独り相撲   作:魚澄蒼空

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お久しぶりです。


第5話

 ドアを開ける。乱暴に開かれたそれは大きな音を立てたが、そんなことは気にもならなかった。

 体が重い。膝は笑っているし、足首の痛みはぶり返していた。肺が破裂しそうなくらいの激痛が走り、口からは酸素を求める不規則な呼吸音のみが発せられていた。

 目の前がチカチカして、玄関先に倒れ込む。母も仕事で家を空けているようで、幸いそれを咎める人間はいなかった。

 冷たいフローリングの温度が火照った体に伝播していく。全身に巡る血液に乗って、少しずつ体温は下がっていった。

 

 ──僕は一体、何がしたいんだ。

 

 白む頭の中に、一つの疑問が浮かび上がった。

 諦めてしまえば楽になれるんだ。勿論そのつもりだ。だってそれしかない。彼女の為なら、僕にできることは全てしてきた。もしかしたら──いやもしかしなくても、それは僕の自己満足なのだろうが。

 

 今回だって同じことだ。

 彼女には好きな人がいる。僕が彼女のためにできることと言えば、彼女の恋が実るよう微力であっても協力をすることだ。

 言ってしまえば、実に簡単なことだ。選ばれなかった僕は、仕方がない次の女の子を探そうと落ち込みながらも割り切って、時間は必要だろうがただの幼馴染として接すればいいだけ。

 別に珍しいことでもないだろう。失恋の話など星の数ほどある訳で、当然その星が辿る軌跡だって同じ数だけある。大半はきっと僕が考えるように諦めて、いずれはその記憶さえ砂の中に埋める。たまに酒の肴にでも引っ張り出して、笑い飛ばす。そんな至極真っ当な選択の筈だ。

 

 今までの血反吐を吐くような徒労に比べたら、笑ってしまうくらいに単純で明快な答え。

 そんなことは解っている。何度も自分に言い聞かせたことなのだから。

 

 

 

 それでも、僕にとってその選択をすることは、何よりも受け入れることのできない結末だった。

 

 

 

 先刻の香澄の姿を思い浮かべる。

 気の抜けた表情。幼い頃から何も変わらない、僕を見る瞳。かつてそれに感じていた安堵など今となっては何処にもなく、ただ怒りと哀しみの混色が頭に渦巻く。

 彼女を見る度、渦は蜷局を巻くようにグルグルと。その奔流が僕を押し止める真っ当な選択を呑み込んでいくようだった。

 

 そして押し流されるがままに、僕は醜い感情を吐き出しそうになる。

 

 その繰り返しだ。

 

 

 

「……いい加減にしろよ」

 

 

 

 呟いて、思い切り自分の頬を殴った。口内が切れたのか、鉄の味が広がった。

 鈍い熱が伴って、沈んでいく意識を無理矢理に引き摺り上げる。

 

 そうだ。いつまで足踏みをしているんだ、僕は。最早一つしか残っていない細い道を進みもしないで。

 もう戻る場所なんてない。何かを期待して後ろを見返しても、もうそこに道はない。今に分かったことでもないというのに。

 

 ──本当に、いつまでこんなことを繰り返すつもりだ。

 

 もう一度、今度は正面から顔を殴る。

 バキッと嫌な音が脳に直接響き、鼻から何かが伝うのを感じた。床に落ちた雨水に混ざって薄くなっていく赤色を見て、少しだけ気分が晴れた気がした。

 

 

 ふらりと立ち上がる。取り敢えず濡れた床を拭いて、シャワーを浴びよう。そしてもう、それで終わりにしよう。

 

 

 

 この痛みを、過去に縋る自分自身への手向けにして。

 

 

 

 僕はこれからも、独り相撲を続けるのだ。

 

 

 

 ▽

 

 

 

 香澄とのデートから二週間。

 貼り付けた仮面は、漸く根を下ろし始めていた。

 普段通りに学校へ行き、授業を受け、友人と遊び、バイトをこなして、そして──

 

「でね、着ていく服とかどうすればいいかなー?」

「僕に女物の服のこと聞かれてもなぁ……」

 

 ──彼女の恋愛相談に乗る。

 

 向かい合わせに座って僕の机に突っ伏しながら訊いてくる彼女は、どうやら想い人とデートの約束を取り付けていたらしい。

 最近になって相談の頻度は増えていた。相談というか、所謂惚気とも取れる内容の時も多い。今日そいつと話したこと、こんなことを言われたのだとか、こんな風なことで笑ったのだとか。そんな些細なことを、彼女は幸せそうに僕に話してくれる。

 

 目の前の幼馴染が、どんな思いを腹に抱えながら自分の話を聞いているかなど露ほども知らずに。

 

 とは言え、もうそれに痛みを感じることは殆どなくなっていた。擦り切れて消えてしまう程に摩耗してしまったのかもしれない僕の心は、きっと痛覚という感覚を真っ先に切り捨てしまったのだろう。

 

 本来バイタルサインとして機能する筈のそれは、彼女のことを見る度僕を殺しかねない激痛として働きかけていた。いつも通りという化けの皮が強引に剥ぎ取られるような、そんな激痛だ。

 だから排除されるべきは痛みでなくそれを伝達する受容体であるというのは、案外合理的な判断なのかもしれない。

 

 こんな風に俯瞰して考えることができるくらいには、僕の頭は彼女への恋情を割り切れている。そう思っている。

 だからこそ、こうして彼女の話を聞くことは今の僕にとって必要な工程なのだ。何処までが平気で、何処からが駄目なのか。愚かな自傷行為とも取れるこの耐久試験は、今後香澄と関わる上で必ず必要になってくる。彼女の幼馴染として、ごく普通に接していくために。

 

 何も起こらず平穏に、彼女と僕の縁が途切れるのならそれ以上の結末はない。

 だが皮肉なことに、積み重ねた年月と関係がそれを許すことはなかった。香澄に好かれようと行ってきた行いの全てが、僕を其処に縛り付ける。

 

 逃げ道があるのであれば、僕は惨めたらしくそれに飛び付くだろうが。

 こんなことを考える時点で、僕はきっと何も割り切れてなんかない。あまりにも惨めな自分自身への嘲笑が顔に浮かんだ。

 

「もう、真面目に考えてよ〜」

「いや、だから分かんないんだって。まぁでも、そんなに気にしなくてもいいと思うけどな」

「え、なんで?」

「香澄は可愛いから、何着ても似合うよ」

 

 不満げに唇を尖らせる彼女を向いて微笑みながら伝える。

 嘲りの笑みを柔和な微笑みに変換して、そんなことを宣う。

 

 もう慣れたものだ。

 

 言った瞬間、彼女は言葉に詰まったように目を見開き、固まった。そうして、少しだけ頬を染めてにこりと笑う。

 

「そ、そうかなー? えへへ……なんか、照れるね」

 

 彼女の反応を見て、溜飲を下げる。下劣な自己満足に浸る。こうやって、自分の負った古傷を慰めていた。

 

「でも、キミからそんなこと言われたの初めてだからびっくりしちゃった」

「……そうだっけ。……ずっと前から思ってたんだけどなぁ」

 

 不思議なものだ。前まで言えなかった僕の本心は、失恋という二文字を呑み込んでしまえば居場所を奪われたかのようにするりと抜け出ていく。こんなことを口にするにしても、もう遅すぎると言うのに。

 

「え」

「なにその反応。もしかして引いた?」

「う、ううん! 違うよ! でも、そんなの──」

 

 慌てふためく香澄をぼんやりと眺める。

 あまり見たことのない表情だった。今こうして見たように、多分僕が知らない香澄の表情なんてものはもっと沢山ある。でもこれから先、僕がそれを見ることは叶わないだろう。

 彼女の反応を慰みものにして古傷を癒し、僕のいない彼女の先を想起して古傷を抉る。下劣で愚かしい循環が生まれようとしていた。

 

「あ、戸山さーん」

「っ、はーい! どうしたの?」

 

 そんな折、香澄のクラスメイトであろう女子生徒が、扉から此方を覗いて話しかけていた。

 

「今日の日直戸山さんだよね? 日誌早く出せって先生が言ってたよ」

 

 不意に呼ばれた彼女は不思議そうな顔をしていたが、クラスメイトの言葉を聞くと思い出したと言わんばかりにギョッとした表情になる。

 

「あぁっ、忘れてた! ごめんね、ちょっと行ってくる!」

 

 言うや否や彼女は駆けて教室を出て行った。勢いよく立ち上がった拍子に、ふわりと優しい香りが鼻を擽った。シャンプーだろうか──そんな推測をする前に、その香りは燻るように消えていく。僕は目線を下に落とし、彼女が来る前まで解いていた数学の問題集に再び神経を注いだ。

 

 彼女の相手をするのよりも、これの方が余程落ち着けた。何も考えず、ただ目の前の解を求めればいいだけだから。

 そこに一つしか有り得ない答は、シンプルに紙面の上で表すことが出来る。

 こんな風に、人の心や行動にも全て公式と解が存在していればなと、益体のない思考が脳裏を過る。

 

 そうであったなら、きっと僕は──

 

 ……いや。それは可笑しな話だ。

 一分一厘のズレをも許さない問答の中で、「そうであったなら」も「きっと」も言語道断だ。そんな曖昧が許される筈もない。

 僕もいい加減未練がましいものだと、一人苦笑してしまう。でも仕方の無いことなのだろう。これもまた記号化することの出来ない、人の持つ感情というものなのだから。

 だが、少なくとも。

 

 ──今の僕に、そんなものは必要ない。

 

 息を吐き、頭にかかる靄を追い出す。

 今度こそ無駄な思考を取り除き、僕は数字と記号の海へと身を投げた。

 

 

 

 ▽

 

 

 

 十ページ近い量の問題を解き終え、シャープペンシルを放り伸びをする。

 心地好い疲労が和らいでいく感覚に、久々に幾許かの充足感を覚えた。

 

 西陽が目に差し込む。曇りや雨が続いたここ数日で、今日は珍しい晴天だった。

 ふと窓から下に広がる中庭を見ると、木の下に設置されたベンチで男子生徒が本を読んでいた。

 こんな日に外で読書をするというのは、何とも気持ちがよさそうだ。

 折角だし、久しぶりに図書館で本でも借りていこうか。

 何を読もうかと考えあぐねていると、扉が開く音がした。その方に顔を向ける。

 

「あれ、キミまだ残ってたの?」

「山吹さん」

 

 そこに立っていたのは山吹さんだった。

 

「勉強してたんだ。わ、すっごい進んでるね」

「もう今日は終わりにするけどね。流石に疲れた。……山吹さんはどうしたの?」

「あ、そうそう。香澄どこにいるか知らない? さっきから探してるんだけど、見つからなくて」

 

 今日も蔵で練習なんだけどな、と山吹さんはぼやく。ただ日誌を提出するだけならとっくに終わっていてもおかしくないが、何かあったのだろうか。

 香澄のことだから、何処かで油を売っている可能性は大いにあるが。

 

「ちょっと前までここにいたんだけど、日誌の提出があるって出て行ったよ」

「そうなんだ。じゃあまだ職員室か、先に行っちゃったのかも……って。あれ、香澄?」

 

 そう結論づけようとした山吹さんだったが、香澄を見つけたらしい。けれど窓の外を見た山吹さんの呟きには、何故か少し当惑の色が滲んでいるような気がする。

 

「どうかした?」

 

 気になった僕も、山吹さんの横に並んで中庭の様子を見てみる。

 

 ──そうして、僕は自分の目を疑った。

 

 確かに、彼女はそこにいた。僕は彼女の姿を視界に認めて、直ぐに山吹さんの困惑の原因に気がついた。

 でも別に、香澄自身に異常がある訳ではなく。僕の友人が見て曰く魅力を増したという彼女の爛漫な笑みは、全くの変化もなく向日葵のように咲いていた。

 

 

 

 ──彼女の横にいる、先程の男子生徒に向かって。

 

 

 

「──」

 

 

 

 瞬間、何か聞こえた気がした。

 それは僕が何かしら発したのかもしれなかったし、山吹さんが何か言ったのかもしれなかった。

 五感さえも朧げに薄れてしまうような衝撃は、斯くして僕に覆い被さってきたのだ。

 

 ……覚悟はしていたさ。

 

 いつかそういう場面を──彼女が僕でない誰かの横で笑う光景を、目の当たりにすることを。

 だからその『いつか』を僕は受け止めて、同時に疼き広がる傷だって押し殺してしまえるようにと。今までずっと、そう思ってきた。

 

 しかし酷く勝手な言い分ではあるけれど、僕は不意打ちを喰らったも同然だった。目にも──いや心にも留まらぬ素早さで、受け止めるだの押し殺すだの、何か動作を起こす暇もなくソイツは僕の喉元に喰らい付いたのだ。

 今まで言葉としてでしかその存在を知らず、僕の脳内を霧のように漂っていたソイツは、唐突に現実のモノとして実体化し現れた。

 

 

 

 ……嘘であって欲しかった。

 

 

 

 ──だって。

 

 

 

 彼女が笑う横のそいつは、その笑顔に戸惑うように辿々しく笑い返し何かをボソボソと呟くだけで。彼女の目を見て話すことなんか、全くしていなかった。

 

 

 

 ──だって。

 

 

 

 ただ伸びているだけの髪の毛から半分だけ覗く目には、何処か陰気な印象を受けた。必死になって整髪剤の使い方を勉強したり、床屋通いをやめ顔を真っ赤にしながら美容室を訪れるなんて努力は、きっとしていないだろう。

 

 

 

 ──だって。

 

 

 

 明らかにか細い体には、頼り甲斐を感じさせる要素は微塵もない。苦手だった運動を日課に取り入れ、身体中に走る筋肉痛を耐え抜いた経験など、きっとそいつには有りもしないのだろう。そんな爪痕は、全くなかった。

 

 

 

 だってそんなの、まるで。

 

 

 

 まるで──

 

 

 

 ──昔の、僕じゃないか。

 

 

 

 程なくして、二人は別れた。

 彼女は走り去っていき、そいつはまた読書を再開していた。

 でも、僕はまるでその場で化石したみたいに、動くことすら出来ずにいた。瞼すら動かず、ただ案山子のように棒立ちのまま。

 

「……驚いたなぁ。まさか香澄にあんな仲良さそうな男子がいたなんて」

 

 山吹さんがそう言って、僕はこの場にいたのは自分だけでなかったことを漸く思い出した。

 そして、もうすぐ彼女も此処に戻ってくるであろうということも。

 

 ──不味い。

 

 しかし。

 いつも通りを繕い直すだけの余裕が、この時僕にはなかった。

 

「ね、キミは知ってた? 香澄に──」

 

 話しかけてきた山吹さんの言葉が、言いかけのままそこで静止した。

 同時に、僕を見る山吹さんの表情に先程とは違う動揺が浮かぶ。

 それほど、僕は見ていられないような顔をしていたのだろうか。

 

 正直自分でもよく分からない。泣いているような笑っているような怒っているような。醜悪なまでに歪んだこの内情が、単一に形容するのは不可能な表情を造っていたのだろう。

 

「……」

 

 声にならない声が、一瞬だけ僕の口から漏れ出した。これが自分の口から飛び出たものだと思いたくない程に、それは惨めで矮小な慟哭だった。

 

「あぁ、うん。……僕も知らなかったよ。……知らなかった」

 

 思わず踵を返す。居ても立ってもいられなかった。

 

「今日はもう帰るよ。練習、頑張ってね。……じゃあ」

 

 足早に教室を出る。

 後ろで山吹さんが何か言っているような気がしたが、気に留める余裕もなく。歩調は段々荒くなっていった。

 靄が晴れた先の光景は、ずっと脳裏にこびりついたまま。振り払えなどしない靄以上の何かが、ずっしりとのしかかっていた。

 

 これ以上ないくらいに、無様で惨めで滑稽な敗退だった。




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