ボタボタと血が落ちる。
手首の関節部で一文字に八部程分かたれた左手は、力尽きたかのように動かない。
激痛と同時に細胞が蠢きだし、止血を始める自身の腕にどうしようもない嫌悪感を抱きつつ、左手を手首に押し当て鱗滝から距離をとる。
一足で人間の十歩以上の距離を生み出す圧倒的な脚力はやはり鬼のそれだ。
後方に下り混乱する頭を落ち着かせようと大きく呼吸する炭次郎。
しかし、元水柱である鱗滝の狡猾さがそれを許さない。
「斬り落としたつもりだったが…儂も年だな」
炭治郎が必死で作った距離を、人の身にも関わらず三歩で埋める鱗滝。
およそ老人のできる動きではないが、何よりその速度が異常である。
まるで水中を移動する魚のような流麗さで歩を進めるその歩法は、自然の理を完全に無視している。
剣風さえ静まり返るような恐ろしい滑らかさで蒼い刃が半円を描き出す。
お面から覗く眼光は炭治郎の頸を捉えていた。
「っっ!!?」
これに対し炭治郎は反射的に仰け反ろうとしたが、嘘の匂いを感じ取り体勢を崩しながらも無理やり側方へ身体を投げだした。
「ほう?」
刀が通過したのは炭治郎の膝の位置であった。
もし、あの場で頸を守ろうとその場で仰け反っていれば、間違いなく炭治郎は無様な達磨と成り果て、反す太刀で頸を断たれていたことだろう。
噴き出す冷や汗すらも感じる余裕もなく、全神経を嗅覚と視覚に集中させる。
繋がりはじめた左手の小指を動かそうとすると、鋭い痺れが腕を伝い、指先が痙攣したような気味の悪い不随意運動をする。
炭次郎は腰に差していた斧を手にとると、柄を握り込んで中段に構える。
「存外に鼻が利くようだな。なら、これはどう受ける?」
懐から取り出された短刀をユラユラと揺らした後、虚を突くかのように投げつけてくる。
斧を盾のように構え投げられた短刀を弾く。
左の視界に移った鱗滝の姿を無意識に目が追っていく。
しかし、それは罠だった。
「ムッ…ウウウッ!!」
突如、左側の視界が真っ黒に染まる。
そして、脳髄を焼くような痛みが左目を襲う。
炭治郎の右目が自身の左目から生える短刀の柄を捉える。
死角を突いた二本目の短刀が炭治郎の左目を抉ったのだ。
鱗滝が最初、懐から取り出した短刀を見せつけたのは視線誘導の一種。
ワザと飛び道具を相手に認識させ、注意を二分させる。
斧で一本目の短刀を弾いたことで、注意の方向性は完全に鱗滝の太刀にだけに向く。
その一瞬の隙、生み出された死角を穿たれた。
鱗滝の姿が盲目の闇に紛れる。
炭治郎は肩を竦め、頸を守るように斧を掲げる。
「甘い」
「グっ!!」
鱗滝の刀の切っ先が、炭治郎の右目を裂く。
完全に視力を奪われた炭治郎は、丹田に掌底を撃ち込まれて後方に弾き飛ばされる。
その際に、斧を落としてしまい最早鱗滝の攻撃を防ぐ手段はなくなってしまった。
全身を襲う激痛に蹲ったままでいると、足音と共に鱗滝の匂いが近づく。
「何をしている。立て」
炭治郎は吐き出された肺の空気を求めるかのように荒い呼吸を繰り返す。
「介錯が許されるのは人の咎人だけだ。立て」
炭治郎は恐怖していた。
閉ざされた視界に呼吸もままならないほどの痛み。
容赦なく襲い掛かる殺気と重圧。
限りのない体力を誇る鬼の身体を持つ炭治郎の精神を蝕む、圧倒的戦場の支配力。
「立て」
立ったとして、それからどうする?
闘う?
一方的に切り刻まれる?
逃げる?
駄目だ。
何かを選択した瞬間、自分の頸は断たれる。
なら、どうする?
諦めるしかないのか?
それは駄目だ。
自分は死ねない。
姉と約束した。
必ず人間に戻ると。
必ず___姉さんを守ると。
そう、誓ったんだ。
◇◇◇
真菰。
錆兎。
みんな…。
儂はお前たちを死なせてしまった愚かな老害だ。
罪深き死神だ。
お前たちの気が済むのなら、儂は地獄にだって喜んでこの身を投げ出そう。
魂を売り払っても構わない。
救済はいらない。
これは儂だけの贖罪だ。
儂の背負わなければならない業だ。
だというのに…。
なあ?義勇?
何故、お前はこの子達を儂に託した?
お前は誰よりも知っているはずだ。
鬼の恐ろしさを。
大切なものを失う哀しみを。
痛みを。
慟哭を。
後悔を。
お前は忘れてしまったのか?
それとも、それがお前の選択なのか?
ならば儂も決めねばなるまいな。
儂はもう二度と。
子供達を死なせない。
例え育手として誤ったことをしても。
彼らの生き方を否定してでも。
儂はこの子たちに、生きて欲しい。
インフルエンザ…しんどい…しんどいんよ…。
失礼しました。
皆様も体調にはくれぐれもお気をつけて下さい。