魔の手から救いし者
「助けてっ! 誰かっ!」
「ぐはははっ! ここで大きな声を出しても無駄だっ!! こんな人気もない場所に助けに来るやつなどおらん!」
誰もいない薄暗い部屋の中で煌々と光る四角い箱を見つめる一人の少女。
見ているのは購入したDVDの一幕、柱に括り付けられた可憐な女子高生が悪の組織に捉えられて助けを乞うシーンの真っ最中だった。括り付けられているせいで身動きが取れず、縛られた両手を背中の後ろでガチャガチャと動かして束縛を解こうとする。
だが使われている束縛は頑丈な鉄製の手錠になる。一端の女子高生が純粋な腕力で引き千切ることは難しい。いくら手を動かしても金属がこすれ合う音が鳴り響くだけで、一向に束縛が解ける気配は無かった。
「ふん、無駄な抵抗はやめるんだな。いくらあがいたところでその手錠を解くことは出来んっ!」
「くっ……あんたたちの好きになんてさせないんだから!!」
無駄な抵抗をするなと鼻で笑う悪役。
全身黒マントに何とも言い難い仮面をかぶった如何にもな配役だ。悪役の言葉に対して苦虫を噛み潰したような表情を浮かべて悔しそうに歯を食いしばる女子高生。
こんな奴らに私は良いようにされるのかとでも言いたげだが、束縛されている状態では抵抗のしようもない。
「そこまでだっ! その子を離せ!」
「っ!? 何奴!!?」
絶体絶命な状況に、空から舞い降りてくる一筋の光。
眼前で一層強い発光があったかと思うと、全身覆面の赤い衣装に身を包んだ人物が自分と悪役の間に仁王立ちしていた。
「私は悪から皆を守る存在っ! 名を―――」
そこからは勧善懲悪のアニメによくある展開だった。タイミングよく現れたヒーローによって悪は葬り去られ、捉えられていた女子高生は無事に解放。
また困ったことがあればと、お決まりの展開でアニメは終わりを迎えた。テンプレート通りの流れに人によっては嫌悪感を抱く視聴者も多いだろう、展開が読めて面白くない、悪役がヒーローの引き立て役になっていてつまらない、現実にこんなことがあり得るわけがない。
悪く言おうと思えばいくらでも理由を上げられる。
「……」
いつからだろう、窮地を救うヒーローのような存在に憧れ始めたのは。現実ではありえないような絵空事、二次元の世界で作り出された都合の良い展開。
それでも彼女、
特徴的な水色の髪型に誰かの面影を感じさせる。名字からも分かるようにIS学園の生徒会長、更識楯無の血の繋がった実妹になる。だが見た目こそ彼女と酷似しているものの、纏う雰囲気は大きく違うことが分かる。
どちらかと言うと社交的で人の輪に入ってかき回す活発的な楯無に対して、簪はあまり人とは関わりを持たない内向的で寡黙な雰囲気にどことなく暗さも感じられた。
「……どうして?」
自問自答する。
どうして自分を助けるヒーローに憧れを持っているのか。
二次元の中で助けられるヒロインたちが羨ましいと思ったから?
どうして?
何故ヒロインたちを羨ましいと思ったのか。
自分の今の境遇が二次元のヒロインたちと同じだからなのか。
いや、それも違う。
分からない。それでもこの状況から助けてくれるヒーローがいれば……。
「……」
テレビの中ではエンディングを迎えて次回予告が始まる。リモコンを手に取ると目の前で流れている映像をぶちりと切った。
リモコンを寝台に置き、眼鏡を外すとゴロリと布団を被って横になり目を瞑る。彼女が深淵の闇の中に意識を落とすのにそう時間は掛からなかった。
「え、俺に会いたがっている人がいる?」
「うん。霧夜くんってどこにいるの? って。昇降口付近に彷徨いていたからまだそこにいると思うんだけど」
「……何か既視感のある感じだな」
放課後、授業を終えて帰宅しようと荷物をまとめている時に別クラスの生徒が教室に入ってきたかと思うと声を掛けられた。
何でも俺に会いたがっている女性がいると、少し前にあった千尋姉乱入の時のことを思い出して苦笑いをするしかなかった。
「本当に俺宛なのか? 似ている誰か……ってそんなわけないか、男は俺以外には一夏しかいないし女生徒にも似たような生徒がいるわけもないしな」
「うん。あっ、それに見た目からしてうちの生徒じゃない感じだったよ? もちろん物凄い美人ではあるんだけど」
「女性確定じゃん……」
今のやりとりで男である線は消滅、そして学園の制服を着ていないことからIS学園の生徒でもないことが判明。
前回はIS学園の制服を着た千尋姉だったわけだが、生徒ではないとなると普段通りの服装の千尋姉か、まったくの別人……また企業関連の人間だろうか。全く想像出来ない。
とはいえ会わずにここにいるわけには行かないし、一旦会って確認をしてみよう。IS学園に入れるってことは怪しい人間ではないだろうし、昇降口にいるってことは正攻法で入ってきた人だろうから恐らく大丈夫なはずだ。
「あっ、後入館証掛けてたから多分IS学園の関係……企業の人かも?」
「ん、分かった。ありがとう、とりあえず行ってみるよ」
「じゃ、よろしくね〜っ!」
最低限の要件を伝えると女子生徒は教室の外に出ていってしまう。教室の外には何人かのクラスメートが待っているようでキャイキャイと騒ぎ立てる。
「きゃーっ! 霧夜くんとお話しちゃった〜!」
「良いなぁ、私も昇降口に少しでも早く行ってたらなぁ!」
「ねぇねぇ、どうだった? やっぱり霧夜くんっていい匂いした?」
「後であんたの匂い嗅がせて! 少しでも霧夜くん成分を補給よ!!」
うん……聞こえてくる内容が割とグレーゾーンに差し掛かっているようにしか見えないんだけど、これは止めたほうが良いのだろうか。
確かに一部の人間を除いて他クラスとの絡みは決して多くはない。俺と会話できることが、接することが出来て嬉しい。学園祭の時のようなものなのは分かるけど、今の女の子は中々にワイルドなことをする。
香りを嗅がれたところで悪用されるわけじゃないしそういう心配はする必要は無いが、ちょっとばかし背筋が寒くなる。
そんなこんなでテンション高く嬉々として他クラスの生徒は去っていくのであった。
「大和くん、また何かやったの?」
去ったタイミングを見計らって俺のもとに近付いてきたのはナギだった。クスクスと笑いながら聞いてくる辺り冗談だというのがよく分かる。
「いやいやいや勘弁してくれ。流石にもう何もやってないと信じたいんだけどな〜」
いや、本当に。
今回ばかりは何もやっていないと思うんだけど、そんな頻繁に俺に会いたがる人間がポンポン来られても困る。
というよりもさっきの子にどんな人だったか聞くべきだったな、口ぶりから他クラスの生徒が知っているような人ではなかったしIS学園の関係者では無さそうだから、一方的に俺のことを知っている誰か、ということになる。
先日のキャノンボール・ファストの件もあるし、色んな企業関係者も見ているから営業目的で来ている誰か、という線も考えられるけどわざわざ昇降口にいる理由がないし、そんなところに案内はしないはず。
となると不法侵入の可能性もゼロではなくなってくるが、入館証を掛けている時点で正式な入館手続きは済ませているはずだし怪しい人物では無いと信じたいところ。
「前もこんなことあったよね。千尋さんだっけ?」
「そうそう。あの時はIS学園の制服を何処かから借りてきて生徒になりすましていたけど今回は違うみたいだし、来訪者の見当もつかないからとりあえず行ってくるよ」
「それが良さそうだね。私も行こうか?」
「あーそうするか。何か個人的に物凄い美人ってところが引っ掛かってるんだけど、多分大丈夫だと信じたい」
前にも言ったと思うけどIS学園の生徒たちはこぞって美少女揃いだ。彼女たちが口を揃えて『物凄い美人』って言うのであればかなりレベルの高い女性、それも年上である可能性が極めて高い。
机の袖から鞄を取ると、同じようにナギも鞄を手に持って教室の外へと出る。廊下を歩いて階段を下って昇降口に向かっていく。昇降口が視界に入ると案の定、人だかりができていた。
「……」
内心、完全に同じシチュエーションじゃないかと思いつつもとにかく会ってみないことにはと人だかりを掛け分けて歩を進めていく。
やがて俺が来たことに気付いたようで人だかりの中心にいた女性がくるりとこちらを振り向いた。振り向いて下から上に向かって視線を這わすと、脳内の人物と実在の人物が合致したようでニコリと満面の笑みを浮かべて俺の方に駆けてくる。
……もう、完全なデジャブだった。
確かに女子生徒の言うように『物凄い美人』だった。
それも俺のよく知っている、それも直近まで護衛の任についていた人。
その名を。
「うふっ、みーつけたっ♪」
―――ナターシャ・ファイルス。
後ろにナギがいることなどお構い無しに両手を大きく広げて飛び付いてきた。
「「えぇええええええええっ!!?」」
抱き着くと同時に周囲からは悲鳴にも似た歓声が沸き上がった。
いや、これ前に千尋姉が来た時と全く同じだな。千尋姉と比べるとほんのりとサイズダウンするが上に羽織った軍服からでも分かるほどの十分過ぎる大きさを誇る双丘に瞬く間に顔が吸い込まれる。
ムギュッとクッションのような柔らかさとともに胸が潰れてその間に顔が埋まる何とも滑稽な様子。悲鳴にも似た歓声が沸き上がるのも無理はなかった。
後ろにいるであろうナギからは少しばかり黒いオーラが垣間見えるし。そう言えば臨海学校の帰りのバスで目の前で口づけを見せつけられて宣戦布告された訳だし、関係に納得はしていても意識はするよな。
これ、どうしよう?
「んぐぐ……ぷあっ! な、ナターシャさん!? ど、どうして? 何でここに?」
の前にナターシャさんだ。
本物がいるのは良いけどどうしてIS学園にいるのか。
アメリカで見送られた後は通常通りアメリカ軍の仕事に戻っているものだと思っていたけど、まさか軍の仕事で日本に来る用事があって態々立ち寄ったのか?
確かに銀の福音のテストパイロットだし、IS関係者と言えば関係者になるけど、俺に顔を見せる口実で入館証を発行してくれるものなのだろうか。
だとしたら何度も言うけどIS学園のセキュリティ、意外にザルすぎでは……?
「何でって……あっ、その反応はさては見てないわね?」
何でIS学園にと尋ねた俺に一瞬考え込むと、やがてぷくっと頬を膨らませるナターシャさん。怒っている感じはしないがほんの少し拗ねているように見える。
見ていない、というのは何を……あ、いや待て。
色々あって完全に忘れていたけど、ナターシャさんと空港で別れる際に手紙を貰ったことを思い出した。
あの場で開封ではなく日本に帰ってから開封して欲しいということで、封を開けずに持って帰ってきたわけだが今の今まで完全に忘れていた。
もしナターシャさんの言っていることが手紙のことだとしたら完全に俺の落ち度だ。
「もしかしてあの手紙のことですか? すみません、完全に見忘れていました……」
「そうよ。もう、折角誰よりも早く渡したのに……むぅ」
眉をハの字にして拗ねている様子が何処か幼く見えて可愛らしい。
普段の美の化身とも言えるモデルを凌駕した立ち居振る舞いから一転して、幼くあどけない表情のギャップに周囲はざわめき出す。
「ちょっ、あんなギャップあり……?」
「美しさと可愛さの二刀流だなんてズルい!」
「美しさでも負けて可愛さでも負けてスタイルでも負けて……えっ、じゃあ女として何処で勝てばいいの?」
ガラガラと灰になって崩れ落ちる生徒たち。
まぁ確かに大人っぽい色っぽい雰囲気だけじゃなく、幼気な雰囲気も出されたら勝ち目は無い。
けど好みは人それぞれだし比べるものではないと思うんだけどな。
「す、すみません。帰ってから見ようと思ってたら……つい」
言われてみればあの時手紙を渡した後に『またすぐに会いに行くから』と言っていた。つまり日本に会いに行くよと暗に伝えていたのだ。
多分あの手紙にはそれに関することが書かれているのだろう。部屋にはちゃんと保管してあるし帰ったら読むことにしよう。
「んふふ、良いわ。またこうして大和くんに会えたんだもの。異動届を快く受理してくれた上官にも感謝しか無いわね」
「異動届?」
「えぇ。私たち軍属の人間は各国の拠点に配属されるの。当然拠点間での異動もあるんだけど、これまではテストパイロットだったから無縁でね。日本にもアメリカ軍の拠点はあるから折角だしって異動届を出してみたらあっさりと希望が通ったの」
「そ、そんなにあっさり申請通るものなんですね……それでどうしてIS学園に来たんです?」
話を集約するとナターシャさんは人事異動で日本の拠点に来た、ということになる。個人の希望でそう簡単に異動が認められるのかどうかは分からないが、元々テストパイロットだった肩書も大きいのかもしれない。
さて、日本に来た理由は分かった。問題なのは仕事上の異動であるにも関わらずどうしてIS学園に入れたのか、だ。ナターシャさんのことだし、不法侵入するような人ではないのは分かる。
首から掛けられている入館証は偽造したものではなく、紛れもなく正式な手続きをして発行されたものになる。異動があった、だけではIS学園に来る理由がない。
つまりそれ以外の理由があってここに来たことになる。
「来た理由? ……うーんと、大和くんに会いに来たっていうのもあるんだけど、私来週からここの非常勤講師をやることになったの。本業があるから週に二回くらいしか来ないけどね」
「ひ、非常勤?」
「そう、非常勤。ほら日本に来たのが大和くんに会うためとはいってもそう簡単に時間が確保出来るわけじゃないと思うの。だからIS学園の教師になれば少しでも会える時間が増えるかなって。元々やらないかって話は持ち掛けられていたから、話はトントン拍子で進んでめでたく採用よ。で、今日はその手続きをするために来たの」
「は、はぁ」
あっけらかんと言うナターシャさんの言うことになんとも歯切れの悪い返事をするしかなかった。
とはいえ理由は大体分かった。ただIS学園の教師になるのに生徒に抱き着いて良いのかと一抹の不安はあるわけだが。
「大丈夫、本業は軍人だから。それにちゃーんと確認も取っているわ」
「人の心の中を読まないで下さい!」
読心術で内心を読まれて大丈夫だと言う。
わざわざ確認を取ったってことは聞いたのか、そう考えると変にむず痒くなってくる。
「……あら?」
「あっ……」
俺に抱き着きながら視線を背後に向けたまま声を上げると、続くように俺の側にいたナギも声を上げた。ナターシャさんもナギの存在を全く認知していなかったわけではなさそうだが、改めて視界でその姿を捉える。
俺からぱっと離れると襟元を正して向き直った。
「ふふっ、バスの中では挨拶できなかったけどあなたが鏡ナギちゃんね?」
「えっ……あっ、はい」
「改めて挨拶させてもらうわ。私はナターシャ・ファイルス、よろしくね」
「は、はい。よ、よろしくお願いします」
親しみやすい笑みをニコニコと浮かべながら挨拶をする。
「そんなかしこまらなくても大丈夫よ。別に取って食おうなんてことはないから」
緊張している仲間に対してもう少しリラックスしてもいいよと伝えて緊張を和らげていく。二人の初対面は臨海学校の帰りのバスの中、しかも中々にインパクトのある対面を果たしている。
恋人がいる前で堂々と口付けをしたナターシャさん、普通に考えれば恋人がいると勘付いた状態ではキスをするなんてことはない。
だが彼女は宣戦布告、とナギに対して堂々と宣言した。それに怯むこと無く上書きだと言って皆の前で唇を重ねて来たナギだったわけだが、苦手意識は無いにしても多少なりとも身構える部分はあるのかもしれない。
俺とナターシャさんの関係は既に知っているわけで、そこに対して拒否することもなかったわけだから純粋に緊張が解けていないだけのように見える。
「……それにしても色々と大変だったようね」
ナターシャさんはナギの姿を見て率直に伝える。
俺自身から何があったかは一切話していない。それでも初対面の時のナギと今のナギを見比べて雰囲気が変わっていることに気付いているようだった。
伸ばしていた髪をバッサリと切り落としているのはイメージチェンジといえばそれまでだが当時よりも短くなった髪型を見て何かあったと悟ったらしい。
イメージチェンジをするということは何かが起きたということ。よくある話だと付き合っていた彼氏と別れたとかがあるけど、俺たちは現在進行系で付き合っていて別れていない。
二人の距離感からそれを判断したナターシャさんはまた別に切るようなことが起きたのだろうと判断したみたいだ。
ちなみにここだけの話、少しずつ髪の毛は伸びてきていて肩くらいまでしか無かった後ろ髪も肩を超えて元のロングヘアに戻ろうとしている最中だったりする。
色々あってイメージチェンジにはなってしまったものの、本人曰くまた伸ばそうかなとのことだったため、今年度が終わる頃にはある程度の長さまで髪は伸びていることだろう。
「あっいえ、そんな。よくあること……でもないですけど命を取られるまでじゃなかったですし大和くんが助けてくれましたから」
「へぇ、大和くんが。流石ね。さしずめお姫様を守る騎士様ってところかしら? 何だか憧れちゃうわ。まぁ、私も二回守ってもらったんだけどね、話に聞くとやっぱり良いなって思っちゃうわね」
二次元の世界の騎士のように未然に防げれば良かったんだけど髪を切られちゃってるし、俺としては失態以外の何物でもない。
あまり気にしなくても良いよと言われたからもう気にしないようにしているけど、振り切るまでは少しばかし時間が掛かってしまった。
「……あっいけない。私そろそろ戻らないと行けないんだった。じゃあね二人とも、挨拶できて良かったわ。今度は授業で会いましょ! あっ、大和くんはプライベートでもね!」
ナターシャさんも完全なフリーなわけでは無かったみたいだ。
華麗に身を翻すとウィンクをして外に出ていってしまう。その小さくなっていく後ろ姿はあっという間に見えなくなってしまった。
しかし改めて思うけど行動力のある人だ。
俺に会いたいからと言って異国の地、日本に来るなんてそう簡単に出来るものではない。生活上の不安、知り合いも自国に比べて多いわけではないだろう。
普通だったら慣れない文化や人混みの中でこれから生活するともなれば不安しか無いはず。それでも日本を、俺の側にいることを選んでくれたことは素直に嬉しかった。
「何か、凄い人だね」
「あぁ、俺もあの行動力にはホント驚かされる……って、何か周りの皆抜け殻みたいになってるけど」
「あはは、アレを見せられたら仕方ないんじゃないかな?」
苦笑いするナギが言う『アレ』という単語には様々な意味が込められているに違いない。
ナターシャさんの存在感に圧倒されて魂が抜けた生徒たちが周囲に散見していた。あれだけの存在感を誇る女性が非常勤講師になるのだから、どこのクラスに行っても注目の的になりそうだ。
「でもなんかナターシャさんの受け止め方、だいぶ様になってたよ」
「そ、そうか?」
思わぬところを褒められて思わずしどろもどろに返してしまう。受け止め方というのは抱きつかれた時の受け止め方になるのか、確かに色んな人に抱きつかれているから始めの頃に比べると動じなくなったし、受け止め方も上手になったかもしれない。
あくまで体感だけど。
繰り返し同じことをやっていたら慣れるのと同じで、何回も抱きつかれていれば力の込め方やベストポジションの取り方は身体が勝手に覚える。
……じゃあ何回抱き着かれたって話だが、そこは深く突っ込まないで欲しい。
さて、とりあえずことは済んだ訳だし帰るとしよう。そろそろ帰ろうかとナギに声を掛けようと顔に視線を向けると、ナギの視線は俺の顔ではなくて下半身に向いていた。
「あれ、大和くん。携帯鳴ってない?」
「ん、あ……ホントだ」
ブルブルと小刻みにポケットの中で振動を繰り返す我が携帯。
ナターシャさんが居なくなったタイミングで掛かってくる辺り謀っているような気がしないでもないけど、それは少し考えすぎか。
ポケットに手を入れて携帯を取り出して通話ボタンを押す。
「誰だこんなタイミングで電話を掛けてきたのは……はい、もしもし―――」
「ごめんね? ちょっと仕事が終わらなくて……えへっ♪」
「……」
扉を開けて目の前に広がるのは何段にも積み重なった書類の山、山、山。
ものの見事に山脈を形成している書類たちが机の上に置かれており、デスクで一人舌を出しながらごめんなさいする楯無の姿。
帰宅しようと思った俺を呼び止めたのは他でもない楯無だった。電話越しではちょっと手伝って欲しい仕事がある〜だなんて言ってたけど、これをどう見たらちょっとの仕事と言えるのか。
どう考えても二人でこなす仕事量じゃないのは明白だった。
「いや、まぁ仕事が終わらないのは仕方ないにしても何でこんなになるまで溜まってたんだ……それに虚さんと本音はどこ行った?」
これだけの仕事量があるにも関わらず布仏姉妹の姿がない。一夏はレンタル部員として色んな部活に顔を出しているため執務を行うことはあまりないが二人は別だ。
そして気付いたかもしれないが布仏のことは本音と呼ぶように変えた。虚さんもいる中で苗字呼び捨ては抵抗感あるしどっちのことを呼んでいるかが分からないからだ。
それに年上である虚さんを苗字で呼び捨てはかなり気まずい。お互い壁を作ること無く団結力を深めていきましょうという楯無の考えもあって名前で呼ぶようにした。
で、話を戻すとその二人が今日に限っていない。
何故?
「普段なら手伝ってもらうんだけど、今日所用で二人とも来れないの。だから私と大和の二人だけよ、一夏くんは部活に顔を出してるからね」
「……」
タイミング悪く布仏姉弟は所用で不在、一夏は例の如く部活に顔を出している。この書類の山を整理するのは誰か、まずは会長である楯無がやるのはもちろんのこと、生徒会に所属する俺もそのサポートをする必要がある。
これを処理をするのにどれくらい時間が掛かるだろうと考えるだけでげんなりしてしまう。少なくともすぐに終わるものではなく、数時間単位で時間を要することになりそうだ。
「ね。だから大和、お願い! 手伝って?」
「……分かった」
ここまで言われてじゃあ後はよろしくと断れるわけもない。
ナギには先に帰ってもらったし事情を説明して、もしかしたら帰りが遅くなるかもと伝えたからとりあえずは問題はない。
鞄を自分の席の横にかけて、楯無の机の上に乗っている書類の山をゴッソリと両手で抱えて自分の机に載せた。ドンッという衝撃音が書類量を物語る。
「ちなみにこの書類は内容を見て問題なければサインしておけば良いんだったよな?」
「ええ、一応報告書とか他の部とかからくる稟議書だから、内容に問題が無いのならサインしてしまって大丈夫よ」
「了解。ちょっと予算関係の内容があったら相談するわ」
「ありがとう! 助かるわ!」
パアッと表情を輝かせる楯無に少しドキリとしながらも平静を装い、机に座って書類を手に取り、一つ一つ目を通してボールペンでサインをしていく。
何でもかんでもサインすれば良いわけではなく、内容はしっかりと確認する必要があった。故に左から右へ目線を動かし、書かれている文面を把握しながらペンを走らせる。
一枚、また一枚とサインを終えた書類を端に避けた。内容が大して難しくないものであればさっさと処理は終えられるため、片っ端から目を通して片付けていく。
「……」
量を気にしだしたらきりが無い。
現実を見てしまったらガックリくるのが目に見えているため、なるべく書類の山には目を向けないように自分の手元に持ってきた書類だけを見つめる。
それでも内容が決して難しくないものが多いため、比較的ハイスピードで処理は進められた。
時間経過とともに自身の横にある処理を終えた書類がみるみる増えていく。
「大和」
「ん?」
「……ありがとう」
「良いってことよ。今日は誰もいないわけだし、好きで貯めていたわけじゃないんだろうしな。ここ最近問題もあったし、楯無は楯無なりにやらないといけない仕事も多かっただろうし、こればかりは仕方ないさ」
「そう……」
席に座って同じように処理を進める楯無から感謝の言葉を投げ掛けられる。
経緯は別として俺も生徒会の一員になる。
故に生徒会に回ってきた仕事を手伝うのは筋であり、楯無や他のメンバーだけに任せるのは違う。郷に行っては郷に従えなんてことわざもあるように、全てを一人に押し付けるのはおかしな話だ。
多少なりとも山積みの書類を見て身構えるところはあったが、言われてみれば俺も生徒会業務を疎かにしてしまっていたところもあるし、自分ができるところはやろうと黙々と仕事を進めていく。
「楯無、これ予算関連の稟議書なんだけどこの分の予算って下せそうか?」
「うん? どれかしら。えーっと……あぁ、これなら確か大丈夫なはずよ。この前虚ちゃんが確保してくれてるって言ってたから承認しちゃって」
「はいよ」
と、自分では判断できないところに関しては楯無に確認してサインをする。予算関連は多少の把握こそしていても、その全容を把握しているわけではない。
一番詳しいのは虚さんだがあいにく今日はいない。
多分このあたりの話は楯無も把握しているだろうと思って聞いてみたらビンゴだった。予算がちゃんと確保されているのなら問題はないが、予算が確保されていないのに勝手に承認するわけにもいかないし意外にその塩梅が難しい。
楯無から了承も貰ったしこれはさっさとサインをして……と。記載が終わったものをどんどん重ねていくわけだが、まだまだ沢山残っている。
全部が全部今日期限では無いだろうけど、ある程度片付けておかないと時間経過でまた溜まっていってしまうため、やれるうちにやっておきたい。
夏休みの宿題なんかも余裕があるからと後回しにするから最終日になって焦り始めるわけで、宿題が出て夏休み入る前から前半でやっておけば残りは悠々自適に楽しく過ごせる……のだが、人間中々そうは切り替えれないもの。
この山積みもその積み重ねというわけではないだろうが、ここ最近のバタバタで処理する時間も無かったと考えると仕方ないのだろう。
さっ、そんなことを考えていないで少しでも早く終わらせるとしよう。
「ふーこれで今日締め分はある程度片付いたか?」
「えぇ、というか今日どころかちょっと先のやつまで大体終わらせることが出来たからかなり楽になったわ」
「そりゃ何よりだ」
黙々と仕事に取り組むこと三時間。既にどっぷりと日は暮れて朝日は沈みかかっており、いつの間にか室内の蛍光灯に明かりが灯っていた。自分が思っている以上に時間が経過していたらしい。
当初は山積みになっていた書類たちはきれいさっぱり無くなり、どこぞの仕事場のような状況は大きく改善された。
仕事が終わったことにふぅと一息ついて、ぐっと両手を天井に伸ばして身体を伸ばす。作業中はほとんど立ち上がること無くずっと座りっぱなしだった故に身体中がバキバキだ。
「大和、コーヒーあるけど飲む?」
「あぁ、いただこう」
楯無はさっと席を立ち、部屋にあるコーヒーメーカーの電源を入れてコーヒーを作り始める。
普段は虚さんが紅茶とかを作ってくれるが、これがまた絶品なのだ。それでもやはり普通のコーヒーも飲みたくなる。
それにここ最近はコーヒーを飲むような時間も作れなかったことを考えると諸々一段落したと少し安心している自分もいた。
コトコトと沸騰する音と共にコーヒーメーカーから出来立てのコーヒーが抽出される。
「はい、どうぞ。虚ちゃんの作る紅茶に比べたら全然大した事ないレベルだけど」
コーヒーカップをお皿の上に乗せて俺のデスクの上に置く。
「いや、そんなことはない。少しでも誰かに作ってもらったって想いがあるのならより美味しくなるはずさ。今回は楯無が作ってくれているんだから間違いない」
「そ、そうかしら? そう言われると……うん、悪い気はしないわね……あっ、ガムシロップとかはいらないのよね?」
「おう、このままで大丈夫だ」
コーヒーに入れるガムシロップはいらないよねと尋ねる楯無にそのとおりだと返事をする。
ガムシロップを入れる飲み方も嫌いではないが、仕事後はブラックが一番落ち着くかもしれない。淹れたばかりの熱々のコーヒーを手に取り、マグカップに口をつけて少量口の中へと流し込む。
「……うまいな」
「良かった。実はこのコーヒー差し入れてもらったコーヒーなんだけど中々飲む人がいなくてね。ほら、虚ちゃんが毎回紅茶淹れてくれるし、皆苦味の強い飲み物はあまり飲まないから」
「あー、確かに。本音とかがコーヒーを飲んでいる絵面が想像できないわ」
あの大の甘党の本音がコーヒーを飲んでいる絵面が全く想像できず思わずくすりと笑ってしまう。
ハニートーストに追加でマシマシの蜂蜜を掛けるくらいには甘党で、コーヒーのような苦味の強い飲み物は苦手という話は聞いている。
コーヒーを貰ったり買ったりしても飲む人間がいない。一夏はほとんど外にいるし、俺自身は飲むにしてもそもそも虚さんがいる時は紅茶や別の甘目な飲み物を用意するだろうからコーヒーは全くの無縁な飲み物になる。
とはいえ、たまには飲みたくなるし差し入れでもらったコーヒーともなればそこそこに値段も張るものになるのだろう。
深みが強くてとても美味しいコーヒーだった。
ずずっと飲み進めていると不意に楯無が自分の椅子を俺のデスクへと移動させてくる。
やがて俺のすぐ隣に来たかと思うと、何処となく不安げな緊張した面持ちで俺を見つめてきた。
「どうした?」
「あ、あのね」
先程までの雰囲気は何処へやら。
何かを言いたそうにしているものの、凄く言いづらそうに手をもじもじとさせて落ち着かない。
隣に移動したから何か言いたいことがあるんだと思うんだが、中々楯無は切り出してこない。こちらから変に聞くのもアレだしどうしようかと考え込んでいると意を決したように顔を上げて口を開いた。
「―――妹をよろしくお願いします」
「……はい?」