「え、自信を失いかけてる? 一夏らしくもない……よっと」
ガシュッ! と音を立てて放ったボールがリングを通過する。うむ、我ながら見事なバンクショットだ。
このIS学園で体育の時間は非常に貴重な時間になる。普段はISを中心とした座学や実習ばかりを授業で行っている中で、唯一楽しめる科目があるとすれば間違いなくこれだろう。
一般校でも基礎科目が授業のカリキュラムの大半を占めていて、体育の時間などほんの僅か。少なくとも体育の授業回数が他の科目に比べて多いなんてことはない。
とはいえここは女性の園、IS学園。一夏と俺の二人を除いて男性はいない。一般校なら別々に設定される体育も、男女合同にて行われることになる。隣のコートではキャイキャイとはしゃぎながらクラスメートたちが試合をしていた。
一方で俺と一夏は試合を待っている最中。そんな中、ふと一夏が普段ではあまり溢さない弱音を吐いた。どうやらここ最近思うような戦績を残せていないことに、多少の焦りを感じているらしい。
臨海学校が終わり、新学期が始まってからというもの、一夏の実戦での戦績は芳しくない。
「んーなんつーか、色々と出来ることは増えたけど、ここ最近勝ててないってのもあるんだよな」
スランプなのか。
伸び悩むような状況ではないとは思うけど、負けが混んでることに少しネガティブな考えが出てきてしまっているのは事実。白式の単一仕様能力の零落白夜は当たれば強力な攻撃だが、それ故にエネルギー消費も激しい。周囲の専用機持ちたちは嫌というほど認識している攻撃であり、攻撃を出させないように立ち回ることになる。
それを可能とするのが各々の持ち合わせている経験スキル。そして個体の特性を活かした戦い方を実行出来るところが大きい。現に候補生の一夏との戦い方を見ると、零落白夜に注意を払って戦っているように見えた。
裏を返せばそこさえ気を付ければ何とかなると思われているとも言える。
総合的に見て今の一夏の実力と代表候補生の実力を考えると、まだ一夏の力不足感は否めない。それは繰り返し行うことで初めて養われる戦闘経験。稼働時間が少ない一夏にとってそこは埋めがたい溝となってるのかもしれない。
「とはいえ元々ISに関わる勉強なんてしてこなかったことを考えれば十分過ぎる成長だろう? それだけじゃ満足出来ないのか?」
「満足出来ないわけじゃないんだ。もしいつか強大な敵が現れたとして、俺はその時立ち向かえるのかって考えると不安でさ。銀の福音の時は皆で力を合わせて何とかなったけど、毎回同じように行くかなんて分からないし」
戦いにおいて絶対は無い。圧倒的優位な立場にいても些細なミスがきっかけで形勢逆転されることもあれば、負け戦のような絶望的な状況であってもひっくり返せるかもしれない。
だからこそ考えられるあらゆるケースを想定して戦うことが重要になる。
何とかなるかもしれないし、何ともならないかもしれない。
ただどうにもならない選択肢を掴まないためにも、それぞれに鍛錬を重ねる必要があった。
入学してからというもの、一夏のIS戦闘における成長は目を見張るものがある。全く知識がない状態から代表候補生に肩を並べられるレベルまでこれたということは、それ相応に本人の努力がなければなし得ないことだ。
それでもまだ見えない脅威が来るかもしれないと考えると心配で仕方ない、といったところなのか。
実力がまだまだ未熟であることは一夏が自身重々承知している。背伸びしてでも得たい何かがある。
それはいつか来るかもしれない瞬間のために。
「そこは皆不安なんじゃないか? 銀の福音の件もそうだけど、誰も暴走するなんて想定出来ないだろうよ」
一つ言えることがあるとすれば、一夏の思っていることは皆不安に思っていることに違いない。表面には出さず、心の奥深くに不安な感情を押し殺しているだけだ。
「何かあっても対応出来るように今のうちに準備しておく。それが今俺たちに出来ることだろう」
「大和……」
「今負けてることに焦りを感じるのは分かる。ただ焦って突っ走ったところでいい結果になんてなるわけが無い。無理に背伸びする必要はねーよ」
一夏に言葉を返しながらバスケットボールをリングに向かって放つ。リムに当たったボールがガンッと音を立てて零れ落ちた。
結果で言えば勝ちに拘りたいのはよく分かる。ただ負けたことで得られることもある。何故勝てなかったのか、どうして負けたのか。時間は掛かるかもしれないが、一つ一つ確実に課題を潰していけば同じミスはしなくなる。
ちりも積もれば山となる。
一つの積み重ねはいずれ己に取って大きな財産になる。
零れ落ちたボールを拾い、そのまま両足に力を込めてリング目掛けて飛び上がる。ボールを手首の付け根でロックし、力を込めながらハンマーを打ち付けるようにリングへと叩き付けた。
叩きつけると同時にリングを掴むと自重でリングがミシミシと音を立てて軋む。一定の場所まで軋むと今度は元に戻ろうとする力が働き、反動を利用してリングから手を離して地面に着地した。
「やる時はしっかり力入れてやって、それ以外はしっかりと力を抜いて休む。何事もメリハリつけてやろうぜ」
「……メリハリつけてやろうぜなんて言っちまったけど、やっぱり少し心配なんだよなぁ」
ところ変わって生徒会室。
一日の授業を終えて帰宅しようとしたところ、校内放送で楯無から呼び出されていた。互いに連絡先を交換しているのだから携帯電話に連絡をすれば良いものを、あえて校内放送を使った辺り確信犯的なものを感じてしまう。
今この部屋にいるのは俺と楯無の二人だけ。本来であれば他の生徒会役員もいるそうだが、学園祭が近いこともあってクラスの手伝いに追われている兼ね合いもあって今日はここには来ないんだとか。生徒会の関係者でも無いはずの俺がここにこうしていること自体不自然な感じがするが、逆に内密な話があるのであれば人もそんな来るような場所でも無いし好都合だ。
この時期だから生徒会も割とてんやわんやしているかと思えば意外にもそうではなく、部屋の中は片付いていた。立ち上がったままキョロキョロと辺りを見回しても散らかっている様子はない。
てっきり書類の山が出来ているとばかり思っていたけど、雑務は順調にこなしているらしい。
「一夏くんのこと? それなら私の方でもしっかり見るようにするからそこは安心しなさい」
と、楯無は自分の椅子に腰掛けながら扇子をパタパタと仰ぐ。待機状態のISの使い方としてはいささか疑問を感じるが、日用品の一部として使えるなら便利なのかもしれない。
「ん、一夏のことを見る?」
「そ。この前の一戦でちょっとした賭けをして一夏くんは負けたから私にIS訓練を付けてもらうことになったの」
「そんな話になってたのか。逆にこのタイミングで楯無に教えてもらうなら一夏としてもちょうど良いかもな」
少し壁にぶつかっていると相談をされたばかりだし新しいコーチに教えて貰うのはありかもしれない。それに教えるのが楯無ともなれば持ち合わせている知識、情報量は計り知れない。如何に知識があっても教え方が下手であれば何の意味も為さないが、教え方に関しては少なくとも一番心配がいらない部分だろう。
実力は言わずもがな。自他共に認める学園最強である楯無にケチをつける人間などいるはずもなかった。一夏にとってはとんだ災難だったが、今後のことを考えると楯無と手合わせをして正解だったにちがいない。
そうかそうかと頷いてリアクションをすると、何故か楯無はムッとしながら不機嫌そうな表情を浮かべる。何か失言でもしてしまったのだろうか、そんなつもりは毛頭なかったが何かやらかして無いかと前後の会話を思い返した。
「……てっきり妬いてくれると思ったのに。意外とすんなりと受け入れるのね?」
「はい?」
「うー……知らない」
いきなり何を言っているのかと思ったが、言わんとしていることはよく分かった。要は一夏と楯無が一緒に特訓をすることに対して、俺があまりにも素っ気ない感じで答えを返してしまったことに、少しばかりふて腐れているようだ。拗ねた子供のようにぷいとそっぽを向いてしまう。
楯無の中で俺のことを諦めるつもりが毛頭無いのは朝のやり取りでよく分かった。彼女なりに本気で俺にアプローチをしているんだろう、故に上手くいかなかったりすると拗ねてしまうみたいだ。
「悪かったって、拗ねるなよ楯無」
「……なんてね、冗談よ」
「あのなぁ」
と、あっけらかんと応えて見せる。
ペロリと舌を出しておどけてみせる楯無に冗談かよと大きなため息が漏れた。
「話がそれちゃったけどIS訓練に関してはそこまで心配しなくてもいいわ。教え甲斐があっておねーさん嬉しいし♪」
「教え甲斐ね。今の一夏には伸び代ばかりだし、このタイミングで楯無に教えてもらえるのならもっと伸びそうだ。俺もうかうかしてられないな」
怠けていたらあっという間に追いつき追い越される可能性もある。何も知らずに入学し、数ヶ月でこれだけの知識量を蓄えてきた一夏。他の生徒が何年も前から勉強してきていることを考えると、一夏の飲み込みのスピードが如何に早いかが分かる。
中学三年間帰宅部だったせいで衰えてしまった体力も、徐々にではあるが確実に戻りつつあった。自分に劣っている部分を素直に受け入れられるのであれば、確実な成長を見込むことが出来るだろう。
問題は楯無がどのような教え方をするかだけど、立場が立場だけにかなり厳しい教え方になるに違いない。
などと考えていると不意に楯無の表情が曇った。
「でも問題なのはIS訓練のみに限ったことなのよね。ここ最近不穏な動きがあって、正直そこに関しては問題大有りよ」
後半に関してはあまり聞きたくない内容だった。
臨海学校から夏休みの最終日付近までは本当に何も起こらず、平穏無事な日常ばかり続いていたが、どうやらそんな日々が長続きするわけではないらしい。
最もここまで平穏が続いていることの方が奇跡に近いことであり、夏休み前に関しては毎週のように何かしらのトラブルに巻き込まれていた記憶しかなかった。
そう考えれば事が起きるのは別に不自然なことではない。
「少し前に巻き込まれた喫茶店での出来事を覚えているかしら?」
「あぁ、俺のドッペルゲンガーが現れたとかで調査に行ったからよく覚えている。肝心な情報は掴めずに逃げられちまったけど、それと今回のことは関係があるのか?」
「えぇ。とは言ってもあの事件自体が関わっているというよりかは、大和が戦った人物が絡んでいるって言った方が正しいわね」
話の内容からして思った以上に良くない方向へ事が進んでいるらしい。
「
「……あぁ。あまりいい噂は聞かないけど、少しばかり知っていることがある」
数十年に渡り続いている裏組織であることは認知しているが、存在意義や目的は一切不明。風の噂ではロクな噂を聞かない。普通に生活している分にはまず関わる事はなく、一般人に知られた組織でないことは明らかだ。
「そう、なら話は早いわ。例の人物が亡国機業に所属したって情報が入っているのよ」
「……」
何が目的なのか分からないが良からぬことを企んでいるのは事実か。もしこちらに接触してくるとなると、大ごとに発展する可能性もある。個人で軍人であり対人格闘に関しては一年でも無類の強さを誇るラウラを圧倒していることを考えれば被害の大きさは想定できた。
生身で遭遇してしまえば太刀打ちできる人間などほぼ皆無に等しい。
「亡国機業に関してはISを……特に専用機を狙っているって話も出ているくらいだからこのIS学園が標的になる可能性もあるわね」
重苦しい楯無の一言。訓練用の機体だけではなく各国の開発した専用機が多数集結しているIS学園。セキュリティが掛けられているとはいえ、それを突破してでも欲しがる輩はいるだろう。
そして更に戦闘経験が乏しい専用機持ちは格好の的となる。
それは俺とて例外ではない。
ISの操縦歴は決して長くはなく、戦い方も機体の性能に頼っているところが大きい。
首からぶら下げているネックレスをそっと触る。この機体だけに備わっている特性、
幸いなことに生まれ持った俺の身体能力は人間のそれを遥か超越している。篠ノ之博士の言う性能が正しいとすれば、身体能力に頼ることで歴戦の操縦者ともある程度互角に戦う事が出来るとも捉えられた。
が、それを上回る力を持つ人間が出て来た時、方程式は崩れることになる。これだけ広い世界だ、そんな人間が居ないとも限らない。純粋な身体能力での話であれば、つい最近同格のレベルの人物と手を合わせているのだから。
もし楯無の仮定が現実のものになるとすれば学園中が混乱を起こす可能性もある。楯無一人で全てを対処できるようなことではないはず。
ただどこかの誰かと同じであまり人を巻き込みたくないとか、何としても一人で解決しないととか背伸びをしてしまう一面を彼女も持ち合わせている。
「本当は私だけで何とかしたいところだけど、場合によっては大和に力を借りることになるかもしれない。その時は力を貸してくれると「あぁ、いくらでも楯無の力になるからいつでも言ってくれ」助かる……え?」
楯無が言い切る前にいくらでも協力するからと伝えると、キョトンとした表情で俺のことを見つめて来た。案の定、少しくらい悩むかと思っていたのか俺が即答したことに若干の驚きを隠せないようだった。
「何でも一人で抱えようとするなよ。俺が入学した時に協力するって言っただろ? お前も一人じゃ限度があるって言ってたじゃないか」
「うん……」
どうにも歯切れの悪い答えを返してくる楯無。
入学時には俺の方にも協力する代わりに、更識家としての仕事にも協力して欲しいと協定を結ぶことになった。当時は俺が五体満足の状態だったが、今は違う。
左眼が塞がれ、一般的には日常生活にも差し支えが出かねない状態になっていて、今の状態に無理はさせられないと楯無の中で考えているのかもしれない。
「もしかして怪我したことを気にしてるのかもしれないけど、俺はそんなヤワになった覚えはないぞ?」
「き、気にするに決まってるじゃない! だって一度は命を落としかけているのよ!? 大和ばかり危険な目に合わせるわけにはいかないわ!」
強い口調で俺の目を見る楯無の瞳は微かに熱を帯びて揺れていた。
最初と今の俺に対する楯無の認識は違う。お互いに職業上、生死の境目に立たなければならないこともある。仕事仲間としての目線のままであれば、気持ちの揺るぎは小さかったかもしれないが今は違う。目の前にいる楯無はどこかかつてのナギを見ているような気分だった。
大切な人が傷つくのは見たくない。
先日久しぶりに会った時には、何とか平静を装わなければと自分の胸の内を堪えていたのだろう。ただ内心は穏やかでいられるはずがなかった。
常識的に考えてそれが人として当たり前の感情なのだ。
楯無も更識家当主に就任してから日も浅く、何よりまだ若い。割り切ろうと思っても心の奥底ではどうしようも整理が付かないことだってある。
実際俺はあの臨海学校での戦闘で死に掛けた。
仮に助かったとしても一生意識が戻らない可能性もあると医師からは宣告もされた。
自分の大切に思う人間が、そのようなことになった時に俺は平静を装っていれるだろうか。
答えは---否、だ。
「こんなこと言っても仕方ないのは分かってる。でもね大和、あなたが思っている以上にあなたの事を思っている人は大勢いるの。貴方が倒れた時、私は原因の発端になった人物を恨んだわ。自分の手で制裁を加えようと思うくらいにね。仕事をしている上で無理をしなければならない時があるのは分かる。けどもし本当に大和が居なくなったらって思うと……」
本心をそっと心の奥底に仕舞い込み、決して表に出さないように堪えていたに違いない。
「楯無……」
すっと椅子から立ち上がるようと、俺の元へと静かな足取りで近寄ってくる。近づいて来たかと思うと頭をコツンと俺の胸元に預け、想像以上にか弱い細腕で俺の身体をギュッと抱きしめた。心なしか少し身体が震えているようにも見える。
人間には寿命があり、いずれは果てる運命にある。
明日なのか、数年後なのか、はたまた数十年先の未来になるのか、それは誰にも分からない。
何回同じ内容で泣きつかれているのかと、自分をぶん殴りたくなる気持ちに苛まれる。自分にとっては仕方のない負傷だったとしても、人によってはショックを受けて心に大きな傷を負ってしまうことだってある。家柄、仕事柄それはやむを得ないことだって自負しているし、それが仕事であることも重々認識している。
とはいえ楯無やナギやラウラからしてみれば俺のやっていることは危なっかしく見えるし、心配にならないわけがない。ナギに関しては自分の素性の大半を明かしたことで大体のことについては理解してくれているが、内心は心配でたまらないことだってあるだろう。
楯無に関しては俺が霧夜家の当主であり、この学園に潜り込んだもう一つの目的に関する認識はあるものの、俺が遺伝子強化体であることや、左眼が見えている事実は知らない。
ただでさえ知らないことばかりで、不安に思う気持ちが人より大きい楯無からすれば気にするなと言う方が無理に決まっている。
こんな時どうしてやればいいだろう。
俺が出来ることなど些細なことでしかない。でも少しでも楯無の心配の種が減るのであればと、無意識の内に手は楯無の頭に伸びていた。
「……?」
くしゃりと若干のクセがついた髪の毛が音を立てる。軽く手を動かしてやると癖っ毛ながらもサラサラの髪がほつれていく。ラウラやナギにやったことはあるが、楯無にやったのは今回が初めてだ。
正直反応は人それぞれだし、もしグーパンで殴られたら仕方ないと思いつつも無意識に手を動かす。
「大和。私、アナタより年上なんだけど……」
「知ってるよ。もしかして嫌だったか?」
「……嫌じゃない」
「そうかい」
どうやらグーで殴られるといった最悪の結末は避ける事が出来たらしい。
時間経過で少しずつ楯無も落ち着きを取り戻して来たようで、身体の震えも徐々にではあるが収まってきていた。気持ちが落ち着いたタイミングを見計らって言葉を続けた。
「楯無が俺のことを思ってくれるのは凄く嬉しいよ。負担を減らそうと配慮してくれてるのもよく分かる。でも……」
楯無の言いたいこともよく分かる。
「俺だってしたくて無理をしてる訳じゃない。それでも無理をしなきゃ駄目な時だってあると思ってる。皆を……そして楯無、お前も守るためにな」
「わた……し?」
「あぁ」
無理をするなと言われれば残念ながらそれは不可能に近い。いざという時には絶対に無理をしなければならない時が来る。
ナギやラウラを皆を、当然中には楯無も含まれている。
だから……。
「だから心配させないように強くなる。皆が安心していれるように、俺はもっと強くなってみせる」
強くなってみせる。
心配なんか掛けられないほどに。
楯無が落ち着いたのはそれから十数分後のことだった。
落ち着いた後は照れくさくなったのか大和から逃げるように離れると、後の時間は今後の方針について簡単に話し合ってお開きに。
帰宅するために昇降口へと向かう道中、ふと見覚えのある人物が佇んでいることに気が付く。自分の下駄箱を見つめながら動こうとしない姿を不思議に思った大和はとある人物へと近づくと声を掛けた。
「あれ、ナギ?」
「あ……大和くん」
下駄箱に居たのはナギだった。
不意に声を掛けられたことに少し驚き、戸惑いながら顔を上げる。彼女の様子に一抹の違和感を感じた大和は、続けるようにして話し掛けた。
「今日は部活も無いから先に帰るって聞いてた気がするんだけど……もしかして俺のこと待っててくれたのか?」
「え? う、うん。そ、そうなるのかな?」
「???」
教室で別れた時には部活も無いから先に帰っていると言って別れたはず。確かに彼女の性格上何も言わずに待っていそうな気もするが、だとしたら昇降口の出入り口付近で待っていそうなものである。
靴も履かずに下駄箱の一点を見つめて待つような待ち方が果たしてあるのかといわれると何とも言えないところだ。
あわせて手をモジモジとさせながら落ち着きのない様子が少し気になる。
そんな仕草が数秒間続いた後。
「あっ、う……ご、ごめん! やっぱり何でもないっ!」
「え? あっ!? ちょっちょっとナギ!」
踵を返すと脱兎の如く走り去ってしまった。
どうしても言いたいことが何かあったのだろうか、話を聞けない今となっては知る由もない。一人ぽつんと取り残された大和はひたすらに首を傾げることしか出来なかった。
(何かあったのか……?)
「はぁ、はぁ……」
一方大和の元から立ち去ったナギは一目散に寮へと戻ってきていた。学園を出てから寮に戻るまでの間、ノンストップで走り続けていたせいで呼吸は乱れ、酸素を求めようと小刻みな呼吸を何度も繰り返す。膝に手をつき、額からあふれ出る汗がポタポタと地面を濡らしていく。
呼吸を整え、若干の落ち着きを取り戻したナギはカバンの中から一枚のはがきサイズの紙を取り出した。
「こんなの、相談できるわけないよ……」
ナギが手に持っている紙にはこのように記載されていた。
『最終通告だ。霧夜大和から離れろ。さもなくば今後の安全な学園生活は保証されないものと思え』
「おい、一夏。大丈夫か?」
「おぅ……ノミの心臓くらい大丈夫だぞ」
「例えがよく分からないんだが、どう見ても大丈夫じゃないよな。疲れているのは分かるけどこれくらいは口に入れとけ」
「さんきゅー……」
夕刻となり、食堂で夕食を取っている俺と一夏。
最初はナギを誘って夕飯でも食べようと思ったが、あまり食欲がないから後から食べに行くとのことで一人で済まそうとしたところ、偶々寮へと戻ってきた一夏と鉢合わせた。フラフラと重い足取りではあったものの、本人は行くというので連れてきたまでは良かったのだが、一度席に座ると疲れから立ち上がることが出来ず。
今日から始まった楯無との特訓で相当絞られたんだろうと容易に想像がつく。やるからには容赦はしないと楯無は言ってたけど、ここまで容赦がないとは思わなかった。普段の面子と行う特訓は疲れた素振りこそ見せても、立ち上がらなくなるまで追い込まれるようなことは無いため、どれだけキツかったのかよく分かる。
俺が食事をとりに行った後も俯いたままだったため、やむなく手軽に口にできるスープだけを注文して一夏の前に差し出した。目の前にスープが置かれたことでようやくスプーンを手に取り、亀が這うようなスローテンポで口へと運んでいく。
特訓初日だから尚のこと疲れたんだろうけど、これがほぼ毎日のように続くことを想像すると苦笑いしか出てこない。いずれは身体も慣れて体力も付いてくるんだろうが、それまでは地獄のような日々になりそうだ。
「大和……俺さ、まだまだ全然弱かったよ」
「ん?」
食器を片付けるために立ち上がろうとすると、消え入りそうなほどの小さな声で一夏はボソボソと話し始める。今日一日を通じて一夏なりに学ぶことも多くあったのだろう。
IS学園の他の年を見てもここまでISに関連する事件が起こったことは未だかつてない。その問題が起きている中心に居た一夏は、上級生や他クラスの生徒と比べてかなり多くの経験を積んできていた。専用機持ちを除けば持ち合わせている実力がかなり高いレベルにまで来ていることは自他共に認める事実であることは間違いない。
それでもまだ上には上がいる。
本気で手も足も出なかったのは一夏にとって初めての経験だったのだろう。
更識楯無という人間は容姿端麗の文武両道。IS戦闘技能に関しても学園最強でロシアの国家代表である上に、生身の戦闘に関しても大の大人に負けないほどの格闘技能とあらゆる武術を身に付けていた。
いわば雲の上のような存在の人物になる。
「箒やセシリア、鈴やシャルに毎日のように付きっきりで教えてもらって、福音もなんだかんだ撃破して……強くなったと思い込んでた」
一夏は間違いなく強くなった。
が、あくまで以前と比べてということであって、学園最強になったわけでも、代表候補生を一網打尽に出来るような実力を身につけたわけではない。
「楯無さんにISのことを教えてもらったけど本当に出来ないことばかりでさ。皆にも色々と教えてもらっていたから、もっと俺は出来るし弱くなんかないと思ってたけど……マジで何も出来なかったんだって思いしらされたよ」
一定のレベルから見ればまだまだ実力が足りない。身をもってしれただけでも大きなプラスになったはずだ。
「だから俺は……」
途中まで言い掛けたところで一夏の声が止まる。声が止まるのと同時に一夏の手からスプーンが滑り落ちた。机の上にカランと転がる音が周囲にこだまする。
「一夏?」
声を掛けてみるが反応がない。
どうしたのだろうか。
表情を確認しようと身をかがめて下から覗き込む。
「すぅ……すぅ……」
「寝落ちしてたのか。ったく、座りながら器用な奴だ」
覗き込んだ先に映ったのは心地なさそうな寝息を立てて眠りに落ちている姿だった。この分だとちょっとやそっとのことでは目を覚さないに違いない。幸いなことに食堂はまだ空いているし、少しゆっくりと休ませてやろう。
空になった食器をまとめてお盆の上に乗せ、返却口へと持って行く。
「あれ、大和? 一人でいるなんて珍しいね?」
返却口で食器を仕分けしていると不意に背後から声を掛けられる。見覚えのある親しみやすい声質に振り向くと、そこには制服姿のシャルロットがいた。お盆に食事が乗ったままのところを見ると、どうやらこれから食事を取る予定のところらしい。
「シャルロットか。たまには俺も一人で飯を食べたくなる時もあるさ。ま、実は一人でいたわけじゃないんだけどな」
「? あ、そうだ。大和、一夏見なかった? 部屋にも行ったんだけどまだ戻っていないみたいで……」
一夏を誘って夕食に行く予定だったのだろう。だが、シャルロットが部屋に行ったタイミングはちょうど俺が一夏を夕食に誘い出した後で、当然もぬけの殻になった部屋に一夏がいるわけもない。
「一夏? 一夏ならそこにいるけど……今はそっとしておいてやった方がいいんじゃないか?」
「へ……あ、そういうこと! 大和と一緒に居たんだ。でもそっとしておいた方が良いってどういうこと?」
俺の返しに一瞬呆気に取られるも、内容を把握したようでホッと胸を撫で下ろしている。雰囲気から察するに、他の一夏ラバーズに出し抜かれたとでも思ったんだろうか。
ただ今この状態を見ると食堂に現れるのはシャルロットが一番早かったみたいだし、むしろ他の面々がシャルロットに出し抜かれているようにも見える。
「何、今日の特訓が相当キツかったみたいで疲れて寝落ちしちまったのさ」
一夏が座っている座席を指差しながら簡潔に理由を伝えると、シャルロットもどこか思い余る節があるようで苦笑いを浮かべながら返事をしてくれた。
「あー、やっぱりそうなんだね。一夏もかなり頑張っていたし、凄く追い込んでいたから……」
「なんだ、知ってたのか?」
「うん。というより、一夏の特訓を僕とセシリアで手伝ったんだ。その、生徒会長……楯無さんにお願いされてね」
シャルロットの口から話を聞くと、元々はセシリアと二人で中遠距離での戦闘を想定した模擬戦を実施する予定だったらしい。準備運動をしている最中、一夏と楯無がセシリアとシャルロットがいるアリーナに現れ、『シューター・フロー』で
一夏のような近接型のISではなく、どちらかと言えば射撃型の戦闘動作になる。果たして一夏の役に立つような情報なのかと首を傾げたものの、白式が第二形態移行により射撃装備が追加されたことで、射撃型の戦い方も出来るようになった。
つまり近接型としての戦い方だけではなく、射撃型としての戦い方も覚えていかなければならない。故に遠距離射撃型のセシリアのブルー・ティアーズ、そして近距離と遠距離どちらも対応可能なシャルロットのラファール・リヴァイヴ・カスタムIIの動きは、一夏にとって参考になる動きであることは間違いなかった。
……その実演の過程で一悶着あったらしいが、そこはあえて聞かずに置いておこう。
「なるほど。普段やらないような動きをスパルタのように叩き込まれれば疲れるわな」
「そうだね。内容的にはかなり厳しいものだったんだけど、楯無さんの教え方は上手だと思っちゃったなー」
「ほう。教え方が上手なシャルロットから見てもそうなのか」
「あはは。大和、それは流石に買いかぶり過ぎだよ」
「いやいや、これは本当にそう思ってる。聞いたことに対してあれだけしっかりと答えを返せるなんて中々出来ないと思うぞ」
「そ、そう? ありがと。でも褒めても何もでないよ?」
遠慮気味に苦笑いを浮かべるシャルロットだが、褒められることに関しては満更でもない様子。
シャルロットのことを過大評価しているわけではなく、贔屓目無しに教えるのが上手いと思っている。彼女のコミュニケーション能力の高さと比例しているのか、第三者の課題を明確に把握出来てかつ何をした解決に導けるのかを噛み砕いて教えることが出来ているように見えた。
実は俺も普段からISの戦い方についてシャルロットに相談することも多く、近接戦闘に頼りがちな俺の戦い方を見て、ここはこうした方がいいんじゃないかと具体的なアドバイスを貰うことも多い。
自分が見えているのは視界を通じた景色だけであり、俯瞰視点やあおり視点からの景色を見ることは出来ない。だからこそ第三者からの意見やアドバイスは本当にタメになる。ましてや噛み砕いて分かりやすく伝えてくれる人物であれば尚更だ。
話が多少変わるが教え方の観点で言えば、知識豊富なラウラなんかも最近は教え方が上達して来ている。IS操縦における知識のみならず、一般教養の部分における知識も中々のものだ。たまに聞きに行ったりすると『私がお兄ちゃんに教える部分なんかあまりないぞ?』なんて言いながらもしっかりと教えてくれる。クラスメイトたちにも頼られるようになったし兄としては鼻が高い。
教え方が上手といえば千尋姉なんかもそうかもしれない。
ただ生身の実演になると毎回地獄を見た記憶しかないから、ある意味教えてもらうのには勇気が必要になるだろう。戦いのイロハを教えてもらってる時、立ち上がらないほどバテバテになっているというのに無機質な声で『立て』は怖すぎる。あんな可愛らしい顔立ちから凛とした迫力ある声が出てくると思うと軽くトラウマになりそうだ。
終わった後は毎回謝り倒されたけど。何でも戦いを教えようとするとスイッチが切り替わってしまうんだとか。
「ははっ、別に見返りは求めてないよ。本当にそう思っただけさ」
純粋に人に教えることって凄いことだと思うし、才能だけで人を教えることは出来ないから、人知れずシャルロットも努力をしているんだと思う。シャルロットのみならず、何倍もの倍率をくぐり抜けて入学をして来たここの生徒全員が人一倍努力をしているはずだし、そう考えるとこのIS学園は努力の結晶のような場所なのかもしれない。
「そう言ってもらえると嬉しいなぁ。後今日楯無さんと話すまで知らなかったんだけど、大和は楯無さんと顔見知りなんだね」
と、不意に楯無の話題に切り替わる。
まさかシャルロットの口から楯無の話が出るとは思わなかったが、放課後の特訓で話していたのなら俺の名前が出たとしても不思議はない。一時期に比べればピークは過ぎたけど、話のネタにはなりやすいしその前まで会っていたわけだし。
どこまで話しているのか気になるところだけど。
と、こんな立った状態で井戸端会議みたいなことをしているのは良いけど、シャルロットはこれから夕食を取る予定だったんじゃないかと、ふと現実に戻された。
作ってもらったら料理が冷えたら台無しだ。
「ん、あぁ。ちょっと入学の時に色々あってな。ところでこれから夕食取る予定だったんだろ? 俺と話すのは良いんだけど、折角のスープ冷めないか?」
「……あっ、そうだった! ごめんね大和! つい長々と」
「全然大丈夫。むしろ一夏が途中で寝落ちして、一人でどうしようかと考えてたところだったんだ。ちょうど一夏のいる席は空いてるし良かったらそこ座れよ、俺もう食事終わったし」
「え、いいの? 大和も一夏と話したいことあったんじゃ」
「ある程度話したし俺はもう満足だ。肝心の一夏は寝ちゃったし、食事の期間だけでもシャルロットに見てもらおうかなと思ったんだけど、嫌だったか?」
「ううん、そんなことない! むしろ気を遣ってもらってごめんね」
「気にするな。いつもラウラとも良くしてもらってるし、これくらいのことなら何でもないよ。じゃあ俺は先に部屋戻ってるから、後のことよろしく頼む」
「うん、ありがとう!」
そこまで言い掛けたところでふと気がつく。
放課後ラウラの姿を見ていないと。いつもなら俺が帰ると同じくらいに部屋に訪れることが多いが、今日は来なかった上に同室のシャルロットといるわけでもない。俺のところに来ないとなると、大体シャルロットと行動を共にしていることが多いから、てっきり一緒かと思ったんだが。
別に気にするようなことでは無いんだろうけど、普段と異なる感覚に違和感を覚え、思わずラウラの所在を聞いた。
「あ、シャルロットもう一つあったわ。今日ラウラって帰ってきてるよな?」
「ラウラ? うん、僕が帰ってきた時には部屋にいたし、今も居ると思う」
その一言を聞いてどことなく安心している自分がいる。
ここからIS学園はそんなに離れているわけではないし、帰宅時間であれば下校している生徒も多く、白昼堂々トラブルに巻き込まれる可能性は低い。
なんだやっぱりいつも通りじゃないかとホッと一息をついた。
「そうか、なら「ただ何かいつもと違って困っていたというか、考え込んでいたみたいなんだよね」……考え込む?」
「一夏も疲れているだろうから、最初は僕もラウラと行くつもりだったんだ。でも夕飯に誘った時に『私はまだいいから先に行ってくれ』で終わっちゃったから、一夏を誘おうかなーと思ったんだけど……」
結果一夏は俺が先に誘っていたため居なかった、と。
帰って来ているには帰って来ているけど、言われてみればラウラの様子がいつもと少し違うように思える。何かあったのだろうか、普段は悩んでいる素振りを見せることが無いから少し心配になる。
一度部屋に戻る前にラウラの様子を見ることにしよう。
「なぁ、部屋に戻るついでに二人の部屋に寄っても良いか? ちょっとラウラと話がしたい」
「え? 良いけど、今も部屋にいるかは分からないよ?」
「それならそれで仕方ない。また明日にでも話すとするよ」
「分かった。じゃあ大和、おやすみ」
「おう」
シャルロットと別れ、足早にラウラの元へと急ぐことにした。
「えーっと……確かここだったよな」
部屋を確認して右往左往。
普段は転がりこまれることが多いから人様の部屋に行くのは慣れない。部屋番号を確認するとドアを数回軽くノックする。
すると意外にも早く応答は返ってきた。控え目にドアの隙間から顔を覗かせて、外の様子を伺おうとする姿。紛れなくラウラの姿だった。
「……お兄ちゃん、何でここに?」
「偶々近くを通り過ぎたってのと、何か色々悩んでるって話を風の噂で聞いてな。迷惑だったか?」
「ううん、そんなことはない。シャルロットには変に気を遣わせてしまった」
下手に様子を伺って遠回しに聞くよりも、素直に聞いた方がラウラも変な気を遣わずに済むだろうと思いストレートに聞くと、すんなりと話出してくれた。
どうやら何かに悩んでいるのは本当のようだ。表情には衰弱しているような感じは見受けられないし、身体的に何かされているような感じには見えない。となると一時的に何か悩み事が出来てしまったのか、そこに関しては聞いてみないことには分からない。
悩んでいるといえばナギも何か変だったっけ。
元々、遠慮しがちな性格だからあまり本心をさらけ出してくるようなタイプではないんだろうけど、帰り際の態度を見ると何か隠し事をしているように見えるんだよな。
うーん、難しいところだ。
「そうか。もしラウラ的にその悩みが話せるなら、話せる範囲で俺に相談して欲しい」
「わ、分かった。お兄ちゃん、ここで話すと他の人に聞かれる可能性があるから部屋の中でも良いだろうか?」
「あぁ。ラウラが良いのであれば俺はどこでもいいぞ」
今は誰も居ない廊下も誰かが来るかもしれないし、ここで話をしていたら別の部屋の生徒たちに話を聞かれてしまうかもしれない。
ラウラに促されるまま俺は部屋の中へと入った。
何だかんだでこの部屋に入るのは初めてだ。というか一夏以外の部屋に入った記憶が無いことを考えると、女性の部屋に入るのはこれが初めてな気がする。
部屋の構造は基本的にはどの部屋も同じだが、生徒によってはカーテンを変えたり、部屋の壁にお洒落な装飾を施したりとある程度自由に模様替えをすることが出来る。ラウラとシャルロットの部屋は特に何か装飾を施すことはせず、配置も初期のままにして使っているみたいだ。部屋自体も生活そのもので、毎日しっかりと掃除をしているようだ。
さて、あまり人の部屋を……それも女性の部屋を隅々まで観察するのは悪趣味以外の何者でもないので、この辺りでやめておこう。
ラウラに備え付けのデスク付近に置いてある椅子に座るように誘導されてゆっくりと腰を下ろすと、もう一つある目の前の椅子にラウラも腰掛けた。
「そ、それでだな。私が悩んでいる理由なんだが……お姉ちゃんに嫌われているのかと思って」
「……はい?」
乗っけから何を言うのかと思ったら、言葉だけを見るとかなり重たい話のように見える。が、何を思ってラウラがそう感じたのかは分からないため、詳細をヒアリングする必要があった。
少なくとも昨日までは……というより今朝までは全く問題のない良好な関係であったにも関わらず、学園で授業を受けてから帰宅するまでの丸半日に何があったのか。
そもそもナギが一方的に人を嫌うようには思えない。
かつてラウラがまだ編入したばかりの頃、全くの無関係な騒動に巻き込まれたにも関わらずそれをあっさりと許している程心の器が広い人間がラウラのことを一方的に嫌うとは考えられなかった。
考えられる可能性の一つとして、ナギの何気なく返してしまった反応に対してラウラが深く捉えてしまったというもの。本人は全くそのつもりがなくても、場の状況や心理状況に応じて捉え方は大きく変わる。
今回のことと関連があるのかは分からないが、確かに放課後……特に帰宅する前に昇降口で会った時点でのナギの様子は少しおかしかったように見えた。
一瞬の出来事だったが故に何かあったのかくらいであの場は済ましてしまったが、よくよく考えれば何かを相談したかったようにも思える。先に帰ると言って教室を出た人間と偶々あの時間に昇降口で遭遇するなんてあり得ない。
俺は生徒会室に寄って小一時間ほど時間を潰しているわけだ。
間違いなく俺、もしくは誰かのことを待っていたと断定できる。
そして俺に何かを話そうとした時点で、俺のことを待っていたと推測が出来た。
だが肝心の内容に関しては話さなかった、いや話せなかったのかもしれない。
何故話せなかったのか。
秘密にしたい内容だったからか、それとも話すと俺に迷惑を掛けてしまうと思うような内容だったのか。
いずれも推測の域に過ぎない。
一旦ラウラの話を聞くことにしよう。
「ラウラがナギの嫌がるようなことをしたってことか、それともラウラは何もしてないのにナギが一方的にそう思うようなことを言ってきたってことか?」
「それが……」
続く話を根掘り葉掘り聞いていく。
「帰ってきたお姉ちゃんに声をかけたら凄く挙動不審な反応をされて……何かあったのかと聞いても『これは私の問題だから大丈夫、放っておいて欲しい』って……わ、私は何かしてしまったんだろうか!」
どうすればいいんだお兄ちゃん! と慌てふためくラウラだが、話した内容を聞く限りではラウラのことを嫌っているといった反応をしているようには見えない。どちらかといえば私の中で解決するべき内容だから、ラウラさんは気にしなくて大丈夫と言っているように見える。
ちょっと角が立った言い方になってしまったせいで、ラウラが誤解をしてしまったのかもしれない。
が、挙動不審になるってところがちょっと気になるな。
驚いただけなら分かるけど、見知った人間から声を掛けられたくらいで挙動不審になるってことはよほど知られたくないような、詮索されたくないような隠し事を抱えているようにしか見えないんだが。
ともかく今のラウラの状態では話が進まなくなるし一旦落ち着けるとするか。
「ちょっ、そんな慌てるなって! ほら、一旦深呼吸!」
「う、うむ。すぅ、はー……」
慌てふためくラウラを一旦静めるために一度深呼吸を促す。
ずっとこの調子では話も進まなくなるし、折角設けた時間が無駄になってしまう。基本的にナギがラウラを怒ったり、また辛辣に接したりすることはなく、想定外の反応でどう向き合えば良いのか分からずに混乱をしているみたいだ。
気持ちは分からなくもない。
人間どこかしらで負の感情を向けられることはあるだろう。ラウラとしても次からはしっかりと向き合っていかなければならない。
少し間をおき、改めてラウラに話すことが出来る状態かを確認した。
「落ち着いたか?」
「だ、大丈夫だ。続きを」
多少落ち着きを取り戻したところで話を進める。
「ラウラが何か地雷を踏んだような感じではなさそうだけど、本当にそれだけなんだよな?」
「そ、そうだ。それ以外には特に何も言っていない」
「なるほど。念のための確認になるけどラウラが話した時、周囲に生徒はいたのか?」
「自分の後方までは分からないが、あの時居たのは二人だけだった思う」
場にいたのはラウラとナギの二人だけ。
他に誰か人がいたのだとすれば、聞かれる可能性を危惧して話すのを躊躇う可能性もあったが、その可能性も薄いとなるといよいよ分からなくなって来た。話している内容に偽りが無いのなら、ナギはラウラのことを決して嫌ってる訳では無い。
そこまでは分かる。
「少なくとも今の話を聞く限りではラウラのことを嫌っているわけじゃ無いと思うぞ」
「ほ、本当か!」
「あぁ。ただタイミングも良くなかったのかもな。あまり話したく無い内容を聞かれたくないタイミングで深く聞かれて、つい反射的にキツめに当たったのかもしれない」
「う……それは、その……ごめんなさい」
「仕方ないさ。ナギのことが心配だったんだろ? 普段だったら絶対に怒らないだろうし防ぎようが無かったと思う」
余計なことを言ってしまったとしゅんと落ち込むラウラ。眉をへの字に曲げて今にも泣き出しそうな表情からはどれだけ落ち込んでいるかがよく分かる。
「あまり深く考えすぎるな。ちゃんと話してくれて俺は嬉しいよ」
「わふっ、お兄ちゃん……」
何はともあれしっかりと話してくれたラウラには感謝しかない。そっと手を伸ばして頭を軽くポンポンと撫でた。気の抜けた返事から俺の手の動きに合わせてブラブラと頭を揺らす。
ナギが何に悩んでいるかの特定までは至らなかったが、ラウラの悩みを聞いて多少なりとも心が晴れたのならそれはそれで話を聞いた甲斐があるというもの。
ナギの件はまた一から調べると……。
「あ……」
「ん、どした。何か思い出したか?」
調べるとしよう。
そう切り替えようと思った刹那、ふとラウラが何かを思い出したかのような声を上げる。
「すまない。一つ言い忘れていたことがある。お姉ちゃんが私の前を立ち去ろうとした時なんだが、ハガキサイズの紙を落としたんだ」
「紙?」
「あぁ。慌ててすぐに拾い上げてたんだけど、スクールバッグもあるのに何故しまわないのかとは思ったんだが……」
「その紙がスクールバッグから落ちたって可能性は?」
「考えられなくもない。あくまで私が見間違ってなければの話になるが、スクールバッグの口は閉じていたし、他にしまえるようなものは持っていなかったから手に持っていたと思う」
確かにおかしな話だ。
学園側からの書類であればカバンにしまえば良いのに何故裸で持ち歩くようなことをしたのか。
スクールバッグもしっかりと閉じられていたのであれば手に持っていた……としか考えられないものの、真意ははっきりと分からない。とは言ってもナギの性格を考えるとカバンにしまうだろうし、裸で持っていたのであれば元々誰かに見せるつもりだったような気もする。
どことなく嫌な予感がする。
今は杞憂であって欲しいと願うことしか出来なかった。