無限列車編開始です。
では。
列車に乗る前から、獪岳は疲れた。
師匠である桑島慈悟郎から言い渡された『修行』で、善逸とその同期の隊士二人との合同任務の行き先は、列車だったのだ。
ただの列車ではなく、人が、もう四十人以上も消えている人喰い列車だという。
先にその列車に乗り込んでいる炎柱、煉獄杏寿郎を手伝え、ということらしい。
別に行き先が、列車だろうが樹海だろうが獪岳は構わない。
回数はさほど多くないが任務で列車に乗ったことはあるし、幸はあれで西洋から来たものが好きだから、乗るとかなり楽しそうにしていて、手間がかからない。
が、炭治郎と伊之助は列車に乗ったことはおろか、見たことがなかったのであるから、まるでお化けでも見たように騒いだ。
普段、列車ほどでかくはないにしても異形の鬼ぐらい見ているだろうに。
それより何より。
「刀!しまえ!」
「え?」
「あ?」
人が屯する駅に、普通に日輪刀を持ったまま入ろうとする炭治郎と伊之助の肩を、獪岳は引っ掴んだ。
「お前ら、法律を知らねェのか。日輪刀見られたら捕まんだよ」
「そうなんですか!?でも、鬼だって街にはいるのに」
「お上のやつらが、鬼なんざ信じるか。本物を見ようが、ただの気狂いと思い込んだまんま喰われんのがオチだ」
あいつらは、鬼が犯した人喰いを人の仕業と勘違いし、まったく違う人間どころか、鬼から子どもを守ったやつを人殺しとして逮捕するような馬鹿共の集まりだ。
寺の事件の際、気が触れた子ども扱いされ放り出されて以来、獪岳は大の警察官嫌いなのである。
「いいから、刀は隠せ。それからそっちのイノシシは服を着やがれ」
「あんだと!」
「あんだとじゃねェ!捕まりてェのかこの馬鹿イノシシ!」
上半身裸で猪の皮の被り物をしている上に、布を巻いただけの鞘のない二本の刀を持つ伊之助は、目立って仕方がない。
この状況で怪しまれて駅員や警察官に問い詰められでもされたら、獪岳は堪忍袋の緒が切れて、そいつら全員叩きのめす自信があった。
「善逸!テメェこいつらなんとかしろよ!俺は切符買って来るからな!」
「えぇ!俺一人にこの状況押しつけないでよ!」
「知るかァ!」
泣きついてきた弟弟子を全力で蹴り返し、切符を買って列車に乗るころには、無駄に疲れていた。
これでは、何も考えずに鬼を斬っていたほうがマシかもしれない。
「お前らにはつきあってられねェから、そこら見てくるぞ」
「え、ちょ、獪岳!?」
「こいつが、列車の後ろが好きなんだよ。見せたらあとは、適当に歩いて戻る。一箇所に固まってても仕方ねェだろ」
肩に担いだ箱を軽く叩くと、返事も待たずに歩き出した。
炭治郎たちは、この列車に乗っている炎柱、煉獄杏寿郎と話す用があるという。
炎の呼吸について、話を聞きたいのだそうだ。炭治郎は水、善逸は雷、伊之助は我流の呼吸を使うそうだから、炎とは関係ないだろうに。
『炭治郎君は、那田蜘蛛山で、お家に伝わるヒノカミ神楽を軸に剣の技を出すと、強い技が出せたから炎の呼吸を使う炎柱さまに、話を聞きたいんだって。火の神さまに捧げるお神楽舞だから、火の呼吸があるならそれを知りたいって言ってたよ』
「火の呼吸?そんなもんねェだろ」
車両の外に出た獪岳と、箱から出た幸は、列車の最後方で並んで後へ飛び去っていく景色を見ていた。
列車に乗ると、幸は後ろのデッキという場所に行きたがる。景色がよく見える外のほうが、好きだという。
箱から幼い少女が出入りしている姿は見られたくないので、獪岳にも都合が良い。
日も落ちた今ならば、箱の外に出ても幸に問題はない。最近覚えたらしい筆談で、彼女は流暢に『喋って』いた。
『聞いた話だけど、炎の呼吸を使う家は、絶対火の呼吸って言ったら駄目なんだって。火と言ったら、日に繋がって、混ざってしまうからじゃないかな。鬼の弱点は日の光だから、何か関係がありそうだよ』
「……お前、その話、竈門兄にしてやったらよかったんじゃねェのか」
はた、と幸の筆が一度止まった。
『炎柱さまに直接聞いたほうが確かだし早いだろうから』
「字ィ震えてんぞ。忘れてたんだろ」
『面目ない』
度が過ぎている物覚えの良さの割に、変なところで抜けているやつである。
取り繕うように、幸の筆がまた走った。
『いつ戻る?』
「さぁな。炎柱との話し合いとかいうのが終わったら、様子見に行きゃいいだろ」
『もしかして炎柱さま、苦手?』
「俺とお前の首落とせと言ってきたやつの顔なんて、誰が見たいか」
『そんなこと言ってちゃ駄目だってば。炎柱さまのお話、聞かなきゃ。外の景色は、十分見られたよ』
もう、と言いたげに、幸が頬杖ついて小首を傾げた。師の家を訪れてからこちら、日一日と幸の感情は目に見えて豊かになっている……と思う。
曇りガラスのような瞳で、ぼうっと虚空を見つめていたころが嘘のようだ。
その分、口数が増えて生意気になったが。
と、幸が筆と紙を懐に入れて振り返る。同時に、獪岳も気づいた。
「お客さん。切符を拝見いたします」
芯のない声と共に、亡霊のようにふらりと現れたのは、制服を着た乗務員の男である。
切符切りか、と懐に手を入れて切符を取り出した獪岳のその手は、横からむんずと幸につかまれた。
「ま、って」
「は?」
「その切符、へん。臭い」
途端、男の顔が歪んだ。
踵を返して走り出そうとする男の背を、獪岳は蹴倒してその背中を踏みつけにするや否や、腕をねじり上げた。
「ひ、ヒィッ!」
「テメェ、なんで逃げやがった?切符に、何を仕込んだ?」
「わ、私は言われた通りにしただけだ!そ、そうすれば、あの人が家族に会わせてくれると……!」
「かいがく!」
鞘に入った刀を、幸が投げてくる。
片手で受け取り周りを見渡せば、すぐに異変に気づいた。
乗客が、一人残らず寝ているのだ。
というより、昏倒しているふうに見える。これだけ騒いでいるのに、一人も反応しないのは異常だった。
だのに、ねじ伏せたこいつだけが起きて、動き回っている。
鞘込めした日輪刀を、獪岳は男の顔の横すれすれに叩きつけた。
木の床が弾けて木片が飛び散り、男が怯えて体を跳ねさせた。
「正直に答えろ。偽りは許さない。お前は、鬼に会ったな?」
「し、知らない!私は、こうすれば家族に、夢で会えると言われたから!」
腕をねじり上げられながら、男が喚いた。これでは埒が明かない。
乗客を眠らせたのは、恐らくは血鬼術。
まさか車両すべてがこの有様なのかと、獪岳は背筋に冷たいものが走るのを感じた。
「俺と同じ服を着たやつらはどうした?鬼殺隊だ。前の車両に乗ってただろう」
「き、鬼殺隊?お、お前と同じ格好のあいつらならもう眠らせた!あとはお前たちだけなんだ!お前たち、だけだったんだ!」
「……クソが」
世迷言をほざく男の首を締め上げて意識を落とし、獪岳は男を縛り上げて座席に転がした。
幸は車両内を走り回り、何度か薄紅の光を乗客に向けてから首を振った。
「だめ。おこせ、ない。毒じゃ、ない」
「鬼を倒すしかないってか?」
「ん」
幸の血鬼術は、鬼による毒の浄化と怪我の回復。
それが駄目だと言うならば、大元の鬼を倒すしかない。
「鬼はどこだ」
「……ごめ、ん。わから、ない。風が、強くて、においが、とぶ。気配も、こすぎ、る。……だけど、たぶ、ん、先頭」
「機関部分かよ」
この分では、他の車両の乗客も全滅かと舌打ちをしたときだ。
ぞ、と背筋が総毛立った。
────雷の呼吸
────弍ノ型、稲魂
周囲を切り裂く斬撃が、獪岳と幸に迫っていた肉の腕を叩き斬る。
だが、まだ止まらない。
乗客の一人の首元に伸びる太い腕を、幸の爪が切り裂いた。
気づけば、車両の壁が不気味な肉に覆われて蠕動していたのだ。
「かいがく、かべ、鬼が……!」
「列車と融合しやがったんだ!放っときゃ、全員喰われるぞ!」
しかもこれは、最悪なことに本体でなく末端。いくら斬ったところで、頚を斬るか日に当てねば鬼は死なない。
乗客を守りながら先頭車両に向かうことも、八両すべてを一晩守り切ることも、獪岳と幸だけでは不可能だ。
どうしたらいい。
人を死なせず、鬼を殺すために必要なのは、なんだ。
「かいがく!」
「チッ!」
考える暇なく、隣の車両の壁が蠢き、乗客を取り込もうとしていた。
────雷の呼吸
────伍ノ型、熱界雷
下から上に切り上げるようにして放った斬撃が飛び、肉の壁を切り裂く。
追いついた幸が、爪で壁を引き裂きざまに蹴り飛ばした。
肉色の壁は後退するが、幸の背後から伸びた腕が小さな体を殴りつけて吹き飛ばした。
「幸!」
「だい、じょ、ぶっ……!」
空中に跳ね上げられた幸はくるりと体を捻り、腕を殴りつけた。
追いついた獪岳の刀が、腕を斬り落とす。
幸が床の上に着地したとき、列車がぐらりと揺れた。
勢い余ってよろけた獪岳の目の前に、炎が舞う。
「勾玉少年!」
違った。
炎ではなく、炎を模した羽織を纏う剣士が現れていたのだ。
炎柱、煉獄杏寿郎は床の上に片膝ついた獪岳の目を、上から真っ直ぐに覗き込んでいた。
「状況は理解できているか!」
「……車両が鬼に乗っ取られた。触手を斬らねェと客が喰われる。鬼の本体は恐らく先頭。乗務員は敵だ」
「うむ!上出来だ!手短に言おう!俺は後方四両を守る!勾玉少年と勾玉妹は、黄色い少年と竈門妹と共に残り四両を守れ!本体には猪頭少年と竈門少年があたる!」
「わかっ、た!」
幸が大きく頷き、走り出した。
「了解したが、あいつは妹じゃねェよ!」
「そうだったのか!では後で教えてくれ!」
やたらでかい声で炎柱は叫び、再び列車を揺らす踏み込みと共に姿を消した。
先程の揺れは、炎柱がこちらへと走って来た踏み込みが起こしたものだったのだ。
どんな呼吸をすれば、踏み込みだけで列車が揺らせるようになる。それが、鬼殺隊の頂点に立つ柱の力なのだ。
「かいがく、はや、く!」
「わかってんだよ!」
幸の叫びに、我に返る。
そうだ。驚くのも何もかも、後でいい。今はただ、車両の中の人間を守る。
前へと走る。走りながら、何本もの肉の腕を叩き斬るようにして落とした。
車両の一つに辿り着いたとき、目の前で雷光が迸った。
目にも止まらぬ連撃が、次々壁を切り裂いていく。
それは紛れもなく、壱ノ型の霹靂一閃。
六連続の霹靂一閃が、車内を駆け巡っていた。
一つしか使えない壱ノ型を、何度も何度も連続で放ち、乗客を守っているのは、我妻善逸だったのだ。
その動きに、霹靂一閃が、途切れずに生命を守る様に、獪岳の中の時間が一瞬だけ止まる。
「かいがく!呆けな、い!」
直後に、背中の中心をずどんと突かれた。
「って!」
獪岳の真横を、共に爪を振るう幸と竈門の妹が駆け抜けて行く。
小柄な二人の体は、細く狭い車内の通路を走り、片端から鬼の肉を爪で裂いていた。
「獪岳、幸ちゃん!」
「いちいち名前呼ぶんじゃねェ!聞こえてんだよ!」
善逸とすれ違いざま、獪岳が放った弍ノ型・稲魂の五連撃が肉の壁に炸裂し、肉塊が弾け飛ぶ。
獪岳の背後では、善逸の連撃の壱ノ型・霹靂一閃が振るわれ、乗客を捕らえようとする腕を斬り飛ばした。
認めるのは凄まじく、本当に凄まじく癪だが、同じ呼吸を同じ時に同じ師から教わった者同士。
間合いや息の取り方は、いちいち測らずともわかる。
一瞬でも止まれば、客の誰かが喰われかねないのだ。
四の五の言うのは、餓鬼のすることだ。
その上、ともすれば鬼の体は獪岳たちの刀を巻き取り、絞め殺そうと腕を伸ばしてくるから、さらに気が抜けない。
幸の脚に絡みついた腕は、竈門の妹が踏み潰し、竈門の妹の首を絞めようと天井から伸びた触手は、天井近くまで跳んだ幸の爪がずたずたに裂いた。
先頭の機関部にあるだろう鬼の頚が落とされるまで、凌ぐしかない。それがたとえ、一晩続く攻防であっても。
何度も、何度も何度も四つの車両を行き来し、鬼の体を斬り刻む。
疲労か、列車が横に揺れた際に一瞬だけ善逸の足捌きが乱れた。
その隙を突いて、また壁が太い肉の腕を伸ばす。
「チィッ!」
────雷の呼吸
────伍ノ型、熱界雷
「カス!こんなとこでへばんな!」
「んぇっ!?」
善逸の頭上すれすれに放った斬撃が、丸太のような腕を裂きざま、ついに屋根を切り裂いた。
そこから覗く夜の闇は、未だ濃い。
頚が落ちるのはいつだと、舌打ちをして刀を構え直した瞬間。
ぐらり、と車両がこれまでにないほど大きく傾いだ。
足が床ごと浮き上がり、体が倒れそうになる。
最も体重の軽い幸が、割れた窓から車両の外へと飛ばされかけ、竈門の妹にすんでで腕を掴まれているのが見えた。
────横転!?
冗談ではない。
乗客満載の状態で横転などされたら、死人が出る。
せっかくここまで、一人も壁に喰わせずに戦っていたのだ。
ふざけるなと、獪岳は踏ん張って立ち、刀を下に向けた。
「おいカス!何かに掴まっとけ!幸と竈門の妹、お前らもだ!」
「獪岳!?」
────雷の呼吸
────陸ノ型、電轟雷轟
────雷の呼吸
────参ノ型、聚蚊成雷
立て続けに大技を出し、脱線し転がろうとする車両の勢いを、殺す。止まるまで、殺して殺して殺し続ける。
それ以外にない。
周囲を巻き込み、敵を切り裂く陸と参ノ型を、獪岳は繰り出した。
刀を振るう腕が重く、息を取り込む肺が熱い。
車両ごと前後左右滅茶苦茶に揺さぶられ、自分がどこに立ってどこに刀を向けているかすら見失いかける。
─────知るか!
目だけに頼るな。
音を聞け、空気の流れを感じ取れ。
呼吸を続けろ。刀を放すな。
─────雷の呼吸
─────遠雷、聚蚊成雷、稲魂、熱界雷、遠雷、稲魂!
もう一度稲魂を放つと同時、強く車両が揺れた。いきなり動きが止まり、反動で獪岳は背中から天井に叩きつけられた。
肺から空気が強制的に吐き出され、衝撃で手から刀が抜けそうになる。
多分、ごく短い時間だが気絶していたのだろう。
目の前が束の間暗くなり、次に明るくなったときは、星が瞬く高い空が上に広がっていた。
頭の下に感じるのは、ひんやりと冷たい土の感触である。
「獪岳!」
「うっせェ。大声、出すな」
視界に、逆さになった黄色頭が現れた。
なんでよりによって、こいつの顔がいきなり現れる。
鬱陶しくて、獪岳は顔を背けた。
「乗客は?」
「け、怪我している人はいるけど、ほとんど無事だよ。幸ちゃんと禰豆子ちゃんもあっちにいる」
「……そうかよ」
軋む体を起こして辺りを見回せば、惨状が広がっていた。
列車は横倒しになって線路から転がり落ち、鬼の体が木の根のように触手を張り巡らせていたために、醜悪な肉塊のようになっている。
地面の上には車両から放り出された客の体が、転々と転がっており、しかしほとんどが自力で動いて、立ち上がろうとしていた。
獪岳も、列車が止まったときに放り出されてしまったらしい。
刀の鞘はと探れば、背中から叩きつけられたときなのか、真っ二つに折れてしまっていた。刀も、刃毀れがひどい。
背骨が折れなかっただけマシかと思った途端、痛みが体に追いついた。
大技を連続で出した反動と、受け身をうまく取り損なったために、体のそこ此処が鈍痛を訴えていた。
「かいがく!」
「……ああ、生きてたか」
「それ、こっ、ち、の、せりふ!」
弾丸のような勢いですっ飛んで来た幸は、顔を真っ青にしていた。
善逸と揃って不安そうな顔を向けられていると、さらに体の痛みが酷くなるようで、獪岳は立ち上がった。
最も派手な出血は、恐らくどこかにぶつけて割れたらしい額。
あとはひどい打ち身ぐらいで、骨が完全に折れているところはなさそうだった。
息をする度にやや痛い肋骨は、呼吸で痛みを止める。
あれだけ戦ってこれだけならば、運が良かったほうだ。
「鬼は?列車はどうなんだ?」
「音もないし、鬼は死んだと思う。列車は煉獄さんと獪岳が大技出してくれたし、鬼の体が当て布みたいになったから……」
怪我人は山ほどいるが、死人はいない。
それを聞いて、獪岳は大きく息を吐いた。
「怪我人、車両から出すぞ。下敷きになってるやつがいないかも確認すんだよ」
さっさと行けと手を振ると。善逸は一目散に駆け出した。
その姿からは、列車の中で閃くような速さで霹靂一閃を使っていた気迫が、嘘のように消えていた。
なんなんだ、あいつは。
訳がわからなくなって、獪岳は額を乱暴に拭った。額は、浅い傷でも血が派手に出るのだ。目に入ると面倒だった。
「ん」
千鳥模様の手拭いが、突き出された。
見下ろすと、幸である。
三つ編みがほどけかかり、着物や髪が砂埃や血で汚れているが、目立つ怪我はしていないようだった。
それとも、怪我はしたが既に治ったあとなのだろうか。
「竈門の妹はどうした?」
「禰豆子ちゃ、ん、は、けっき、術、つかっ、てくれた、から、ねて、る」
「お前は?」
「わた、し、は、へい、き。おきゃく、さん、引っ張り、だして、く、るから、かいがくは、休ん、で」
「あ?別に平気だっての」
「だ、め。頭、うって、た」
顔色を見ろ、と幸は叩きつけるように言って獪岳の腕を草の上に引っ張って座らせ、手拭いで額を拭ってきた。
白地に、青で千鳥が染め抜かれている手拭いは水で濡れていて、みるみる血と泥に染まり赤と茶の斑模様に変わっていく。
汚れが取り去られて行くのは心地良く、獪岳は目を閉じた。
瞼の裏の闇を見ていると、ぽつりと声が落とされた。
「心ぱ、い、した。かいがく、が、ふきとばされ、たとき」
「……鬼殺隊なんだから、戦うだろ」
「そ、うだけ、ど」
「ま、今まで戦った中で、一番クソみてェな鬼だったのは確かだがな」
ここまで図体がでかく、しかも人を手先にし、列車を丸ごと取り込んで人を喰おうとした化け物は、獪岳も幸も初めてだった。
もしかしたら、十二鬼月の一体であったのかもしれない。
柱や善逸、竈門兄妹や伊之助がいなければ、乗客諸共死んでいたろう。
それでも。
「ざまァみろ」
互いに顔を見ることすらないまま、醜く膨れ上がった屍を晒す鬼を、獪岳は嘲笑った。
日が昇れば、列車を包み込んでいた肉は塵になって崩れ去り、何一つ残らないだろう。
鬼の死体は、いつもそうなる。
奪うだけ奪い、暴れるだけ暴れて何も残すことはない。そんなものだ。
「隠、の、ひと、たち、たい、へんになる、ね」
獪岳の心を読んだように、幸が言う。
何しろ、列車が丸ごと一つ脱線したのだ。
乗客の数は知らないが、怪我をした人間は百人は軽く超えているはずだ。
彼らのほとんどは眠らされていたろうから、刀を振り回す鬼殺隊を目撃して騒ぐ客がいないだけ、後始末は楽かもしれないが。
「どうせ列車事故で処理される。俺たちが気にすることじゃねェだろ」
「……ん」
もう大丈夫だよ、と手拭いがそっと退けられる。
目を開けると、星明りを背にして幸が微笑んでいた。
よく見れば、色白の小さな鼻や、血の気が元々あまりない頬の上には、泥や乾いた血の汚れがこびりついていた。
こめかみから細い顎にかけて、薄っすらと血が流れた跡まであった。
「お前な、自分の顔見てなかったのかよ」
「ん?……怪我、も、うない、よ?」
そういうことじゃない、と妙に疲れる気分で立ち上がる。
幸の千鳥模様の手拭いは、もう血だらけ泥だらけで使えたものではなくなっていた。
きょとんと首を傾げている頭を、ぐしゃぐしゃと撫でる。
「かいがく!髪、が、へん、になる!」
「元々じゃねぇか。どうせ後で直すんだろ」
鼻で笑って、獪岳は列車へ向かおうとした。
向かおうとした、そのときだ。
場違いに陽気な声が、闇夜を貫いて耳に届いた。
「やぁ、凄いことになったものだねぇ。随分派手にやったものだ」
土を踏みしめる音がする。
薄い喜色を孕んだ声がする。
冷たく感じる刀の柄を握りしめ、獪岳は振り返った。
広々とした草地の上に、いなかったはずの男が一人立っていた。
「おや、こうまで暴れて誰も死んでいないとは驚きだ。君たちはとても頑張ったんだねぇ。うん、偉い偉い」
明るく穏やかな声をしたその男は、自然体で星空の下にいた。
色素の薄い髪、手に握っているのは一本の扇。
頭髪の一部は血を被ったかのように赤く、暗闇の中でも目立つ虹色の両の瞳には、文字があった。
片方の瞳に上弦、もう片方には弐の文字が、くっきりと刻まれていたのだ。
喉が、笛のような音を立てた。
────嘘だろう。
────やめろ。
────やめてくれ。
瞳に刻まれた文字の意味を、知らぬわけがない。
獪岳の傍らで、幸の爪が鋭く、長く伸びる。白く尖った牙が口の端から覗き、獣のような唸り声が低く漏れていた。
「こんばんは、綺麗な月夜だね。鬼狩りの諸君」
目の前にいるのは十二鬼月、上弦の弐。
百年以上生き、鬼殺隊の柱たちすら屠ってきた正真正銘の化け物の一体は、闇夜の草地で、禍々しいほどにこやかに、微笑んでみせたのだった。
何故この鬼が来たかに関しては、伏線らしきものがこれまでの話の中にあります。
感想欄でまた黒死牟殿が出現したことに、またビビりました。