「あー。それ、多分Dクラスのヤツだな」
横を歩く彼が、思い出したかのように呟いた。
傾きかけた太陽は、遠い空を緋色に染め上げる。沈んでも尚自身の色を焼きつけんと
燃える朱は、とても眩しく、しかしどこか虚しい。
飛ぶ鳥は何を思ってその空へ消えていくのだろうか、僕には分からない。
「……Dクラス、か。あ、他にこういうヤツだ、みたいなのってある?」
「俺もあんまりよく知らないんだけど……友達は少ない。て言うか見たことないよ、少なくとも俺はな」
確かに彼はDクラスではないから、知らなくても無理はない。
とは言え、部活帰りの彼を捕まえられたのは運が良かった。こうして
あの後、結局僕は山吹さんたちと顔を合わせることはしなかった。今彼女を見たら、 僕はどうなってしまうのか分からないから。もしも……もしも心の底に押し込めていたこの感情が蓋を開け、その腐敗臭を撒き散らしながら彼女の元へ向かっていったなら……。
想像は酷く恐ろしく、黒い光になってその先の道をはっきりと照らす。初夏のじっとりとした蒸し暑さの中で、僕は一人身震いをした。
幸い直ぐに彼女たちは帰ってくれたらしく、恐る恐るといった体で覗いた教室には、もう誰もいなかった。
そうして少しばかりの落ち着きが胸の内に帰ってきたことを確認していると、次に現れた感情は僕を再び動かした。
完全下校時刻を告げるチャイムと同時に校舎を飛び出し、部活を終えた生徒たちがゆったりと歩く中、小走りでその内の一人に声をかける。エナメルバッグを肩に提げ、気だるげに歩く背中は、僕の声に緩慢と振り向いた。
その時と同じように、彼は不思議そうな表情で、僕の顔をまじまじと見ている。
「……え、何?」
「いや、何で急にそんなこと訊くんだって思って」
彼の疑問は至極当然のものだった。しかしだからと言って、その事情を正直に話すことなんて出来る筈もない。
だから僕は嘘を吐く。それらしい建前を以て、目の前の友人を利用する。
「うん、文化祭の係の集合の時に見かけたんだけどさ、見ない顔だったから気になって」
「あぁ、そういうことか。そう思っても無理ないよな。あいつ、いっつも人のいないとこで本読んでるらしいし」
「そうなんだ」
まぁ聞いた話なんだけどな、と付け加えられた言葉は、少し明瞭さに欠けるものだった。それでも確かなあいつの断片が、僕の脳内でカチリと嵌まっていく。
木の下のベンチで読書していた姿を思い出す。彼の言うことから察するに、普段からあのように過ごしているのだろう。であれば、友達がいないという話にも納得がいく。
本当に、何だそれは。
頭の中にあいつの姿が克明に浮かび上がってくるのは、きっとその面影を知っているから。変わる前の僕の影がそこへ伸びていってるみたいに、妙に現実味を帯びた虚像は網膜の裏側にこびりつく。
ぞわりと背中を這い上がるのは、混色をしたおぞましい何か。僕という腐肉を見つけ貪る、蛆みたいな何かだ。いや、違うかな。僕という腐肉から、その内側から、それは這い出ている。
──あぁ、またこれだ。
最近になって漸くなりを潜め始めていた筈の思いが、今になって顔を覗かせる。
──駄目だ、出てくるんじゃない。お前は居てはならない存在なんだ。
言って聞かせたところで、通じることはなく。喰い破られる肉からは赤黒い液体が伝い、伴って漏れ出る腐臭。ぐじゅぐじゅと崩れる音。どうにかそれを、内側だけに押し止めるのが精一杯だった。
……今が夕方で良かった。苦痛に歪みそうになる醜い顔は、逢魔ヶ刻の黒がきっと塗りつぶしてくれるだろうから。
「そういや、もうすぐ文化祭かぁ」
「そうだね、もうすぐだ」
横の彼が、感慨深げに呟く。同調して返してみると、彼は半分だけ藍に覆われた、仄暗い空を見上げていた。
程なくして、目線を上にしたままの彼のハミングが聞こえだす。何を眺めているかよく分からない彼の、何を唄っているかよく分からないハミングだった。
しかしよく聞いてみると、馴染みのある曲名が浮かび上がる。
「STAR BEAT 」
「おっ、正解」
「……音外しすぎ。香澄の方が百倍は上手いよ」
「るっせーな、ほっとけよそれは。ってか、本家と比べんな 」
「そりゃそうだ」
自覚はあるらしい。苦笑した彼と顔を見合わせて笑う。少し沈黙した後、またしみじみと独り言のように呟いた。
「……なぁ、覚えてるか? 去年の文化祭」
「そりゃあね。忘れる訳ない」
言って思い起こすのは、香澄達がPoppin Party として、本当の意味で始まった、あのライブ。
ステージで歌う彼女の眩しくて、美しくて。僕はあの時、その全てに魅了されていた。 彼女の歌に。全力で楽しむ、今を輝く姿に。あの日の感動は、今でも鮮烈に胸に刻まれている。
だけど。
「すごかったよなぁ、香澄ちゃん達。俺らもさ、会場の設営とか手伝って、そんで……」
「な。五人揃ってやった初めてのライブは、何て言うか、うん、本当にすごかった」
「語彙力死んでるぞ、学年首席くん」
「るっせーな、ほっとけよそれは」
「おい、真似すんな」
笑いながら、二人でアスファルトを蹴る。他にもそうした人がいるのだろう、平坦に 見えるそれは所々で僅かな凹みが見られた。昨夜の雨が水を張ったちっぽけな池は、灯り始めた街灯を白色に照り返す。
変わらないかのように見えるのっぺりとしたこの路も、少しずつ変わっていっている。例えば、入った亀裂から生えている小さな雑草だったり。例えば、新しく塗られた『止まれ』の道路表示だったり。
いつか見た時に、ふと「あれ、ここってこうだったっけ」と首を捻ったりする。きっと、そんな風にできている。
「今年の文化祭でもやるのかな」
「やるって言ってたよ。今日もその練習だって」
「お、マジか。よし、今年も見に行くか 去年みたいに手伝いとかやったり、なんなら俺もステージに出たりして」
「それは止めた方がいいよ。てか止めてくれマジで」
「辛辣だな!」
だから僕が今年見るライブもきっと、去年のものとは違うのだろう。
どんな思いで、どんな君を、僕はどんな風に眺めるのだろう。
「じゃ、俺こっちだから」
「うん。じゃあ、また明日」
「おう。じゃあな」
路地を曲がる彼の背中が消えていく。
「……ごめんね」
去年のようになんて、僕にはもうできないよ。
消えていく彼の背中に届く筈もない、不意に漏れ出た詫び言は、夕闇の中へ吸い込まれて消えていった。
僅かな茜色の残滓が揺蕩う空に、遅れた烏がか細く鳴いている。
最期の灯火を焼きつける太陽を見て、あの鳥は何を思うのだろうか。鳴く声は、嘲りか、寂寥か。
どちらでもいい。どっちにしたって太陽はそうして消えて行く。
でも僕の場合、ふと思った感想はどちらでもなく。
ただただ、汚いなと。そんな気色が、きっと僕の空色だった。
▽
早朝。
何時もより一時間ほど前倒しで鳴る無機質なアラーム音は、生暖かい
顔を洗って、寝癖の修正ついでにワックスをつける。掌の体温で少し温めておいたそれを、わざとらしくないように、でも雑にはならないように。微妙なさじ加減が重要だ。
昔何ヵ月もかけて会得した、ちょっとした僕なりのお洒落。少し前にその意味を無くしてしまった、小手先の児戯。
最早習慣と化した動作を鏡の前で手早く済ませると、着替えて鞄を持つ。
「行ってきます」
返ってはこないとは分かっていても、これだけはどうしても口にしてしまう。それが
少し可笑しくて、一人苦笑しながらドアを開ける。
最近仕事が忙しいのだろうか、両親の帰りが遅い。まだ眠っているのだ。あまり仕事が好きでないのか、或いは生々しい職場の話を家庭にまで持ち込みたくないのか(これは僕の穿った考えだろうが)、兎に角その類いの話をしないので、正直よく分からない。
元々家を空けることが多い二人だから、特に思うところはないが。ただ心の中でお疲れ様ですとだけ呟いておいて、僕は通学路を急いだ。正確に言うのなら通勤路と言った方が今の場合は正しいか。
目指しているのは、やまぶきベーカリー。今日は放課後の代わりに、朝の仕込みを手伝う予定だった。
「おはようございます」
着いてから、裏口へ回る。
まだ店の正面の入り口は開いていない。よって裏口から入り挨拶をする。
すると少しの間を置いて、「はーい」という声と共にぱたぱたとスリッパが床を叩く音が聞こえてくる。
「おはよう。ごめんなさいね、こんな朝早くから手伝わせちゃって」
ふわりと僕に笑いかけるのは、山吹さんの母親の千紘さん。正直、三児の母とは思えないくらいに見た目が若い。初対面の時は、素で山吹さんのお姉さんだと勘違いしてしまった。
「いえ、僕が申し出たことですし。無理言っちゃったのは此方ですから」
「そう言って貰えると助かるわ。どうぞ、上がって 」
「はい。お邪魔します」
しっかり靴を揃えてから上がらせてもらう。はい、と手渡されたエプロンを着て、そこでふと流れが何時もと違っていたことに気がつく。
「あの、山吹さんは……」
そう。いつもなら僕を出迎えてくれるのは千紘さんではなく山吹さんだ。
そう尋ねると、彼女は振り向きながら言った。
「あら、沙綾の方が良かった?」
「あ、いや。そういう意味で言った訳じゃ」
「ふふ。冗談よ」
悪戯に成功したみたいに笑う千紘さんは、やっぱり山吹さんとそっくりだ。いや、似ているのは山吹さんの方か。
慌てて否定する僕を見る笑顔は、しかし次の瞬間から徐々に曇っていくように見えた。
「沙綾ね、昨日から少し様子がおかしいの。すぐに考え事してるみたいに黙り込んじゃってて……」
「そうなんですか……」
普段あまりそういった姿を見せない山吹さんだからこそ、その話には妙に後を引く気がかりなものを感じさせられた。
僕の表情を見てか、千紘さんはまたパッとした明るい顔になった。
「まだ降りてきてないけど、心配しないで。私、今から様子を見てくるから」
「あ、はい。分かりました、じゃあ僕はお店の方行ってますね」
「待って」
気を遣わせてしまったことに気がついて、申し訳なくなってしまう。 その場を去ろうとした僕の手を、突然千紘さんが握る。祈るような優しい手つきに、否が応にも固まってしまった。
驚いて彼女を見ると、真っ直ぐに僕の顔を見ていた。
「あの娘、時々無理しちゃうことがあるの。貴方も知ってると思うけど、私の為にバンドを辞めてお店を手伝うって言ったり」
だからね、と繋ぎ、握る手に力を込めた。痛くもない女性の力なのに、何故だかとても力強いものに思えて。
「沙綾のこと、よろしくお願い」
「……はい」
そう返すことしか、出来なかった。気の抜けた返事ではあったけれど、千紘さんは満足したのか再び柔和な笑みを浮かべて頷いた。するりと解かれた手が、宙に取り残されて留まる。
「それじゃ、お仕事もよろしくね」
またぱたぱたと音を立てて階段を上っていく千紘さんを見送って、廊下で立ち尽くす。
彼女の言葉がリピートされて、一人手を握り締める。
よろしくされたって、困る。だって僕は、そんなに出来た人間などではないのだから。
積み上げてきた僕自身がその言葉の重石になっているなんて、何とも笑える話じゃないか。
そんなもの、結局何の意味もなかったというのに。
「……」
こんなことを考えている場合ではない。今は仕事が優先だ。息を吐いて、厨房へと向かう。そこへ通じる扉の前で、もう一度息を吐く。
「おはようございます!」
積み上げた僕は、こうして今日も補強されていく。
▽
仕事を終える頃になると、もう外は白んでいた。ギリギリまで働いていたので、あまり時間に余裕はない。鞄を掴み挨拶を済ませると、早々に外へ出る。
すると待っていてくれたのか、壁に背を預けて、山吹さんが手持ち無沙汰な様子で上を見ていた。空を眺めていたのだろうか、僕を見ると彼女はにこりと笑った。
「お疲れ様、いつもありがと」
「待っててくれてたんだ」
「うん。折角同じとこにいるのに、別々に登校って言うのもね。それに、家のこと手伝ってもらって私だけ先に行くのは悪いし」
山吹さんらしい、律儀な理由だった。
「気にしなくていいのに。僕は──」
「時給貰って働いてるだけ、でしょ 」
「……山吹さん、エスパー?」
思考を読まれていたことに驚きを隠せない。僕が余程の間抜け面を晒していたのか、彼女はからからと笑いながら疑問に答えてくれた。
「あはは、違うよ〜。キミ、この前もそう言ってた。覚えてないんだ?」
「え、言ったっけ? 逆によく覚えてたね」
「まあね。私、記憶力には結構自信あるんですよ」
どうだと言わんばかりに山吹さんは胸を張る。珈琲店のある角を曲がった。
「じゃあ、昨日の夕飯何だった?」
「えっとね、カレーだったよ。キミは 」
「……あれ、何だったっけ」
「わ、おじいちゃんだ」
「うっせ」
精肉店の店長に挨拶をして前を通った。
他愛のない話をしながら、二人で朝の商店街を歩く。
まだシャッターの上がりきっていない静かな空気の街で、朝日に照らされる店の看板が、秘める活気の断片をその陽光に微妙に煌めかせている。僕は、朝の商店街の雰囲気が好きだ。
山吹さんは、それを聞いたら何と言うのだろう。そうだねと微笑むのか、変なのと朗らかに笑うのか。どっちにしても笑う顔が思い浮かぶ。隣の彼女を見ているとふとそんなことを考えていて、彼女は笑顔がよく似合うと思った。
そこまで考えて、僕ははたと今朝の千紘さんの言葉を思い出す。様子がおかしいと彼女は言っていたけれど、こうして見ていると、少なくとも今はいつも通りの山吹さんだ。
「あのさ、山吹さん」
「ん どうしたの 」
「今朝、千紘さんが山吹さんの体調が悪そうって言ってたけど……今は大丈夫なの?」
訊くと、山吹さんは一瞬ぴたりと止まった。心当たりがありそうな反応を見て、思わず此方も身構えてしまう。
でも杞憂であったのか、次にはまた笑顔を見せた。
「別に何ともないよ? 今日はちょっと寝坊しちゃったけど」
「ならいいんだけど……」
「あ、もしかして私が朝出てこなかったからビックリした? ごめんね、でも本当に何ともないから」
母さんの方が心配だよ、と言った彼女は、しかし何故だか千紘さんの言っていたことを想起させた。
それがやっぱり気がかりで、僕は何か言おうとしたけれど、先に口を開いた山吹さんに意図せずして阻まれてしまった。
「──優しいね」
囁くように、小さく言った。
水面に波紋が広がっていくみたいに、声は小さいながらも自然と耳朶を打った。
横を向くと、変わらず微笑みを見せる山吹さん。頭一つ分ほど違う身長の所為で見上げる形になっている彼女の瞳は、僕の目をしっかりと捉えていた。
「……別に、このくらい普通だよ」
だから口をもごもごさせた上に、そんな気の利かない返事しかできなくて。
「──ううん、優しいよ。キミは」
繰り返し言う彼女から、終に目を逸らしてしまう。逸らした先にあったのは、玄関前で彼女が見ていた空。何か特別なものがあるわけではない。
ただ、昨日のような黒にへばりつく赤色は、もう何処にも見られなかった。
まるで、最初からそんなものはなかったのだと。そう静かに嘯いているかのように。
▽
放課後になると、本格的に文化祭の準備が始まった。僕のクラスでは喫茶店をすることになっていて、室内の装飾用のものの制作や、買い出しなどで既に本番かと錯覚するくらいの喧騒が教室を包み込む。皆が今この瞬間を全力で楽しんでいる。僕以外は。
こっそりと教室を出る。ちらりと振り返ると、山吹さんは実家がお店だからだろうか、店内のデザインについて女子たちと話し合っていた。
その姿を横目に、扉を開けて、閉める。廊下は、教室のそれが嘘のように静まり返っている。
リノリウムを歩く。キュッキュッ、というゴム底と擦れる音が、嫌に響く。僕の心持ちがそうさせているのだろうか、兎に角やけに耳に残る音だった。
向かう先は、図書室。
そして会いに行くのは、まだ話したこともない、
近づくに連れて、リノリウムは煩くなっていくように思えた。その中に、僕自身の鼓動の音も混ざり合ってきた。そのまま溶けて一つになってしまうのではないかと思うほど、両者の主張は激しい。
丁度年頃の娘がボーイフレンドを家に連れてくる日の父親も、こんな気分を味わうのだろうか。……いや、違うな。
彼らと僕とでは、全く根本から異なっているものがある。
それは、何を想って、何の為に今この場にいるのか。
僕は僕の為に今ここに居る。リノリウムを鳴らして、知らないあいつに会いに行く。 納得させて欲しい。諦めさせて欲しい。何でもいいから、僕が勝てない何かを、君に持っていて欲しい。
友人に聞いた話からは、残念ながら何も解らなかったけれど。
僕の幼馴染みが惹かれた君には、きっと何かがある筈だ。
リノリウムが止み、眼前には扉。深く息を吸って、手をかける。
だからどうかお願いだ。
夜に還る太陽のように。
──僕の為に、僕を殺してくれ。
扉が、開いた。