仮定の話をしてみよう。
もし、炭治郎ではなく、禰豆子が鬼になっていたとしたら。
もし、炭治郎が妹の禰豆子を人間に戻すと誓い鬼殺の門を叩いたとして。
炭治郎は夜の狭霧山を夜明けまでに走破できるのか?
答えは是である。
その答えは、誰よりも狂信的なこの物語の傍観者たちが理解していることだろう。
ならば、もう一つ問いたい。
その逆はどうなるのか、と。
人とは往々にして神様の悪戯に付き合わされている節がある。
漠然と、或いは明確にそのような感覚を覚えたことがある人間はきっと少なくないと思う。
急いでいる時に限って道が混んで入る。
普段はしないような失敗を大事な時にしてしまう。
一番大切にしていたものだけが壊れてしまう。
振り返ってみれば、まるで何者かに仕組まれたかのようで。
腹の立つくらい作り組まれた台本を演じさせられているかのように。
そんな、どうしようもなく出来た悪い夢を現世でみせられているような。
実に不愉快極まりない。
そのような気分になる経験が一度はおありではなかろうか?
もしも、心当たりがあればきっと現在の禰豆子の心情に共感せざるを得ないことだろう。
禰豆子の優れている感覚は第六感。
野生の勘と呼ばれることもあるだろうが、それは総じて『直感』という呼称に帰着する。
問題は能力の大きさではなく中身だ。
きっと炭治郎であれば嗅覚によって、罠の匂いを嗅ぎ分け、狭霧山を攻略できていた。
何故なら、普段から嗅覚を用いてより良い食材を選んだり、物に付着した匂いから犯人を特定するなど日常的な嗅ぎ分けを行っていた。
それを戦闘用に適応させたのなら、あの暗闇の中、急勾配の斜面を駆け降りることができるのも頷ける。
しかし、直感とは全く根拠の無い予測でしかない。
『嘘の匂い』『悲しい匂い』など具体的な観測結果を得てから判断するものではなく、言ってしまえば、『何となくこうした方がいい』『何だか嫌な予感がするからこうする』といった極めてあやふやで即時的な決断を迫るものである。
つまり、収集される情報の信頼性が違い過ぎる、ということだ。
10人の患者が薬を飲んで、2人の症状が緩和し、8人が完治した。
調子の悪い人たちが白い粉状の物体を口にして何人かが急激に元気になった。
間違いなく前者の薬の方が信頼できる。
情報の信頼性とはそういうことだ。
話を戻そう。
端的に言って禰豆子の直感は今回においては___全く役に立っていなかった。
◇◇◇
山下りを始めて数刻。
私は本日三度目の落とし穴の底で頭を抱えていた。
(気付かなかった…私の勘ってこんなにあやふやだったの…?)
意気込んで飛び出したものの、私の直感が出した答えは___
『止まって!危ない!』
だった。
そんなこと百も承知だと、一人漫才する自分を滑稽に思いつつ状況を打開するために頭をひねる。
(散々引っかかったし、この先も罠があるのはもう分かってる。行くべき方向もある程度分かる。でも、予測の優先順位が付けられない!)
現在確認した罠の種類は、落とし穴、ししおどし(人間おどし)、石礫、進撃の丸太、の四つだ。
最も脅威と成り得るのは丸太である。
幾ら冬の乾燥した時期で水分の抜けた丸太でも、あれだけの高さから遠心力を纏われたら私には回避する以外の選択肢がなくなる。
設置された罠は実に巧妙に計算されている。
速度を落とさないよう落とし穴を避ければ、石礫が行く手を阻み。
石礫を避ければ反応が遅れてししおどしに捕まって宙に吊るされる。
ししおどしを避けようと足を止めれば丸太が襲い掛かり。
丸太を避けるには落とし穴に入るしかなくなる。
まさに、鬼畜の所業。
人体の構造を知り尽くした、人の行く手を阻むのに最適な防衛陣地だと思った。
(走ってたら罠に対応できない。でも、歩いて夜明けまでに間に合うわけがない。被弾覚悟で落とし穴だけ避けていく?それこそ丸太が頭部に当たればその時点で私は動けなくなる。…何より、もう体力が残ってない…)
幾ら呼吸の使い方を工夫しても基の身体機能の低い私はどうしても限界が早く来る。
おまけに酸素の薄い山の空気が、私の思考までも霞ませにきている。
私は大きく息を吸い込んでゆっくり吐き出すのを数回繰り返す。
(考えて。力も体力も強い心も無い。こんな私にできるのは考えることくらい…!)
眼を瞑り、耳を塞いで全ての余力を思考に注ぎ込む。
(四つの罠…人の動きを予測した陣地…時間…残った体力…肌を刺す冷たい結晶…雪………雪?)
行く手を阻んできた雪。
足を絡めとり、私の体力と速度を削ぎ落してきた雪。
雪、斜面、罠…。
「!?」
私はたった一つの、確信に等しいこの状況を打破するための術を思いつく。
「神様が私を困らせて遊ぶなら___私は遊びながら神様を嗤い返す」