独り相撲   作:魚澄蒼空

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第3話

 群青に棚引く細い雲は、遥か高くから僕たちを悠然に見下ろしている。

 グラウンドに散らばるちっぽけな人間を嘲るように、流れゆくそれらは立ち替わり空模様を変化させていった。

 そんな空の下で、やる気のなさげな係りの号令に従い、ストレッチを続ける。

 

「あっつ〜……。まだ五月だろ……」

「言っても変わらないよ」

 

 ぼやく友人に返す。彼の言う通り、朝とは打って変わって、春とは思えない熱気が周囲を包んでいる。

 つい先程までは柔軟剤の香りがしていたこの体操服も、今やじっとりと汗ばむ体に浸食されてしまっていた。

 

 二人組の柔軟体操を始めた時に、ふと彼が「そういや」と話を振ってきた。

 

「何?」

「昨日さ、お前の体操服……香澄ちゃんが着てたんだって?」

「……そうだけど」

「マジか!」

 

 

 やはりと言うべきか、多少の話題にはなっていたらしい。回答を聞くと、彼は暑さでのびきっていた体に力を入れて僕の背中を押す腕に体重を掛けてきた。

 筋肉痛も相まって呻く僕に構わず、興奮気味に顔を近づけてくる。暑苦しい。

 

「隣のクラスのヤツが言ってたぜ? お前らとうとう結婚したのかって」

「結婚って。別に僕たちはそう言う関係でもないし、そもそも……」

「はっ! つまりその体操服には香澄ちゃんの匂いが……って汗臭ッ!!」

「うわ、嗅ぐなよ気持ち悪い!」

「へへっ、悪い悪い」

 

 首筋にかかる生温かい吐息に、背筋が凍った。本当に気色悪いヤツだ。

 思わず振り払った僕に、悪びれる様子もなく謝罪する彼をひと睨みして溜め息を吐く。悪い人間ではないのだが、少々悪ふざけが過ぎる一面があると思う。今のは本気で殴ってやろうかとも思ったくらいだ。

 

 ストレッチの過程が全て終了すると、今日はサッカーをするらしく、道具の用意をするようにと指示が出た。

 倉庫に向かい、ボールが入れられている籠を探す。倉庫は狭く物は乱雑に置かれているので、先ずは前にあるものを退かす必要があった。

 

 退かす度に舞う埃に辟易している時だった。

 

「……なぁ、お前らって本当に付き合ってないの?」

 

 そんな塵芥よりも、何よりも。僕の心に堆積した黒い何かが揺れるような質問が投げ掛けられた。

 一瞬で心の中を切り替えて、うんざりとした声音を作った。

 

「だから、付き合ってないって。なんで幼馴染ってだけで疑われるんだろうね」

 

 彼の方を振り向き、苦笑してみせる。その裏に全てを捻じ込んで隠す。僕の常套手段。

 

「そりゃあお前、香澄ちゃんとめっちゃ仲良いからに決まってるじゃん。今更香澄ちゃんの名字が戸山じゃなくなっても、驚くヤツなんていないって」

「大袈裟すぎ」

 

 笑い飛ばして、道具を運びながら倉庫を出る。

 

 何気ない一言を、何気ないふりをして受け取る。それがどれだけ僕の心を摩耗させるのかなんて、きっと目の前の彼は微塵も解っていないのだろう。解られては困るのだが。

 

 僕と彼女の関係は、周りから見てもかなり良好なものに映るらしい。そのこと自体は否定しないし、事実そうなのだろう。

 でも、彼らに見えるものと現実とでは、少しの、そして明確な齟齬がある。そしてそれが、こうして翻しようのない事実として耳朶を打つ。

 

 堪らなく苦痛なその瞬間を、僕は笑ってはぐらかすのだ。

 今日も、明日も、明後日も。

 

 ……正直、見縊っていたのかもしれない。慣れなければと頭で考えて吐いても、奥の方で蠢く何かは、その思考を許さない。

 

 

 

 ──本当にそれでいいのか? お前の今までの研鑽は? 彼女への気持ちは? どうなる? 

 

 

 

 声が聞こえる。僕自身の、醜い声だ。

 

 

 

 ──可笑しな話じゃないか。自分が自分で居られなくなるから、お前は彼女を応援すると言った。だがその為にお前はお前の心を殺している。矛盾していると解っているのか? 

 

 自問。

 

 ──解っている。解っているよ。そんなことは。

 

 自答。

 

 ──その矛盾はいつか、お前を殺すぞ。

 

 声は、尚も囁く。

 

 ──だったらその時は、死んでやるよ。

 

 僕は、尚も吠える。

 

 愚かだと言う自覚はある。だが解ってはいても、そう簡単に変わることなんてできない。

 

 であれば、やることは変わらない。

 火に焼かれ爛れた皮膚が、その痛みを感じることができなくなるように。

 

 その時まで、炙られ続けてやる。

 

 もう僕にできることなんて、それしかないのだから。

 

 

 

 ▽

 

 

 

 今朝のことを思い出していた。

 唐突な僕の質問に、彼女は少しはにかみながら笑い、放課後に話したいことがあると言ってきたのだ。

 

 その笑みは、幸せそうな、僕ではない誰かに向けられた笑み。

 そう理解した瞬間に、漏れでそうになった僕の中の何かとても黒いものを、ぐっと抑え込んだ。

 

 それでいい。そうでなければ、この話をしている意味がない。

 抑え込んだモノを飲み込む嗚咽の代わりに僕の口から飛び出たのは、耳当たりの良い快諾の言葉だった。

 嬉しそうに彼女が礼を言ったところで、学校に着き別れた。

 

 だけどその場で聞けなかったからか、僕の意識はその問題について宙ぶらりんの状態を維持したままでいる。

 喉に小骨が引っ掛かったかのような気持ちの悪さが、他への神経を散漫にさせたのだろう。

 

 その結果がこれだ。

 

「痛っ……」

 

 思わず独りごちる。

 赤く腫れ上がった足首は、ジンジンと熱を帯びた痛みを伴い存在を主張している。

 異様に重たくなった足を引き摺って、保健室を目指していた。

 

 プレイの最中に対戦相手とぶつかって、足を捻ってしまったのだ。普段ならば絶対に犯すことのない、しょうもないミスだった。それも、考え事をしていた僕の非だろう。

 申し訳なさそうに保健室へ連れて行くと言った相手の提案をやんわりと断って、一人でここまで来ていたのだが、思いの外痛みが酷い。断ったことを少し後悔した。

 いつもの倍以上の時間をかけ、ようやっと辿り着いた扉を開ける。

 

「失礼します……って、市ヶ谷さん」

 

 挨拶をして中に入ると、ベッドに腰をかけている見知った少女を見つけた。

 彼方も唐突な生徒の来訪に驚いたらしく、大きな瞳を見開いている。

 

「っ。……あ、なんだ、お前か」

 

 びくりとしてから僕の姿を確認すると、安心したように一息つく。ぱっちりとした二重の目が印象的な彼女は、市ヶ谷有咲さん。

 Poppin'Partyのキーボード担当であり、学年でもトップクラスの秀才として名高く、そして──

 

「またサボり? 評定落とすよ、優等生の市ヶ谷さん」

「うるさいな。サボりだってバレてないし、欠席分はテストでどうにでもなるからいいんだよ」

 

 ──サボり魔だ。

 ベッドの上でふんぞり返る彼女だが、中学生の頃は不登校だったらしい。

 そう考えると、こうして登校している分にはまだ良いのだろうか。

 

「あれ、先生は?」

「備品の交換だってさ。暫くは戻らないみたいだけど」

「マジか」

 

 困ったことになった。捻挫のテーピングなんてしたことがないものだから、適切な処置がわからない。それに保健室の道具を勝手に弄っていいものか。

 頭を悩ませる僕に、市ヶ谷さんが声を掛ける。

 

「マジだけど。そういや、お前は何でここに?」

「あー、これ。足首ひねっちゃってさ」

「うわっ、めっちゃ腫れてるじゃん! 大丈夫なのか!?」

 

 理由を尋ねた彼女に足を差し出して見せると、再び目を見開いた。彼女の視線と自分の意識がそちらに向いた所為か、逸れていた痛みがやってきて顔を顰める。

 

「大丈夫じゃないから来たんだけど……。参ったな、先生いないんだ」

 

 ひょこひょこと足を庇う変則的な歩き方で棚に向かう。待っている場合ではないなと思い直し取り敢えず応急処置だけでもと色々探してみるものの、こうして来たのは初めてなのでどこに何があるのか全く分からない。

 

 ガチャガチャと棚を荒らす僕を見かねてか、市ヶ谷さんは溜め息を吐くと僕の横に立ち、勝手知ったる風に湿布などを取り出す。

 

「私がやってやるから。お前は座ってて」

「え、いいよ。悪いし」

「傍でゴソゴソやられる方が気になるっての。それに、ちょっと訊きたいこともあるから」

「訊きたいこと?」

 

 チラリとうかがった横顔から読み取れるものは何もなかった。取り敢えず彼女の言葉に従って、丸椅子に腰掛ける。手際よく準備するその後ろ姿は、小柄な筈なのにどこか頼もしく見えた。

 暫くぼうっとその背中を眺めていると、不意に振り返った彼女と目が合う。

 

「準備できた……って、な、何だよ? ジロジロ見て」

 

 居心地悪そうに身を捩る彼女が僕を睨む。苦笑しながら、思ったことを口にした。

 

「いや、市ヶ谷さんは頼もしいなって。さすが香澄の保護者」

「おい待て。いつからそんな肩書きが付いた?」

「不満? なら保健室の主とか」

「どっちもやだっての」

「じゃあ香澄の主で」

「何で混ぜるんだよ!」

 

 今日も市ヶ谷さんのツッコミの鋭さは健在だ。面白いので、もう少し弄ってみることにする。

 

「だって市ヶ谷さん好きでしょ?」

「なっ。そ、そりゃあまぁ好きか嫌いかで訊かれたら……その、別に嫌いじゃねぇけど……」

 

 頬を少しだけ染めて俯きがちになり、威勢の良かった口調も段々と尻窄みになっていく。

 よっぽど好きなんだろうなと微笑みながら、僕は一言だけ補足した。

 

「保健室」

「そっちかよ!」

「え? 何のことだと思ってたの? あ、もしかしてかす──」

「──あーもう! うるせーっ!!」

 

 爆発するみたいに声を張り上げる。感情の起伏が激しい子だなと、そうさせたのにも関わらず他人事のように分析した。

 やっぱり市ヶ谷さんは弄ると楽しい。肩でぜえぜえと息をする彼女が、大きな目でギロリと僕を睨んだ。

 

「ごめんごめん。面白かったからつい」

「隠す気すらないのかよ……」

 

「おたえみたいなボケしやがって」とぼやく市ヶ谷さん。

 おたえとは、ギター担当の花園たえさんのことだ。彼女は所謂天然の入った人なので、市ヶ谷さんのツッコミの鋭さには、彼女も貢献しているのではないかというのが僕の考えだ。

 素でボケる彼女の方がタチが悪いのではないかと抗議しようと考えたが、僕も大概なことに気付いて口を噤む。

 

「……ったく。じゃあ、始めるからな。痛かったら言えよ」

「お願いします」

 

 それでもテーピングをしてくれるあたり、彼女の人の良さが見てとれる。

 前屈みになった市ヶ谷さんがテープを剥がす音だけが、静謐な保健室を支配する。

 女の子に治療されることなんて初めてなもので、僕はというと情けのないことに喋ることもできなかった。

 

 いくら上っ面だけ変えても、幼い頃からの内向的な性格の一片は残ってしまうものなのだと実感していると、市ヶ谷さんが僕に話しかける。

 

「で、訊きたいこと、なんだけど……」

「あ、うん。僕が答えられることなら、何でも教えるよ。どうしたの?」

 

 緊張していたことがバレないようにと、できるだけ柔和な表情で受け答える。対して市ヶ谷さんは、少し躊躇した風に、小さく答えた。

 

「……香澄のことなんだけど」

 

 少しだけ、息が詰まった。

 

「……香澄の」

「うん、最近さ、上の空っつうか。考え事してることが多いんだよな」

 

 顔は僕の足を向いているため、その表情は見えない。けれど声音からは彼女のことを心配していることが分かる、そんな声だった。

 

「幼馴染のお前なら何か知ってるんじゃないかって、思ったんだけど……」

 

 ぺたりと貼られた湿布の冷たい感触と、顔を上げた市ヶ谷さんの憂いを帯びた目線。

 口止めはされていないが、そのことは彼女自身がバンドの皆に言った方が良いのだろう。僕はそれとなく伝えようと口を開く。

 

「それは……」

「それは?」

「……」

 

 だけど、僕の口がそれから先の言葉を紡ぐことはできなかった。

 

 彼女には好きな人がいて、そのことを考えているだけだよと。だから心配する必要などないのだと。

 

 そんなことをぼんやりと伝えればいいだけのこと。数秒しか要さない、些末事。

 彼女を心配している市ヶ谷さんの懸念を解消させる為にも、そうした方が良いのは分かっている。分かっている筈なのに。

 

「……ごめん。考えてみたけど、やっぱり分かんないや」

「そっか。悪いな、変なこと訊いて」

「や、僕の方も役に立てなくてごめんね」

 

 きっと僕は、恐れたのだ。

 

 その事実を自分の口にすることを。自分ではない誰かを好いているという現実を口にすることが、堪らなく怖いのだ。

 どうやら想像以上に、僕は重症だったみたいだ。どこまでも愚かで、醜くて、弱かった。

 

 自重の笑みを市ヶ谷さんに向ける。申し訳なさそうに眉尻を下げて、外向けの鍍金を施した笑顔。

 

「何か分かったら教えるよ。手当てのお礼になるかはアレだけど」

「ん。ポピパの皆も気にしてるから、何かあったら頼むな」

 

 しゅるりと巻いた包帯を止めて、市ヶ谷さんもにこりと微笑む。テーピングが終わった。

 

「ありがとね、市ヶ谷さん。……じゃ、僕は授業に戻るから」

「おう、じゃあな」

 

 扉を開けて、廊下へと出る。

 

「……ごめんね、市ヶ谷さん」

 

 聞こえる筈もない謝罪を、ぽつりと呟いた。

 

 きっと僕がそれを言える日なんて、絶対に来ないだろうから。

 

 

 

 ▽

 

 

 

「お待たせー!」

「本当に待ったよ。再テストに何分かかったのさ……」

「えへへ、ごめんごめん」

 

 放課後。

 数学の再テストがあったらしく、先に行って待っていて欲しいという連絡を受けてから、かれこれ三十分以上は経っていた。

 この足なので先行できたことは有り難かったが、よもやここまで待ち惚けをくらうことになるとは思ってもみなかった。

 

 集合場所は近所のファミレス。走ってきたのか息を整える彼女に、先にと注文しておいた香澄の分の飲み物を渡す。

 

「ありがとー! はぁ〜、生き返る……」

「それで、話ってなんなの?」

「あっ、そうだった!」

「そうだったって。その為に集まったんだからさ……」

 

 彼女の奔放さには、何年一緒にいても驚かされることがある。

 溜め息を吐いた僕に、彼女は苦笑した。別段怒っている訳でもないので、気にすることではないが。

 

 そうした後ふと彼女を見やると、空になったグラスを両手で握って、少し緊張した様子だった。

 

「えっとね……」

 

 いつもの彼女とはそぐわない、そんな雰囲気。

 

 またきっと、聞きたくもない話を聞くことになるのだろう。協力を申し出た身分で実に勝手なことを考え、僕は身構えた。

 

 

 

 そうして僕の鼓膜を震わせたのは──

 

 

 

「今週末、デートに行こうよ!」

 

 

 

「……は?」

 

 

 

 ──全く予想していなかった言葉だった。

 

 




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