幸の話(下)です。
では。
経緯は省いて結果だけを言うと、幸は獪岳によって蝶屋敷に置いてけぼりをくった。
とはいえ、獪岳の鎹鴉と幸はそこそこ仲が良いから、何かあれば知らせてくれるだろう。
追いかけても良かったのだが、置いてけぼりにするというなら、幸にも考えがある。
その時間で全集中の常中の呼吸を善逸たちに伝えればいい、と幸は決めた。
全集中の呼吸自体は、鬼と戦うために人が編み出した特殊な呼吸法だ。
体に空気を大量に取り込み、人のまま鬼と戦えるほどに力や速さを上げるための技。
無論、これにもできる者とできない者がいる。
そして全集中の常中というのは、四六時中この呼吸を続ける方法のことだ。
慣れていない者では、全集中を短い時間続けることすらかなりきついものがあるらしい。
だが、それを乗り越えて文字通りに四六時中全集中の呼吸を続けることができれば、基礎体力などが飛躍的に向上する。
これが、柱になるための最低限の技術というから驚きだ。
獪岳も、鬼殺の剣士になってから、師に教えてもらったそうだ。
曰く、呼吸や剣技をきちんと身に着け体がある程度出来上がってからでないと危ないと。
師匠から教えられたことは真面目にこなす獪岳は、鬼殺隊として鬼を斬る傍らそれを身に着け、ついでにそれを横で見ていた幸も会得した。
鬼が学んでしまっていいのかとも思ったが、できないよりできるほうがいい。
それに幸は人の肉を一切食べないせいか体が小さいままで、傷の治りが遅い。自分の意志で体を大きくもできるが、消耗するのであまり使えないのだ。
その分すばしこいが、より強くなれる方法があるならやらないでどうする、というふうになった。
そんなこんなで、幸は全集中の常中を知っているし、できる。
一方、まだ新米の鬼殺隊員という善逸たちはと言えば。
「え?全集中の……常中?」
『知りませんか?』
「……うん」
訓練場からの帰り道、やけにしょげている善逸を捕まえて聞いてみれば、予想通りの答えが返って来た。
なんでも、鈍った体を回復させるための訓練を手伝ってくれた蝶屋敷住みの同期の華奢な女の子の隊士にまったく歯が立たなかったとか。
やっぱり、同年代の女の子に身体能力で負けるのは堪えるものであるらしい。
『常中とは、全集中の呼吸を、常にすることです。戦闘中は無論、睡眠、食事、会話、入浴など、とにかく四六時中呼吸を途切れさせないことです』
「……あ、それなんか爺ちゃんが言っていたかも。だけど俺、すぐ死ぬからってあんまり聞いてなかった、ような?」
『ありゃまぁ』
縁側に並んで座って筆談しながら、幸は全集中の常中について善逸に伝えた。
『かいがくとわたしもしています。わたしは、かいがくがやっているのを見て勝手に覚えたんですが、確かに体が強化された感はあります。続けていると、体が強くなるんです。その女の子の隊士さんも、多分常中で体を鍛えているのではないでしょうか』
「あ、やっぱり獪岳もやってるんだ。あいつ、呼吸の音が俺たちと違ってるなと思ってたんだけど」
『そうですね。というか善逸君、耳がとても良いんですね。炭治郎君は鼻が利く、と言っていましたが』
善逸は時々、『怒っている音』とか『優しい音』という独特な表現をする。
ただの例えかと思っていたが、それはどうやら彼の人並み外れた聴力が聞きとっている音で、だから善逸には人が嘘をついているか否か、鬼か人かもわかるのだそうだ。
炭治郎は同じように鼻で人や鬼を嗅ぎ分けるし、伊之助は触覚が優れていて離れたところの鬼の位置も読み取れるというから、幸には驚きだった。あなたたち、本当に人間ですかと。
「そういえば幸ちゃんは、物覚えがすごくいいって獪岳が言ってたけど」
『はい。わたしは、一度見たものを忘れられないんです。……そうか、これも体質ですね』
「え、何それすげぇ」
『だから、かいがくの小さいころ叱られてたこととかも、全部覚えてるんですよ。あ、言ったらわたしが怒られるので言いませんけど、小さいかいがくはかわいかったです。今よりは。今よりは、ですが』
「かわいい……獪岳?」
団栗を喉に詰まらせた栗鼠のような顔になった善逸である。
確かに今の仏頂面獪岳からは、かわいいという単語は間違っても繋がらないだろう。
「幸ちゃんは、獪岳の幼馴染みなんだよね」
『はい。そして、善逸君は弟弟子ですよね』
善逸が、何度か獪岳に手紙をくれていたのを、幸は知っている。
獪岳は読みもせずに捨てていたが、幸は回収していた。
中身は読んでいないが、ずっと手紙をくれていたということは、善逸は獪岳を心配していたのだろう。
善逸は、獪岳にできない壱ノ型・霹靂一閃が使えると言うが、逆に獪岳ができる他の雷の呼吸の型すべてが使えないそうだ。
凸凹というか、その図ったような具合は何なんだろう。
「全集中の常中かぁ……。俺にできるかなぁ」
『できますよ!鍛錬あるのみ!ですが』
「うん。そっか。教えてくれてありがとう、幸ちゃん」
そうは言って笑ったものの、どこかに陰のある微笑みのような気がして、幸は善逸の顔を下から覗き込んだ。
『善逸君?どうかしましたか?顔が笑って、心が泣いてますよ』
「うぇっ!?いいいいいやあのね!ご存知のように俺弱いでしょ!?みっともないでしょ!?獪岳よりも絶対弱いし、そんなことしててもすぐ死ぬしできないんじゃないかな……って」
言葉が尻すぼみになって行って、幸は首を傾げた。
那田蜘蛛山で蜘蛛鬼を倒していたのに、なんで弱いと言うのだろう。
『みっともなく、ありません。かいがくに、あなたはずっと手紙をくれていたでしょう。鴉が教えてくれていました。だからわたしは、会う前からあなたの名前は知っていましたし、感謝しています』
「う……。だけど、返事なかったしなぁ。獪岳、あんなに頑張ってるのに俺と来たらさ……」
ずぅぅぅん、と善逸の背中に漬物石が乗っかっている光景を、幸は幻視した。
『もう一度、書きます。みっともなくありません。大体格好悪さで言えば、以前わたしに姫抱きされて戦線を離脱したかいがくの右に出る人は、今のところいませんから』
「はい?姫抱き!?え、なんでそんなことになったの!?」
『怪我しているところを鬼に襲われたので、わたしが大きくなって、担いで逃げたんです。あとで鬼はちゃんと倒しましたが』
「それ、獪岳の反応は!?」
『降ろせとか放せとか騒いでいましたが、しばらくしたら大人しくなりました。やっぱり自分より華奢な女に担がれるのは、堪えたみたいで。鬼のわたしのほうが、力が強いのは当たり前なのに』
「無邪気なのかと思ってたら黙らすためにわざとやったの!?わざとなのこの子!?何それ怖い!」
頑張ったのにひどい言われよう、と幸はぷくりと頬を膨らませた。
体を大きくするのは、血鬼術を使うより疲れるから滅多にやれないのだ。
騒ぐだけ騒いで、善逸は安心したふうに肩から力を抜いた。
「でも、そっか。幸ちゃん、獪岳のことずっと見ててくれたんだな」
『ずっとじゃありませんが、ね。でもかいがくが鬼殺隊になってからはずっと、ですね』
自分が鬼になってからの数年間、獪岳がどこで何をしていたか、幸は知らない。
聞いていないのだ。同じころ、自分が何をしていたか思い出したくないから。
「ねぇ、幸ちゃんはさ、獪岳と一緒に行冥さんに会いたいんだよね?」
『はい』
「だけど獪岳が意地張ってるから、会いに行けてない、と」
『……そうですね。善逸君、何か案はありますか?』
「うーん……案ってほどじゃないけど、会いに行くのがあれでも、手紙はどうかなって思ってさ。俺も獪岳には書いてたし」
あ、と幸は筆を取り落としかけた。
そういえば、手紙という手段もあった。
生まれてこの方、誰にも手紙など書いたことがなかったし、貰ったこともなかったから、さっぱり思いついていなかったのである。
チュン、と不意に雀の声がして幸は顔を上げる。
たんぽぽ色の善逸の頭の上に、茶色と白の丸っこい雀がちょこんと乗っかっていた。
つぶらな黒い目が二つ、幸を見ている。
「あ、こいつね。俺の鎹鴉の、雀のチュン太郎。俺たちはしばらく蝶屋敷待機で任務もないからさ、幸ちゃんの手紙、こいつに届けてもらおうよ」
『いいんですか?』
「うん。幸ちゃん、那田蜘蛛山で俺のこと助けてくれたでしょ。生命のお礼にもならないけど、これくらいさせてくれよ。それに、チュン太郎も幸ちゃんに何かしたいみたいなんだ」
チュンチュン、と雀が善逸に賛成するように鳴いた。
『じゃあ、お願いできますか?手紙は明日持ってきますから。あと、獪岳には……』
「わかってる。内緒にしとくよ」
『助かります』
流石に弟弟子。言わなくてもわかってくれる。
『あと、あの、チュン太郎君に、触ってみてもいいですか?』
チュン、と雀は首を傾げると、ぱたぱたと幸の膝の上に降りてくる。
左手で掬い上げるようにして持ち上げ、右の指で頭を撫でると、雀は気持ち良さそうに目を細めた。
「雀、好きなの?」
「ふわふわ、が、好、き。かいがく、の、鴉も、ふわ、ふわ。猫、も好き」
幸は自分より小さい、毛や羽が生えている生きものなら、なんでも好きなのである。
あたたかくてやわらかくて、触れると生きているんだと実感できるもの、すべてだ。
ただ、鬼になってから犬には吠えられ、猫には威嚇され、散々である。鬼のにおいが、彼らを警戒させるらしい。
獪岳の鎹鴉くらいしか触らせてもらえないのだが、彼も最初は警戒していて幸の腕に止まったり、直に木の実を食べてくれるようになるには、随分時間がかかっている。
幸はそのまま、ふくふくしたチュン太郎の羽を撫でるのを楽しんだ。慣れているのか、チュン太郎は驚いて飛び立ったりしなかった。
滑らかな羽の感触に、ふくら雀は縁起物、という言葉を思い出す。
ふくら雀は、寒さを凌ぐため羽に空気を入れて体を膨らませ、ぷんぷくりんに丸くなった雀で、幸も昔、何度か冬に見たことがある。
ふくらは、福良や福来と書けて縁起が良い。
名にちなみ、ふくら雀と呼ばれる娘用の帯の結び方があったのだ。
帯を膨らませるやり方で、とても可愛らしく仕上がるのだとか。見たことはないが、噂で聞いたのだ。
お寺にいたころは、もちろんそんな帯なんて持てなかった。ふくら雀どころか着たきり雀であったから、みんなとそんな夢の話をした。
獪岳たち男の子にはさっぱりわからない話だから、何がそんなに楽しいんだと呆れ顔をされたものだ。
あの子も、沙代もそんな帯を締めるのだろうかな、と幸は少し思う。
十年近く前、少しだけ外に行ってくると手を振って、もうそれっきりになってしまった家族。
あんな些細なやり取りがお別れになるなんて、思ってもみなかった。
沙代は今、十四歳にもなるはずだ。
鬼にされたころから姿形が変わらない自分では、会えばひどく驚かせてしまうだろう。
あの子がどこかで幸せに生きているなら、それで良い。
それだけで、良いのだ。
二度と会えなくっても、幸は我慢できる。
願わくば沙代が、ふくら雀の帯を締めて、綺麗な振り袖を翻して微笑む、そんな娘になっていてほしい。
そうでなくってもせめて、もう二度と、二度と沙代が鬼に会うことがないように。
怖い目に遭うことが、ないように。
祈るように、幸は目を細めた。
最後に一度だけ、チュン太郎のまろい頭をするりと指先で撫で、幸は鎹の雀を善逸の膝の上に返した。
「もういいの?」
『はい。艶々ですね、チュン太郎は』
羽に色艶があって、筋肉もしっかりついている。きっとたくさん食べて、たくさん飛んで鬼殺隊の仕事を頑張っているのだ。
自分も頑張らなくちゃ、と幸は小さな両の拳をきゅっと握った。
『ありがとうございました。善逸君。わたしは、手紙を書いてきます。全集中の常中、頑張ってくださいね。お手伝いできることがあれば、いつでも呼んでください』
「が、がんばりまーす……」
巻紙と筆をしまい、ぺこりと一礼して幸はその場を去った。
明日か、明後日か、そうでなくとも一週間以内には獪岳が戻ってくるだろう。
それまでに手紙を出すにしても、何を書けばいいのだろうか。
行冥さんが生きていてくれて嬉しかったこと。
鬼になっても見た目があのころのままでも、中身は過ぎ去った年月の分成長していること。
そういうことを伝えたいのだが、どう書けばいいのやら。手紙なんて、読んだことがないのだし、自分が思っていることを綴るのは難しい。
どうしたものだろうか、と廊下を歩いていると、幸は部屋の戸が一つ、細く開いているのに気づいた。
すぅっ、と音も無く戸が開いて、出てくる人影が一つ。黒髪をのばして、竹の口枷を嵌めた女の子、禰豆子だった。
「禰豆子、ちゃん?」
「むー」
名前を呼ぶと、禰豆子は振り返る。
幸を見ると、禰豆子はとたとたと近づいてきて、そして頭を撫でた。
「ん?」
「む」
禰豆子のほうが、幸より頭一つ分以上は背が高い。でも歳は、幸が上なのだ。
どうして、小さい子にするみたいに頭を撫でられているんだろう。
驚きで、幸はその場で固まった。
禰豆子は目を細めて嬉しそうだから、手を避けるのもしたくない。
「ど、うし、たの?兄、さん、探す?」
「むー!」
体力を回復させるための眠りから起きて、兄の炭治郎を探しに出た。そんなところか。
禰豆子も幸も、眠ることで人を食べるのを防いでいるから、眠りは重要だし、長く摂らなければならないことが多い。
だからこそ、目覚めたときに一人だと寂しくなったりするのだ。
「いっしょ、に、探そ」
「む!」
大きく頷いて、禰豆子は何故か幸の手を取って歩き出した。
先導してくれているようなのはいいのだけれど、これだと禰豆子が幸の人探しを手伝ってくれているようで、あべこべだ。
もしかして。
「禰豆子ちゃ、ん。わたし、かいがくを、探して、は、ない、よ」
「む?」
「かいがく、なら、帰ってく、るから。炭治郎君、探そ、う」
禰豆子はきっと、幸が一人で歩いて、獪岳を探していると思ったのだろう。さっきのことと言い、どうも禰豆子は幸を年下に見ているようだし。
確かに普段は箱の中にいるか、獪岳の周りをちょこちょこ歩いているかで、幸が一人で蝶屋敷の中をうろうろするのは、初めてといってもいいくらいだ。
ただ今回は、逸れたわけではなくて、単に獪岳に置いてけぼりにされたのである。
「それ、に、かいがく、わたし、の、兄さん、じゃない、よ」
「む?」
「どちらか、言った、ら、弟」
歳でいうなら、獪岳は幸より一つ上だが、最近は弟でいい気がしている。
第一、あっちが兄というのは、うまく言葉にできないが色々と面白くないのだ。
お師匠さんや善逸君や、たくさんの人に心配ばっかりかけて。いい加減気づきなさいと、何べん箱の中から背中を蹴ればいいのか。
意味がわかっているのかいないのか、禰豆子はきょとんと首を傾げた。
「むー」
「炭治郎君、なら、けいこ、ば、の方、かな」
と言って幸が稽古場の方を指さすと、禰豆子は幸の手と手を繋いだまま、そちらへ歩き出す。
幸と似た、鋭い鬼の爪が生えた手。でもとても、あたたかい。幸よりもちょっとだけ大きいけれど、獪岳のよりは小さい手。
沙代とも、こんなふうに手を繋いで帰ったことがある。
「父さん、とか、母、さんとか、弟、とか、妹と、か、どんなふう、なんだろう、ね」
「む」
「行冥さん、が、本当の、父さん、だった、ら。よかった、な」
赤子のころに別れたっきりの実の親のことを、幸は覚えている。
いつも怒鳴っていて酒浸りで、貧しい暮らしの中で、どこかの神さまに救いを求めて祈ってばかり。
幸の脚の骨が歪むことになった怪我も、正体もなく酔った彼らに、床の上に落とされたせいだった。
行冥さんとは、全然違う。
夜の道で手を繋いでくれたり、泣いていたら頭を撫でてくれたりして、行冥さんは叱るときも決して、大声で怒鳴ったりしなかった。
だから、岩柱の名を冠する通り、巌のような剣士になっていた行冥さんを見たときは、誰なのか一瞬わからなかった。
記憶の中の姿は、上背はあったけど細くて、誰かを殴ったこともない柳のようなものだったから。
行冥さんは、みんなの兄さんか父さんのようだったけど、二十歳にも届いていなかった。
今の幸や獪岳と同じ歳か、ともすれば年下だったのだ。
そんなこと、昔はわからなかった。
「あいたい、な。……てが、み、どうやって、書こうか」
「むー」
呟いたら、また頭を撫でられた。解せない。
「禰豆子ちゃ、ん。わたし、あなたより、お姉さん、よ?」
「む」
「あ、その顔、わかってない、ね。……えい」
思いっきり背伸びして、禰豆子の頭を撫でる。ぎりぎり届いて、幸は満足だった。
「炭治郎、君、に、会いに、いこ。ね?」
「む!」
元気一杯に頷く禰豆子に、幸はそっと微笑みをこぼしたのだった。
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獪岳が蝶屋敷へ帰って来たのは、四日後の日が落ちてからであった。
そのとき、幸はちょうど箱から出て、禰豆子と一緒に炭治郎から教わった、あやとりを一人でしているところだった。
「あ、おか、えり」
「……」
頬に薬臭い湿布を貼っていること以外は、五体満足至って健康そうな獪岳は、幸の声に片手だけを上げて少し左右に振った。
ただいま、のつもりだろう。無言で仏頂面だが。
「おそかった、ね。ひと、りの、任務、平気?」
「ったり前だろ。お前こそ」
「ん。わたし、ひとり、慣れて、る。藤のお山、にずっと、いた、か、ら」
嘘である。
何年も藤襲山に一人だったから孤独に慣れたのかと言われたら、そんなことはない。
むしろ、誰かの近くにいたい、側にいたい、という思いは大きくなったくらいだ。
目覚めて一人ぼっちだと、山に引き戻されたのかと怖くなる。
が、今回幸を置いていった張本人の獪岳にそんなことを言いたくない。単なる意地であり、幸は少し拗ねていた。
「……そうかよ」
背中の刀を降ろして、獪岳は縁側に腰を下ろした。部屋の中でしていたあやとりをやめて紐を帯に挟み、幸はその隣にすとんと座る。
「炭治郎君と、善逸、君、に、伊之助、君、じょうちゅ、う、やってる。あと少し、した、らうまく、いきそ、う」
「お前何か、教えたのか?」
「ん。すこ、し」
獪岳や自分が常中をしたときのことを、無論のこと幸はすべて覚えているから、説明するとわかりやすいと言われたものだ。
後は、ああだこうだと悩みながら行冥さんに手紙を書いて善逸の雀に頼んで、禰豆子と鬼同士の脚力による駆けっこをしていた。
尚、手紙の返事は、来ていない。
獪岳は黙ったままだ。首に巻いた勾玉のついた首飾りを、手で弄っている。
怪我をしたときの血のにおいはしないのだが、見えないところをぶつけて痣でもこさえたのかと、心配になる。
「外に、な」
獪岳が、ぽつりと言った。
「蝶屋敷の外だ。塀のところに、猫がいた。お前、猫好きだろ」
「……好き、だけ、ど。かいがく、知って、るで、しょ。逃げられ、る、だけ」
「鬼殺隊が出入りしてる屋敷の側で、みゃあみゃあ鳴くやつだぞ。平気だろ」
見に行くぞ、と獪岳は刀片手に立ち上がってすたすたと歩いていく。
「あ、まって、よ」
草履を突っかけてついて行くのだが、獪岳のほうが歩幅が大きい。小走りのようになった。
「早くしろよ」
「ん!」
蝶屋敷をぐるりと取り囲む白い壁。角のところに、確かに小さな黒猫がちんまりと座っていた。
獪岳の後ろに貼り付くようにして、近づく。
猫は座ったままで逃げなかった。金色の目がきらきらしていて、黒い毛並みには艶がある。
野良猫ではないのだろう。
「お前なァ、いつまで俺にひっついてんだよ。歩きにくいだろうが、鬱陶しい」
「だっ、て、きしゃあっ、て。きしゃあっ……て、された、ら」
きしゃあ、と猫が幸のにおいを嗅いだ途端に毛を逆立てたり爪を剥き出しにしたら、結構傷つく。
まさか泣くほどではないが、悲しいものは悲しい。
鬼の体ほど、心が丈夫と思うな。
面倒になったのか、獪岳が鼻を鳴らす。
そのままべりっと幸を引き剥がすと、首根っこをつかんで猫の前にぽん、と降ろした。
小猫と幸の、金色の瞳が交わる。
猫は逃げないで、みぃ、と鳴いて幸の足元に擦り寄ってきた。
ゆっくりしゃがみ、怖々手を伸ばして顎の下をくすぐると、猫はごろごろと喉を鳴らしながら目を三日月のように細めた。
「あれ…」
「そら見ろ。猫にも変わり種がいるんだろ」
幸の隣で膝をついた獪岳も、手を伸ばすと耳の後ろをかいてやっていた。
猫は気持ち良さそうに、ひとしきり二人の間を巡ると、尻尾を振りながら暗闇に消えて行った。
さよなら、と手を振る。
毛並みと瞳の艶からして、野良ではなくどこかの家に住んでいる猫だという気がした。
「もういいのかよ」
「ん。あの、子は、あの、子の、家、かえらない、と」
「……飼い猫か」
「鬼殺隊、のいえ、の子、かも」
それなら、鬼のにおいにも少しは慣れている。
立ち上がって、幸は獪岳を見た。
「それ、で、かいがく、どうした、の?」
「あ?」
「猫を、見よ、う、なんて、言った、こと、ない」
「別にどうでもいいだろ。お前、猫好きなんだから」
そうだけれど、そういうことではなく。
「もしか、し、て、謝って、る?置いてっ、たこ、と」
蝶屋敷の門の手前にいた獪岳の足が、止まった。
暗闇だが、鬼の視力には獪岳の耳の先がほんの僅かに赤くなっているのか見えていた。
「……かいがく、耳、赤、い」
「てめっ!?見てんじゃねェ!」
耳を押さえた獪岳の前にひょいと躍り出て、幸は下から獪岳の顔を見上げた。
「うれしいけ、ど、言葉で、いって、ね。それか、ら、行冥さ、んに、謝りに、行こう、よ」
「なんでそうなんだよ!」
「わたし、に、謝れた、なら、行冥さんに、も謝れ、る、でしょ。会いに、いこう、よ。いきたい、よ」
くい、と袖を引くと、呆れ顔を返された。
「お前は呑気すぎんだろ。裁判のこと、もう忘れたのかよ」
「かいがくは、意地っ張り、すぎ。わたし、たち、鬼殺隊、だ、よ?明日も、生きて、るって保証、どこにある、の?」
「うるせぇ。明日はまたお前と任務に行くに決まってんだろ。あの三人が治るまで、まだかかるんだからな」
やいのやいの言い合いながら、蝶屋敷へと並んで帰る。
門をくぐろうとした瞬間、ふ、と懐かしいような気配を感じて、幸は敷居のところで振り返った。
けれど、門の外に蟠る闇は何もかも飲み込んでいるようで、見透かせなかった。
「おい、幸」
「ん。いま、行く」
きっと、気のせいだろう。
獪岳の後をついて、幸は蝶屋敷の門をくぐったのだった。
十数日後、善逸たちが完全に回復し、全集中の常中の呼吸を会得した後に鎹鴉から言い渡された合同の任務の行き先は、とある列車。
無限列車、というのが行き先の名前であった。
『追記とお断り』
ふくら雀は明治以降にはあった帯結びということだそうですので、入れました。
鬼娘の、獪岳に見せる素は意外と幼いと思われるかもしれませんが、情緒が発達すべき七〜八歳から十六歳くらいまでの生活があれだったからということで。
感想の返信なのですが、返信が必要とこちらが判断した場合以外、返信しないことにいたしました。
作者がポカやって、ネタバレしそうなのが怖くなったのです。情けない話なのですが、ご理解くださると有り難いです。
感想はすべて読ませていただいて、励みになっております。とても嬉しいです。本当の本当に!
感想欄の増える黒死牟殿にはビビりましたです、はい。