうして連れていけるのだ。

 どうして、前と変わらないままに悪態がつけるのだ。

 

 わからないまま、幸は獪岳と一緒に戦った。鬼を殺して、人を守って、また鬼を殺して、人を守った。

 そんな旅の中で、一番小さな沙代以外のお寺の子たちがみんな鬼に殺されて、行冥さんが犯人にされて、捕まってしまったと聞いた。

 きっと殺したのは鬼だったろうが、朝日を浴びれば死ぬ鬼は、遺体という証拠を残さないし、お上は鬼なんてものを信じない。

 

 なんで、悪いことなんて何もしていない行冥さんやみんなが、そんな目に遭わなくちゃならないんだろう。

 み仏さまは、誰も救ってくれなかったのだ。

 

 泣きたくなるほど悲しいはずなのに、涙が出なかった。

 記憶はたくさんあるのに、幸は泣き方がわからなくなってしまったのだ。

 悲しいとか、辛いとか、嬉しいとか、楽しいとか、そういうのに、随分鈍くなってしまった。

 獪岳はよく怒るから何を考えているかよくわかるけれど、幸は自分のことがわからない。

 

 鬼は嫌い。

───哀しいから。

 

 鬼舞辻無惨は憎い。

───人を鬼にするから。

 

 獪岳に死んでほしくない。

───最後の家族だから。

 

 その三つの想いだけが、幸の感情をほとんど埋め尽くして、操り人形のように体を動かしていた。

 記憶ばかりが鮮やかで、そこに当然あったはずの自分の感情とか、想いとか、そういうものが薄れてしまっていたのだ。

 

 鬼になったせいでこうなったのか、長いこと一人でいたからこうなったのか、幸にはわからない。

 

 鬼殺を獪岳と続けてしばらく経ってから、やっぱり鬼殺隊の上の人に裁かれることになった。

 裁くための場では、二人とも処刑すべきだ、という声が聞こえた。そしてそれを言ったのは、あの行冥さんだったのだ。

 何がどう転んだものなのか、あの寺の行冥さんは、鬼殺隊で一番強い九人の『柱』のうちの一人になっていたのだ。

 

 昔の面影がありながらも、低くなった重い声で、鬼は早く殺さなければならない、と言われた。

 

───そっか。

 ────そう、なんだ。

 ────仕方ないか。

 ───わたしは、鬼だから。

 

 心の何処かで、行冥さんも獪岳のように前と変わらないふうに接してくれないだろうか、と思っていたのだ。

 幻想が砕かれたことを、辛いと思うべきだったのだろうけど、なんだかその声もぼんやりと薄衣一枚隔てた向こう側から聞こえているみたいで、幸は布の中でじっとしていた。

 それだからか、柱の一人だという血のにおいが濃い人に刀で斬られたときも、あまり何も感じなかった。

 

 獪岳が柱の一人に斬られて治して、今度は幸が斬られ、人の血を啜るのを我慢した。

 幸と、もう一人鬼にされた知らない女の子が人を襲わない証明はそれで成されたと、鬼殺隊の頭領が言ったのだ。

 

 獪岳が死ななくて済むことに、ほっとした。

 だというのに、あの意地っ張りは、結局行冥さんの顔もろくすっぽ見ずに旅立ったりするから、幸は箱の中から背中を蹴っ飛ばしてやった。

 なんで人間のくせに、行冥さんと会わないのか。

 幸は鬼だから、会っても行冥さんを悲しませてしまうだろう。だけど、獪岳は違う。

 

─────ばか。

 ─────ばかばかばか。

────獪岳の、ばか。

 

 なんで、自分のことを気遣ってくれる人間とまともに向き合わない。

 一人で生きていけるような顔して、そんなことできやしないくせに。

 だから、唐変木だと言うのだ。

 

 それでもやっぱり、幸には獪岳を置いて行くことはできないのだった。

 だって、鬼殺の人は、本当によく死ぬ。

 足を斬られれば、もう走れない。

 指が一本千切れたら、もう刀を握れない。

 だのに彼らが戦うべき鬼は、もげた手足だっていくらでも生やせるし、病気にもならない。

 獪岳だって怪我をしたことは何度もあるし、それでも刀は手放さなかった。

 

 獪岳には、死なないでほしい。人間として、生きていてほしい。だから、離れられない。

 それは、本当に幸の本心なのだ。

 

 裁判が終わったあと、獪岳は剣のお師匠さんに呼び出されて、また叱られていた。

 何故鬼の言うことを信じたのか、と言われて獪岳の答えはなんとも単純だった。

 

 鬼になったのが幸だったから、信じたのだそうだ。

 いつもいつも、獪岳の近くにいたやつだから、人を喰ってないというなら本当に喰っていない。

 嘘などつけるような器用さなんてまるでなくて、そのために鬼に喰われるようなグズだったから。

 

 そんなことを馬鹿正直に言うから、獪岳は、また師匠さんに叱り飛ばされていた。

 箱の中で、幸はそれを聞いた。

 獪岳を追いかけて鬼に襲われて、そのときに獪岳に逃げろと言ったことが、獪岳の心にそんなにも深い楔になっていたのだと、幸は初めて知った。

 

 箱から出てみたら、獪岳の師匠さんが頭を撫でてくれた。

 獪岳はべしべし叩くばっかりで、そんなことしてくれないから、とても驚いた。

 

 乾いた手で頭をなでながら、頑張った、と師匠さんは言ってくれたのだ。

 

 ────そう、なのか。

────わたし、頑張ったんだ。

 ────頑張って、たんだ。

 

 気づいたら、幸は小さい子どもみたいにわぁわぁと泣いていた。

 初めて会った人の前で、泣き喚くなんて格好悪かったと恥ずかしくなったが、でも泣くだけ泣いたら、頭の中にかかっていた紗幕のようなものが、なくなっていたのだ。

 言葉は、まだ思った通りに話すことはできなかった。

 しかし、獪岳とまた会えたことが嬉しい、しろい月下の道を歩くことができて楽しいという感情が、しっかりと自分の中にあった。

 

 自分は、獪岳にまた会えたことを嬉しいと感じることもできなくなっていて、しかもそれに気がついてすらいなかったのだった。

 

 桑島慈悟郎、というそのお師匠さんに、幸は本当に深く感謝した。

 同時に、いいお師匠さんに心配ばかりかけまくっている獪岳をちょっとだけ怒った。

 頑張り屋なくせに、なんで自分が認められていないとすぐにひねくれるのか。

 一途に努力できるなら、自分に向けられている想いにも一途に向き合え、このわからず屋、と。

 

 そういえば、昔はこんなふうに言いたいことをもっと言えていたのだっけ、とお師匠さんのお家からの帰り道、考えた。

 最初は確かに、獪岳を監視しているつもりで、幸は側にいたけど、でもそのうち獪岳と話すのが楽しくなっていたのは、事実だった。

 確かに獪岳はひねくれやだし、すぐ誰かを見下す。

 だけど、鬼になった幸を、幸として扱ったのも獪岳だ。

 鬼になった人間を、人間だったころと同じに見てしまうなんて、己を滅して鬼を斬るべき鬼殺隊員としてはあるまじき行動なのだろう。

 だけど幸には、それが救いになったのだ。

 当然の如く、獪岳は幸がそんなふうに思っているなんて、気づいてすらいないだろう。

 いちいち説明してやる気も、幸にはない。

 言おうが言わなかろうが、これからも鬼殺を続けることに変わりはないのだから。

 

 そう。

 そんなふうにお師匠さんのところから帰ってきて、今は獪岳と共に獪岳の弟弟子たちの怪我の回復を蝶屋敷で待っていたりするのだ。

 何故そんなことになったのかといえば、獪岳の修行の一環である。

 欠けているところを弟弟子と修行して見つめ直せ、と獪岳の師に言い渡されたからだ。

 あからさまに不満そうな獪岳だったが、鬼を庇うという行動が師にどれほどの覚悟をさせてしまうものだったかを目の当たりにした後では、いつまでも意地を張り続けるということもしなかった。

 

「おい、幸。お前、あいつらのとこに行ったんじゃねェのか?」

「ん?」

 

 帰って来てから、獪岳が変わったことと言ったら一つくらい。

 鬼っ子か、お前としか呼ばなかった獪岳が、幸、と前みたいに呼ぶようになったことだ。

 嬉しい変化だったが、そんなふうに不機嫌な調子で呼ばれても、と幸は首を傾げた。

 

「余計なこと言ったのかって聞いてんだよ」

「よけ、いって、なに?」

 

 不死川玄弥と獪岳の押し問答の理由を、我妻善逸に聞かれたから、正直に答えただけだ。

 それから獪岳が夜にしている稽古も見せたけれど、幸はそれが余計なこととは考えていない。

 

「あいつ、黒い刀の竈門だったか。あいつがメンドくせェ。やたら話しかけやがる」

「ん。……はな、した。ぎょうめいさん、の、こと」

「何余計なことしてやがんだよテメェ!」

 

 箱をぶん回され、幸はきゅう、と目を回した。

 とはいえ、鬼だから一秒でそんなものは回復する。

 

「よけい、じゃ、ない。かいがく、に、いる、こと」

「は?」

「かいがく、人と、連携して、ない。鬼としか、連携していないのは、よく、ない」

 

 ぐ、と獪岳が押し黙る気配がした。

 そうなのである。

 鬼殺隊になってこの方、獪岳は同じ人間の剣士との合同任務というのをほとんどこなしたことがない。

 専ら単独任務をこなすか、合同で当たるべきと鎹鴉から言われた任務を幸と共に先に片付ける、ということばかりだ。

 そのせいか知らないが、自分勝手とか偉そうとか言われるが、獪岳は単に強くなりたくて死にたくないだけで、周りを気遣うことがまったくと言っていいほどできていないだけなのである。いや、それはそれでまずいが。

 

「わたし、は、かいがくにあわせて、戦、う。だけど、かいがく、人にあわせ、て、強い鬼と、たたかうこと、できて、ない」

「うっせェ」

 

 うるさいくらいでないと、人の話を聞かないだろうに。

 幸は気にせずに続けることにした。

 

「人、は、鬼とちがって、たすけ、あえる。かいがく、人なんだか、ら、どうして、やら、ない?」

 

 集まると共喰いしだす鬼とは、違う。

 人は、鬼殺隊は、力を合わせ、技や想いを伝えることができる。一人では敵わない相手に、多くの力を集めて立ち向かうことができる。

 鬼舞辻の使い勝手のいい駒としての在り方を強要される鬼が、決して持ちえない強みを活かさなくて、どうするのだ。

 獪岳だって、育手のお師匠さんの技を受け継いでいるのに。

 だが、獪岳はふん、と鼻を鳴らした。

 

「そんなに言うんなら、お前がやってみりゃいいじゃねぇか。あいつらはまだ、常中の呼吸も知らねェ雑魚だ。何故俺が合わさなきゃならねェんだ」

「わたし、が、やっても、意味、ない!」

 

 がんがんがん、と箱を内側から叩いて抗議したのに、獪岳から返事は返って来なかった。

 獪岳が、幸が入ったままの箱を縁側に放置して、一人だけで任務に赴いてしまったと幸が知ったのは、日が落ちて箱から自由に出られるようになってからで、それを知ると同時に、小さななりをした少女の、珍しい怒りの咆哮が蝶屋敷に木霊したのだった。

 

 

 

 




【コソコソ噂話】

 幸は完全記憶能力を持っており、自分のことを『一度覚えたことを忘れられない人間』と称しています。

 獪岳は、幸の物覚えがいいことは知っています。

 が、まさか物心ついてから今まで、ガキの頃の自分のことを含めてすべてを記憶しているとは思っていません。

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