季節は冬。蝶屋敷の庭園にも雪化粧が施されていた。障子の格子に分たれたランプの光は、薄く敷かれた雪の上に暖かな市松模様を浮き上がらせる。
光の溢れる一室には、見目麗しい一人の女性の姿が。齢は拾伍、淕(15、16)の頃だろうか。艶やかな髪を後ろに纏め、真剣な表情で文献に目を通す姿から、学者の真似事をしているようにも見える。
しかして、その机の脇には、人体の解剖書に始まり薬学、植物学、流通学など、多岐にわたる書物が所狭しと並べられ。薬を調合するための機材には藍色の花が細かく轢かれている途中だった。
「…花本体から抽出できる液体の分量には限りがある…。かと言って、水で希釈すれば本来の効果が出るまでに時間が掛かりすぎる…。毒性を抑える上では…遅効性の毒?…気化させた方が有効?…ううん。鬼避けなら花を植えた方が効率的。結界の役目を果たすにはこれじゃ弱すぎる。…やっぱり、栽培方法の確立と植生調査の結果次第かな。和蘭や仏蘭西から取り寄せたものだと効果にムラがあって安定しないし。純国産の濃度には届かない…」
独白のように呟いては、視線を忙しなく文献に走らせる。擂粉木(すりこぎ)に入れた藤の花を完全にすり潰すと、麻でできた布に包み込む。受け皿に先程の布を置き、重石を載せて花の成分を抽出する。
その間に、アルコールランプの先端に燐寸の炎を移す。網の下にランプを移動させ、薄く延ばした鉄製の小皿を加熱する。小皿に水滴を垂らし、水が蒸発したのを確認してから、藤の花の抽出液を流し込む。
「蒸留するにはお粗末な機材だけど、試してみないと始まらない。…あとは、水銀、蝮の毒に…」
おおよそ、薬を試作しているようには見えない。いや、毒薬という意味ではその通りなのか。
彼女の名前は胡蝶しのぶ。
最終選別を生き残り、日輪刀を腰に佩いた鬼狩りの一人。歴とした鬼殺隊員である。
彼女の名前は鬼殺隊の中でもよく聞く名だった。
一つはその容姿。男性が隊員の玖割を占める鬼殺隊では女性の存在というのはとても稀有なもの。しかも、その女性が見目麗しいともなれば、噂にならない方が不自然である。女性特有の華奢な体躯に、柔らかさを内包し始めた彼女の魅力の前には忘却など赦されざる蛮行だろう。
二つ目は現・花柱の実妹ということ。その姉も胡蝶しのぶと同等。いや、年齢を重ねている分、より魅力的な女性だともっぱらの噂である。そのような容姿を持ちながら、十二鬼月である下弦の鬼の首を獲るほどの呼吸の使い手。その妹である胡蝶しのぶには、何かと期待と好奇の視線が向けられていた。
そして、三つ目。
彼女は鬼の首が斬れない。
戦うことはできる。覚悟もできている。戦って生き残るだけの力は持っている。しかし、彼女の全身の力を目一杯使ったとしても、鬼の首を刎ねることは叶わなかった。
鬼の首を切れない鬼殺隊士に日輪刀が必要なのか?
隠として、鬼殺隊を支えてくれるだけで充分だ。
女は女らしく、良家に嫁いで女の責務を果たせばいい。
花柱様の妹君は剣士の出来損ないだ。
お前は鬼と戦うべきではない、死にに行くようなものだ。
お前は弱い。
あらゆる提言や心無い言葉を浴びせられ。それでも彼女は、今日も鬼殺隊の一員であり続ける。例え、今は傷ついた隊員の治療をすることでしか自分の存在意義を証明できないとしても。
胡蝶しのぶは努力する。
胡蝶カナエの妹として、恥ずかしくない自分で在るために。
今日も彼女は邁進する。
◆◆◆
時刻は深夜午前。患者達の寝静まった蝶屋敷に、一羽の蝶が舞い降りる。その蝶は音もなく診察室奥にある、薬剤所兼研究室に入ると。眼前の作業に集中しきっている女性に、心ばかりの悪戯を仕掛ける。
右手の人差し指を立てて、女性の横腹を優しくツンツンする。
「蟲ノ呼吸 蝶ノ舞 戯〜♪なんちゃって?」
「〜〜〜〜〜〜〜〜〜っっっっ!!!??」
ビクンッと、背中を反らし、声にならない叫び声を上げた女性。胡蝶しのぶは、羞恥心と怒気を綯交ぜにした表情で、背後にいる狼藉者を睨んだ。
「姉さんっっ!!」
「ただいま。しのぶ、あんまり大きな声を出すとカナヲもアオイも起きちゃうわよ?」
「誰のせいよ!誰の!姉さんももう成人してるんだから子供みたいなことしないの!」
「だって…しのぶが可愛い反応してくれるからつい、ね?」
「ただでさえ毒性の強いものを使ってるんだから危ないのよ!?」
「うん。だから、しのぶの手が机の上から離れるのを待ってたの」
「なんでその気遣いを他に向けてくれないのよ…」
「うーん、お姉ちゃんだから?」
「全国の妹に謝りなさい。いますぐに」
ため息を吐きながら席を立ったしのぶは、姉、胡蝶カナエを今しがた自分が使っていた椅子に座るよう促すと、お茶を入れるために湯を沸かす。
「はあ…。何はともあれお帰りなさい。姉さん。そこ座ってて。今、お茶を淹れるから」
「ありがとう〜」
「…それで?随分早かったじゃない。親方様の勅命っていうくらいだから長期の任務になると思ってたんだけど?」
しのぶは急須に入れた茶葉に湯を注ぎ入れて蓋をする。内部を蒸らし、良い香りが薫ってきたところで湯呑みに茶が注がれる。赤褐色に近い色彩をしたお茶は、不思議な香りと共にカナエの手元に渡された。
「うん。今回は調査の名目だったから」
お茶を一口。少し舌を火傷した先に残ったのは茶葉の優しい甘味。しのぶは海外から薬品を仕入れる際に、嗜好品の類も輸入することがある。珍しい味につい頬を緩ませてしまうカナエ。そんな姉の様子を見た妹もまた頬を緩ませ、患者用の椅子に座って、話を続ける。
「鬼の被害者を保護する任務って聞いてるけど。柱が行くくらいだから、他に何かあったんでしょ?」
「流石はしのぶね。でも、察しが良すぎてお姉ちゃんちょっと心配よ?余計なお仕事まで抱え込んでない?大丈夫?」
「急に母性を出さないでよ。…茶化すってことは、やっぱり何かあったのね」
「…今回は稀血の女の子を保護するのが表向きの任務ね。それ以上は言えないわ。ごめんなさい?」
「いいわよ。寧ろ、姉さんがちゃんと柱をやれてて安心したくらい」
「…じゃあ、しのぶ。そんな柱の責務を全うしてるお姉ちゃんの言う事を一つだけ聞いてくれない?」
「言い方に途轍もなく恩着せがましさを感じるんだけど…何?聞くだけ聞いてあげる」
しのぶの言葉を聞いたカナエは、満面の笑みでお願いを口にした。
「一緒にお風呂に入りましょう♪」
「絶対に嫌」
しのぶは満面の笑みで断った。