「と、いうことで脅迫状の犯人たちは全員捕まえることに成功しました。組織自体がそこまで大きくはないもののため、今後のナターシャさんが同一組織に狙われることは考えにくいと思います。夜分遅くの報告となり申し訳ございません」
「なんと……そんなことになっていたのか」
全ての事を終え、大和と千尋はファイルス邸を訪れていた。来た理由はこれまでの経緯と現在の状況についての報告をするためだ。
大和の報告に対して頭を抱えるのはレオン、まさか自社の元社員が自分の娘の誘拐を企てるなんて思いもよらなかっただろう。
また悪事を働いたがこれまで会社に貢献してくれたことに対するせめてもの情けということで、刑事告訴せずに懲戒免職という形で会社を首にするだけで済ましたことで事態を大事にしてしまったことにひたすら打ちひしがれた。
加えて既に解雇している社員とはいえ、一度は信頼を寄せていた人間に裏切られたショックは計り知れないものがある。
幸いなことに大和や千尋の介入でナターシャは無傷で事なきを得たが、もし二人がいなければと思うとゾッとする。
「はい。またファイルスさんがボディーガードを依頼した事務所に連絡をしたところ、依頼はキャンセルされていることが確認出来ました。その上で近辺を調べさせて貰ったのですが、こんなものが……」
経緯を説明しながらレオンの前に小型の機械を差し出す。
「これは……盗聴器かね?」
「はい、その通りです。ファイルスさんの部屋近くの電源タップに仕込まれてました。奴らはこれを使ってこの家で行われているやり取りを一部盗聴していたようですが、これ以外にも設置されている可能性があります。既に組織は潰しましたが、第二第三の勢力が出て来ないとも限りません。念には念をということで、この家中を改めて調べた方が良さそうです」
「私自身、家を空けることも多かったし家に誰が訪れたなんて把握もしていなかった。その杜撰な管理の結果娘を危険な目に合わせることになるとは……娘にも、それから二人にも本当に申し訳ない限りだ」
そんなつもりは無かったとはいえ、結果これまでの行動が娘を危険に晒すことになるとは思っていなかったのだろう。
レオンは重ねてお詫びの気持ちを伝えるために、深々と二人に向かって頭を下げた。
「いえ、大丈夫です。個人で把握できる部分には限界がありますし。それに相手もファイルスさんに会わないように、ナターシャさんを迎えにいく時にもファイルスさんの会社に細工したみたいですから、向こうもかなり用意周到だったんだと思います」
「あれもそうだったのか。不正アクセスされたことの無いシステムにいとも簡単にログインされて、データが書き換えられるなんておかしいと思ったんだ。朝はその対応でバタついていたんだが、元社員なら既存の管理者IDを探知することも難しくなかっただろう」
大和の言う細工、というのはナターシャを迎えに行く際に、レオンに如何に会わないようにするかの細工だ。
レオンの手元には当日誰がボディーガードの任務につくか、その顔写真も含めて送られてきている。
当日来た人間が事前に周知されていた人間と違うともなれば、その場で担当が変わった理由があったとしても不審に思うだろう。本来なら変更が判明したタイミングで事前に周知をしておくことが当たり前だからだ。
バレるリスクを減らすために会社のシステムに不正アクセスをして、機密データを改ざんすることでレオンの意識をそちらに向けた。ナターシャからすれば父が依頼したのだから、と疑いもしなかったに違いない。
集合場所に大和、千尋がいなければ事態は大きく変わっていただろう。
「ただ何よりナターシャさんに怪我がなくて良かったです」
「ホントにどう感謝していいものやら。娘ならお陰様でピンピンしているよ。今は別自室で休んでいるからこの後にでも会ってきたらどうだ? 君たちのことを心配してたから悪い提案ではないと思うんだが」
「えぇ、ナターシャさんが望むのであればそうさせていただきたいと思います。もしかしたらちょっと拗ねているかもしれませんし」
「拗ねている……? あぁ、そうか。本来なら君と出かける予定だったのにそれが出来なくなってしまったから拗ねているかもしれないな」
車での移動中、ずっと一緒に居てくれても良いというナターシャの問いかけに対して乗っかった大和。
本来は千尋がナターシャに変装し脅迫状の犯人を出し抜くための作戦だったが、ナターシャはこれを真に受けてしまい、家に着くまでの間様々な妄想を膨らませていた。
家に到着し、今回の作戦の全容を説明し直した時のナターシャの落胆ぶりは凄かった。作戦なら仕方ないと自身を納得させたものの心中は複雑だろう。
今日に関しては誰が来たとしても合言葉が合致しない限りは部屋の鍵を開けないようにと伝えてあるため、約束を守って部屋にいる。
後で様子を見に行こうと思うのだった。
「とりあえず今日一日は様子を見ましょう。大きな問題は起きないと思いますが、万が一も否定は出来ないので」
「ありがとう、助かるよ。君たちに護衛を依頼してよかった。改めて感謝する」
大和自身も組織の大元を潰したことで、現段階はナターシャを付け狙うものはいないという判断を下す。万が一も想定してもう一日、ナターシャの身辺を見守ることで結論付けた。
今日一日フルで護衛の任務を遂行してくれたこと、想像以上の成果を出してくれたことに感謝の言葉を述べる。
「しかしこうして見ると……本当にナターシャそっくりだな。一体何処で変装術を?」
不意に千尋の変装についての話題へと切り替わる。
警察署で取り調べを受けてから宿泊地として用意しているホテルではなく、ナターシャの自宅へと戻って来たのは変装だとバレないため。もしこれでホテルに戻っていたら、自宅があるのにどうしてホテルに行くのかとあらぬ疑いをかけられる可能性がある。
警察署からの送り迎えはタクシーではなく警察官の車であり、ホテルに戻るという選択肢は無かった。取調べ中も被害者ということで深い話は聞かれなかったし、探りを入れられることも無かったことから、なりすましだったことは一切バレていない。
ナターシャ自身の特徴を掴むのはもちろん、見た目のメイクも完璧でカツラを被らなかったとしても誤魔化せるのではないかと思えるレベルだった。
「ふふっ、それは企業秘密です。自分の容姿とかけ離れた相手になりすますことは出来ませんが、自分に近しいタイプであれば、メイクを活用することである程度までは似せることが出来ます」
「それはまた大層な技術だ。ナターシャに成り代わるなんそう出来るもんじゃない」
レオンはそのスキルに深く感心しているようだ。
今回に関してはナターシャと千尋の共通点として誰もが羨むスタイルと美貌の持ち主であったということ。
普段は年齢よりも若干子供っぽい雰囲気に見える千尋と、淡々として大人びた雰囲気のナターシャ。雰囲気だけでいえばそこまで似ているわけではない。それでも千尋はスイッチが入れば口調を含めた雰囲気そのものをガラッと変えることが出来る。
(ホントにそっくりになるもんだな。二人とも確かに美人とはいってもここまで似させられると、普段あまり会わない人とかだと気付かなさそうだ)
大和の思った通り、千尋の変装技術の高さは誘拐犯を出し抜くことに成功した。
取り急ぎ必要最低限の報告は完了したため、そろそろ外に出たほうがいいだろうと現時刻を確認する。
既に時間は日付を跨ごうとしていた。客先にはなるため、あまり長くファイルス邸に滞在している訳にもいかない。これから朝まで外の見張りを交代で行い、万全の態勢で周囲の安全を確保する必要があった。
「さて、そろそろ良い時間になりますし。俺たちは外の見守りでも行きますね」
「ん? もしかして君たちは今日は外で過ごすつもりなのか?」
「えぇ、まぁ。ただ姉は流石に一度シャワーを浴びて来てもらおうと思ってます。一番動いてくれましたし、身体も疲れているでしょうから」
「むむ、流石にこれだけのことをしてくれているのにこちらとしても何も返さない訳にはいかないな……そうだ! ちょうどナターシャの両隣の部屋は空いているんだ。君たちさえ良ければ今日はこの家に泊まっていって欲しい」
「え?」
娘の命を守ってくれたことに対するお返しが何も出来ていないのは申し訳ないと、レオンから思いもよらない提案を受けて思わず間の抜けた声を上げてしまう。
もちろん護衛業の仕事としての対価は事前に払われているが、二人の仕事振りは決してお金だけに変えられるものではないと感じているのだろう。高額な報酬を得られる仕事である代わりに仕事を失敗すれば信用を失うどころか、護衛対象が負傷したり最悪の場合は亡くなってしまう可能性だってある。
その精神的、肉体的な疲労は想像を絶するものがある。
自身の配慮で全てを解決出来るとは思わないが、少なくとも多少なりともリラックスした環境を提供することで二人の疲労を軽減させることは出来るのではないかと考えた。
あくまでレオン自身の考えであって、大和たちは最後まで仕事に徹するかもしれない。そうだとしても感謝の気持として何もしないわけにはいかなかった。
「両隣の部屋だから有事の際には駆け付ける事が出来るし、ナターシャにも誰かが来ても自分の部屋の鍵を開けないように伝えてある。それにマスターキーはナターシャに渡してあるから誰も部屋に入ることは出来ない」
厚意としてはもちろんのこと、効率面を考えての提案でもある。
第一に隣接する部屋になるため、何かが起きた際には直ぐにナターシャの元へと駆け付ける事が出来る。外に居るのでは部屋に駆け付けるまでに時間が掛かるし、何より効率が悪い。
加えてセキュリティ対策としてナターシャの部屋には鍵が掛けられているだけではなく、自室の鍵やマスターキーを彼女に渡しているため、家族である第三者はおろか家族であるレオンすらも部屋に入ることは出来ない。
「君たちクラスなら蹴破ることが出来るかもしれないが、入口の扉はそう簡単に壊せないような作りになっている。まぁ壁を壊せば部屋に入ることも出来るが、その部屋は君たちが泊まる部屋になる」
部屋の入口の扉は強固な作りになっているため、そう簡単には壊すことが出来ない。もし壊そうと物音を立てようものなら両隣に泊まっている大和や千尋が気付き、被害を防ぐことも出来た。
壁を壊して侵入しようにも隣接する部屋に大和と千尋がいるため、まず突破することは不可能。二人がいることでより強固な要塞にもなる。
「勘違いしてもらったら困るのは誰でも家に招き入れる訳では無い。君たちだから私も安心して任せることが出来るんだ。家の設備は存分に使ってもらって構わないし、何なら疲労軽減のために一流のマッサージをつけることも可能だ」
「一体何処のスイートホテルですか」
大和も思わず笑いながら突っ込むしかなかった。が、少なくともこの提案はかなり魅力的なものになる。ファイルス邸の敷地は広大であり、これを少人数で見守ろうとするとかなりの労力を要する。
無論至る所に監視カメラが仕掛けられていて外からの侵入者がないように見張ってはいるが、監視カメラを破壊されてしまったらそのエリアの映像は途切れることになる。
映像が途切れたら異変としては気付くものの、現場に駆けつけるまでの時間に侵入者が何をしでかすか分かったものではない。
そう考えると隣接する部屋に泊まる、という選択肢は悪くない。
レオンも誰でも泊める訳ではなく、今日これまでの功績を認めたうえで宿泊を特別に許可をしたに過ぎない。
何の実績もない人間を自分の敷地内を跨がせるほど、彼も適当な人間ではない。大手企業の代表を務めるほどのクレバーな経営者だ。
「もちろん二人の仕事が最優先で、あくまで私の気持ちという形にはなってしまうがどうだろう?」
その提案に対して二人が断る理由は無かった。
「お気遣いいただきありがとうございます。確かにファイルスさんのおっしゃるようにそちらの方が効率が良さそうですね。感謝のお気持ちもしかとお受けいたしました。もし問題なければお言葉に甘えさせていただきます」
「私も同じ気持ちです。ご配慮いただきましてありがとうございます」
「そう言ってくれると嬉しい限りだ。では早速部屋の場所を案内しよう。着いてきてくれ」
席から立ち上がるレオンの後に続くように、二人は部屋を出ていった。
「ふー……まさか仕事中にゆっくりと湯船に浸かる時間が確保出来るなんてな」
ファイルスさんから宿泊する部屋を案内された後、各自自室で時間を潰すことになった。風呂場は流石に一つしかないためローテーションで入ることに。先に千尋姉が風呂へ向かったわけだが、その時に『大和も一緒に入らない?』と誘われたのはまた別の話だ。
気持ちは嬉しいけど今は仕事中、俺たちが二人揃って風呂場へ向かえばナターシャさんは一人部屋に孤立することになる。組織を壊滅させたことで恐らく問題はないとはいっても、念には念をということで付いているため、気持ちは嬉しいけど……ってことで断った。む〜とか言いながらものすごい残念そうに膨れっ面してたけど。
仕事も終わったことで千尋姉もいつも通りの状態に戻ったし、ある程度は落ち着いた、と思っても良いのかな。千尋姉が
ぴちょん、ぴちょんと静かな浴場に水滴が垂れる音が不規則的に鳴り響く。風呂を終えた千尋姉に呼ばれ、今度は俺が風呂に入る番となった。
俺一人でこんな広いスペースを使っていると思うと、一気に貴族に仲間入りした気分になる。IS学園の大浴場ほどの広さは無いが、一般的な家の風呂場の広さを考えれば広すぎるくらいだ。流石ファイルス家。
湯船に身体を浸しながら、壁に全体重を預けて思い切り寛ぐ。
護衛の仕事の最中はとにかくスピードが命故に、ゆっくりと風呂に浸かっている暇なんてものは基本ない。
流石にずっと身体を綺麗にしないとなると、衛生的な問題が出てくるため、さっとシャワーだけを浴びることはあるけど、ゆっくりと湯船に浸かることはこれまでの経験上記憶にない。
ファイルスさんは気休めに、なんて言ってたけどその気持がありがたいし、少しの時間でもゆっくりとした時間を確保できるだけでも精神的にも肉体的にも身体を癒すことが出来た。
本当に感謝しかない。
「……」
仕事が落ち着いたところでふと学園に残っている仲間たちのことを思い、物思いにふける。丸々一週間休みをとってアメリカに遠征、今何をやっているのだろうと考えてみた。
本来俺はIS学園に行く予定は無かった。ISを動かしたことで周囲は一変、貴重な男性操縦者として急遽入学することに。あまりにも学園生活に慣れすぎて本来の目的を忘れがちだが、IS学園卒業までの三年間は一夏の護衛として動く必要がある。
そんな中でも一般的な……いや、ちょっと充実し過ぎて怖いくらいに良い学生生活を送れている。この生活に慣れてはいけないが、自ずとそれを求めている自分もいる。中学卒業時は一切考えていなかった。
IS学園での生活もいずれは終わりが来る。
卒業した時俺はどんな気持ちになるのか。今は到底想像が付かなかった。
一度湯船から上り頭に乗せていたタオルを広げると、シャワーのある場所へと移動する。頭と体を洗うためにコックを上げてお湯を出して頭から被った。シャワーから溢れる水圧の強いお湯が頭から身体へと伝い、全身を覆う。
備え付けの椅子に座り、近くに置いてあるシャンプーボトルを二、三回押して液体を出すと、それを頭に揉み込んでいく。
何回か持ち込むも中々泡が立ってこない。今日一日動きっぱなしだったから全身相当汗をかいたことだろう。泡立ちが良くないということは、その分身体に汚れが付着しているということになる。
頭皮につけたシャンプーを一度洗い流し、追加のシャンプーを揉み込むことでようやく泡立ち始めた。どこのシャンプーだろうか、柑橘系の香りが鼻腔を燻る。ホテルにあるものもファイルス邸にあるものも、普段使っているシャンプーとは当然違う。
ここに泊まる予定はそもそも無かったため、最低限の衣類を除いて持ってきて居ないため、ほとんどのアメニティを借りることになった。あるものは全部使っても良いとは言われたけど、普段から使い慣れていないものも多くて気も遣う。普段の使い方の基準がよく分からないため、もしかしたらシャンプーやボディーソープの量も使いすぎているのかもしれない。
ある程度泡立って手の動きがスムーズになった頃を見計らい、再度シャワーを当てて泡を洗い流す。汚れとともに一日の疲れも洗い流されるようだ。
完全に泡が流れ切ったことで、髪をかけあげてオールバックのような状態にする。顔に付着した水を拭い去り、うっすらと目を開けた。
「……ん?」
開けた視界の先には鏡がある。
鏡、いやナギの名字も『鏡』だけどそっちじゃない。ミラーの方だ。
髪を洗った後はずっと目を閉じているせいで、やや視界がぼやける事がある。俺は幻覚でも見ているのだろうか、鏡には俺の姿だけじゃなくてもう一人別の姿が映っているように見えるんだが。
ぼんやりとしていた視界が徐々にクリアになっていく。鏡に映っていた人影も見間違いではなく、本物だった。
そしてその人影が徐々にズームアップして来たかと思うと。
「うふっ、大和くん♪」
唐突に声を掛けられた。
今の俺は一糸纏わぬ姿のため、見せられないようなところまで丸見えの状態だ。それに加えて普段装着している眼帯も付けていない。風呂に入るのにわざわざ眼帯をつけるような真似はしない。平静を装いつつ左眼を閉じた。
椅子に座っている俺の後ろにしゃがみ込み、肩を掴みながら満面の笑みを浮かべる女性の名を呼ぶ。
「へ? な、ナターシャさん? どうしてここに、部屋にいるはずじゃ……」
「さっきまでは部屋に居たわよ。でも大和くん中々来ないし、パパに電話で聞いたらお風呂にでも入ってるんじゃないか〜っていうから……来ちゃった♪」
ナターシャさんは振り向きざまの驚いた顔を見れて満足そうに『えへっ♪』っと悪びれる感じもなくはにかむ。そんなナターシャさんの服装……いや、服なんてものを風呂場で着るわけがなかった。シミ一つ無い綺麗な素肌の上に厚手のバスタオルを纏っただけの極めてラフな状態。
いや、ラフというよりだいぶアウトな部類になる。
と、一旦話を戻そう。
確かファイルスさんの話では万が一を考えて自室で休んでいるって話だったはず。部屋の鍵はナターシャさんが持っているから道中の行き来は出来ると思うけど、それを許す……ってもしかしなくてもファイルスさんやりやがったな!
「ごめんね、約束破っちゃった。でもどうしても大和くんに会いたくて……さっきだって街に出かけるの楽しみにしてたんだよ?」
ムスッと頬を膨らませながら拗ねた表情を浮かべる。普段は落ち着き払った如何にも大人な女性でしかないのに、こういう時は子供っぽくなる。
これが所謂ギャップ萌えってやつなのか。贔屓目抜きに今のナターシャさんは可愛いと思った。背中を向けたまま話すのも失礼だろう。自身の
「それはそうですよね……すみません。でもどうしてもナターシャさんを守りたかったので、今回だけは許して下さい」
「むぅ……」
顔は全然怒っている様子には見えないが、わざとらしく拗ねてみせるあたり、この人は自分の武器を最大限に分かっている。
というかさっきからわざとらしく屈んでませんかね。あまりかがみ過ぎるとその、タオルからこぼれ落ちそうなんですが。
「ふふっ、冗談よ。分かってるわ、大和くんの行動は私のことを第一に考えてくれているって。今回は文句を言うためにここに来たわけじゃなくて背中流してあげようと思ったの。さっ、背中をこっちに向けて」
「え? あ、はい」
拗ねたのは冗談だと悪戯な笑みを浮かべながら、もう一度俺に背中を向けるように促す。言われるがままに背中を向けてしまったが、まだ洗ったのは頭の部分だけで身体は一切洗っていない。
背中を流してくれるというのであれば特にやましい気持ちがあるわけでもないし、ご厚意に甘えることにする。タオルが落ちないように慎重に背中を向けると、女性らしい柔らかな手が背中に触れる。
手の平に満遍なく石鹸を伸ばすと優しい手つきで背中の広範囲を洗っていく。思えば人に身体を洗われた経験って小さい頃に何回かあるくらいで、小学校の中学年に差し掛かる前には一人でお風呂に入っていた気がする。付き合っているナギですら、俺の身体を洗ったことはない。というか一緒に風呂に入ったって記憶が無いんだが……。
この年になって人に背中を洗ってもらうのって、何か変な気分だ。
ナターシャさんが背中を洗ってくれている間に、前方部分は自分で洗っていく。顔を専用の洗顔剤を使って洗い、ある程度洗いきったところで洗面器にためていたお湯を使って洗い流す。
そのままの流れで上半身、下半身と石鹸を伸ばしていった。流石にこちらを洗ってもらうのはハードルが高過ぎる。男性にとってのトップシークレットの部分であって、そうそうひけらかすものでもない。
「大和くんって服を着てると着痩せするからか全然分からないけど、実際に触ってみるとすごい背中してるわね。大きくて凄くかっこいいわ」
「あ、ありがとうございます」
自分の背中を褒められると思っておらず、少しむず痒い気持ちになる。着替えをする時に何回か見られることがある背中だが、一夏が言うには『鬼の背中』らしい。鬼の背中って何だよと思った調べたら直ぐに出て来た。ポージングすると筋肉のラインで鬼の顔みたいな模様になるやつ。
相応にトレーニングは積んでいるからそういう背中になるのは仕方ないにしても正直褒められているのかからかわれているのか微妙なラインだ。
ただし一夏的には最大級の賛辞らしい。言葉のチョイスよと思わずツッコみたくなるのも無理はない。一方でナギやラウラは頼もしい背中なんて言ってくれるけど、これは紛れもなく嬉しい。
人それぞれの褒め方があるとはいえ、ナターシャさんは背中を手のひらで優しく触りながら褒めるものだから……うん、嬉しいんだけどなんて言い表したら良いのか分からないわ。
一通り背中を洗いきったところでシャワーをかけて石鹸を洗い流す。
「前も洗ったほうが良いかしら?」
「ぶっ! ま、前は自分で洗うんで大丈夫です!」
「あらそう、残念。折角大和くんの逞しい「ナターシャさんそれ以上は言っちゃダメ!」あん、冗談よ」
ケラケラと笑う姿はやっぱり様になる。
大人びた落ち着いた雰囲気のナターシャさんも魅力的だけど、この人の本心は笑っている姿なんだろうな。
さて、身体も流してさっぱりしたところだし、もう一度湯船で温まってから上がるとしよう。椅子から立ち上がり再び浴槽に向かって歩き出そうとするが。
「えへへ、大和くん♪」
ナターシャさんもペッタリと俺の腕にくっついたまま浴槽へと着いてくる。嬉しそうにかつ幸せそうに微笑む姿を引っ剥がすわけにも行かず、二人で共に浴槽に向かった。
俺の背中に自身の背中をくっつけるようにして、お互い反対方向を見ながら湯船へと浸かる。一人で入ると広く感じる浴槽も二人で入ると若干狭く感じた。
狭くは感じるが元々が広いため、実際のスペースは十分くらいにある。
「このお風呂すごいですね。戸建ての家でここまで広いお風呂、初めてですよ」
「ほんと? 喜んでくれて嬉しいわ。私は普段から使っているから特に何も思わないんだけど、確かに初めてきた人はびっくりするわよね」
話題らしい話題も見つからず、とっさにファイルス邸の風呂の広さについての会話を始める。苦し紛れの話題でも、しっかりと乗ってくれるナターシャさんはやっぱり優しいと思う。
「この家にあまり人を招くことが無いのよ、一応客室はあるんだけどね。私も仕事が仕事……まぁ今は自由が効く立場ではあるんだけど、友だちを作るような職場じゃないから、誰かを家に連れてくるなんてことはないわ」
職場の多くが男性だしね、と付け加える。
昔は軍人といえば男性の象徴だったが、今は職種によっては女性採用も増えている。とはいえ軍に所属する人間の大半は男性であり、自分のプライベート空間とも呼べる自宅に招くことはほぼない。
初めて呼んだ異性は大和が初めてだった。
「あ、もちろん誰でもいいってわけじゃないからね? 千尋さんも勿論だけど、大和くんだから安心して呼べただけで、他の人は呼ぶなんてしないわよ」
仲が良い人がいないわけじゃないけどね、とナターシャさん。
ま、自宅は自分が唯一取り繕わずに過ごすことが出来るスペースであり、普段取り繕った自分しか見たことのない人間を易易と上げたりはしない。
そんな中でも俺や千尋姉を招き入れてくれた。
ナターシャさんに至っては入浴中にも関わらず嬉しそうに入ってくるし、その服装もタオルで素肌を覆うだけ。これが何を意味するか、よほどの唐変木でなければ気付くだろう。
ナターシャさんは決して遊びではなく、本気で俺のことを……。
「ねぇ、大和くん」
「え?」
不意に背中が離れたかと思うと、俺の背後から細い腕が二本伸びてくる。
伸びてきたかと思うと腕をクロスさせて俺の首から上半身に巻き付け、自分の身体を俺の背中にぐっと密着させた。
タオル越しに、ナターシャさんの肌の温もりが伝わる。後頭部におでこを当てながら、ナターシャさんは話を続けたと同時にナターシャさんの吐息が首筋に触れる。
「本当にありがとう」
ナターシャさんの口から溢れてきたのは感謝の言葉だった。
「大和くんに初めてであってから助けて貰ってばかりね。感謝の言葉だけじゃ申し訳ないくらいに」
「え? いや、そんな。今回は俺も当たり前のことをしただけですし……でも感謝の言葉は嬉しいですけど」
「うん、そう言うと思った。でも恋人や家族でもない第三者に自分の命を掛けてまで守れる人ってこの世にどれだけいると思う?」
ナターシャさんの言葉に少し考え込む。
あまり意識したことは無かったが、俺や千尋姉の常識は一般世間の常識ではない。もちろん俺も第一優先は家族や恋人、それに自分の友達だ。
対価として多額の金銭報酬を貰っているとはいえ、自分の命をかけてまで全く知らない、または多少顔見知りな人間を守ろうとすることが出来るか、と言われるとそれはイエスとは言えなかった。
お金をもらったところで裏切る人間は裏切るからだ。
「もしかしたら、私が知らないだけでいるかもしれない。でも私はそんな男の人を大和くんしか知らない。誰かのために命を張ってでも尽くせる男の人を、私は君しか知らない」
同じように出来る人間、ぱっと思い浮かべる限りでも確かに出て来ない。近しい存在としては一夏くらいだろうか。
バスの中でのナターシャさんの一夏への対応を見ると、勇敢な騎士様と評している辺り気に入っているのだろう。気持ちとしてはライク、ただしそこに恋愛感情『ラブ』の感情は感じられなかった。
ナターシャさんが『ラブ』の感情を向ける相手、それは。
「だから……」
首裏にナターシャさんの唇が触れたかと思うと、そこから言葉が続かなくなる。
……? どうしたのだろう。
十数秒間その状態が続いたかと思うと、急に力が抜けたように重みは首裏から、背中へと移動しやがて無くなった。
同時にポチャンという水に何かが浸かる音。
まさか!
「ナターシャさん!」
背後を振り向き湯船に崩れ落ちたナターシャさんを抱えあげて水面へと出そうとする。
ファイルスさんには風呂場は自由に使って良いと言われていたため、元々貯められていた浴槽のお湯の温度を少し上げていた。もし普段の湯船をこれより低く設定して入っていたとすると、体感熱く感じるかもしれない。
普段より熱い湯船に浸かっていたことで気付かない内に逆上せてしまった、と考えるのが妥当。年頃の女性の素肌に直接触れて抱え上げるのは普段時なら躊躇うところだが、今はそんなことを言っている場合ではない。
湯船に浸かったままの顔の下に手を入れ、そのままナターシャさんの脇に手を回そうとした刹那。
「へ?」
急に大きな波に襲われた。
顔から湯船のお湯を被ったかと思うと、何故か俺が壁際に移動している。一瞬何が起きたのか分からず、途方に暮れていると目の前にいたナターシャさんの姿が消えていることに気付く。
同時に自分の前方、ちょうど上半身の胸のあたりに人肌のような温もりを感じる。グニグニとマシュマロのような弾力のある二つのかたまりが不規則に動く。そして俺の肩辺りに凭れ掛かるように……。
って、え?
「な、ななななナターシャさん!? い、一体何を!?」
「うふっ、油断大敵。やーっと捕まえたっ♪」
聞こえてくる声はやはり嬉しそうな声。嬉しさの感情表現として自身の胸をグイグイと俺に押し付けてくる。先ほどまで魅惑のボディを覆い隠していたバスタオルは何処へ消えたのか、一糸纏わぬ姿のナターシャさんが俺と密着していた。
視線の先には上半身の豊かな双丘と、下半身にある立派な果実が湯船にプカプカと浮かんでいる。どっちの大きさも男性にとっては致命傷レベル。
こ、これはいけない!
慌てて視線を逸らす。
自分の心臓が緊張で高鳴っていると共に、密着しているナターシャさんの鼓動もハッキリと伝わってきた。
ナターシャさんは照れくさそうに顔を上げる。顔を赤く染めながら、トロンとした妖艶の上目遣いで俺の顔を見つめる。湿った髪から水が滴り落ち、どこか不安そうな瞳は俺のことをしっかりと射抜いていた。
身体同士が密着しているため、ナターシャさんと俺の顔の距離もちょっとでも押されたら直ぐに触れ合いそうな距離にある。
小刻みに漏れるナターシャさんの吐息が顔にかかる。
女性特有の甘い香りが鼻腔を通して脳に伝わり、思考回路を鈍らせた。
「だから、だから……大和くんのことが好きになったの」
「っ!!」
偽りのない真っ直ぐな言葉で想いを伝えてくる。
先ほどまでの少し小悪魔ぶった雰囲気は微塵もなかった。
真剣な自身の想いの総結晶、俺への気持ちを濁すこと無くぶつける。
雰囲気に気圧されてしまった俺は一瞬言葉を詰まらせるも、その想いを確認していく。
「その……どうして俺なんですか?」
「一目惚れ、かな? 初めて大和くんの顔を見たのは
一目惚れ。
理由としては最も端的で分かりやすいものだった。
「あっ……一目惚れなのは間違いないけど、ちゃんと大和くんの性格や振る舞いは見てたわよ? 一目惚れしちゃったのはたまたまだし、もし大和くんの性格が残念だったら多分幻滅していただろうけど、アメリカに来てからの行動をずっと見てて私の想像以上に素敵な人だってことが分かった」
一目惚れでも、それだけで流される人ではない。
容姿だけではなくてちゃんと自分のことを見てくれできることが言葉の節々から伝わってくる。
自分自身の性格が良いかどうかは分からないけど、ナターシャさんには素敵な人だと映ったようだ。
「私も自分が特別な存在とは思っていないし、ある程度の鞘には収まるとは思ってるけど、安い女じゃないと思ってる。顔がカッコよかったら誰でも好きになるってわけじゃないわ。いくら一目惚れとはいえ、その人の中身はしっかり知りたいもの」
「ナターシャさんなりに中身を見てってことですか?」
「うん。大和くんしかいない」
俺しかいないと呟きながら、ギュッと身体を密着させられる。
間接的に色仕掛けをしているように見えるが、ナターシャさんの雰囲気から俺に色仕掛けをしているつもりは毛頭ないように見えた。
ただ純粋に俺の側にいたい。
その想いがより強く表れていた。
ナターシャさんは俺への想いを包み隠さず伝えてくれた。
だから俺もちゃんと伝えなければならない。
「……俺には既にパートナーがいます。これからも将来を共にしようと思っているほど大切な。それは知ってますよね」
俺にはもうかけがえのない存在がいる。
一生を注いででも共にいたいというパートナーが。
彼女が俺を拒絶しなければ決して別れることはない。これからの生涯をずっと共にしたい、そう思うことが出来るパートナー。
そこは決して揺らぐことはない。
「えぇ、もちろん」
ナターシャさんの言葉に迷いは無かった。
そんなことは分かっていると。
俺は更に言葉を続けていく。
「俺は……酷い人間だと思います」
「どうしてそう思うの?」
「本当なら自分が本気で想いを寄せている相手がいるのだから、毅然とした態度で断るべきなんです。でも俺はそれが出来ないでいます」
少なくとも一般世間の考え方としては大きくズレている。
本当に大切に想うパートナーがいるのであれば、他の女性から求愛を受けたとしても断るべきだ。
そこに何の迷いもない。
もしそれを破るようなら一般的には『不倫』や『浮気』と呼ばれる不貞行為となる。
「それでも「大丈夫、そこは全部聞いたわ」……えっ」
それでも俺のことを好きでいれるのか、そう切り返そうとしたタイミングでナターシャさんに遮られる。
俺の聞き間違いで無ければ今間違いなく、全部聞いたと言った。
一体誰から?
「大和くんの背中を流そうとお風呂場に向かう時に千尋さんに会ったの。そこで聞いたわ、大和くんと千尋さんも特別な関係にあるってね」
俺が決心して言おうとしたことを事前に伝えてくれるとは、なんて気の利く姉だろうか。
お陰様で真面目な雰囲気が一気に崩れてしまう。
ただ言ったことがダメと言うわけではない。多分千尋姉のことだし、ナターシャさんの俺に対する気持ちを理解した上で事の顛末を話したのだろう。
「普通ならアウト、でしょうね。一般的に考えたらそんなこと許されるわけないもの」
ナターシャさんもそこはしっかり理解している。普通に考えて許されるものではない。あくまでナギと、千尋姉の理解の元成り立っている構図であり、常識では考えられない。
「……皆の理解と大和くんの優しさでその関係は成り立っている。私だって誰かが悲しむ姿なんて見たくないし、皆が幸せでありたいっていう気持ちが一番よ」
そう、何度も言うようにあくまで成り立っているのは全員の理解があるから。ナターシャさんの言葉が他の二人の考え方と合致する。
「だから」
言葉を紡ぐナターシャさんの力が強くなる。再びその豊かな双丘が形を変えて俺の身体に強く押し当てられた。
「私も大和くんのそばにいたい、これからもずっとね。この気持ちは永遠に変わらない、これは私の決意と……」
吸い込まれるようにナターシャさんの顔が近付いてくる。
「―――私の想いの結晶、受け取って下さい」
何かを言う暇も与えぬままに、ナターシャさんとの距離がゼロになる。
舌を入れてもいいけど、なんておちゃらけていた姿はもう何処にもない。信念のこもった実直な想いを唇を介して伝えてくる。
「……っ!」
「んうっ……んん」
両腕を首に回してより俺を求めようとする。苦しそうに身をよじろうとするも、ナターシャさんが唇を離そうとする気配は無かった。
何回しても忘れられないほどの柔らかく神秘的な感覚。頭の中が蕩けて何も考えられなくなる。ナギに千尋姉にそしてナターシャさん。そろそろ本気で自分の背後を気にしなければならないかもしれない。
「んっ……やまと、くん」
「な、ナターシャさん……」
「ふふっ、大和くん顔真っ赤」
十数秒の口づけの後、唇を離して俺の顔をはにかみながら見つめるナターシャさん、自分では気付かなかったが俺の顔は真っ赤な状態らしい。
指摘されると、カァッと顔の表面温度が上がっていくのが分かる。
「だ、誰のせいですか……」
思考回路が纏まらずそんなチープな言葉しか出て来なかった。スタイルも良ければ性格も良い絶世の美人に、一糸纏わぬ裸のまま抱き着かれて唇を奪われる。
これで赤面しない男がいるだろうか。
「んふっ、そう言ってくれると嬉しい。私のこと、意識してくれたんだ」
「あ、当たり前でしょう」
ヤバい、猛烈に恥ずかしい。
照れまくっている素顔を数センチと離れていない距離感で異性に見つめられ続ける。どこの公開処刑だろう。
「ナターシャさん」
「うん?」
「本当に……良いんですね?」
「えぇ、むしろ大和くんじゃなきゃイヤ」
ここまで聞いても折れることが無いのであれば、彼女の意志は揺るがないだろう。
俺に相手がいるとしても、ナターシャさんはきっと着いてくる。そしてナギや、千尋姉もナターシャさんの想いを知れば受け入れるに違いない。ナターシャさんのことは嫌いじゃない、むしろ好きな部類になると思う。
ただ知り合ってから接する期間が短すぎて、俺自身の気持ちの整理が全く付いていない。ナターシャさんのことをまだ全て把握しているわけではないのだ。
ナターシャさんは間違いなく俺のことを心の底から愛してくれている。本気で俺のことを見ようとしている彼女に対して、そんな中途半端な俺の気持ちを、答えを、俺の本心を、ナターシャさんに伝えるわけにはいかなかった。
「分かりました」
今はこう言うので精いっぱい。
もっとナターシャさんのことを知る、それが今の俺に出来ることだった。
「いつか大和くんの口から愛しているって言ってもらえるように、必ず虜にしてみせる」
抱きついたままニヘッと笑うナターシャさんがひたすらに可愛かった。
ギューッと力を込めて気持ちよさそうに胸に顔を埋める。
「大和くん」
「はい?」
再び顔を上げるナターシャさんはこれまで見たこともないような笑顔を浮かべて。
「―――大好き♪」
そう言うと再び俺の唇に自分の唇を合わせてきた。